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◆◇◆ ◆5◆ ◆◇◆
背後でドアが叩かれる。
「リーゼロッテ皇女様のご用意はお済でしょうか? 」
若いメイドが顔を出すと訊いてくる。
「あ、はい! 」
返事をするとまだ渋い顔をしている乳母の前を通り過ぎ、リーゼロッテは鏡に映した自分の姿を確認する。
「ね? ミス・スワンおかしくない? 」
ボリュームのない栗色のワンピースドレスの上から白いエプロンを締め、髪を二つに分け両側で編んで垂らした姿はこの国の一般的な少女の装いだと言われた。
「よもや皇帝の姫君がこんな格好をするなんて世も末ですよ」
乳母が不満そうな声を漏らす。
「仕方がないでしょ。
いつものなんか着てたら目立ってどうしようもないもの。
ニオベだってわかっているじゃない」
先日断れない招待に応じて神殿を訪問した時だ。
別段先触れなどしていなかったのに、物々しい異国の衣裳を纏ったリーゼロッテ一行の姿を目にした人々が集まり、最終的に動くこともままならないような騒ぎになってしまった。
それでもあの晩の約束をヴェルナーは反故にしようとはしなかった。
その代わりに出された条件がこれだ。
警備を引き連れたいかにもいい家の令嬢とひと目でわかる装いでは無理だからと、この質素な衣類が届けられた。
質素とは言ってもそれは色合いとデザインの話で、布地も仕立ても一流でしかもサイズまでぴったりとリーゼロッテに合っていた。
きっとわざわざこのためにヴェルナーが作らせたものだろう。
その心遣いがとても嬉しい。
どきどきしながらはじめて手に取る変わった衣服に袖を通した。
「リーゼロッテ皇女様、ヴェルナー殿下がエントランスでお待ちです」
振り返って背中を何とか鏡に映して確認していると、促すように更にメイドが言う。
「い、今行きます! 」
声を張り上げるとリーゼロッテは部屋を飛び出した。
ステアケースまで来ると、吹き抜けになった大きな空間の下を覗きこむ。
ホールの中央で誰かと話をしていたヴェルナーがリーゼロッテの足音を聞き取ったかのように顔を上げ、笑いかけてくれた。
「ごめんなさい、お待たせして」
一気に階段を駆け下りると、飛び込むようにヴェルナーの側まで走り寄る。
「じゃ、そういうことで。
済まないが頼んだぞ」
「かしこまりました。殿下」
指示されたとたんに男が動き出す。
身なりこそ違っているがいつもヴェルナーの側について警護を任されている男だ。
その男からリーゼロッテに視線を移すとヴェルナーは笑いかけた。
「やっぱり、君が着ると少し違和感があるかな? 」
「変? 」
その言葉にリーゼロッテは瞳を揺らす。
「いや、そうじゃなくて。
きっと見慣れていないから…… 」
ヴェルナーは困ったように首を傾げる。
「殿下! 忘れ物でしてよ」
男の言葉をかき消すように別の声が突然飛び込んできた。
その場にいた人々が一斉に視線を向けた先にはアーデルハイドが息を切らして立っていた。
「はい、これ」
アーデルハイドは手にしていた帽子をリーゼロッテに差し出した。
「わたし、に? 」
首を傾げるリーゼロッテにアーデルハイドが頷いた。
「年頃のお嬢さんが帽子も被らずに外出するなんて、ありえないから。
それに日に焼けてしまってよ」
ドレスと同じ色のリボンのついた帽子をそっと頭に載せてくれる。
「ありがとう。
あのね、アーデルハイド様も一緒に行かない? 」
なんとなく気が引けて、リーゼロッテは言ってみる。
「お気遣いはありがたいけど、子供達の世話もあるし……
お気になさらずに楽しんでいらして」
アーデルハイドはやんわりと微笑むと、リーゼロッテの背中をそっと押した。
「じゃ、暫くの間、旦那様をお借りします」
もう一度断りをいれて歩き出す。
「あの、殿下。
どうしてもわたくしはお連れいただけませんか」
ドアの片隅から遠慮がちに乳母が言う。
「悪いが、遠慮してもらうよ。
姫君が心配なのはわかるけど、警備には抜かりはないから安心して任せておけ。
却ってお前が付いてきたら目立つから」
少し迷惑そうにヴェルナーは乳母に言い聞かせた。
「で? 姫君は何処へ行きたい? 」
巨大な城門の隣に申し訳なさそうに開いた通用門を潜ると、ヴェルナーはリーゼロッテに訊いた。
「何処でも! 」
その顔を見上げてリーゼロッテは答える。
「何処でもって、何か目的があったんじゃないのか?
せっかく乳母を追い払ったのだから、余程の場所でなければ案内できるが」
「目的ならあるわ。
わたしね、神殿とか劇場とか前もってわたしが来ることを知ってそのために整えられたんじゃない場所を見てみたいの!
例えば、市場とか…… 」
リーゼロッテは視線を泳がせる。
行ってみたい、みてみたい場所はたくさんあるけれど、実際にそれをどう言葉にしていいのかわからない。
ごく一般的な人々の住んでいる家は?
どんな風に生活しているのか?
買い物はどうするのか?
旅先ではどんな風に夜を過ごすのか。
皆、本や家庭教師の言葉からの知識しかリーゼロッテは持っていない。
「君の父上は相当君を大切で、外にも出さなかったようだね」
それを察したかのようにヴェルナーが少し呆れた笑みを向けてくる。
「そういうものじゃないの? 」
リーゼロッテは首を傾げる。
「少なくとも後宮はそういうところだったもの。
一度足を踏み入れた者は王妃でも妾妃でも、皆出ることなんてできないわ。
今回のわたしの出国は本当に例外中の例外だって言われたもの」
それが全ての場所だ。
ただ生れ落ちてからこの方、一度も王宮の外に出たことのないリーゼロッテにとってはごく当たり前のことで、そのこと対して何ら疑問をもたずに育ってきた。
「……そういうことなら」
ヴェルナーの顔がふと綻ぶと、不意に手を取られた。
「まずは市場からかな?
一日でまわれるところは全部回るぞ」
宣言すると同時にリーゼロッテの手を引いたままヴェルナーはゆっくりと走り出した。
そう広くはない幅の真直ぐな通りにはそれに面して幾つもの店が両側に並んでいた。
店先には様々な商品がうずたかく積まれとりどりの色が溢れる。
道にはたくさんの人々が行き交い、各々が気の向くままに立ちどまり店先に並んだ商品を覗き込み、店の主と会話を変わす。
その足音と会話だけでも結構な賑わいだ。
「まずはご要望のマーケット」
その傍らに立ちヴェルナーが言う。
「街の人間はここで大概のものを入手している。
野菜や果物、肉や香辛料といった食べ物から布地や靴、ちょっとした家具まで扱っているから、足りないものはない筈だ」
「よう、殿下!
最近顔を見なかったじゃないか。
忙しかったのかい? 」
人込みにまぎれ各々の店先に並ぶ品に目を留めながら歩いていると、色とりどりの香辛料を広げた店先に立つ男が気軽に声をかけてきた。
刺激の強いさわやかな香りが店先いっぱいに漂っている。
国でも一番の交易品だ。
「ああ、山向こうまで行って来たからな。
ホシミ通りの、例のばあさんの孫引き取ってきた」
「そうかい、そりゃ良かった。
それでそっちの嬢ちゃんは?
まさか、今度は年頃の娘まで引き取って花嫁教育をはじめたとかいわねぇだろうな? 」
冗談めかして男は豪快な笑い声をあげる。
「大方新参のメイドか何かか。
今日は殿下のお供かい?
この殿下の世話は大変だが、せいぜい頑張りな!
ん? でも嬢ちゃん、どっかでみたような…… 」
男は無遠慮にヴェルナーの隣に立つリーゼロッテの顔を覗き込んでくる。
「では、オヤジ。
また酒場で…… 」
ヴェルナーはリーゼロッテを男の視界から隠すように一歩前に出ると慌ててその手を引いて歩き出した。
人込みにまぎれてしまうとヴェルナーが息をついたことにリーゼロッテは気が付いた。
果物を広げた店、染料の店、真っ白な白い塊が山に積んである店もある。
それぞれに客が立ち止まり、品定めをしたり店主との交流をしている。
店に並んだ品物も、店主と交渉する人々の姿も、何処もかしこも何もかもが物珍しくてリーゼロッテは目を見開いた。
「そこの嬢ちゃん、見ていかないか?
異国渡りの金細工だよ! 」
「わたし? 」
「そう、そこの別嬪さん」
声を掛けられ、反射的に往来を突っ切ろうとしたところ、突然腕を掴んで引き寄せられた。
背後でドアが叩かれる。
「リーゼロッテ皇女様のご用意はお済でしょうか? 」
若いメイドが顔を出すと訊いてくる。
「あ、はい! 」
返事をするとまだ渋い顔をしている乳母の前を通り過ぎ、リーゼロッテは鏡に映した自分の姿を確認する。
「ね? ミス・スワンおかしくない? 」
ボリュームのない栗色のワンピースドレスの上から白いエプロンを締め、髪を二つに分け両側で編んで垂らした姿はこの国の一般的な少女の装いだと言われた。
「よもや皇帝の姫君がこんな格好をするなんて世も末ですよ」
乳母が不満そうな声を漏らす。
「仕方がないでしょ。
いつものなんか着てたら目立ってどうしようもないもの。
ニオベだってわかっているじゃない」
先日断れない招待に応じて神殿を訪問した時だ。
別段先触れなどしていなかったのに、物々しい異国の衣裳を纏ったリーゼロッテ一行の姿を目にした人々が集まり、最終的に動くこともままならないような騒ぎになってしまった。
それでもあの晩の約束をヴェルナーは反故にしようとはしなかった。
その代わりに出された条件がこれだ。
警備を引き連れたいかにもいい家の令嬢とひと目でわかる装いでは無理だからと、この質素な衣類が届けられた。
質素とは言ってもそれは色合いとデザインの話で、布地も仕立ても一流でしかもサイズまでぴったりとリーゼロッテに合っていた。
きっとわざわざこのためにヴェルナーが作らせたものだろう。
その心遣いがとても嬉しい。
どきどきしながらはじめて手に取る変わった衣服に袖を通した。
「リーゼロッテ皇女様、ヴェルナー殿下がエントランスでお待ちです」
振り返って背中を何とか鏡に映して確認していると、促すように更にメイドが言う。
「い、今行きます! 」
声を張り上げるとリーゼロッテは部屋を飛び出した。
ステアケースまで来ると、吹き抜けになった大きな空間の下を覗きこむ。
ホールの中央で誰かと話をしていたヴェルナーがリーゼロッテの足音を聞き取ったかのように顔を上げ、笑いかけてくれた。
「ごめんなさい、お待たせして」
一気に階段を駆け下りると、飛び込むようにヴェルナーの側まで走り寄る。
「じゃ、そういうことで。
済まないが頼んだぞ」
「かしこまりました。殿下」
指示されたとたんに男が動き出す。
身なりこそ違っているがいつもヴェルナーの側について警護を任されている男だ。
その男からリーゼロッテに視線を移すとヴェルナーは笑いかけた。
「やっぱり、君が着ると少し違和感があるかな? 」
「変? 」
その言葉にリーゼロッテは瞳を揺らす。
「いや、そうじゃなくて。
きっと見慣れていないから…… 」
ヴェルナーは困ったように首を傾げる。
「殿下! 忘れ物でしてよ」
男の言葉をかき消すように別の声が突然飛び込んできた。
その場にいた人々が一斉に視線を向けた先にはアーデルハイドが息を切らして立っていた。
「はい、これ」
アーデルハイドは手にしていた帽子をリーゼロッテに差し出した。
「わたし、に? 」
首を傾げるリーゼロッテにアーデルハイドが頷いた。
「年頃のお嬢さんが帽子も被らずに外出するなんて、ありえないから。
それに日に焼けてしまってよ」
ドレスと同じ色のリボンのついた帽子をそっと頭に載せてくれる。
「ありがとう。
あのね、アーデルハイド様も一緒に行かない? 」
なんとなく気が引けて、リーゼロッテは言ってみる。
「お気遣いはありがたいけど、子供達の世話もあるし……
お気になさらずに楽しんでいらして」
アーデルハイドはやんわりと微笑むと、リーゼロッテの背中をそっと押した。
「じゃ、暫くの間、旦那様をお借りします」
もう一度断りをいれて歩き出す。
「あの、殿下。
どうしてもわたくしはお連れいただけませんか」
ドアの片隅から遠慮がちに乳母が言う。
「悪いが、遠慮してもらうよ。
姫君が心配なのはわかるけど、警備には抜かりはないから安心して任せておけ。
却ってお前が付いてきたら目立つから」
少し迷惑そうにヴェルナーは乳母に言い聞かせた。
「で? 姫君は何処へ行きたい? 」
巨大な城門の隣に申し訳なさそうに開いた通用門を潜ると、ヴェルナーはリーゼロッテに訊いた。
「何処でも! 」
その顔を見上げてリーゼロッテは答える。
「何処でもって、何か目的があったんじゃないのか?
せっかく乳母を追い払ったのだから、余程の場所でなければ案内できるが」
「目的ならあるわ。
わたしね、神殿とか劇場とか前もってわたしが来ることを知ってそのために整えられたんじゃない場所を見てみたいの!
例えば、市場とか…… 」
リーゼロッテは視線を泳がせる。
行ってみたい、みてみたい場所はたくさんあるけれど、実際にそれをどう言葉にしていいのかわからない。
ごく一般的な人々の住んでいる家は?
どんな風に生活しているのか?
買い物はどうするのか?
旅先ではどんな風に夜を過ごすのか。
皆、本や家庭教師の言葉からの知識しかリーゼロッテは持っていない。
「君の父上は相当君を大切で、外にも出さなかったようだね」
それを察したかのようにヴェルナーが少し呆れた笑みを向けてくる。
「そういうものじゃないの? 」
リーゼロッテは首を傾げる。
「少なくとも後宮はそういうところだったもの。
一度足を踏み入れた者は王妃でも妾妃でも、皆出ることなんてできないわ。
今回のわたしの出国は本当に例外中の例外だって言われたもの」
それが全ての場所だ。
ただ生れ落ちてからこの方、一度も王宮の外に出たことのないリーゼロッテにとってはごく当たり前のことで、そのこと対して何ら疑問をもたずに育ってきた。
「……そういうことなら」
ヴェルナーの顔がふと綻ぶと、不意に手を取られた。
「まずは市場からかな?
一日でまわれるところは全部回るぞ」
宣言すると同時にリーゼロッテの手を引いたままヴェルナーはゆっくりと走り出した。
そう広くはない幅の真直ぐな通りにはそれに面して幾つもの店が両側に並んでいた。
店先には様々な商品がうずたかく積まれとりどりの色が溢れる。
道にはたくさんの人々が行き交い、各々が気の向くままに立ちどまり店先に並んだ商品を覗き込み、店の主と会話を変わす。
その足音と会話だけでも結構な賑わいだ。
「まずはご要望のマーケット」
その傍らに立ちヴェルナーが言う。
「街の人間はここで大概のものを入手している。
野菜や果物、肉や香辛料といった食べ物から布地や靴、ちょっとした家具まで扱っているから、足りないものはない筈だ」
「よう、殿下!
最近顔を見なかったじゃないか。
忙しかったのかい? 」
人込みにまぎれ各々の店先に並ぶ品に目を留めながら歩いていると、色とりどりの香辛料を広げた店先に立つ男が気軽に声をかけてきた。
刺激の強いさわやかな香りが店先いっぱいに漂っている。
国でも一番の交易品だ。
「ああ、山向こうまで行って来たからな。
ホシミ通りの、例のばあさんの孫引き取ってきた」
「そうかい、そりゃ良かった。
それでそっちの嬢ちゃんは?
まさか、今度は年頃の娘まで引き取って花嫁教育をはじめたとかいわねぇだろうな? 」
冗談めかして男は豪快な笑い声をあげる。
「大方新参のメイドか何かか。
今日は殿下のお供かい?
この殿下の世話は大変だが、せいぜい頑張りな!
ん? でも嬢ちゃん、どっかでみたような…… 」
男は無遠慮にヴェルナーの隣に立つリーゼロッテの顔を覗き込んでくる。
「では、オヤジ。
また酒場で…… 」
ヴェルナーはリーゼロッテを男の視界から隠すように一歩前に出ると慌ててその手を引いて歩き出した。
人込みにまぎれてしまうとヴェルナーが息をついたことにリーゼロッテは気が付いた。
果物を広げた店、染料の店、真っ白な白い塊が山に積んである店もある。
それぞれに客が立ち止まり、品定めをしたり店主との交流をしている。
店に並んだ品物も、店主と交渉する人々の姿も、何処もかしこも何もかもが物珍しくてリーゼロッテは目を見開いた。
「そこの嬢ちゃん、見ていかないか?
異国渡りの金細工だよ! 」
「わたし? 」
「そう、そこの別嬪さん」
声を掛けられ、反射的に往来を突っ切ろうとしたところ、突然腕を掴んで引き寄せられた。
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