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「みたしや食堂を護ってくれたらしいな」

 道場の床に背を付け、息を整えている最中。
 顔を覗き込んで告げられた神無月からの言葉に、龍彦は「は?」と不躾な声が出た。

「みたしや……? なんですか、その名は」
「正門を出てすぐの場所にある、食堂の名だ。昨日、そこで起こった揉め事をお前が解決したと聞いた」
「ああ。あの食堂の」

 みたしや食堂。
 あの食堂は、そんな名だったのか。

 警視庁敷地内にある、巨大な木造平屋建ての東館道場。

 そこで何本挑んだかしれない鍛錬は、いつも通り龍彦の連敗だった。
 勿論悔しさはあるが、それ以上に胸に広がる爽快感は如何ともしがたい。

 ふーっと長い息を吐きながら、龍彦は汗にまみれた上体をよいしょと起こした。
 対して神無月はといえば、こめかみに汗を滲ませる程度でにこやかに世間話を続ける。

「あそこを切り盛りしている娘さんとは顔見知りでな。帰り際、お前にぜひよろしくと言伝を預かった。馳走の約束をしたのに昨晩は来てくれなかったと、気にかけていたようだったぞ」
「約束って。ありゃあただの社交辞令でしょう」
「いや違うな。少なくとも娘さんは、何度も店先に出てはお前の来店を待っているようだった」

 きっぱり言い切る神無月に、龍彦は目を瞬かせる。

 いつかお礼を、なんて言葉をかけられることはそう珍しいことではない。
 それでも、まさかそれを有言実行しようとする者がいるとは思わなかった。

「あの様子じゃ、二、三日中にうちの門番に詰め寄ってきそうな勢いだったからな。他に用事がないのなら、今晩辺りに寄ってやってくれ。あの子は言い出したら聞かないから」
「は? どうしてわざわざ門の外に。外出許可届も面倒ですし」
「届けは俺が受理しておくさ。ついでに、明日の早朝の稽古も付き合ってやる」
「約束ですよ」

 すんと素直に従った龍彦に、神無月は勿論だと美しく微笑む。

 こちらに転属して以降、門の外で食事を取るのは初めてのことだった。



「龍彦さん! お待ちしておりました!」

 江戸時代でいう戌の刻、夜八時近くといった頃合い。
 星が瞬く正門から出て目と鼻の先にある『みたしや食堂』の前に、満乃は立っていた。

「神無月さまから事前にお話を伺っておりました。さあ、どうぞどうぞ中にお入りください!」
「ああ」

 どうやら私服姿の龍彦にも、すぐに気づいたらしい。
 至極嬉しそうな笑顔で背中を押され、龍彦は困惑気味に食堂に通される。

 木造建物の店内は、いかにも大衆食堂らしい広々とした空間だった。

 木製の大きな机が合計四脚置かれ、その隙間を埋めるように椅子が並んでいる。
 奥に見える厨房口の上段には、黒墨で記された品目札が貼られていた。

 どうやら閉店間際の時刻だったらしく、客人は龍彦を含めて数名のみだ。

「いいのか。今から作らせては迷惑になるだろう」
「問題ございません。昨日の揉め事を収めてくださった、お礼の気持ちですから!」

 明瞭に告げる満乃に少々気圧されながらも、龍彦は手前の角席へ腰を据えた。

「こういった店に入ったのは久しくない。どうも気分が落ち着かねえな」
「そうなんですね。ここは立地のこともあって、警察の皆さんにもよく利用していただいているんですよ」
「それは知っている。あんたの話は、同僚の間でも腐るほど耳にしたからな」
「私の話? ですか?」

 水の入ったグラスを手に首を傾げる満乃に、龍彦はふっと小さく吹き出す。
 噂の中には懸想していそうな声も聞こえていたが、どうやら彼女には塵ほども届いていないらしい。

「で。これから俺はどうすればいい」
「品目札から、どうぞお好きなものをお選びください。今日限り、お替わりもご自由に承らせていただきます!」
「ああ、それなら、あんたが適当に選んだ定食をひとつ頼む」
「……」
「……? おい」

「『適当に』?」
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