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2章 ふたりの生活
羨望
しおりを挟む早朝、物音で目覚めたニアハは身を固めて警戒の態勢を取った。
(なんだ、メルルーシェか。)
いつもしないはずの金属音がしたせいで警戒したが、どうやらメルルーシェが薬草採りに出かけるために短剣を整備してたようだった。
寝台から素早く降りて扉の床の隙間から足元を確認していたニアハは、ほっと息をつくと義脚を装着して自室の扉を開けた。
「あら、起こしちゃったかしら?ごめんなさい」
メルルーシェは動きやすい短い服の上からフードを被って玄関に立っていた。メルルーシェが揺れるたびに腰帯に装着された瓶同士が当たって音を立てる。
(そんな音を立てると敵にすぐ見つかるのに。)
じっと立ったままメルルーシェを見つめているニアハに、メルルーシェが声をかける。
「ラミスカ、今日は沢山薬草が必要なの。良かったら手伝ってくれる?」
鈍った身体を動かしたかったニアハは、少し考えてからぎこちなく頷いた。
メルルーシェはほっとしたように微笑んで、ラミスカのための服を用意し始めた。メルルーシェはぶかぶかの服を買ってきてはラミスカに合うように縫い直す。どうせ身体は大きくなるのに何故わざわざ縫い直すのかニアハには分からない。
メルルーシェに渡された服に着替えながら、右の義脚の締め付けを強める。昔の脚が恋しい。オキナが居なくなった今もう戻ってくることはないが。
暗い瞳に鈍い光を灯しながらニアハは立ち上がった。
まだ薄暗く肌寒い中ふたりで家を出た。
ここしばらくは雪も解けて寒さもなりを潜めていたが、早朝ともなるとやはり寒かった。
メルルーシェが木の根に躓きながらこちらを振り返る。
「ラミスカ、足元危ないから気を付けるのよ」
(他人の心配をするよりも自分の心配をすればいいのに。)
メルルーシェはもう既に2度転びかけている。
林を抜けると暗い森が広がっている。メルルーシェは灯り杖を灯すと迷いなく進み始めたので後を着いて歩く。じめじめと湿った空気を舐めながら、懐かしさを感じていた。
戦場ではいつも土の匂いがする。ニアハは溶けた氷でぬかるんだ地面を歩くことが多かった。鎖で繋がれていたときも、地下はいつも陰気なかびと腐った肉の臭いがするのだ。そして上を見上げても、ただ暗い地下の石畳が頭上を塞いでいるだけだった。
ニアハがふと空を見上げると、擦れ合う木々の合間に紺碧の空が広がっていた。
何秒見上げていたのだろう、ニアハは何かに躓いてつんのめった。
「ほら、危ない。前を見ないとだめよ」
メルルーシェがニアハの身体を支えると、泥のついた衣服を軽くはたいた。
「お空を見上げていたのね。
美しい綺麗な色…あなたの瞳みたいね」
ニアハの視線の先にあったものに気付いたメルルーシェは、同じように見上げながらそう呟いた。
「美しい…?」
ニアハが言葉を確かめるように呟くと、メルルーシェはニアハを見つめて微笑んだ。
「美しいというのは綺麗なもの…
そうね…豊かなもの…感動させるもの、沢山のものを指して使う言葉よ」
形が整っているもののことを美しいと言うのだ。兵士たちは主に女と寝たいときによく口にしていた。空を見て使う言葉ではない。
ニアハは感じたことを口に出すことはなかった。
目的の場所に着いたのか、メルルーシェは短剣を取り出すと独り言を呟きながら採取に取り掛かりはじめた。
「ラミスカはこれを持っていてちょうだい」
メルルーシェは腰帯に引っ掛けていた瓶や布を取り外すと、大きな瓶だけをニアハに渡して他は床に並べた。
「コアトコと…ヒュッセラもとれるかしら」
ぶつぶつと呟きながら木の根元を掘り起こし始めたメルルーシェの背を眺めながら、瓶を回して両手で持ち替えたり身体を伸ばし始めた。
当然メルルーシェは木の幹を掴んだりして力加減を測っているニアハには気付いていない。
「ラミスカ~ちょっとこっちへ来て」
くぐもった興奮気味な声が聞こえた。
何かを掘り起こしているメルルーシェの所へ向かうと、きらきらと光る橙色の何かを手に包んでいた。
「ヒュッセラを捕まえたわ」
満面の笑みで手の中の光をニアハに見せる。
「ヒュッセラが撒く鱗粉は、効果増幅の調合として幅広く使えるのよ」
とかげが収納しているらしい羽を開くと、きらきらと光った。
メルルーシェはニアハに手を開くように促すと「優しく包んでね」と囁いてニアハの掌にそっと移した。
くすぐったいような不思議な感覚に投げ出しそうになる。
メルルーシェは笑顔を浮かべて小瓶を取り出すと、ニアハの小さな手を包み込みながら、その小瓶にヒュッセラを誘導するように掌を撫でた。
その後もニアハはメルルーシェに呼ばれれば袋を持って行ったり、小瓶の蓋を閉めたり、それ以外のときは身体を動かして過ごした。
徐々に太陽が昇り辺りが明るくなってくると、頭上の枝に手を伸ばしていたメルルーシェがこちらを振り返った。
「そろそろ必要なものも集まったし、一度家に帰りましょうか」
メルルーシェが汗ばんで顔に張り付いた横髪を後ろに流しながら顔を上げた。
一瞬、ニアハは何かの気配を感じて周りを見渡した。
茂みを揺するような音にメルルーシェも気が付いたのか、すぐに立ち上がった。
(獣の気配だ。)
ニアハは鋭い視線を背後の藪に向けた。手にできる武器が近くにないことと、身体がまだ思い通りに動かないことが頭を過る。
「ラミスカ、こっちへおいで」
藪の方から目を離すことなくゆっくりとこちらに歩いてくるメルルーシェが囁くように呟いた。
藪をかき分けて現れたのは、異様に牙が発達した猪だった。身体には異常なイボができていて、荒い息遣いで口から唾液を垂れ流しながら目の前のふたつの獲物を凝視している。
数ミュル離れた場所でメルルーシェが息を呑んだのが分かった。
猪は地面を踏み鳴らすと、勢いよくニアハめがけて走り出した。
メルルーシェが走ってニアハの前に躍り出る。猪からニアハを隠すように外套が翻る。
振り返ったメルルーシェがニアハの肩を乱暴に掴んで自分の後ろへ流して叫んだ。
「後ろに向かって走りなさい!」
自衛のためにメルルーシェの腰から短剣を抜こうと手を伸ばすと、メルルーシェが先にその短剣を抜いた。
(戦えないのに何故前に出る?)
メルルーシェの無謀な行動を想定していなかったニアハは固まった。
外套で正面は確認できない。
メルルーシェの背中は大きかった。
猪が地面を駆ける振動が迫ってメルルーシェの身体にぶち当たったのが分かった。メルルーシェの手から短剣が落ちる。
「ラミスカ!はやく!」
切羽詰まったようなメルルーシェの声にはじかれたように身体が反応した。ニアハはメルルーシェが落とした短剣を拾って手を振りかぶった。
猪の牙を掴むメルルーシェの手が膜を張るように淡く輝いていた。風も吹いていないのにメルルーシェの髪がふわりと浮いて波打っている。時間の流れがそこだけ異なっているかのようだった。
ニアハが腰を入れて横から猪の首元に短剣を差し込むと、猪は悲痛な叫びをあげた。
驚いたように目を見開いたメルルーシェはそのまま猪を横にいなした。姿勢を崩した猪が倒れこむ。
痙攣をはじめた猪を一瞥して短剣の血を振り払うと、地面に手をついているメルルーシェに近づいた。
メルルーシェは顔を上げてニアハの顔を見たかと思えば、肩を掴んで顔を歪めた。
「ラミスカ!逃げろと言ったら逃げて!なんて危険なことを。
もう絶対にあんなことはしないで」
死にかけていたくせに逃げろと喚くメルルーシェを呆然と眺める。
(何故怒っているんだ。)
ニアハの身体を抱き寄せると、身体のあちこちを確かめ始めた。抵抗していたニアハは、メルルーシェの力が弱々しいことに気付いた。両脇の辺りに血が滲んでいた。
メルルーシェがどうやって猪に対抗したのか、ニアハからは見えなかった。短剣を生き物に向けたこともないはずだ。あの突進に吹き飛ばされずに踏ん張っていたことも、メルルーシェの体格から考えるとあり得ないことで、やはり無事ではなかったようだった。
メルルーシェは安堵したようにニアハから顔を逸らすと猪に向き直った。
そして横面に触れて「御身が安穏の神と死の神の導きを受けますように」と呟いた。
死んだ生物に向けるその瞳に、胸が握り潰されそうな、そんな気がした。
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