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第三章 牡丹の香り、化け猫と猫

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「ハル先輩?」
「うん。最初に訪れたときから、違和感はあった」
「え? え?」

 足元を共に歩くハルの声がけに、紫苑はすぐさま肯定の意を示す。一人ついて行けていない紬を置いて、二人は何かを確かめるような目配せが交わされた。

「あのう、一体なんのお話ですか?」
「お前はほんと、鋭いかと思えば妙に鈍いよな。二度もあの家に上がっておいてよ」

 ため息をつかれてしまった。あの家とは、今まさに出てきた篠崎家のことだろう。

「あの家、綺麗すぎやしなかったか」
「え、綺麗じゃいけないんですか?」
「そういうこっちゃねーよ。あそこの夫婦は猫を飼っていたんだろう。でも、家を回ってみても、柱に傷のひとつもなかった。猫の毛一本見つからなかったんだぜ」
「……あ!」

 言われてようやく思い至る。確かにあの家には、猫が飼われていた痕跡が妙に薄かった。
 猫のおもちゃも餌の残りも、餌をあげる皿もあったのに、猫を飼っていた家特有の生き物の香りが皆無だったのだ。

「ええと。たしかアヅマさんの話では、あの家にはチビという猫が飼われていたんですよね? おばあさんが亡くなったと同時にその猫も亡くなって、未練を残したその魂がアヅマさんの体に入り込んだって」
「その辺りは、本人に直接ご説明願おうか。幸か不幸か、まだお代も頂いていないしね」

 にっこり口元に笑みを浮かべる。紫苑の言葉は、まるで辺り一帯に静かに響くようだった。

   ***

「あなたに憑いたというチビという猫は、あなた自身のことですね」

 小樽たちばな香堂。その奥の客間に通された猫又のアヅマを前に、紫苑は静かに告げた。

「チビという名の猫。通常の猫が飼われていたにしては、あの家は綺麗すぎましたし、日が経過しているとはいえ猫を飼っていた家の香りが一切しなかった。しかし、生前猫を飼っていた話を香苗さんにすると、そのこと自体は彼女も承知していた様子でした。となると考えられる可能性はひとつ。そのチビもまた『あやかしだった』可能性です」

 あやかしの猫であれば柱の爪とぎの傷も落ちた毛も、痕を残さず消えてしまう。餌やりの皿などがあるのに猫自身の痕跡がなかったのはそのためだ。

「猫又はもとより長年生き続け尾が割れ、妖力が備わった猫のこと。中でも力に秀でたあなたなら、魂割れ(たまわれ)をさせることも訳ないでしょう」
「魂割れ……?」
「つまり、猫又野郎は自分の魂の一部を切り離して、あの家の飼い猫チビとして別人格を作ったってことだよ」
「な、なるほど」

 傍らに座するハルの解説に一人納得する。そして新たな疑問が浮上する。
 それが真実ならば、何故アヅマは最初の説明でそのような嘘を交えたのだろうか。

「素直な御方ですね。私が紡いだ嘘の真意が、まるで理解できない様子」
「あ……」

 アヅマが静かに口を開く。口調こそ鋭かったが、その眼差しには今まで見たことのない淡い光があった。

「あの夫婦もそうでした。あの家だけが周囲と違う時間帯を生きているかのように、のびのびと、柔らかな光に満ちていた。そんな彼らの暮らしを横目に、私はいつも日課として家の垣根を歩いていた」
「気にかけていたのですか。篠崎さんご夫婦を」
「気にかけてきたのは向こうからです。ある日突然、声をかけられたのですよ。お前、いつもこの垣根を歩いて行くなあ、とね」

 紫苑や紬のように、元々「視る目」を持った人間は珍しくない。しかし、この夫婦は長いこと目の前を通過しても一瞬も反応を示さなかった。
 そのとき、アヅマは理解した。

「あの家の主人は、もう長くない。そのことが、あやかしである私の姿を認めるに至ったのです。主人が認識した直後、奥様も同調するように私の姿を視認するようになりました。つまり、奥様も同じく、あまり長くはない」
「そんなご夫婦に、あなたは寄り添うことを選んだ……ということでしょうか」
「可笑しな話と笑ってください。本来人間の念を元にこの世に在り続ける猫又の私が、なんてことない日常風景を無くすことを、酷く恐れたのです」

 アヅマは篠崎家に身を寄せた。四六時中家にいるわけにはいかないので、その魂の一部を分断させて。
 その後に主人が亡くなり、夫人もまた体調を崩した。そのなかで、ずっと悔いていたのが牡丹の香りを夫に贈ることができないことだった。

「あのご夫婦の心残りを、私は喰いものにしたくはなかった。猫又らしからぬ、可笑しな気まぐれを起こしたものです」

 だからこそ、たちばな香堂へ依頼したのだ。夫人が生前夫に手向けたかった、牡丹の香り──ひいては、夫婦の思い出の香りを。

「わたくしの自尊心が、安っぽい出任せを織り交ぜさせたのです。大変ご迷惑をお掛けいたしました」
「心残りは、解消されましたか」
「ええ。お陰さまで」

 紫苑の静かな問いに、アヅマはその頭を深々と下げた。
 隣に座したハルは、慰めの言葉も憎まれ口もないまま、静かにその姿を見つめていた。

   ***

「こうしてゆっくり香堂を開くのも、何だか随分と久しぶりですね」

 アヅマとの接見を終えた後。
 身支度を済ませた紬が店内の展示を整えると、後ろで会計作業をするハルに声をかけた。

「最近は臨時休業が続いたからな。猫又野郎の依頼に始まり、ニシン御殿へ行き、どっかの馬鹿が体調崩し、天狗山に登り……はああ」
「はは。改めて振り返ると、相当色濃い数日間でしたね」
「笑って言うことじゃねーだろ。送り込んだ俺が言うのも可笑しいが、あの天狗を懐柔するなんてお前どんな手を使ったんだよ? しかも、持たせた箱の中身を使わずに」
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