顧恋

永本雅

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帰省

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 一人、車窓の景色を眺めていた。
 深藍(ふかあい)の中を走る車内には自分を除いて他に乗客はいない。静寂(せいじゃく)が電球色の車内に充満していた。
 大学進学を機に上京して五年あまり、あの街に帰るのはいつ以来だろうか。
ビルの林立した都会は思っていたよりもずっと汚くて、日を追うごとにそんなゴミ溜めみたいな場所に憧れていた自分がひどく幼く思えた。そんな自己憐憫(れんびん)とも自己嫌悪ともわからない感情は当たり前の生活をしようとする意欲さえ失わせていった。
――すいません。もう別れたいです。
 絵文字を多用し、可愛らしかった後輩から最後に送られてきたメールは二十文字にも満たなかった。自分は必要とされていないのだと突きつけられた気分だった。
 大学の構内では、いつも誰かが楽しそうに笑っていた。それは、どのサークルに入ろうかとか、どこかの学部にかわいい女の子がいるとか、駅前に可愛らしい喫茶店ができたのだとか、そういう類(たぐい)の会話だったのかもしれない。ただ、その時の自分にはそんないつも通りの音すら苦痛だった。そうして、上京して三回目の冬を迎えた。
 それから、特に何かが起きるわけでもなく季節が二度廻(めぐ)った次の春。チラシしか入ることのない郵便受けに封筒が入っていた。
 花柄の封筒には自分の名前が細いシャープペンシルの綺麗な文字で綴(つづ)られていた。差出人は六歳年下の幼馴染折阪深雪だった。封(ふう)を開けると便箋と写真が一枚ずつ入っていた。
「お元気ですか。岩上(いわがみ)のお兄さんが上京してから六年が経ちましたね。お兄さんは大学を卒業して、今は出版社で働いているとおばさんから聞きました。私も今年高校三年生になりました。家を継ぐからお兄さんのように上京はしないけれど――
――お返事お待ちしています。 折阪深雪」
 手紙には久しぶりに会いたいということ、彼女は大学へは進学しないこと、先日見合いをしたことなどが書かれていた。
 自分は彼女についてそれほど多くを知っているわけではない。街を出るまではよく慕われていたが自分が上京してからは疎遠になっていた。手紙は何通か届いていたが忙しさにかまけて返事を出していなかった。
 街からは慣れていても二時間以上かかる。小学生にはあまりにも遠い距離だったのだ。自分は手紙に返事を数日中に返した。「今年は戻ると思う」というような簡素な内容だった。
そうして今に至る。
 鉄紺の景色の中に次第に灯りが漂いはじめる。
――出島海岸
 年老いた車掌が次の停車駅を告げる。
 自分は降車の支度をする。
 列車が速度を落とし始めたのと同時に席から立ち上がって後方のドアーまで歩いていく。
 車掌に会釈をして駅舎へと降り立つと一人の少女が薄暗い待合室で居眠りをしていた。
 隣の駅へと向かい速度を上げた列車の後姿を横目に自分は大きく息を吸った。
 地元に帰ってきたのだと実感した。同時にここ数年の間、胸のうちにつかえていた息苦しさが自然と消えていた。
 自分は待合室へと入ると少女の肩を揺する。未だ寝ぼけている少女には六年前と変わらぬものがあった。
 「お帰りなさい」と言った少女に自分は「ただいま」とだけ返した。
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