上 下
4 / 71
1章 死と出会い

メルルーシェの半日

しおりを挟む


「オウレット様。すみませんが、治療が終わり次第でもよろしいでしょうか」

メルルーシェは目の前に立つロナード・オウレットに丁寧な声音で告げた。

自身の別荘について身振り手振りを添えながら良く回る舌で説明していたロナードが、自身の話を遮ったメルルーシェに僅かに眉を寄せて承諾した。

少しばかり容姿に恵まれて生まれた彼は、残念ながらあまり頭の回転の早い人間ではなかったため、メルルーシェが普段よりも苛立ちを隠せていないことに気が付いていない。


自慢の金髪に指を巻きつけて、傲慢さが滲み出る視線を自身に向けるロナードに対して微笑みながら丁重にお辞儀する。

「ありがとう存じます」

いつもは呆れと僅かばかりの感心を持ってロナードに接するメルルーシェだったが、今回は間が悪かった。失礼な態度にならないようにあしらうことに辟易して小さくため息を溢した。


神を奉る神殿は癒し魔法の使い手による診療所も兼ねていることが主だ。
メルルーシェは死の神に祈りを捧げる町民を横目に、足早に癒し場へと向かった。

礼拝堂から見えない位置に入ると、メルルーシェは礼服の裾を少し持ち上げて小走りになる。高所から転落したという壮年の男性は腰の骨を折る重傷だったため、男たちによって急いで癒し場に運び込まれてメルルーシェの到着を待っている状態だった。

幾重にも重なった薄いとばりを手で分けて治療場に入ると、横たわる男性の手を握る年老いた女性が目に涙を浮かべてこちらを見上げた。

「神官様…」

男性が運ばれてきてすぐにメルルーシェが施した催眠は効いているみたいで、横たわる男の表情はいくらか柔らかくなっていた。メルルーシェは安心させるように老婦に微笑んでとばりの外にいるように頼むと、すぐに癒し魔法を施し始める。

とばりの外から心配そうに手を揉む老婦の気配がメルルーシェに伝わってくる。視覚に集中して男性の身体の内に赤い魔力の流れを見出す。尾骨から腰にかけて停滞する赤黒い魔力に自らの魔力を注いでいく。

鳩尾の内に渦巻く魔力の活力を感じながら、少しずつ両手に流れるように引き出していく。男性の身体の中に自分の魔力を満たすと、男性を思う老婦の涙を思い浮かべて治癒を促す。

吸い取られるように魔力を消費する内に、男性の身体の停滞していた魔力が流れ出し正常な色へと変化していく。

男性の不規則だった呼吸が安らかな寝息に変わり、メルルーシェは額の汗を拭った。振り返ると、老婦が立ち上がってとばりに近寄ってきた。

「もう大丈夫です。今は眠られていますが、そのうち目を覚ますでしょう」

とばりをくぐって女性に告げる。微笑んだメルルーシェの手をしわしわな手が包み込んだ。

「ありがとう…本当にありがとう」

赤く染まった目元を嬉しそうに細めて礼を述べる女性。その手を取って男性の近くへと誘う。椅子に腰かけた老婦はしばらく男性のことを見つめていた。

胸をなでおろしたメルルーシェの元に、彼女と同じ礼服に身を包んだ女性が現れた。

「リエナータ、夕刻の準備はどう?」

「大丈夫よ、今日はふたりだけだし」と答えたリエナータが困ったように視線を泳がせた。

「それよりもお待たせしているオウレット様なのだけれど…」

メルルーシェりも3つ年上のリエナータは、大きな瞳のせいかメルルーシェよりも幼く見える。

「私が治療していた時間はどれくらい?」

「少なくとも鐘一つ分は待たせているわね」

頭を抱えたメルルーシェと対照的に、何でもないことのようにリエナータは肩をすくめて見せる。

癒しに集中していると、時間の感覚がなくなってしまうのはメルルーシェだけではなかった。極度の集中状態を保つ必要のある癒し魔法は、気を散らす騒がしい場所では成功する確率が極端に落ちる魔法だ。そのため一番必要とされるであろう戦場においても殆ど役に立たないという皮肉な魔法だった。

(それはお怒りになってるはずだわ…)

「リエナータ、しばらく癒し場をお願い」

頭痛を覚えながら礼拝堂へと向かう。

礼拝堂と癒し場を繋ぐ廊下には6色から成るガラスが張られており、降り注ぐ陽光が色ガラスを透かして美しい6色の実を持つ木を映し出している。

礼拝堂には今朝よりも白い装いの数が増えていた。その中で普段着に身を包んでいるロナートは良くも悪くもすぐに見つけることができる。

「お待たせしたこと、お詫び申し上げます」

腰を折ってお詫びの礼を行ったメルルーシェに、悲しげに目を伏せるロナード。

「いつも君を必要とする人間がいることは仕方ないことだ。それより働き詰めは老けるぞメルルーシェ」

大げさにため息をつくと、意味ありげにメルルーシェを見上げる。

「さきほど話した別荘だが…どうだい、ふたりで息抜きに行こうじゃないか」

ロナードは髪を指に巻きつけながらメルルーシェに微笑みかける。

(一体何度その前髪を触れば気が済むのか。いっそ前髪を切って手に結びつけておけば良いのに)

朝から治療続きだったメルルーシェは、そんなことを考えながら疲れの滲んだ顔でやんわりと断りを入れる。

「お気遣いは…ありがたいのですが、私はここを離れることは出来ませんので、婚約者の方とご一緒にどうぞ」

メルルーシェは礼拝者の邪魔にならないように礼拝堂の入り口までロナードを誘導しながら会話をしていたが、ロナードの声は通りやすく大きいため礼拝中の者の耳にも届いているようだった。

ちらちらとふたりに向けられる視線と、密やかに会話が交わされているのがわかる。

「まーた神官様を困らせとんのかあのぼんくらは」

「父親にそっくりだわな」

聞こえてきた会話に吹き出しそうになりながら、町民の会話が聞かれないようにロナードを入り口へとせっつく。

幸い聞こえていなかったようで、婚約者など関係無い、と力説していたロナードに呆れつつほっと息をつく。

「君ももう16になるだろう。いつまでもひとりではいられないぞ」

堂々と側女になるように強要してくるロナードはいつも話の最後をこう締めくくるのだった。


この小さな町モナティに神殿が建っているのは町長であるロナードの父、これまた同じ名前のロナードの献金によるもので、神殿司も彼らには頭があがらないため邪険に扱うことは許されなかった。

神殿に住み込みで働く神官たちの処遇は神殿司が決められるが、最近になって神殿司がロナードと関係を持つことを勧めてくるのでメルルーシェは困り果てていた。

「えぇ、お気遣い嬉しく思います。
オウレット様、本日はこれから清め湯を行いますので…」


清め湯とは神殿で魔力を回復させるための儀式だ。仕事が溜まってるから早く帰って欲しいと暗に伝えたつもりが、ロナードは考えるように少し黙って含み笑いを浮かべた。

「ほぅ、清め湯か…神官として励むようにな」

何を想像しているのかは分かりたくもないが、疑問を感じざるを得ない上から目線に頬を引きつらせたメルルーシェだった。

端に止まった馬車を一瞥して、さっさと連れて帰るように念じながらロナードに別れの口上を述べる。


ロナードの呼びつけに駆けつけてきた従者の少年は、馬車を動かして神殿の手前に止めると、馬車に乗るロナードに手をかし付き添っている。上質な身なりのロナードに対して、後ろの馬車に控える彼の従者は人前に出られる最低限の服装に身を包んでいた。

馬車が動き出したことを確認すると、メルルーシェは大きくため息をついた。
しおりを挟む

処理中です...