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23・交換に行ったので、 -前-

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 どこまでも続く緑の牧草地を前にわたしは空を見上げる。
 抜けるような青さの空の片端だけが僅かに色を違え、ピンクから黄色緑へと移ろっていく。
「どうしました? 珊瑚様…… 」
 馬の首を並べてゆっくりと歩かせながらキューヴが訊いてくる。
「ん? あの空の下が聖域なのかなぁって…… 」
「ああ、そうですね。
 正確にはもうここが聖域の端なんですけど」
 そういえば以前殿下が、あの空の色は聖域の中に入らないと見えないとかって言っていた。
「でも、無闇に入ろうなんて思わないで下さいね。
 あそこにはロク鳥が居ますから」
 釘をさすようにキューヴが言った。
「大丈夫。
 闇雲なことなんてしないから」
 わたしは笑顔をキューヴに向けた。
「それにしても、乗馬上達されましたね。
 この道を下ってきた時には殿下の馬に一緒に乗せられていてもしがみつくようになさっていたのに」
「だって、初めてだったんだもん。
 生の馬を見るのも乗るのも…… 」
 そうか、この道一度見たことがあると思ったら、ここへ来て初めて砦に向かったあの道なんだ…… 
 あの時伝わってきた、殿下の胸のぬくもりが蘇って胸が締め付けられた。
「もう、ここまででいいよ」
 馬の手綱を引いて足を止めさせると、わたしは言う。
「交換場所には一人でって約束だから、キューヴの姿が見えるとヤバイでしょ」
「しかし…… 」
「お願い、一人で行かせて。
 その代わり、殿下のことお願いね」
 つられてキューヴの馬が足を止めたのを確認してわたしは自分の乗る青毛の馬に拍車を掛けた。
 
 
 暫く馬を走らせると、ふいに道の端から男が飛び出してきてゆく手を塞ぐ。
「危ないじゃない! 」
 慌てて手綱を引いて馬を止めると、気が立っていたことも手伝って、わたしは男を怒鳴りつけた。
 
 正直、乗馬はまだまだ初心者なんだからね。
 突然前に飛び出されて踏みつけるようなことになっても責任なんてとれない。
 
「お前が魔女か? 
 まさか、本当に一人で来るとはな」
 馬上のわたしの顔を見上げながらみたことのない男は呟く。
「そういう約束だったでしょ? 
 こっちはちゃんとそっちの指示を守ったんだから、殿下を返して。
 殿下はどこ? 」
「馬を下りてもらおうか? 」
 わたしの問いに答えず男は言う。
 まぁ、無理もない話で、このままだとわたし逃げる可能性があるんだよね。
 相手は端からわたしのことなんか信用しているわけないし。
 
 仕方なくわたしは男の言うことに従って、馬の背を滑り降りる。
 
「あんたの殿下なら、そこだよ」
 男は側にあった粗末な小屋を振り返り視線を送る。
 わたしは反射的に駆け出していた。
 
 小屋の戸を開けると窓のない暗くて狭い空間がある。
 むきだしの土を固めただけの床に、二つの人影が転がっていた。
 瞼を落とし暫くして目を開けると、手前に転がっているのは何時も殿下の護衛についていた若い男だって分かる。
 そして奥の方の人影は…… 
「殿下! 」
 思わずわたしはその人影に駆け寄る。
 小屋の中には妙な匂いが充満していた。
 だけど、そんなの気にしている暇はない。
 わたしは力なく横たわる殿下の脇に腰を落とすとその上体を抱き上げる。
 
 良かった…… 
 息はある。
 
 顔を近付けそれだけ確認して息を吐く。
 
「心配しなくてもいい、殺しちゃいないよ」
 わたしをここへ案内してきた男が、戸口に背を預けたまま言う。
「もっとも、あの魔女の薬のせいで、前後不覚になるほど眠っているけどな。
 なぁに、夕方までには目を覚ますさ。
 あの魔女の薬は正確だからな…… 」
「あの、魔女って? 」
 わたしは殿下の頭部を抱きかかえたまま、男を睨みつけて訊いた。
「あんたが知らねぇ訳、あるまい」
 男は気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「もしかして、国王陛下の魔女のこと? 」
「あのお方の口添えがなければ絶対に手に入らない貴重な薬を、たっぷり使ってやったんだ。
 感謝して欲し…… 」
 
 なんだろう? 
 視界が揺らぐ。
 男の言葉の、最後の方が耳には入って来るんだけど理解できない…… 
 
 そんなことを思っているうちにわたしの意識は途絶えてしまった。
 
 
 気がつくと、わたしは一人で転がされていた。
 どういう扱いをされたのか、軽く痛む身体を起こして周囲を見回すと、さっき殿下が転がされていた粗末な小屋とは全く違う。
 壁には石が積み上げられ、床板は木でできていることから、砦ほどではないにしてもそこそこの建物だって分かる。
 やっぱり小さな窓からは、オレンジ色の夕日が差し込んでいた。
 
 つまりは夕方まで意識がなかったということで…… 
 
 意識がなくなる直前の男との会話が思い出された。
 多分あの小屋の中に充満していた妙な匂い。
 あれが男の言う魔女の薬だったんだろう。
 そしてまんまとわたしも引っかかった。
 
「目が覚めたようね…… 」
 座ったままぼんやりと周囲を見渡していると、どこかで聞いたことのある女の声がする。
 顔を上げると、そこに多分カイヤ夫人の顔があった。
 多分というのは、確信が持てなかったから。
 砦に来た時も装いは地味ながら華やかさが滲み出て教師という印象からは外れていたけど、なんと言うか今の夫人は着ているものも表情もまるで違う。
 デコルテの非常に開いた緋色の派手な装飾のドレスに、前髪以外を降ろしたままにして肩の辺りで波打つ赤み掛かった栗色の髪。
 この方がこの人に似合っていると言うべきなんだろうけど。とにかくイメージが百八十度はひっくり返っている。
 その隣にはさっきの男ともう一人、何時も殿下の護衛についている何人かの中の一人。
 
 予測というか、見当と言うか。
 見事に当たっちゃった。
 
 絶対砦とか殿下の周囲に相手は居るって思ってた。
 まさかわたしの家庭教師とか護衛までなんて。
 
 護衛が仲間の一人なんじゃ、お付きの人数が少ない時を狙えば、さすがの殿下だって手に負えないこともあるよね。
 それまで信頼していた人から手渡された食事とか、疑うことなく口に入れちゃうもん。
 
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