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宇津領の件

遭遇

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 両国界隈かいわいと言えば浅草と並ぶ江戸のさかり場である。
 明暦めいれきの頃に大火たいかがあった関係で、千住の大橋以外にも大川に橋を架けることになりできたのが今の両国橋だ。そのとき火除け地として橋の両端に整備されたのが広小路ひろこうじである。
 これは火が出たときに、橋に飛び火しないよう空き地を広くとったのが成り立ちだが、いつの頃からかこの空き地に小屋や幕を張って、芝居や見世物を商売にする者が集まるようになった。遊ぶ場所ができれば飲み食いをする店が出てくるのが道理で、いつしか両国界隈は江戸で一二を争う盛り場となったのである。
 新三郎の寓居すまい回向院えこういんを横目に一ツ目橋を渡ったあたりにあった。夏場は舟遊びや花火見物の客で賑やかになる場所で、雑多のところが新三郎は気に入っている。腹が減れば少し歩くだけで蕎麦屋、飯屋、うなぎ屋に茶店、菓子屋なんかが軒を連ねる便利な街だ。
 町方にはびっしりと長屋が建てられていて、商売人や職人に素浪人、御大仁の囲われ女など様々な種類の人間がここに肩寄せ合って暮らしている。

 左官の内儀ないぎのお富が、その人物に気付いたのは巳一ツみひとつ頃だった。子供を筆書ふでかきに追い出したときに目が合ったからよく憶えている。はじめは前髪も落とさぬ武家の少年かと思ったが、よく見ると袴をつけた女子おなごであることがわかった。みょうちくりんな人間もいるもんだと思ったから忘れようもない。
 表店おもてだなの前をうろうろしながら、木戸から裏長屋の通りを時折覗き込んでは、人と行き会うたびに思い直して立ち去ってしまうようだが、しばらくすると戻ってきて同じことを繰り返している。昼に戻ってきた子供と亭主に飯を食わせたあと、洗い物をしに井戸端へ出た時にも女侍おんなざむらいと目が合ったので、お富は我慢できずに声をかけた。

「ちょいとお前さん、朝からずっとうろうろしていなさるが、長屋の誰ぞに御用かい?」

 女侍は声をかけられたことに驚いてびくりと立ち止まったが、観念したらしく振り返ると猛然とお富の傍に歩み寄った。

「お内儀、少しお尋ねしますが、こちらに荻野様という旗本のご子弟がお住まいではありませぬか」
「ああ、きっと新三郎の若旦那のことだね」

 いま長屋に住んでいるお武家は新三郎しかいない。荻野という苗字に憶えはなかったが、女の反応を見てどうやら合っているようだと息をついた。
 新三郎は侍の割りに偉ぶったところがなく、町人らとも気兼ねなく言葉を交わすので、裏店うらだなの連中はどことなくあの若者を気に入っている。内儀たちが何かと面倒を見てくれるのも新三郎の人柄が好ましいものだからだし、話の通じるお武家が店の身内にいると言うのは、彼らのような身分の人間には心強いものだ。
 そうした体面もあって、お富も何かと新三郎の世話を焼いている。

「若旦那は他行中たぎょうちゅうだよ。朝方から出かけて行ったきりだね。約束でもしていなさったのかい」
「約束? あいえ、そういう訳ではありませぬが、そのいつお帰りかは?」

 お富は盛大に嗤った。そんなことあたしが知る訳ないさ、と言って女侍の背中をばしんとやった。ぶたれてむせている女をお富は笑いながら眺めていたが、新三郎の裏長屋を指さして言った。

「なんだったら、上がって待っていればいいんじゃないかい?」
「よ、よろしいのですか」

 再びお富は女侍の背中をばしんとやった。さっきより大きな笑い声で、よろしいかどうかなんて知るもんか、と豪快に言ったが、勝手に障子を開けると「さあ」と中に女侍を押しやった。
 女を障子の内側に押し込むとお富はぴしゃりと障子を閉めて、戸外から「ごゆっくりね」と言って立ち去る。

「ここが、新三郎様のお住まい……」

 土間に立ったままきょろきょろと部屋の中を眺めまわす。言うまでもなくこの侍姿の女は、一刀流志賀道場の師範代、志賀加也である。上がり込んだのはいいものの、どうしたものかと加也が所在を失っていると、またも戸外からさっきの内儀の声がした。どうやら誰か別の人物と話をしているらしい。

「あれ、塔子ちゃんじゃないのさ。若旦那のところなら客が来てるよ」
「こんにちわ、お富さん。森様の御遣いでしょうかね」
「さあね、侍は侍だけど変わり種だったよ」

 変わり種とは自分のことか、と加也はむっとして障子に振り返ったが、その時すっと戸が開いて一人の女性と鉢合わせた。
 姉さんかぶりをした細面ほそおもての色白な武家の娘だった。しかし娘というには少し年嵩としかさがあるようだ。十八の加也ですら行き遅れと言われ始めているのに、目の前の女は加也より三つか四つは年長だろう。
 そう値踏みしていると、姉さんかぶりがにこりと微笑んだ。
「どちらさまでございましょうか」
 加也は体温が少しだけ下がるのを確かに感じた。
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