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6章 宵の国と狭間の谷底

湖の家

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ベルへザード国とロズネル公国の戦争は神の介入によって終わりを告げ、国は外交に追われることとなった。

多くの人間がふたりに神が降りた姿を目にした。
戦場にいなかった周辺諸国の要人も、遠く離れた南の国でも安穏の神が目覚めたという知らせは瞬く間に広がり、大陸全土が祝いに包まれた。緊迫の続いていた国家間では関係の見直しが行われ、理不尽な圧政を強いていた国の統治者は民衆に捕らえられた。


国内において大きく変わったのはダテナン人の地位だった。
ダテナン人の身体的特徴を多く有するラミスカの身体に安穏の神テンシアが降り立ったという事実が、ダテナン人に対する差別的な言動の数を減らしていった。

国内のダテナン人に対して不利な政策の撤回を主導して進めたのは、有力貴族であるゾエフ家の当主ハーラージスだった。

ただ、安穏の神テンシアが目覚めたからといって個人単位の争いが無くなるわけではない。

席の取り合いで始まった兵士同士の喧嘩を横目に、メルルーシェはため息をついた。終戦以降目立って仕方がないため、常に仮面魔具で顔を隠し性別を悟られない程度に装備を着込んでいる状態だった。


兵舎の食堂は現在一般人向けにも開放されていて、名誉ベルへザード魔導兵の授与式が行われた後すぐのため人でごった返していた。食堂で待ち合わせていた3人と落ち合って食卓を囲むと、やっと一息つくことが出来た。

ラミスカは最南端の防衛で本隊が到着するまで町を守ったという、著しい功績を認められて名誉ベルへザード魔導兵として称号を授与された。


通りすがった候補兵らしき青年が、リエナータにからかわれて顔を真っ赤に染めているリメイの頭を後ろから小突いて行った。

「いでっ」

どうやら訓練学校時代の知り合いらしく、悪態をついて離れて行く様子から仲が良い訳でもなさそうだったが、ラミスカに対してもちらちらと視線を向けているのが微笑ましい。

「授与式はどうだったの?
遠くから見てるだけだったから何を話してるのかさっぱりだったわ」

軍の関係者ではないため1人離れた場所から見学していたリエナータが不服そうに呟いた。

「別にどうもしないさ。ただケイアンの土地を一部、貰えることになった」

名誉ベルへザード魔導兵は、望むものをひとつ与えられる特権がある。制約は沢山あるが、その中からラミスカの選んだものが意外だったのでメルルーシェも首をかしげた。

「あぁそっか、ふたりはこれで退役だもんね」

リメイが何かを納得したように頷いた。
疑問符を浮かべているメルルーシェに呆れたようにリエナータが呟く。

「あなたたち家がないじゃない」

はっと手を打った。退役の手続きを済ませればもうメルルーシェとラミスカが寝泊まりができる場所がないのだ。人目を避けることばかりに気を取られて忘れていた。

「以前言っていただろう?夢の話をしたときに、湖の近くに家を建てたいと」

ラミスカが肉を皿に取り分けてメルルーシェの手前に置いた。

「そ、そんなこと覚えていたの?」

取り分けてもらったお礼を述べてから気恥ずかしくなって、黙々と肉を口に運ぶ。


にやにやと笑みを浮かべたリエナータが、メルルーシェの皿に自分の嫌いなココルゥの実を移しながらラミスカに向かって食器の先を指した。ちなみにココルゥの実は幼い頃からのメルルーシェの好物だ。

「それにしてもラミスカ、会った時はそれどころじゃなくて言えなかったけど、随分な美丈夫に育ったわよね。乳の飲ませ方や抱き方をメルに教えたのは私。つまり私こそが母なのよ」

「そうか」

ラミスカが静かに返す。

「母と呼んでも構わないわよ」

「そうだな」

リメイが楽しそうに笑っている。

「あなたたち結婚するの?」

スープを口に運んでいるとリエナータの一言でむせ返った。リエナータにはラミスカの過去の話などもまだしてない。赤ん坊の頃から見ているはずなのによくそんな発想に至ったものだと感心する。

ラミスカは一瞬動きを止めたが相変わらず表情の変化が乏しい顔で頷いた。

「俺たちは既に家族だが…そうだな、そうしよう。
どうだ?メルルーシェ」

「バカね、そういうのはこんな場所で聞くものじゃないのよ」

すかさずリエナータに小突かれて重大な話は流れていった。


ふたりの謎のやりとりに思わず笑いが溢れる。そして心の底から呟く。

「皆が無事で、本当に良かった」

宵の国と狭間の谷底で経験したことは、人間界に戻って生活している内に朧気な記憶となっていた。生きてきた人生よりも遥か長い時間を過ごした気がするのに、ふと思い出すことも少ない。何らかの加護が働いているのかもしれない。

メルルーシェの言葉に深く頷いたリメイが、何か思い出すように視線を彷徨わせる。

「それにしてもケイアンか。薬草の栽培がし易そうな環境だね」

ケイアンは南東に位置する年中涼しい気候と謳われる自然豊かな土地だ。だが魔力に中てられた獣も多く、人が住むのには不向きとされている。

「研究のために軍を空ける期間を設けた訳だし、一緒に薬草の研究が出来るわね」

リメイが水色の目を輝かせてメルルーシェの手を取った。

「僕も連れて行ってくださるんですか?」

いきなり立ち上がったものの、周りの兵士達の視線を受けていることに気付いて気まずそうにすぐに座り直した。

「あなたはしばらく私の弟子でしょう?」

薬と癒し魔法の知識を合わせて質の高い癒しを実現する。
そのためには分断されている薬師と癒し魔法の使い手を繋ぐ手伝いをしなければならない。

「メルルーシェさん~~~」

涙目で両手を包み込まれて苦笑する。
ラミスカがそっとリメイの右手を掴んで食器に誘導し、リエナータが左手にそっとパンを差し込んだ。

「私はこの外出が最後。無理を言って出てきたから早く神殿に戻らなきゃ」

リエナータが嬉しそうなリメイを恨めしそうに横目に呟く。

神官アデラが神殿の外に出ることはほぼ許されない。首都神殿への報告に向かうという名目を与えられた外出だが、お付きの神官なしでここにいられるのは事情を知っている神殿司の計いだろう。

珍しくラミスカが手を止めて真剣な顔でリエナータを見据えた。

「モナティの神殿で暮らす必要も、独身を貫く必要ももうない」

その言葉の意味を知るのは少し後のことだった。



****


飛ぶように時間は過ぎていった。


退役後、ラミスカとふたりでエッダリーに赴いて、アルスベルに義脚のお礼を、スーミェの薬屋を覗いたり、ユンリーの墓参りにも行った。

宵の国で自分を助けてくれた女の子が、ユン様だったのだと今では確信している。娘さんと共に新しい生を謳歌してくれているといいな、と願いエッダリーを後にした。

ケイアンは静かな土地で人口は少なかった。凶暴化した獣を癒やし魔法で鎮めながら家を建てる場所をふたりで探した。ラミスカの狙い通りだったのか、村外れには森に囲まれた静かな湖と小さな川が流れていた。

ふたりとも美しいその場所がひと目で気に入り、そこに家と簡単な研究所を建て始めることにした。獣害から守ったこともあり、村人たちは快く建築を引き受けてくれた。

家が建つまでの間、ラミスカは死の神を奉る神殿を全て解体させるための旅に出た。
神は人々の祈りを力の糧としている。ラミスカの行動は、神官には到底受け入れられ難いものだったが、彼に安穏の神が宿っていたことを誰もが知っているため、殆どの死の神を奉っていた神殿が代わりに安穏の神を奉る神殿となった。

勿論モナティ神殿も例外ではなく、死の神の神官アデラだったリエナータは神殿が解体したことで自由の身となったのだった。どうやらリエナータはリメイを大層気に入っているようで、何かしらふたりで過ごすことが多いようだった。

国内の神殿だけでは意味がない、とラミスカは別の国にも死の神を奉る神殿を壊す旅に出かけた。その間、メルルーシェはリメイと共に薬草の研究、癒し手の育成に邁進した。リメイとリエナータは共にケイアンの村で過ごしながら、メルルーシェの仮住まいである湖の研究所に通った。


雪解けの神ノレスノリアの祝福が大地を包んだ頃、家の建築作業も再開しはじめて殆ど完成間近となっていた。


村人たちにお礼と労いの言葉をかけて、お披露目となった家にリエナータと共に足を踏み入れる。

入ってすぐにベルへザード人女性とダテナン人男性が抱き合った絵が飾られていて、リエナータが噴き出した。

「ありがたい気遣いじゃない。結構似てるわ」

まじまじと見つめていると恥ずかしい所ではないが、村人たちの気遣いを無下にする訳にもいかない。これを描いてくれた誰かがいるのだから。

そんなメルルーシェの心中を察したようにリエナータが首をかしげる。

「白い布でカーテンを作って隠しておくのはどう?
神聖さも出て好意も無下にせずにすむわ」

その妙案に飛びついた。

「あなたはやっぱり天才ねリエナ」

鼻高々に頷くリエナータは、やはり可愛い一番の友人だ。

質素ながらも良い木材を使ってくれたのだろう。暖かく広々としている居間には所々気遣いの跡が見える。梁の細工や質の良い暖房魔具。メルルーシェはすぐに家が気に入った。

村人たちに心からのお礼の祝福を授けた矢先、ラミスカが旅から帰ってきた。

久しぶりに見るラミスカは髪こそ伸びているものの変わった様子はなく、慈愛の神の力によって戻った右脚も好調のようだった。


村人から歓迎の杯を受けて、やっと家族の時間になった頃、ふたりは湖の家へと向かう。
家具を運び込んで出来たばかりの家を案内して、二人がけの柔らかい革張りの椅子に腰掛けると、ラミスカが「懐かしいな」とぼそっと呟いた。

暖かな照明が揺れる様を見つめながら、その端正な顔を見つめる。
髭は剃り落としていたのだろうか。無精髭が生えている様子もなく、目にかかる程の長さの前髪から深い藍色の瞳が覗いている。

「これはディントの町で買った土産だ。こっちがムシューで買った織物」

小さな人形や服、きらきらと輝く小さな宝石を取り出しながらラミスカが説明してくれる。

「沢山買ってきてくれたのね、ありがとうラミスカ。
あなたが無事に戻ってくれて嬉しいわ」

一生懸命に何を買ってきたのかを説明してくれるラミスカが可笑しくて、少し笑いが漏れる。はっとした顔で口ごもったラミスカが視線を逸した。

「前髪を切ってくれるか?」

珍しい願いに驚きながら、微笑む。

「えぇ、勿論よ」

ラミスカが水浴びを終えるのを待ってから浴室に移動すると、大人しく座って待っていた。久しぶりに近付くと吐息を感じて緊張する。簡単に切って顔の毛を払ってあげると、じっと自分を見上げるラミスカと目が合った。

「メルルーシェ、身体に触れたい」

急激に顔が熱くなる。
宵の国から戻ってきてから、ラミスカの顔を見られるだけで安心した。共に寝泊まりすることもなく、手続きや住居の手配に追われて交わす言葉も少なかった。

そんな風に直接的な言葉をかけられたのは少し避けていた頃以来だった。

恐る恐る黙って頷くと、立ち上がったラミスカが身体を持ち上げて額に口付ける。

「ずっと会いたかった」

扉を開けて寝台にそっと降ろされると、ぎゅっと抱きしめられる。

「話をするのが怖かったんだ」

切なさを帯びた低い声が降り注いでくる。どうして怖かったのか尋ねようと顔を見上げて口を開いた瞬間、何かに塞がれた。

温かい何かに絡め取られて、ラミスカを感じる。
脈打つ心臓の音にきつく目を瞑っていると、唇が離れて身体にのしかかっていた重みがすっと引いた。

「ずっと一緒にいてくれるか?メルルーシェ」

溢れる涙を拭われて、懇願するように頬に手を添えられる。

「死んでも奴の所になんて行かせない」

一瞬怒りに揺れた藍色の瞳を見つめて、迷いながら言葉を紡ぐ。

「ラミスカ、今を生きましょう。今日を、明日を一生懸命生きるの。
勿論対策は大切だけれど、私はあなたとの毎日を幸せに過ごしたい」

「それは……一緒に過ごすという返事だ」

戸惑いがちに囁いたラミスカに「そうね」と微笑んだ。


きつく抱きしめられた身体がゆっくりと離されると、分厚く大きな手が頬から首を通り鎖骨へと降りる。

「まだ沢山の国に行って、奴の力を削がなければならない。
けれど今度は一緒に行こう。ヤンガラにも行きたがっていただろう?
きっと幸せに過ごすという条件にも合うはずだ」

行ってみたかったトナン国の大都市ヤンガラで、開放された清め湯に浸かるのは一つの夢だった。どこかで話したか。ラミスカが知っているのは意外だった。

「それはいい考えね。リメイにももう教えることは殆どないし、一緒に旅をするというのなら賛成よ」

肌を撫でられるくすぐったさに笑いを溢しながら頷いた。

トナン国だけではなく、大国アレハンビアやホステカ、行ってみたい所は沢山ある。


ラミスカの指が触れるか触れないかといった調子で身体の輪郭を辿っていく。

「ラミスカったら、くすぐったいわ。どうしてくすぐるのよ」

優しさの滲んだ藍色の瞳が少し細められて、首筋に口づけを落とす。

「すぐに分かるさ」

温かい吐息が首筋から降りていった。




メルルーシェとラミスカは仲睦まじく旅をして沢山の国を渡った。
美しい湖のほとりに建った彼らの家は、彼らが居ない間は近くに住む彼らの親友や村の人々が管理をした。

出産の女神フィランティーナを怒らせてしまったため、ふたりは生涯子どもに恵まれることはなかったが、すぐ近くに住むふたりの親友によく似た3人の子どもたちを大層可愛がったという。



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