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ドッジボール
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「おじさん、ボール投げて!」
「おじさん…か」
僕は寝癖のついたボサボサの後頭部を左手でかきながら苦笑し、右手に持っていた缶コーヒーをベンチの肘掛けに置いた勢いのまま立ち上がって、くたびれた皮靴の目の前に止まっているコムポールに手を伸はそうとした。 懐かしいな。子どもの頃よく遊んだな。
小さい頃、外で遊ぶことが好きだった少年も、今では歳を取り、毎日を生きることで精一杯の日々を送っている。かけがえのない子どもの頃の青春をふとした時に思い出すと、とこにもぶつけようのない寂しさや虚しさに押しつぶされ、自分が自分でいられなくなるような気がする。
「あれ、このボール空気が抜けてるじゃん」
手に取った少年達のボールは、腐りかけのみかんのように柔らかく、本来の丸い姿から所々しほんだ歪な形をしていた。
「うん、知ってるよ。でもママが買ってくれなかったから仕方なくそれで遊んでるんだ」
タンクトップの半ズボンがとてもよく似合う坊主頭のぽっちゃりとした男の子が、白い歯を見せて笑う。よく見ると下の前歯が一本抜けており、より一層少年の笑顔が無邪気に感じる。僕は少年の顔とへこんだボールを交互に見つめ、笑顔で言葉を投げ返した。
「じゃあ、おじさんが新しいボールを買ってあげよう」
「え、ほんと?やったー!」
少年達はその場で何度も飛び跳ね、ハイタッチやガッツポーズなと思い思いの形で喜びを表現する。公園内に設置されている噴水が丁度勢いよく飛び出し、少年達が踊る後方で彼らを祝っているかのようで、僕は思わず噴き出して笑ってしまった。歓喜に沸く少年達を公園に残し、僕は安物の皮のバックを手に公園を出ようとしたが、ベンチに忘れたコーヒーの空き缶を取りに戻り、少年達の笑い声を背に今度こそ公園を後にした。
「健ちゃん久しぶり。今日はどうしたの?」
「おじさんこんにちは。元気してますか?」
公園を出て真っすく進んだ二つ目の曲がり角を曲がると、小さな路地裏に入る。小さい頃に友達と決まって通い続けていた駄菓子屋さんは随分前に店を閉めてしまったが、すぐ隣に並ぶ小さなスポーツ店は、今でもひっそりとお店を開いている。よく吠えられてい向かいの家の柴犬も今ではいなくなり、犬小屋も片付けられている。音がなくなったこの路地裏で、変わらぬ笑顔でお客さんに笑顔を振りまく店主のおじさんは、少し顔のしわが増えたようで、髪の毛はすっかり真っ白になっていた。
「友達はみんな元気にしてるかね?」
「どうでしょうか。すっかり連絡もとらなくなって。翔太も慎二もこの街を出てそれっきり。あ、でもこの前和輝と龍星がYoutuberデビューしたんだって。おじさんYoutuberって知ってる?」
「ゆーちゅーばー?なんじゃねそりゃ?」
怪訝そうな顔をして目を細めているおじさんを僕はこっそり笑い、手に取ったボールをレジまで持っていく。
「これください」
「おっ!小さい頃よく買っていたゴムボールじゃないか。これでよくみんなとドッジボールをしに元気に駆け出して行ってたのをよく覚えておるよ。まさか今日も誰かとドッジボールかい?」
「いえいえ。ちょっとそこのいつもの公園で会った子ども達にあげようと思って」
「相変わらず健ちゃんは優しいね。最近は外で遊ぶ子ども達も少なくなってきたからね。よし、少し安くしておくよ」
「ありがとう、おじさん」
ボールを受け取り、店を後にしようとする僕の背後から、おじさんは小さな声で呟いた。
「健ちゃん…真澄ちゃんのことは残念だったね…」
「…いえ。大丈夫です」
僕は振り返っておじさんに小さく笑顔で応える。
小さい頃僕達は毎日のように学校が終わると公園へ向かい、決まってドッジホールを楽しんだ。やんちゃな少年達に混じって、いつも必ず参加していたのは近所に住む同い年の女の子の真澄だった。学校は違ったが、ある日いつものようにみんなと公園に行くと、一人で壁にボールを投げて彼女は遊んでいた。僕達はそんな女の子にかまわずドッジボールを楽しんでいたが、じっとこちらを見つめて少し悲しそうに立っている彼女の姿がどうしても気になり、僕は近付いて「一緒に入る?」と声をかけると、真澄は満面の笑顔で「うん!」と答え、嬉しそうにとびはねてツインテールを揺らしていた。
それから僕は真澄と仲良くなり、ドッジボール以外にも二人で遊んだり、気づいたら彼女に会うことを一番楽しみにしていた。
ある日の夕暮れの帰り道、それは突然だった。
「今日も楽しかったな。早く明日がこないかな。早くまたドッジボールがしたいよな」
上機嫌で歩きながら喋る僕に対して、
「…うん」
と呟く真澄はなぜか浮かない表情をしてた。
「どうした?体調でも悪い?」
「そんなことないよ。元気元気!」
拳をグーにして満面の笑みで両手を天に突き上げる真澄は、どこか無理をしているようだった。そんな不自然な真澄を家まで送り、大好きなハンバークを夕食で頬張っている幸せな時間帯、お母さんが話したその言葉に頭が真っ白になった。
「真澄ちゃんのおうち、お引越しするのよ。明日からもう真澄ちゃんとは遊べないからね。残念だけど、真澄ちゃんが健ちゃんによろしくって言ってた…」
勢いよく立ち上がった僕は玄関へ向かい、
「ちょっとどこに行くの!」
という母の制止も聞き入れず、靴も履かずに家を飛び出した。そして辿り着いた真澄の家のチャイムを何度も乱暴に押し、やがて不安そうな顔で扉を開けてきた真澄に大声で張り上げた。
「明日もドッジボールするって言ったじゃんか!なんだようそつき!お前とはもう友達なんかじゃない!もう二度と遊ばない!」
夜の住宅街に響くその声に真澄は泣き出し、後から追いついてきたお母さんは真澄と真澄の両親に何度も頭を下げていた。その帰り道お母さんは僕の頬を何も言わずにぶった。なぜぶたれたかも分からない少年の僕も涙を流した。その次の日から学校終わりに立ち寄る公園には、何度行っても何度行っても真澄の姿が現れることはなかった。
住宅街を少し先に進んだところ、雑木林を抜けた先に現れるのは、大きく広がる見渡す限りの水平線だ。変わりゆく時代の中で、変わらないこの景色に僕の荒んだ心が洗われていくのが感じられる。
少年達にボールを渡した帰り、僕の足はいつしかこの場所へとたどり着いていた。時折吹いてくる優しい海風が潮の匂いを乗せ、打ち寄せる波の音とうみねこの鳴き声が五感を刺激する。
「懐かしいな」
僕は呟いた。
子供の頃見つけて、毎日のように通っていたこの場所と景色は僕だけの世界だった。誰にも邪魔されない独り占めしたかったこの世界に、入りこんできたのは真澄だった。
「わーきれいな景色!」
「うわ!なんで真澄がいるんだよ!」
「だって健ちゃんよく公園と違う方向に一人で歩いてる姿を見かけるもん。気になったからこっそりついてきちゃった」
えへへと笑う真澄の笑顔は、出会って仲良くなってから一番嬉しそうな顔をしていたような気がする。
「いいか、他のやつらには絶対教えるなよ」
「うん、教えないよ。二人だけの秘密だね」
そう言って、真澄は小さな小指を僕に向けてきた。僕は一瞬戸惑いながらも、自分の小指をその小指に絡ませ、約束を誓った。
「全然変わってないな」
僕は眼前に広がる大きくそびえ立つ白い灯台を見上げ、あの頃の思い出に浸る。あちこち塗装がはげても、なおかつ大きな在在感を醸し出すその灯台は、子どもの頃と同じく僕を迎え入れてくれているような気がする。長年潮風を浴び、完全にさびついてしまっている重い扉を開けると、中から鉄や油、土の匂いが混じったような独特な匂いがあふれてきた。内部を駆け巡る冷たい自然の冷気に少し寒さを感じながら、僕は階段へと足を踏み出す。ここは全国でも珍しい「登れる灯台」である。小さい頃当たり前に登っていた僕は、後から登れる灯台はとても少ないという事を知ってとても驚いた記憶がある。革靴の音を内部中に響かせながら、僕は一歩一歩上っていく。延々と続く螺旋階段に次第に足が疲れ始め、息が徐々に乱れてきた。
「昔は元気に駆け上ってたのにな」
両膝に手をつき、肩で息をしながら僕は苦笑いを浮かべる。子どもの頃一瞬に感じたこの階段も、大人になるとまるで永遠に続くように感じる。何度も立ち止まりながら、僕はようやく出口へと辿り着く。無機質な灰色の色の無い世界から、何色もの明るい色で彩られた眩しい世界がそこに広がっていた。どこまでも続く水平線と綺麗な青空が境界線を失い、青色の世界を創り出す。見渡す限りの青を横目に、僕はゆっくりとメリーゴーランドのように右手で灯台に触れながら歩みを進めた。そして歩き始めて半周、丁度青一色の世界から真反対の木々で生い茂った緑の世界に差し掛かる頃、冷たさを感じる右手の指先を僕は見つめた。
「あしたもあさってもずっとずっと、ますみとドッジボールできますように」
まるで針金のようなゆがんだ文字が連なった拙い文章の落書きが、どこか幼さを感じさせる。黒いマジックで書かれた秘密の落書きは、月日が経っても色褪せることなく少年が生きた証をそこに刻んでいた。
初めてこの灯台に登ったとき、僕はこっそりと灯台の裏側に落書きをした。思いつくままに書いたその文章を誰にも言わず、バレないように小さく刻んだ。真澄がいなくなった後に何度も登っては、その落書きをぐちゃぐちゃにして真っ黒に塗り潰そうとして、結局僕は使わないマジックペンと一緒に灯台を後にする日々を何度か送った。僕は灯台に行かなくなった。
僕はその場に立ち尽くした。どれだけ立ち尽くしたのだろう。そして、僕は気付いた。
僕の頬に一滴の涙が流れ、やがて音を立てて足元に落ちた瞬間、僕は膝から崩れ落ち、声をあげて泣いた。スーツのジャケットに汚れがついても、僕は構わず子どものように泣き続けた。何年経っても変わらない僕の小さな落書きには、一つだけ変わっていたことがあった。そこにはとても綺麗なしっかりとした字で、短く書かれていた。
「またしようね」
真澄は大人になって、地元へと帰ってきた。それは子どもの頃からずっと変わらずこの地で過ごしてきた僕の耳にも届いた。驚きの気持ちと嬉しい気持ち、その反面あの日真澄に対してたくさんひどいことを言ってしまった申し訳ないという気持ち、様々な感情が入り乱れて僕は戸惑った。丁度その頃、仕事が繁忙期にさしかかり、来る日も来る日も遅くまで仕事をこなす日々が続き、時には出張で遠くまで車を走らせる事もあった。忙しい日々が過き去り、僕は真っ先に真澄に会いたいという気持ちに駆られ、気付けば彼女の事を探した。大人になった真澄は、あの頃のように僕を受け入れてくれるのだろうか。いつものように、あの人懐っこい笑顔を僕に向けてくれるのだろうか。はやる気持ちたけが、僕の足を動かす原動力となった。
真澄は亡くなっていた。
地元を出た真澄は、結婚して家庭を持ち幸せな日々を送っていたが、突然体調を崩して病気と戦う日々を送っていた。やがて医師からの申告を受け、自分が長く生きられないということを悟った真澄は、家族と一緒に再びこの街へと帰ってきた。それは彼女がどうしても叶えたかった夢の一つだった。たくさんの思い出が詰まったこの町を最後の力で自らの足で歩いた彼女は、幸せな気持ちに包まれて、静かに息を引き取った。
「あれ、おじさんまた会ったね」
「やあ、この前の少年じゃないか」
夏も終わりに近づく頃、セミの鳴き声が夕焼け空に響く中、額から汗が一滴伝い落ちる。目を閉じ、静かに両手を合わせてお墓の前に佇んでいた僕に、少年は背後から元気良く声をかけた。真っ黒に日焼けした少年の口からこぼれる白い歯は、抜けていた下の前歯がすっかり生えきっていた。
「おじさんに買ってもらったボールで今日もみんなと遊んできたよ。ほら、見て」
手に持っていたゴムボールを弾ませて無邪気に笑うその人懐っこい笑顔は、どこか懐かしさを感じた。
「そっか、おじさんのあげたボールを使ってくれてありがとう」
「うん、毎日使ってる!…おじさんは何でここにいるの?」
真っすぐ見つめる大きな瞳に、僕は精一杯の笑顔で、ゆっくりと言葉を紡いた。
「おじさんはこのお墓で眠っている人…ううん、君のお母さんとお喋りしに来たんだよ。おじさんは昔友達だったんだ」
「知ってるよ。おじさんの名前、健っていうんでしょ。お母さんがよく楽しそうに話してたもん」
「そっか。君には何もかもお見通しだね」
苦笑いを浮かべながら、ふと思い出した僕は地面に置いた革のカバンの中から取り出した。
「あ、そのボール!持っててくれたの?」
「もちろん、君からもらったおじさんにとっての宝物だからね」
あの日、少年にボールを買ってあげた僕に対して、少年はお礼にと使い古した空気の抜けきったゴムボールをプレゼントしてくれた。不格好ながら、少年に大切に扱われ続けたゴムボールはとても喜んでいるように見えた。僕は少ししぼんだゴムボールを見つめて、小さくマジックで書かれている「真澄」という文字を見つめ、微笑んだ。
「今日は何をして遊んだんだい?」
少年は胸いっぱいに息を吸って、元気な声で僕に叫んだ。
「ドッジボール!!」
ふと背中を押す強い風に、僕は思わず振り向いた。オレンジ色に照らされた墓石に止まった鮮やかなアゲハ蝶が、ゆっくりと羽をはばたかせ、光を放ちながら何度も僕達の周りを飛び回り、やがて天へと昇っていった。
「おじさん…か」
僕は寝癖のついたボサボサの後頭部を左手でかきながら苦笑し、右手に持っていた缶コーヒーをベンチの肘掛けに置いた勢いのまま立ち上がって、くたびれた皮靴の目の前に止まっているコムポールに手を伸はそうとした。 懐かしいな。子どもの頃よく遊んだな。
小さい頃、外で遊ぶことが好きだった少年も、今では歳を取り、毎日を生きることで精一杯の日々を送っている。かけがえのない子どもの頃の青春をふとした時に思い出すと、とこにもぶつけようのない寂しさや虚しさに押しつぶされ、自分が自分でいられなくなるような気がする。
「あれ、このボール空気が抜けてるじゃん」
手に取った少年達のボールは、腐りかけのみかんのように柔らかく、本来の丸い姿から所々しほんだ歪な形をしていた。
「うん、知ってるよ。でもママが買ってくれなかったから仕方なくそれで遊んでるんだ」
タンクトップの半ズボンがとてもよく似合う坊主頭のぽっちゃりとした男の子が、白い歯を見せて笑う。よく見ると下の前歯が一本抜けており、より一層少年の笑顔が無邪気に感じる。僕は少年の顔とへこんだボールを交互に見つめ、笑顔で言葉を投げ返した。
「じゃあ、おじさんが新しいボールを買ってあげよう」
「え、ほんと?やったー!」
少年達はその場で何度も飛び跳ね、ハイタッチやガッツポーズなと思い思いの形で喜びを表現する。公園内に設置されている噴水が丁度勢いよく飛び出し、少年達が踊る後方で彼らを祝っているかのようで、僕は思わず噴き出して笑ってしまった。歓喜に沸く少年達を公園に残し、僕は安物の皮のバックを手に公園を出ようとしたが、ベンチに忘れたコーヒーの空き缶を取りに戻り、少年達の笑い声を背に今度こそ公園を後にした。
「健ちゃん久しぶり。今日はどうしたの?」
「おじさんこんにちは。元気してますか?」
公園を出て真っすく進んだ二つ目の曲がり角を曲がると、小さな路地裏に入る。小さい頃に友達と決まって通い続けていた駄菓子屋さんは随分前に店を閉めてしまったが、すぐ隣に並ぶ小さなスポーツ店は、今でもひっそりとお店を開いている。よく吠えられてい向かいの家の柴犬も今ではいなくなり、犬小屋も片付けられている。音がなくなったこの路地裏で、変わらぬ笑顔でお客さんに笑顔を振りまく店主のおじさんは、少し顔のしわが増えたようで、髪の毛はすっかり真っ白になっていた。
「友達はみんな元気にしてるかね?」
「どうでしょうか。すっかり連絡もとらなくなって。翔太も慎二もこの街を出てそれっきり。あ、でもこの前和輝と龍星がYoutuberデビューしたんだって。おじさんYoutuberって知ってる?」
「ゆーちゅーばー?なんじゃねそりゃ?」
怪訝そうな顔をして目を細めているおじさんを僕はこっそり笑い、手に取ったボールをレジまで持っていく。
「これください」
「おっ!小さい頃よく買っていたゴムボールじゃないか。これでよくみんなとドッジボールをしに元気に駆け出して行ってたのをよく覚えておるよ。まさか今日も誰かとドッジボールかい?」
「いえいえ。ちょっとそこのいつもの公園で会った子ども達にあげようと思って」
「相変わらず健ちゃんは優しいね。最近は外で遊ぶ子ども達も少なくなってきたからね。よし、少し安くしておくよ」
「ありがとう、おじさん」
ボールを受け取り、店を後にしようとする僕の背後から、おじさんは小さな声で呟いた。
「健ちゃん…真澄ちゃんのことは残念だったね…」
「…いえ。大丈夫です」
僕は振り返っておじさんに小さく笑顔で応える。
小さい頃僕達は毎日のように学校が終わると公園へ向かい、決まってドッジホールを楽しんだ。やんちゃな少年達に混じって、いつも必ず参加していたのは近所に住む同い年の女の子の真澄だった。学校は違ったが、ある日いつものようにみんなと公園に行くと、一人で壁にボールを投げて彼女は遊んでいた。僕達はそんな女の子にかまわずドッジボールを楽しんでいたが、じっとこちらを見つめて少し悲しそうに立っている彼女の姿がどうしても気になり、僕は近付いて「一緒に入る?」と声をかけると、真澄は満面の笑顔で「うん!」と答え、嬉しそうにとびはねてツインテールを揺らしていた。
それから僕は真澄と仲良くなり、ドッジボール以外にも二人で遊んだり、気づいたら彼女に会うことを一番楽しみにしていた。
ある日の夕暮れの帰り道、それは突然だった。
「今日も楽しかったな。早く明日がこないかな。早くまたドッジボールがしたいよな」
上機嫌で歩きながら喋る僕に対して、
「…うん」
と呟く真澄はなぜか浮かない表情をしてた。
「どうした?体調でも悪い?」
「そんなことないよ。元気元気!」
拳をグーにして満面の笑みで両手を天に突き上げる真澄は、どこか無理をしているようだった。そんな不自然な真澄を家まで送り、大好きなハンバークを夕食で頬張っている幸せな時間帯、お母さんが話したその言葉に頭が真っ白になった。
「真澄ちゃんのおうち、お引越しするのよ。明日からもう真澄ちゃんとは遊べないからね。残念だけど、真澄ちゃんが健ちゃんによろしくって言ってた…」
勢いよく立ち上がった僕は玄関へ向かい、
「ちょっとどこに行くの!」
という母の制止も聞き入れず、靴も履かずに家を飛び出した。そして辿り着いた真澄の家のチャイムを何度も乱暴に押し、やがて不安そうな顔で扉を開けてきた真澄に大声で張り上げた。
「明日もドッジボールするって言ったじゃんか!なんだようそつき!お前とはもう友達なんかじゃない!もう二度と遊ばない!」
夜の住宅街に響くその声に真澄は泣き出し、後から追いついてきたお母さんは真澄と真澄の両親に何度も頭を下げていた。その帰り道お母さんは僕の頬を何も言わずにぶった。なぜぶたれたかも分からない少年の僕も涙を流した。その次の日から学校終わりに立ち寄る公園には、何度行っても何度行っても真澄の姿が現れることはなかった。
住宅街を少し先に進んだところ、雑木林を抜けた先に現れるのは、大きく広がる見渡す限りの水平線だ。変わりゆく時代の中で、変わらないこの景色に僕の荒んだ心が洗われていくのが感じられる。
少年達にボールを渡した帰り、僕の足はいつしかこの場所へとたどり着いていた。時折吹いてくる優しい海風が潮の匂いを乗せ、打ち寄せる波の音とうみねこの鳴き声が五感を刺激する。
「懐かしいな」
僕は呟いた。
子供の頃見つけて、毎日のように通っていたこの場所と景色は僕だけの世界だった。誰にも邪魔されない独り占めしたかったこの世界に、入りこんできたのは真澄だった。
「わーきれいな景色!」
「うわ!なんで真澄がいるんだよ!」
「だって健ちゃんよく公園と違う方向に一人で歩いてる姿を見かけるもん。気になったからこっそりついてきちゃった」
えへへと笑う真澄の笑顔は、出会って仲良くなってから一番嬉しそうな顔をしていたような気がする。
「いいか、他のやつらには絶対教えるなよ」
「うん、教えないよ。二人だけの秘密だね」
そう言って、真澄は小さな小指を僕に向けてきた。僕は一瞬戸惑いながらも、自分の小指をその小指に絡ませ、約束を誓った。
「全然変わってないな」
僕は眼前に広がる大きくそびえ立つ白い灯台を見上げ、あの頃の思い出に浸る。あちこち塗装がはげても、なおかつ大きな在在感を醸し出すその灯台は、子どもの頃と同じく僕を迎え入れてくれているような気がする。長年潮風を浴び、完全にさびついてしまっている重い扉を開けると、中から鉄や油、土の匂いが混じったような独特な匂いがあふれてきた。内部を駆け巡る冷たい自然の冷気に少し寒さを感じながら、僕は階段へと足を踏み出す。ここは全国でも珍しい「登れる灯台」である。小さい頃当たり前に登っていた僕は、後から登れる灯台はとても少ないという事を知ってとても驚いた記憶がある。革靴の音を内部中に響かせながら、僕は一歩一歩上っていく。延々と続く螺旋階段に次第に足が疲れ始め、息が徐々に乱れてきた。
「昔は元気に駆け上ってたのにな」
両膝に手をつき、肩で息をしながら僕は苦笑いを浮かべる。子どもの頃一瞬に感じたこの階段も、大人になるとまるで永遠に続くように感じる。何度も立ち止まりながら、僕はようやく出口へと辿り着く。無機質な灰色の色の無い世界から、何色もの明るい色で彩られた眩しい世界がそこに広がっていた。どこまでも続く水平線と綺麗な青空が境界線を失い、青色の世界を創り出す。見渡す限りの青を横目に、僕はゆっくりとメリーゴーランドのように右手で灯台に触れながら歩みを進めた。そして歩き始めて半周、丁度青一色の世界から真反対の木々で生い茂った緑の世界に差し掛かる頃、冷たさを感じる右手の指先を僕は見つめた。
「あしたもあさってもずっとずっと、ますみとドッジボールできますように」
まるで針金のようなゆがんだ文字が連なった拙い文章の落書きが、どこか幼さを感じさせる。黒いマジックで書かれた秘密の落書きは、月日が経っても色褪せることなく少年が生きた証をそこに刻んでいた。
初めてこの灯台に登ったとき、僕はこっそりと灯台の裏側に落書きをした。思いつくままに書いたその文章を誰にも言わず、バレないように小さく刻んだ。真澄がいなくなった後に何度も登っては、その落書きをぐちゃぐちゃにして真っ黒に塗り潰そうとして、結局僕は使わないマジックペンと一緒に灯台を後にする日々を何度か送った。僕は灯台に行かなくなった。
僕はその場に立ち尽くした。どれだけ立ち尽くしたのだろう。そして、僕は気付いた。
僕の頬に一滴の涙が流れ、やがて音を立てて足元に落ちた瞬間、僕は膝から崩れ落ち、声をあげて泣いた。スーツのジャケットに汚れがついても、僕は構わず子どものように泣き続けた。何年経っても変わらない僕の小さな落書きには、一つだけ変わっていたことがあった。そこにはとても綺麗なしっかりとした字で、短く書かれていた。
「またしようね」
真澄は大人になって、地元へと帰ってきた。それは子どもの頃からずっと変わらずこの地で過ごしてきた僕の耳にも届いた。驚きの気持ちと嬉しい気持ち、その反面あの日真澄に対してたくさんひどいことを言ってしまった申し訳ないという気持ち、様々な感情が入り乱れて僕は戸惑った。丁度その頃、仕事が繁忙期にさしかかり、来る日も来る日も遅くまで仕事をこなす日々が続き、時には出張で遠くまで車を走らせる事もあった。忙しい日々が過き去り、僕は真っ先に真澄に会いたいという気持ちに駆られ、気付けば彼女の事を探した。大人になった真澄は、あの頃のように僕を受け入れてくれるのだろうか。いつものように、あの人懐っこい笑顔を僕に向けてくれるのだろうか。はやる気持ちたけが、僕の足を動かす原動力となった。
真澄は亡くなっていた。
地元を出た真澄は、結婚して家庭を持ち幸せな日々を送っていたが、突然体調を崩して病気と戦う日々を送っていた。やがて医師からの申告を受け、自分が長く生きられないということを悟った真澄は、家族と一緒に再びこの街へと帰ってきた。それは彼女がどうしても叶えたかった夢の一つだった。たくさんの思い出が詰まったこの町を最後の力で自らの足で歩いた彼女は、幸せな気持ちに包まれて、静かに息を引き取った。
「あれ、おじさんまた会ったね」
「やあ、この前の少年じゃないか」
夏も終わりに近づく頃、セミの鳴き声が夕焼け空に響く中、額から汗が一滴伝い落ちる。目を閉じ、静かに両手を合わせてお墓の前に佇んでいた僕に、少年は背後から元気良く声をかけた。真っ黒に日焼けした少年の口からこぼれる白い歯は、抜けていた下の前歯がすっかり生えきっていた。
「おじさんに買ってもらったボールで今日もみんなと遊んできたよ。ほら、見て」
手に持っていたゴムボールを弾ませて無邪気に笑うその人懐っこい笑顔は、どこか懐かしさを感じた。
「そっか、おじさんのあげたボールを使ってくれてありがとう」
「うん、毎日使ってる!…おじさんは何でここにいるの?」
真っすぐ見つめる大きな瞳に、僕は精一杯の笑顔で、ゆっくりと言葉を紡いた。
「おじさんはこのお墓で眠っている人…ううん、君のお母さんとお喋りしに来たんだよ。おじさんは昔友達だったんだ」
「知ってるよ。おじさんの名前、健っていうんでしょ。お母さんがよく楽しそうに話してたもん」
「そっか。君には何もかもお見通しだね」
苦笑いを浮かべながら、ふと思い出した僕は地面に置いた革のカバンの中から取り出した。
「あ、そのボール!持っててくれたの?」
「もちろん、君からもらったおじさんにとっての宝物だからね」
あの日、少年にボールを買ってあげた僕に対して、少年はお礼にと使い古した空気の抜けきったゴムボールをプレゼントしてくれた。不格好ながら、少年に大切に扱われ続けたゴムボールはとても喜んでいるように見えた。僕は少ししぼんだゴムボールを見つめて、小さくマジックで書かれている「真澄」という文字を見つめ、微笑んだ。
「今日は何をして遊んだんだい?」
少年は胸いっぱいに息を吸って、元気な声で僕に叫んだ。
「ドッジボール!!」
ふと背中を押す強い風に、僕は思わず振り向いた。オレンジ色に照らされた墓石に止まった鮮やかなアゲハ蝶が、ゆっくりと羽をはばたかせ、光を放ちながら何度も僕達の周りを飛び回り、やがて天へと昇っていった。
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