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6章 宵の国と狭間の谷底

忘却

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冷たい水が喉を通り越して小さく音を立てる。

小さな手を包んでいた自分の手が光に透け始めて、慌てて目の前で陽光に透かすと、形がどろどろと崩れ始めた。急激に視界が歪んで身体が重くなっていく。恐ろしさに、必死に顔を手で覆って溶け出さないように掬おうとする。

『抗わないで、大丈夫よ』

悲鳴をあげたい衝動を必死に抑えて、小舟に乗った宵の杯人を見上げる。静かに自分を見つめているのだろう。その表情も、纏う雰囲気も視界がままならないせいで分からないが。

身体が湖と同化していく恐怖が、体内で反響する。


助けてーーー
助けて、ラミスカーーー

頭に浮かんだのは、深い蒼色をした穏やかな瞳だった。


濃い微睡みに襲われ思考することすらままならなくなると、不思議なことに恐怖心は鳴りを潜めて静寂に呑み込まれていった。


ただただ真っ暗闇に溶けてひとつになった。


自分は誰の名前を必死に呼んでいたのだろうか。誰のことを考えていたんだったっけ。


突然息苦しく感じて、必死に空気を求めてもがいた。
上へ、上へと向かって足掻いていたはずなのに、手が何かに触れて必死に叩く。氷漬けにされた水面のようにそこに出口はない。

息苦しさに強張っていた身体の力が抜けていくと、身体が浮かんで水面に両手足が吸い付く。

気付くと視点が回転したかのように、地面に這いつくばっていた。


ちゃんと身体がある。


水浸しの重い身体をぺたぺたと触って、心から安堵の息をついた。身体をぎゅっと抱きしめながら顔を上げると、一面の夜空が広がっていた。

密集した星が川の流れのように続いている様を眺めていると、風が頬を撫でていった。何となく振り向くと男が立っていた。

背景に透けた不思議な長髪は地に届くほど長く、瞳は様々な色を映していて流動的で色の判別がつかない。彫刻のように美しい顔を見て名が浮かんだ。

「死の神イクフェス」

一瞬で怒りが噴き出してくる。
けれど、自分が何に対して怒っているのか分からず徐々に鎮火していく。

「やっと来たね」

死の神イクフェスは、形の良い口の端を僅かに上げた。


何か大切なことがあったはず。
私は、何故死んだんだっけ。
ここは宵の国、宵の国って?
どこか懐かしい場所だ。

頭の回転が何かに邪魔されているようにゆっくりで、考えたいのに思考が断片的に途切れて思うように思考が出来ない。

死の神がなびく髪が当たるくらいの距離に立って、私の首筋に指を落とした。身体が硬直して身動きが取れないまま、鎖骨の辺りをなぞられて身体が竦む。

「これはもう必要ない」

口を開いてもいないのに、穏やかで深みのある声が響いてくる。
胸元の何かに触れると、砂が風に舞って消えていった。

「そなたは宵の国の、私の民だ。
案内しよう。ついておいで」

床に広がった身の丈よりも長い半透明の衣が、するすると水の上を流れるように進んでいく。慌てて立ち上がって死の神の後をついていった。


青い光を内包した球体が浮かんでいる広場に、白い巨大な門がそびえ立っている。

死の神が白い巨大な門に触れると、見る間に紺碧が広がって夜空を映し出す扉になった。
まるで生き物のように感じさせるその扉がひとりでに開いた。

門の外はすぐに崖っぷちの行き止まりになっていて、この場所が空に浮かんでいるように錯覚させる。

「下を見てごらん」

死の神が指した方向を覗き見ると、仄暗い谷底が続いていた。何かが蠢いているように見えて、得体の知れない何かに背筋が冷える。

「この国に入ることが叶わなかった者たちの末路だよ」

何が面白いのか、死の神は口の端を上げた。

谷底から目を背けるように遠くの方へ視線をやると、星だと思っていた淡い光が低い位置に広がっているのが見えた。

遠くを見つめていることに気付いたのか、死の神が指をそちらに移した。

「持つ意識の順に遠ざかっていく。動物、植物、鉱物とね。あれはそれらの魂だよ」

漂う光は儚さを感じさせ、美しさが哀愁を誘う。
何か大切なことを思い出しそうで、光の浮かぶ紺碧の空を見つめていた。
深い藍色、同じような濃藍が好きだった。何かに似ていたから。

「我が国は美しいだろう」

「はい」

色の移り変わる美しい視線を受けて小さく答える。
死の神は恐ろしいと感じる。胸にせり上がる恐れは一体何に対してなのか。

鋭い眼光にじっと見つめられて言葉に臆していると、死の神が柔らかい声音で囁く。

「母に会わせてやろう」

母、その言葉を聞いてぶわりと鳥肌が立つ。どうして一瞬分からなかったのだろう。

お母さんに、会いたい。
会って聞きたい。どんな気持ちで私をーーー

私を?

頭をふるふると振って、分からない苛立ちと恐れを打ち消すと、死の神が宥めるかのように頭に手を置いた。冷たい手の感触がそわそわとさせる。

「記憶が曖昧なのはそなたが宵の杯人から禊ぎを受けたからだ。
恐れることはない。それは本質の形へと還っていく過程で起きること。
その肉体の投影も直に元の姿に戻っていくだろう」

そう独り言のように囁いて唇を舐めた。

「そなたはずっと母に会いたいと祈っていた」

死の神の言葉に頷いた。
お母さんに会いたい。その気持ちは覚えている。

「私の側で過ごすなら、いずれ母に会えるだろう」

頭に何かが引っかかっているものの、具体的に言葉にできない。
受け入れることを拒否したいと感じている。

しかしそんな思いもすぐにどうでもよくなった。
お母さんに会いたい。その気持ちから、ただ「はい」と答えた。

彫刻のように美しい顔が近づいてきて、雪国の冷たい風のような吐息が顔に当たる。頬を包まれて額に柔らかな唇が当たって小さく音を立てる。

触れられても何も感じることはなかった。

「あぁ……美味だ……」

死の神は満足そうに微笑むと、夜を映す門をくぐり、彼の国へと歩き出した。


時折足を止めて説明してくれる声に耳を傾けながら、不思議な風景を眺める。

宵の国の中では、螺旋状の細い貝殻に似た巨大な建物が所々に見える。
広い場所もあれば狭い場所もあり、どこにでも点々と光が留まっている。その中に人の姿もぽつぽつと見える。年齢も服装も様々なのに、皆一様にぼんやりと空を眺め立ちすくんでいる。人の姿をしていても、目が虚ろで微睡んでいるようだった。たまにごく僅かに会話を交わしている様子の者もいた。

良く言えば静けさに包まれた、悪く言えば心臓を掴まれるように孤独を感じる、そんな場所だった。

「さぁ」

目の前に差し出された長い手に困惑しながら自分の手を置いた。顔を上げると、美しい形の瞳が少し細められ、手を引かれる。

巨大な白い神殿が目前に広がっていた。
内側の柱はただ白いだけではなく、真珠層のように鈍い虹色の輝きを放っている。

すぐ歩けば辿り着く距離に吹き抜けの小さな神殿が見える。弦の張られた楽器と椅子がぽつんと置いてあり、同じものを見たことがある気がした。


途方も無い大きさの神殿を前に口を開く。

「どうしてあんなにも大きいのですか?」

「あれが私に合う大きさだからだ」

その言葉の意味が分かったのは歩き出してすぐだった。
神殿に近づくにつれて死の神の身体の大きさが変わっていった。手を取られていて違和感を感じると、死の神は大きくなっていく自身の手で私の身体を掬い、もっと大きくなると掌の上に乗せられた。

呆気にとられたのも一瞬で、次の瞬間にはその驚きも忘れていた。


気がつくと食卓机の上に立っていた。椅子には死の神が座っていて、ちょうど自分をすっぽりと覆える程度の大きな手で反対側を示した。

「意識が戻ったか」

しばらく記憶が混濁していたようで、記憶がないことを恐ろしく感じながら死の神の正面の席につく。席といっても椅子ではなく卓上だ。何度かこうしている気がする。恐ろしさもすぐに消えていった。

「部屋はどうだ?不便はないか?この国ではよく眠れるだろう」

死の神の言葉に、自分に用意された寝室の記憶が呼び起こされ、部屋に案内されて数日過ごしたことを思い出す。死の神が口にした言葉に関してはすぐに記憶が蘇ってくる。その思い出している最中だけはまともに思考ができた。

それを忘れないように、死の神と一生懸命言葉を交わした。彼が何かを尋ねるとき、次に何かを尋ねさせようと頭を捻り言葉を発した。

「はい、とても。
ただ人が居ないことを寂しく感じます」

「まだ意識が多く残っているから当然だろう。…同じように形を保った者を用意しよう」

誰かと言葉を交わす機会を増やせば、記憶を失うことなく何かを思い出せるかもしれないと考えて、受け入れられることはないだろうと期待せずに発した言葉だったため答えは予想外だった。

「死の神イクフェス様、どうしてわたくしに良くしてくださるのでしょう?」

死の神は常に親切だった。

「そなたは我が妻となる魂だからだ。
さぁお眠り、微睡みの時間だ」

死の神の言葉は徐々に聞こえなくなり、すぐに何を話していたのかも忘れた。


次に意識を取り戻したのは寝台だった。
見知らぬ女性が隣に佇んでいて、空虚な場所を見つめている。

「我が友と話がある。しばらくここを空けるが、良い子にしていられるね?」

寝台の隣に立ち自分を見下ろす死の神はそう言った。
意識を取り戻した瞬間に恐れを感じ、どれくらい時間が経っているのか、と焦りに襲われるが、それもまたすぐに消えていく。

「はい」

冷たい指で頭に触れると、死の神は姿を消した。


「あんた、なんでここにいる?」

どれほどの時間が経ったのかは分からなかったが、微睡みと戦っていると誰かに話しかけられた。寝台の脇に佇む女性、ではなく扉から少女が顔を出して私を睨みつけていた。

その強い意思を感じる瞳に宿った光に、眩しさを覚える。
この国でこんな目をしている者に会ったことはない気がする。

近づいてきた少女は薄い水色の髪を頭上で束ねていて、猫のようにきりっとした瞳を瞬いて私の頬を叩いた。

「メルルーシェ、しっかりしな」

その言葉で強い風が吹き抜けた。


メルルーシェ、それは私の名前だ。


「ラミスカはどうしたんだい?」

続けて少女に問われて、いくつもの記憶が一斉に襲いかかってくるように蘇った。

ラミスカ、私の大切なーーー


涙で滲む視界で、誰かは分からない少女にお礼を言って部屋を飛び出した。



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