Catch up

ふみや@T&F新

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Catch up

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 将来住むなら南極とか北極に住んでみるのも悪くない。うんと体の芯から冷えそうで考えるだけでぞくぞくする。あれ、南極と北極ってどっちが寒いんだっけ。まぁいいや。考えるのもめんどい。
 夏は嫌いだ。力という力が太陽によって隅々まで吸い取られ、対処しきれない気だるさが全身を襲う。もう、このまま死んでもいいんじゃね?とさえ本気で考えていたり、考えていなかったり。
 「どうした夏陽。もうバテてしまったか?顔色が良くないぞ。もっと粘れよー!」
 全く、どこからそんなパワーが出てくるのか。こいつは何だ、太陽の息子か兄弟か。暑苦しいんだよバカ野郎。
 「わりぃ。昨日徹夜でドラクエしてたから寝てないんだ」
 「ちょ、おまえ何してんだよ!そんなんだと体ぶっ壊れるだろ!部活の前の日くらいは我慢しろよ!…で、どこまでいった?」
 「テリー仲間にしたとこまで」
 「マジで!?デュランどうやって倒した!?」
 こいつは部活の仲間でありライバルでありながら、中学からの親友だ。無駄に話が合う奴だ。暑苦しくなければいい奴なんだが。
 「こら。夏陽君、涼登君、無駄な話しない」
 「すいません」「うっす」
 清楚なイメージを持つ、水無月宵子さんだ。
 長身で容姿端麗。噂によると告白された男は五十人以上でその全員を振ったらしい。超人か。この人は。
 なんでも「私は陸上が恋人だから」という訳のわからない返事を決まって返しているらしい。ほんとだろうか。よし、試しに告白てみよう。
「宵子さん、付き合ってくだ…」
「あ、そうだ、夏陽君。昨日ケームばっかりしてたんでしょ。もう、だめじゃない、体壊しちゃうよ。今日は家に帰ってゆっくり休んで。いい?あなたは私が期待している選手なんだからね」
 「…俺じゃなくてこいつなんだけど…」
 しかし、何でだろう。うちの部にはもっといい選手がいるし、実力だってまだまだだ。隣で「ずるいよーお前ばっかり」と言いながら俺の背骨をつまんでくる涼登だってタイムも俺より速いし、なにより帰宅部のエース
だった俺に陸上を出会わせてくれた超本人である。何がずるいのかよくわからないが。てかやめろ、背骨がとれる。
 今現在、九月の新人戦に向けて夏休みはほぼ毎日競技場のサブトラックで練習中だ。先週高校選手権が終わったばかりで、あまり気持ちが入らないというのが正直な気持ちだ。ちなみに結果は、100m、200m、いずれも平凡なタイムで予選落ちだ。うちの部員では涼登が100mで決勝に残って8位という結果を残している。タイムは11秒前半。普段はあんなおちゃらけた奴だが、試合の時の集中力がとてつもない。スタンドから見ていて闘志がメラメラと伝わってくる。唯一俺があいつを尊敬する部分だ。ちょっとかっこいいと思う。ちょっとだけな。5ミりくらい。
 小さい頃から周りよりは少し足が速いという意識があった。でも特別運動神経が優れていた訳ではなかった。 家に籠ってはゲームにマンガ。何となく過ぎていく毎日に何の抵抗もなく今を生きてきた。そんなある日、商店街の電器屋の入口に映し出されたその映像に気づけば目を奪われていた。男子100m決勝、たった10秒ほどの戦い。一瞬によって決まったスペシャリストの男達の中で笑っていたのは、ウサイン・ボルトだった。
 現実はそう甘くはない。たった100mのレースで最高のパフォーマンスができるのは練習で吐くほど追い込んだものが勝つ。そう分かってても自分にはそんな化け物のようなメンタルは持ち合わせていない。
「きつい。帰りたい」
「何でだよ。まだ練習は始まったばかりだ。もっと熱くなれよ!」
 ただでさえしんどいのにこれだ。恵波高校名物の松岡修造にしごかれる日々。無茶言うな。中学から化け物だった涼登。高校から陸上を始めた俺。誰が見ても分かるほどの歴然した差がある。あいつの背中を見続ける日々にグッバイできる日は果たして来るのか。


 「今日もプロテインが美味い。俺の筋肉がエキサイトしている」
 「馬鹿か?」
 茜色が眩しい、夕焼け染まる空。少し秋めいてきたか、日の沈みが早く感じる。秋の匂いを乗せてゆっくりとやってくる冷たい風が俺は大好きだ。小川の畔、ゆったりとした上り坂の砂利道に差し掛かる帰り道、
 「なぁ、涼登はなんで陸上を選んだんだ?」
 俺は長年の疑問をぶつけた。
「んー?そうだなぁ」
 小さい頃からやんちゃだった涼登はとにかく周りを巻き込むトラブルメーカー。それも底無しのスタミナを誇る疲れ知らずだから、なおさらタチが悪い。小学校の頃、公園の大樹にぶら下かってた蜂の巣に一発で石を投げ当て、心臓が止まるんじゃないかというくらい走らされた思い出。あいつは快足をとばして逃げきったが、俺は右肘、左膝、右脛の三箇所を刺されて大泣きしたってのに、あいつは俺を指差してケラケラと笑っていやがった。今思い出しただけでも腹が立つ。ぶん殴ってやりてぇ。
 「俺コントロールマジ最強!野球選手なりてぇ!」てな事をほざいていたが、あいつならいけてたような気がする。実際人数が足りない野球部の試合で助っ人で呼はれてホームランを打ってたのには、さすがに空いた口が塞がらなかった。他にも、引ったくり犯にサッカーボールを矢のような弾丸ライナーを直撃させて仕留めたり、プロ内定が決まったバレー部のアタックを、笑いながら一人シャットアウトなんかかましてた。テニス部に卓球のラケットで勝ったことなんてのもあったなぁ。最早意味が分からない。変態だ。
「猫になりたいから」
「猫?なんじゃそら」
 やっぱり変態。変わらず変態。こいつには成長という概念はないのか。ないんだろうな。苦笑を浮かべ、足元にある手頃な石を蹴り始めた俺に、あいつは眩しい笑顔を見せる。
「猫ってすげぇいいじゃん。いつも自分の好きなことして生きて、食っては寝て。しかも練習もしないのにあんなに足速いんだぜ。くー羨ましいぜ。俺、猫に弟子入りしようかな。近所にすげー速い猫が居るんだよ。俺が
勝手に名付けたタマネギっていう猫なんだけどよー。あ、そういえば何年か前に猫とか犬とかの気持ちが分かる機械ってあったよな。あれまだ売ってんのかなぁ。アマゾンとかで調べたらもしか…」
 はいはい。スイッチが入ったこいつはもう止めることはできない。俺に出来ることはこいつの話に通当に相槌を入れることと、この足元の石(おにぎりちゃん)を家まで送り届けることだ。
「……って訳でさー。てか聞いてる夏陽」
「おう、関いてたぞ。確かにゲスの極み乙女のボーカル川谷絵音とオリックスのエース金子千尋はすっげー顔似てるよな」
 「一言も言っとらんがな」
 あ、しまった。会話に気を取られておにぎりちゃんが溝にダイブしてしまった。これは民事裁判を起こす必要があるな。よし文句の押し売りを始めるか。そう思い振り返った先、涼登はとても冷たい目をして、
 「約束を果たすために俺は陸上を始めた」
 「……約束?」
 次の言葉を継ごうとした矢先、駆け抜けるような強い風にバランスを崩した。思わず閉じてしまったまぶたを再び開けたそこには、
 「すげーな今の風、台風でも近づいてんか。それとも春一番か。まだ秋だからさすがにそれは早いかー」
 いつもと変わらないヘラヘラした笑顔。
 「何してんだ夏陽、早く帰ろうぜ。今日はテレビでSASUKEがあるんだぜ。くー俺の筋肉が共鳴しそうだ。なー夏陽も見ろよ」
 「…ああ」
 辺りはすっかり夜に染まり、鈴虫の鳴き声が心地よく響いてた。


 「あーっと。ミスターSASUKE踏ん張れず。またしてもかー」
 テレビでは屈強な男が一瞬で泥水の池に飲み込まれ、実況の盛り上がった声が耳を劈く。
 思わず俺はテレビのリモコンを探し、音量を下げることを試みるが、知何せん、どこにも見当たらない。
 「母さーん。リモコンはー?」
 「知らないわよ」
 台所で皿洗いをしている母親からは期待していない返答が届き、仕方なく二階の部屋へと向かう。扉を開けるといつもと変わらない風景。ベッドに転がっては、相変わらず我が物顔でくつろいでやがる。
 「またかよ。おい優里花、自分の部屋戻れ」
 ここ最近俺の部屋に住み着いては、本棚のマンガを読み漁る。まったく、どうにかならないのか。
「いいじゃん。兄ちゃんの部屋マンガいっぱいだし。減るもんじゃないでしょ」
「そんなら自分で買えよ」
「あたしは乙女だから、洋服とかオシャレにいっぱいお金かかるの」
 ワールドトリガーの7巻を読みながら、にっこりと微笑む優里花。足をバタつくそれはご機嫌なときの癖だ。俺だって洋服とかにけっこうかかってるよと言いたいところ。目に映ったすっからかんのクローゼットに思わず口を噤む。観念した俺は大人しく机に向かう。
 「何ー?宿題?」
 「練習日誌だよ」
 「えーそんなの書いてたっけー?」
 「今日から書くことになったんだよ。てかお前も言われただろ」
 恵波高校陸上部といえば、毎年5、6人は九州大会へ進み、県内でも強豪の高校として有名だ。いや、強豪だった、という方が正しいかな。6月の高校総体、最高に暑くて熱かった俺達の夏は、あまりにも一瞬だった。大
会記録持者の400mハードル(通称4パー)の桑原先輩は8台目のハードルを足に引っかけ転倒。10秒台の記録を持つ100mの松田先輩もスタート直後に肉離れで途中棄権。5年連続決勝へ進んでいた、お家芸の4×100mリレー(通称4ケイ)ですらバトンミスにより失格。涙を流す先輩達にかける言葉も出ず、
 「後は任せたぞ。強い恵波の陸部を再建してくれ、涼登、夏陽」
と、寂しく去っていった先輩の背中が今でも頭の中に鮮明に浮かぶ。涼登と改めて部を強くしようと気持ちを入れ直したのもむなしく、今恵波高校の陸上部は男子7人、女子5人。再建するにはあまりにも少なく、実績が乏しい。ちなみにその中に優里花も入っている。
 「あー、そういや米やんが言ってたねー。最近たるんどるだの気持ちが入ってないだので、みんなで書くことになったんだっけ。そんな事ないのになー、ねー兄ちゃん」
 「うーん。どうだろうな…」
 確かに卒業していった先輩達と比べると、今の恵波の陸部はのほほんとしている。というか、実績第一主義だった先輩方は常に結果を追い求めていたが、俺達には能力の高い選手は涼登くらいしかいない。次のラウンドに手がかかる位置にかすりもしないと、どうしても熱い、強い気持ちなどは持てない。ウチの顧問の米田先生(通称米やん)には悪いが、これが当然だと思う。すまんな。ふと、窓の外に目を向けると、帰り道に満天の笑顔を輝かせていた夜空の星達は、真っ白な雲の布団に覆われて、人間達より一足先に眠りについたようだ。明日は雨が降りそうだ。心は曇る。

 生僧の雨、それも鬱陶しいレベルの大雨は、自慢の癖毛をクネらせる。ただでさえ、朝寝坊して先生にこっぴどく怒られた末に、弁当を忘れる玉突き事故が起きたばっかりの俺に、休むことなく災いは降り注ぐ。いわゆるこれが厄日ってやつか。全く、今日はついていない。いつもなら断っている涼登の「チーかま食べる?」の言葉にはさすがに俺の腹の虫は黙っちゃいられず、無事俺は飢死にすることなく今日を生きていられるというわけだ。そんなことはどうでもいい。雨の日の練習といえば、校舎内の階段ダッシュが定番だ。練習でいつ
も一人先に行かれる涼登に、唯一俺が食らいつくことができるメニュー。ここで光らずどこで光るよ俺。今回こそは鮮やかな走りで涼登を置き去りにし、「キャー夏陽君かっこいいー!私と付き合ってー!」と、宵子さんが惚れ、無事ハッピーエンドの日々を送ることになるだろう。フハハ。見とけよ。
 「あ、宵子さん今日生徒会で練習来れないらしいってよ」
 「そう…」
 現実は上手くいかないことばかりだ。まぁいい。いつだってかっこいいところは見せることはできる。
 「夏陽、宵子さんがいないからってやる気無くして手を抜くなよー」
 「当たり前だ。いつまでもトップの座でいられると思うなよチーかま野郎」
 「言うねー。じゃあ今日は先生も用事でいないことだし、特別スペシャルコースで勝負するか?」
 「おもしれえ。後悔すんなよ」
 特別スペシャルコースとはこうだ。まずA棟の階段を四階まで駆け上がって、B棟への渡り廊下を突っ走り、B棟の一階へ降り、A棟のスタート地点へ戻ってくるというコースだ。もちろん人とぶつかる危険性だってあるし、廊下は走っちゃいけないものだ。今日は制止する人がいないというわけで久々の開催だが、よい子は真似しちゃ絶対駄目だぞ。
 「じゃあネギ、スタート頼む」
 「気をつけてくださいね二人とも。またこの前みたいに、体育の坂下に見つかって鬼ごっこするハメになるのはゴメンですよ」
 「ハハ。そうだな、気をつける」
 困ったように笑う一年生根岸君は、小動物の様に人懐っこい。身長が160ちょっとしかない彼だが、ちょこちょこと走る姿はなかなかクセになる。可愛い。
 「位置についてー」
 チラリと見る涼登の顔。見据える先は階段、いやその先の何か。行かせねぇ。お前一人なんかに。お前一人なんかの世界に。
 「よーい」
 呼吸を止める。世界が止まる。野生は止まることは知らない。
 「ドン」
 眠っていたフリをしていた筋肉が躍動する。そうだ、いつだって、どんなときだって先に飛び出すのは俺だ。スタートが苦手なお前が見慣れた俺の背中はどうだ。少しは大きくなったか。逞しくなったか。階段を強くはじく二種類の運動靴の旋律は踊る。インコースを取った。手すりの遠心力を生かし、右腕を軸に回る禁断の技。悪いな涼登。俺は勝つ。そう、どんな手を使ってもだ。きっとその気持ちはあいつだって同じだろう。小さい頃から競い合ってきた頑固っぷりはどちらも引けを取らない。
 「キャッ!」
 なんだと。反転した世界の先に居たのは眼鏡をかけたおとなしそうな女の子。前髪を綺麗に眉毛の上で揃えたショートカットの女の子は、図書室に向かっている途中だったのか胸に両手で本を引き寄せ、驚いた表情で立っていた。手に持っていた本は「君の膵臓を食べたい」…か。実にセンスのいい。
 「アハハ。先に行ってるぜ」
 白い歯を見せ、大外を駆け上っていく軽快な足取りに正気を取り戻す。おっと危ない。女の子に夢中になっている場合じゃない。これは真剣勝負だ。
 「ごめんね!」
 「は、はい…」
 外に避けて、再び駆け上る。途中、俺は重大なことに気づき、振り返る。
 「あの」
 「何ですか?」
 「君、眼鏡を外した方が可愛いよ」
 「え、えぇー!?」
 お嬢さん、今度会ったら小説の話でもしようぜ。君とはセンスが合いそうだ。名残惜しい気持ちを、弾む足音と乱れる呼吸がかき消していく。階段を上りきった先、渡り廊下の長い直線、ここで涼登との距離を測る。放課後、制服姿で歩く帰りがけの生徒や、部室へ向かう文化系の生徒達の中、小さくなっていくブルーのシャツを見つける。ざっと50mから60mってとこか。まだ取り戻せる距離だな。そろそろ乳酸が溜まってきたか、足が重い。だが、それはあいつだって同じだ。長い渡り廊下を半分超えたところくらいで、予想外のことが起きる。先を行くブルーのシャツが立ち止まる、それに釣られて立ち止まった俺は、「コラー!またお前らかー!!」という怒号をスタートに、涼登とほぼ同時のタイミングで反転し、今走ったコースを逆走し始める。後ろから聞こえる「ヤベー涼登逃げろー!」という声に、言われなくても逃げるわと心の中でウンザリしながら、懸命に腕を振る。ここで俺は階段のある右の道を選ばず、あえて左の道へ向かう。曲がった先の一つ目の部屋の外にかかっていた表札は「将棋同好会」。
 迷わず扉を開け駆け込んだ俺は、中で一人で将棋を指していた男子生徒に「悪い竹下!ロッカー借りる!」という言葉をかけ、返事を待つことなく銀色の箱に飛びこむ。
 「いいよー」というおっとりした声と、ドタドタと駆けていく足音を密室で聴き、再び明るい世界への扉を開ける。どうやら足音は階段の方へ向かっていったようだ。
 「やれやれ。何とかまいたようだ」
 「夏陽君。今日も大変そうだね。よかったら対局してく?お茶もあるよ」
 「そうだな。指したいところだが、あいにく今真剣勝負の途中なんだ。また暇なときにでも来るとするよ」
 「そうなんだ。分かった、頑張ってね」
 「ああ」
 たった一人で毎日放課後に将棋の勉強をしているクラスメイトの竹下。彼の集中力、探究心に心から敬意を払い、俺は部室を後にする。さて、再び目指すビクトリーロードというわけだが、参ったことに、先ほどの反転ダッシュのせいで右脚のハムストリングが軽く痙攣してやがる。最近家でのストレッチを怠ったツケがこのタイミンクで回ってきやがったか。YoutubeでMー1の漫才を見てばっかりだった自分に、とびっきりのドロップキックをかましてやりたい。見えてきた渡り廊下の終わり、下り階段に差し掛かる丁度その刹那、
 「おら-!!」
 近くの開いていた窓から飛び込んできたこのバカは、いとも簡単に俺の稼いだリード貯金を奪い取る。
 「てめー、どっからやってきやがった。バケモンめ」
 「三階の男子トイレの窓から脱出して、窓の外の縁を登って冒険してきた。なあに、将来のSASUKEオールスターズにとって、こんなもん序の口だせ!」
 「お前にはいっそ陸上なんて辞めて、パルクールの選手にでもなってほしいね」
 「パルクール?なんじゃそりゃ?」
 軽快な足取りで響く二つの階段を降りる足音。だがその旋律は、最初の上り階段の時と反して、調律を乱していく。音が少しずつ遠ざかる。やべー、頭がぼーっとしてきた。まずいことに、酸欠状態が絶賛売出し中。駄目だ。このままでは置いてかれる。そんなことはさせねぇ。狙いは内側を攻めて走る前方のバカ野郎。くらえ。
 「おらぁぁぁ」
 「ぐわぁぁぁ」
 手すりに体を乗せ、滑りながら加速していった俺の蹴りは、丁度階段を降りきった涼登の背中を直撃し、思いの外吹っ飛ばす。
 「何すんだー!」
 一回転して、柔道家さながらの綺麗な前回り受け身を決めた涼登は、白い歯を見せて満面の笑みで笑う。
 「お疲れー」
 「あ、おい、待てー!」
 体勢が整わない内に、先に最後の直線にさしかかる。チャンスだ。長い直線の先に、スタート地点で手を振るネギ、陸上部員達が見える。もう少しだ。保ってくれ。必死に乳酸の溜まった太ももをペチペチと叩く。近づいてくる足音。乱れる二つの呼吸。肉体の悲鳴が聴こえる。足が動かないなら、腕を力強く振れ。腕も動かないのなら、根性見せろ。横に並ばれる。でも先へは行かせない。先に行くのは俺だ。後30m、20m、10m。
 「おっしゃぁぁぁ」
 「ぬらぁぁぁぁぁ」
 二つの体はほぼ同時にゴール地点へと投げ出された。


 真っ赤な夕焼け空を横目に、真っすぐ歩くけもの道。右に左に追いかけっこをする赤とんぼの姿は、あぁ、もう秋が訪れたんだなと実感させる。数少ない田舎のコンビニで買った肉まんの匂いは、エネルギーを使いきった空っぽの胃袋に直接訴えかけてくる。
 「いやー疲れたなー。なかなかの名勝負だったなー」
 肉まんとピザまんを両手に満足気にかぶりつく涼登は、疲れなどを微塵も感じさせない爽やかな笑顔を見せる。確かに今までの涼登とのレースでは一番の接戦だった。しかし、悲しいかな人間。一瞬の欲を見せた人間は、掴みかけた栄光に手を滑らせる。
 「やっぱお前はすごいよ」
 「夏陽もすごかったじゃん!」
 飛び込んだゴール地点、右腕を高々と突き上げ笑っていたのは涼登だった。99,9%勝利を確信していた。ゴールをして改めて気づいた。そうだ、涼登だった。こいつは、何度でも立ち上がってきた。それを誰よりも近くで見ていた俺だから知っている。最後の1m、1cmまでレースを諦めないその目の光は、どんな闇にだってかき消すことはできない。
 「そろそろだな、新人戦」
 「ああ、楽しみだぜ!夏陽、一緒に決勝に絶対に行くぞ!」
 「無茶言うな。お前のようなキチガイの走りには、ついていくだけで精一杯だ」
 「じゃあついてこいよ。俺が連れてってやるから」
 真っすぐ見つめるその眼差しには、一切の濁りもない。分かってるさ。お前がいつだって本気なことは。
 「まあ、今日のような遊びをしている内は、タイムは伸びないと思うがな」
 「わ、わかんねぇだろ!例えば今日みたいに可愛い女の子と話す機会ができて、夏陽のテンションが上がったりするじゃん?」
 「てめぇ。気づいてんじゃねーよ!」
 「アハハ。何年の付き合いだと思ってんだ。夏陽のことは何でも知ってるさ」
 ヘラヘラ笑いながら少し先を歩く夏陽の背中。いつの間にかこんなにデカくなりやがった背中は、到底追いつけないものだと思った。待ってろよ涼登。必ずお前の世界に行く。辿り着く。


 見渡す限りの青。雲一つない空は、青色のタータンを照らす。これが真夏の中のレースだったら、スタート姿勢の時に指を火傷する恐れがあるのだが、秋に入った今の九月は逆に心地よい。ちなみにタータンとは、競技場のゴムトラックのことだ。長崎県高等学校新人体育大会。あの白熱の階段レースの後、俺達は限界まで走りこんでこの日を迎えた。競技場から聞こえてくるアナウンス、ジョグをしている他校の選手、待機場所でワイワイお喋りしている仲間達を見ると、あぁ、始まるんだな、と実感させる。そして、始まりはいつも顧問の米やんのありがたいお言葉から始まる。
 「いいかーお前ら。三年生が引退して最初のレース。なんも考えず、楽しんでこい。課題だ、目標だの、そんなの自分で見つけ出してこい。最後に終わったときに、笑ってたらお前らの勝ちだ」
 気だるけな眠そうな眼で話す米やんはそう言うと、じゃあ俺係があるから、とダルそうな足取りで競技場へ向かっていった。
 「お兄ちゃん、アップ付き合ってよ」
 「俺がかよ」
 「いいじゃん。男子は12時からだし」
 「仕方ねーな」
 9時スタートの今大会の最初の種目は、女子100mから始まる。優里花ウチから唯一、女子で100mに出る。サブトラックでは他校の選手達が内なる闘志を燃やし、黙々とアップをする選手や、楽しそうに雑談する選手達で溢れている。一礼して踏み込む一歩。芝生の反発は、自分の中の闘争心を滾らせる。周りは見えない。自分の世界を作り出す。このトラックには俺しかいない。俺だけのステージ。最っ高に燃えてきたじゃねーか。今日も俺は俺で、絶好調だ。うん、いける気がする。しなやかなフォームで、駆け抜けていく優里花。陸上をやっている人間とは、どうしてあんなに輝いているのだろうか。そうやってまたー人と、虜になっていく。この場所には夢がある。
 「優里花ちゃんいい走りしてんじゃん」
 「エース様、お早い登場だな」
 芝生上でストレッチしている俺の隣に腰を下ろした涼登は、ウイダーinゼリーを片手に爽やかなスマイルを見せる。
 「やっぱ鳴尾浜のトラックが俺は一番好きだな。後は高千穂、春原の競技場のトラックも走りやすかったけど、やっぱ一番はここだわ」
 「そうだな。ただちょっと強い風が吹くところは難点ではあるが」
 「参考タイムばっかだったよなぁ。ただ400やってるやつがよく言うマジカルウィンドはここすごいよな!」
 巷で話題のマジカルウィンド。通常、ホームストレートで追い風が吹く際、バックストレートでは向かい風が吹くことが当たり前だが、ここ鳴尾浜のトラックではどこを走ってても風が追う。つまり、参考タイムにならない400mスプリンターにはとても好タイムが出やすい魔可不思議な競技場なのである。
 「俺も400に転向しようかな!」
 「お前だったら余裕で400でも通用しそうだから怖いよ」
 「ハハ。でも俺は夏陽と同じ種目で戦いたいから転向はしねぇ」
 「何じゃそら。お前は俺みたいなザコじゃなくて、頂点を見据えてろよ。毎試合ボロ勝ちしやがって。今日こそは覚悟しとけよ。今日の俺は無敵だ」
 「おう。必ず一緒に決勝に進もうな」
 俺の挑発を一蹴、混じり気のないその眼は真剣そのものだった。ありがとよ。必ずその期待に応える。
 「楽しかったよ。夏陽との陸上」
 「なんだお前。死ぬのか?」
 「死なないよ」
 ケラケラと笑う涼登は、立ち上がり、遠くを見つめる。
 「前にさ、夏陽。俺になんで陸上やってるか聞いたことあったよな」
 「ん?あぁ、何か約束を果たす、とか言ってたな」
 「俺さ、妹が今東京の痛院に入院してるんだ」
 「まじで?瑠奈ちゃんが?どうしてまた…」
 小さい頃、俺と涼登、優里花と瑠奈ちゃんも交えてよく遊んでた。瑠奈ちゃんは兄の涼登と違って、大人しく、ちょっと引っ込み思案な子だったが、よく涼登や俺の後をチョロチョロとついて回っていた。
 「膵臓が悪いらしくってさ。半年くらい前から入院してる。最近東京の病院に移った」
 「そうか…。辛いな」
 公園でかくれんぼが下手くそで、すぐ見つかっては恥ずかしそうに出てきた瑠奈ちゃん。意外にも負けず嫌いで、わざとテレビゲームで勝たせてあげるまで帰らせてくれなかった瑠奈ちゃん。近くの夏祭りで、浴衣を着て可愛く踊ってた瑠奈ちゃん。優しい柔らかな笑顔が鮮明に浮かぶ。
 「でさ、俺、東京に引っ越すことになった。瑠奈を一人東京に残すことはできないって、お父さんもお母さんも」
 目の前を駆け抜けていく優里花を涼登は目で追う。
 「瑠奈はきつそうにしてても、いつも笑顔で振る舞うんだ。無理してでも。分かってる。あいつは昔からそういう性格だもんな」
 いつも自分のことより他人のことばかり気遣うとても優しい子だった。
 「実は、陸上を始めたのは瑠奈のためなんだ」
 「そうだったのか」
 「小さい頃さ、よく俺らはガキの頃に泥だらけ砂だらけになりながら外で走り回ってたよな。楽しかったよな。中学に入ってからさ、部活が始まって。みんなそれぞれいろいろな部活に入って。でも俺は、部活なんか全く興味がなくてさ」
 芝生に寝転び、涼登は空を見上げる。それにつられて見上げた空は、少し雲を帯びていた。
 「ある日、瑠奈が言ってきたんだ。どうしてお兄ちゃんは部活に入らないの。お兄ちゃん足速いじゃん。瑠奈、走ってるお兄ちゃんが大好きってさ。もうそんなこと言われたら断れる訳ないじゃん。で、走るってなったら陸上部。俺が陸上を始めたきっかけはそれ」
 正直めんどくさがりな涼登が部活に入って、こんなに心から夢中になる姿は想像がつかなかった。涼登はいつも、自由奔放に生きていると思った。でも違った。浅はかだった自分の考えをゴミ箱に投げ捨てたい。涼登は瑠奈ちゃんと生きてきた。
 「瑠奈が言ったんだ。お兄ちゃん、絶対に一番になってね。約束だよってね」
 「ああ。必ずなれるさ。絶対に」
 「ありがと。でも俺一人じゃきっと届かない。俺の力なんてちっぽけなものだ。だから、夏陽。俺は陸上部に誘った。お前ならきっと、この先どんな遠い、険しい道のりだって、俺の横で並んで一緒に歩んでくれると信じている。ありがとな、夏陽。今日がお前とのラストランだ」
 清々しい表情で、いつの間にか起き上がっていた涼登は右手を俺に差し出す。
 「ラストランだと。ふざけんな」
 右手を払いのける。涼登は驚く。
 「まだお前に勝ってねぇんだよ。勝手に逃げやがって。勝ち逃げとは、お前もとんだ腑抜け野郎だな。そんなんじゃ一番になれないんじゃねーのか。…終わらせねーよ…。そうだろ。お前に追いつく。並ぶ。どんな表情か見てやる。きっと笑ってると思うが。こっちだって笑ってやる。一緒に目指そうぜ。そのときはどっちが先に着いても恨みっこなしだ。だから…全国で会おうぜ」
 「…夏陽、ありがとう」
 「なんだお前、泣いてんのか?」
 「泣いてねーし!」
 ここぞとばかりの下手くそな変顔を作り、披露してくる涼登。お互い腹を抱える。
 「あ、こんなところにいたんだ。夏陽君、涼登君。もう、早く戻って!マッサージとストレッチ!」
 少し怒り気味でやってきた宵子さんは、探したんだからねーっと頬を膨らませながら腕を組んでいる。可愛い。
 「すいません。ちょっと涼登と大事な話してまして」
 「涼登君の転校の話?」
 「あれ、宵子さん知ってたんですか!?」
 「うん。ちょっと前から」
 「何で俺には言ってくれなかったんだよ涼登ー」
 「悪い悪い。お前には最後まで調子を崩してほしくなかったから黙ってた」
 ぺロっと舌を出して謝る涼登。
 「なるほど。じゃあ最近宵子さんが俺に期待してたのはエースの涼登が抜けるからだったんですか?」
 「そうよ」
 「何だよー。てっきり宵子さんが俺のこと好きなのかと思ってたわ。しけたー」
 「好きよ」
 「……え?」
 「足が速い人は好きよ。涼登君に負けないように夏陽君ももっと頑張ってね」
 「あ、はい…」
 何だか遠い道のりになりそうだが、人生焦らず、ゆっくり行こう。うん、そうしよう。


 スパイクで踏み込むタータンの感触が好きた。360°の観客。いつかこの全ての観客を魅了する選手になると必ず誓い、自分だけの道を見つめ、信じる。今、この競技場のトラックに立っているこの時間がとても大好きだ。男子100m決勝、選ばれた精鋭達がこの場所に立つ。緊張感が漂う中、相変わらずこいつは笑ってやがる。
 「夏陽、楽しみだな」
 「そうだな」
 隣のレーンのバカ野郎には目を向けず、真っすぐ前を見据え答える。お互い準決勝を突破して迎えた決勝は、神様のイタズラか、奇しくも隣のレーン。たった10数秒の世界。どんな旅になるのか。それは誰も分からない。目の前に見えるゴール、いや、ずっとその先。俺は止まるつもりはない。どこまでも。どこまでも。きっとこいつだってそうだ。そうだろ?涼登。
 「夏陽?」
 「ん?」
 「Are you ready?」
 「I'm ready」
 「Me too!」
 スターティングブロックに足をかける。あ、俺、今日いける。見据えるたった100mの一本道。……楽しもうぜ!
 ピストルの音が鳴り響く。強く蹴り出された体は、今、一つの長い旅路へと走り出した。
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神奈川県の海に近い住宅街。夏の終わりが、夕焼けに溶けていく季節だった。 僕、孝之は高校三年生、十七歳。妹の茜は十五歳、高校一年生。父と母との四人暮らし。ごく普通の家庭で、僕と茜は、ブラコンやシスコンと騒がれるほどではないが、それなりに仲の良い兄妹だった。茜は少し内気で、真面目な顔をしているが、家族の前ではよく笑う。特に、幼馴染で僕の交際相手でもある佑香が来ると、姉のように慕って明るくなる。 その平穏が、ほんの些細な噂によって、静かに、しかし深く切り裂かれようとは、その時はまだ知らなかった。

(完)百合短編集 

南條 綾
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ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

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