上 下
33 / 40
梅雨入りの件

しおりを挟む
 初太郎は一行が足を止めるとふらりと歩み寄った。往来には他の旅人もあったから、ここで何か剣呑なことになるとは思わなかったが、四人の剣士らは一様に警戒の色を強める。

「四日市では悪いことをした」

 財布のことを言っているのだろう。あのとき紛失したのは、やはり初太郎が抜き取ったのだった。

「幕府目付の判元見届け人、で間違いないな。荻野新三郎どの」

 名乗った覚えはなかったので、抜き取った財布の名札を確認したのだろう。新三郎はかばって立つ忠馬の肩を掴んで一歩前へ出た。

「東条初太郎、何が目的だ。どうせ名前も偽りであろうが」
「察しがいいな。では単刀直入に言う。名張側には付くな。俺に付け」

 新三郎はぴくりと片眉を動かした。この感覚は前にも感じたことがある。権力を持って人を動かす者にまとわりつく威圧的なものだ。この男もその種類の人間であるようだが、身分を偽ったり、変装するのが流行にでもなっているのだろうか。
 新三郎は警戒を続ける加也たちに控えるよう指図する。

「それで、俺に付けと言うからにはあなたが頭目ということでいいのか」

 そう言うと初太郎はさも可笑しそうに大笑いした。新三郎の言葉遣いが横柄なままでありながら微妙に変化していることを随員たちは敏感に察している。

「頭目か。いいな、それは」
「そろそろどこの誰だかはっきりしてもらいたい」

「名乗ってもいいが、当ててみよ。存外抜け目のないヤツと聞く」

 当てて見よ、か。ずいぶんと仄めかすものだなと新三郎は辟易したが、既に察しはついていた。

「仰りようから思うに、久居藩主藤堂左近様でありますまいか」

 初太郎は目を丸くした。そのあと感嘆を込めて「あたりだ」と言った。

「なぜわかった」
「そうでなければこのようなところでそのような申され用をする者もおりますまい。が……」

「が、なんだ」
「鎌をかけましてござる」

 憮然として答えると、再び初太郎を名乗る久居藩主は大きな声で嗤った。それを合図に茂みから傘で面体を隠した侍が数人出てきて初太郎を囲んだ。供廻り衆といったところか。

「上野の城に案内する。ゆっくりでいいからついて参れ。それと」

 そう間を置くと初太郎は一行の一番後ろに庇われている駕籠に近づき、なんと膝をついた。御簾の小窓が中から開いて、時子の目が外を覗く。

「お久しゅうござる。時子様」
「さて、初太郎などとは初めて聞く名です」

「ご無体な。庚千代こうちよです。時子様」
「ははあ、悪たれの庚千代ですか。旦那様のかわいがりを憶えておいでのようで何よりです」
 時子の小さいが良く通る声で初太郎は悔し気に表情をゆがめた。

「先生のことは残念でした。弔いにも参れず申し訳ありません」
「お墓は根津にありますからね」
「は」

 訳がわからぬ、といった表情で新三郎は加也を見たが、加也も首を横に振って何が起こっているのか判らない様子だ。



 その答えは上野城下に入ってから初太郎自身が語ることになった。

「俺は江戸の生まれでな。十代の頃は僅かな剣才に奢って町道場を荒らしたりしたんだが、ある時こっぴどく痛めつけられた。その相手が志賀先生というわけだ。後から先生の細君が伊達家の姫様だと知って肝を潰した」
「……とってつけたような因縁があるものだ」

 新三郎が正直な感想を口の端に乗せると、初太郎もとい藤堂左近は、まあそういうわけだからお前さんは俺につけ、と再度言って相好を崩した。

「ですが、身どもは幕府公用の遣い。名張に行かぬわけには……」
「行けば自由を奪われる。名張家はお前さんを人質にして、本藩の追及をかわしたうえで、幕閣に対し末期養子にかこつけた津藩からの独立立藩を訴え出るに違いない」

 それは随分と乱暴な話だと新三郎は思った。よもやそんなやり方でことがなせるとは考えられぬと反論する。それにやすやすと捕縛されようとも思わない。そんなことをしては、幕閣に対して名張家の言い分が不利になる。

「この件はすでに幕閣のとある派閥と話が通じてある。裏で糸を引いているのは、二本松の丹羽本家と結託しているその領袖だ。二本松は以前から名張の独立立藩を強く後押ししている。もし立藩が叶えば、名張は丹羽の支藩という扱いになるだろう。そもそも藤堂の血は一滴も流れておらん。我らが立藩に異を唱えれば、すなわち御家騒動とみなされて、藤堂家が大きな責を払うことは間違いない。それゆえ、ことが表沙汰になること、それ自体が名張家ひいては丹羽らの狙いなのだ」

 そして、名張へ行けば自由を奪われるというのは物理的な意味ではない、と藤堂左近はつづけた。

「それはどういうことでしょうか」

 我慢できずに口をはさんだ加也に、左近はきっぱりと言った。

「名張には人質がある」
「……人質?」

 新三郎にはまるで身に憶えのないことである。誰をいったい江戸から離れたこの名張で人質にとれるというのだろうか。困惑している新三郎に左近は舌打ちをした。

「手前のことになると察しが悪くなるのは朴念仁の典型だな」
「しかし、それではいったい誰が人質になるというのです」

「わからねえか。塔子だ」

 塔子。なぜ塔子が人質にとられる。新三郎は呆然とした。
 確かに江戸を発つ半月ほど前から姿を見なくなった。その頃には既にその身柄は名張にあったというのか。
 しかし解せない。塔子の家名は藤堂だが、新三郎が知る限り、宗右衛門家は姓を与えられた元家臣で、藤堂和泉守家との血縁はなかったはずである。

「塔子の父、宗右衛門は宗家の血縁ではないが、母親は俺の叔母上だ。俺の母とは腹違いの姉妹だが塔子は俺の従妹にあたる。いつの間にか名張家が塔子を養女にしておったのだ」

 左近の説明に加也が何かを思い出したように、はっとして新三郎を振り返った。

「……確か塔子どのは近くどこぞの養女に入っていずれかへ嫁ぐことになる、とお話されていました」

 塔子を人質にとって、判元見届け人の新三郎に言うことを聞かせる、というのが名張家の策だというのか。そうだとしたら余りに……。

「あまりに用意が周到すぎませんか。見届け人が荻野さんになるかなんて、そもそも判らないことですし、なんだか都合がいいなあ」

 緊張感のない声で核心を突いたのは、それまで新三郎の脇でじっと黙っていた忠馬だった。
 忠馬自身は気付いていなかったろうが、その調子はずれの言葉にかちりとかみ合うものを新三郎は感じたのである。そしてついには落ち着いた様子で方針を明らかにした。

「いや、やはり名張へ行こう」

 表明された方針に、忠馬がやれやれ困ったお人だ、と面白がるように言った。
しおりを挟む

処理中です...