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 それからというもの、龍彦はたびたびみたしや食堂に足を運ぶようになった。

 足を運ぶのは決まって任務終わり。
 闇夜に沈む表通りを電灯が負けじと照らしだす、夜飯時だ。

「満乃さんは、十五の時からこの食堂を始めたんだって」

 そんな話をし出すのは、隣に座る同僚だ。

 名前は田村。
 食堂に行くと言う龍彦に度々ひっついてくるため、龍彦もいい加減名を覚えた。

 人当たりのいい男で、龍彦以外の同僚とも気安く打ち解ける性格の持ち主だ。

「偉いよなあ。同世代の女子たちは女学校に通って花の青春を謳歌しているなかで、こうして立派な店を築くなんてなかなかできることじゃあないよ」
「女学校っていったって、通えるのはそれなりの後ろ盾があるお嬢様だけだろ」
「そりゃそうだけどさ。満乃ちゃんだって身なりを整えれば、そこいらの女学生のお嬢さんよりはるかに別嬪さんじゃない。顔だけの話じゃないぞ。立ち振る舞いもどことなく優雅というか、気品があるというか」

 田村自身、地方ではまあまあ名のきく商家の次男坊らしく、それなりに人を見る目はあるのだ、と胸を張った。

「そのうえいつも元気で明るくて愛想もいい。加えて、料理の腕は天下一品だもんなあ。伴侶を持たない男からしたら、この上ない女性だろ?」
「へえ。つまりはお前も、あいつに熱を上げるうちのひとりってわけだ」

 熱弁する様子に龍彦がさらりと突っ込むと、田村は真っ赤になって辺りを見回した。

「ちょ……っ、別にそういうんじゃないから! いや、勿論そんなことになればいいなあなんて期待は常に持っているけれど!」
「持ってるのかよ」
「そりゃ男なら誰しもそうでしょうよ! ……たださ。俺たちの仕事って、決して感謝されることばかりじゃないだろ? 人から恨み言を吐かれることだって、同じ数か、それ以上にある」

 声を潜めながらも、田村ははっきり言い切った。

「そんなことがあった晩には、決まってここに寄るんだよ。そしてあの太陽みたいな笑顔を浴びながら、美味しい料理を食べる。そうすることで、明日からもきっと頑張れるって思えるわけ。ここに通ってる他の奴らも、きっと同じ気持ちなんじゃないかなあってね」
「……なるほどな」

 確かに、田村の言葉の通りなのだろう。

 日々人同士の諍いに首を突っ込む職業だ。
 強靭な精神の持ち主といえど、ふとした拍子にぽきりと心の芯が折れかけてしまうこともある。

 そんなときでも──ここに立ち寄りさえすれば、いつもと同じ日常に戻れるのだ。

「でもさ。それはそうとして、実は少しばかり疑問なんだよな。満乃さんは、どうしてこの食堂を構えることができたんだろうって」
「そりゃ、料理が得意だったからだろ」
「いやいやいや。問題はこの立地だって。目前に警視庁舎が据え置かれるような一等地だ。そんな場所に若い町娘が店を出すなんて、なかなかできることじゃあない」
「気になるなら直接本人に聞けよ。商家の次男坊」

 この食堂の成り立ちなんて正直興味はなかった。
 龍彦が気になることは、ひとえに本日の定食の味に尽きる。

 本日注文した品目もまた、龍彦が生まれて初めて目にするものだった。
 満乃の前説明によると、どうやらカツレツと同じく揚げ物料理ということらしい。

 そわそわと視線を彷徨わせながら、龍彦は自身の定食の到着を待っていた。

「お待たせいたしました。コロッケ定食でございます!」

 話の渦中にいた満乃が、二つのお盆を諸手に携えて現れた。
 額にうっすら汗を滲ませつつも、その表情は弾けるような笑顔だ。

「待ってました! いつもありがとう、満乃さん」
「いいえ。こちらこそ、いつもご贔屓にしていただいてありがとうございます!」

 嬉しそうに手を叩く田村に対し、龍彦は目の前に置かれた盆をじっと見つめていた。

 盆の上に並ぶのは、茶碗に盛られた白米の山とワカメの味噌汁。
 そして白の大皿には、待ちかねたコロッケとやらが豊かな薫りをまとって佇んでいた。

 薄茶色の衣に包まれた、美しい大判型の形状の揚げ料理だ。
 キャベツの千切りやトマトを傍らに沿え、コロッケにはさらに照りを加える液体がかけられている。
 カツレツにも用いられていたそれは、醤油を下地に野菜や香辛料を独自に調合したものでソースというらしい。

 あらかた眺め終えたあと、龍彦は両手を合わせる。
 用意されたフォークとナイフを差し込むと、さく、と気持ちのいい音がした。

「ん。うまい」
「! ありがとうございます!」

 龍彦の言葉を待ちわびていたかのように、満乃が嬉しそうに目を細める。

「このコロッケという料理、中に入っているのは芋か」
「はい。近年北海道で盛んに生産されているというジャガイモです。その中に申し訳程度ですが肉を潰したものを混ぜ込んで、パン粉などで包んだあとに油で揚げています」
「ジャガイモか。甘くて食が進むな」
「ええ! どうぞゆっくりお召し上がりくださいね」

 にっと笑みを濃くした満乃が、今度こそ厨房に戻っていく。
 そんな二人のやりとりを前に、隣の田村はぽかんと口を開けていた。

「なんだその間抜け面は」
「いや。つい最近まで食堂なんて興味ないみたいに言ってた割に、随分満乃さんと打ち解けてるなあと」
「まあな」

 お礼と称して招待されたあの夜、自分の中の食に関する扉が開かれた自覚はあった。

 今までの人生で見たことのない色を知ったような、その鮮やかさに感じた眩しさが刻み込まれたような、そんな心地がした。

 ここに来るたび、龍彦の中に産まれた新種の小さな渇望感が、じわりと温かく満たされるのだ。

「……あ?」
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