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大きな桜の木のある町で~後編~
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***
織斗の毎日は、それまでの昼夜逆転の不健康な生活から一変していた。
吉野に頼まれた通りに律儀に染井動物病院に通っているからだ。
“手伝いに来て”と言っていた割には何か仕事頼まれたりするようなことはない。
動物達と遊んだり、吉野と他愛ない話をしたり、時には一緒に食事をしたりするだけだ。コンビニ弁当や惣菜を買いに行くのは織斗の役目なので、手伝いらしいことと言えばそのくらいだろうか。
(“ついでにシュークリームも”って・・・食い物まで子供だな)
コンビニの袋を覗いてそっと溜息をもらす。
今日はこのコンビニに行くと伝えたら、“それならおやつも”とリクエストされたのだ。
何でも吉野はこのコンビニのシュークリームがお気に入りらしい。
(・・・ん?)
染井動物病院に着くと、軒先で吉野が子供たちに囲まれていた。
彼らは近所の幼稚園生~小学生で、たまに遊びにやって来るため織斗も何度か顔を合わせたことがある。
輪の中心にいる吉野は、白熊のような子犬を抱いているようだ。どうやら子供達の中でも一番利発そうな眼鏡の少年が連れてきたらしい。
「ピレニーズはね~、大人になったらすっごくすっごく大きくなるんだよ~」
「すっごくってどのくらい?」
吉野が子犬を高い高いしながら言うと、子供達は目を輝かせて尋ねる。吉野は満面の笑みを浮かべ、そうかと思えば不意に目が合った織斗を指差した。
「なんと2メートル! あのお兄ちゃんくらいだよ~」
吉野があはは、と笑うと子供達の視線が一斉にこちらへと注がれる。
「・・・・2メートルも、ない」
ぼそりと呟く織斗。
だが、子供達の好奇心は完全に織斗に向けられてしまったようで・・・
「すっげー、にーちゃんでっけー!」
「どうやったらそんなに大きくなれるの? なに食べたら大きくなる?」
「子供の時から背高かったの?」
「牛乳いっぱい飲んだの?」
「うちのパパよりおっきいね!」
駆け寄って来てうろちょろと織斗の周りを取り囲む。
「ねーねー、肩車して」
どの子から返事をすれば良いのか戸惑っていると、ツインテールの一番小さな女の子が両手を延ばしてきた。
(肩車ってどうやれば・・・)
ますます戸惑う。
取りあえずしゃがみ込んで女の子を抱きかかえてやると、慣れているのか自分から肩に乗った。
「たかーい!!」
織斗が立ち上がると、女の子がキャーと感激の声を上げる。周りの子供達も“僕も私も”とこぞって手を伸ばした。
そんな様子をウズウズしながら見ていたのは吉野だ。
「僕もー!」
無邪気に言い、両手を広げて駆け寄ってくる。
「・・・お前は無理だ」
「えぇ~」
織斗が眉を顰めて吉野を制止すると、思い切り不満そうな声を出した。
「織斗のけちー」
頬を膨らませて織斗の腰に抱きつく。
「おりとのけちー」
「けちー」
子供達をそれを真似、織斗の背中や脚などに各々しがみつき始めた。
「離せ。危ないから」
困惑する織斗をよそに、吉野も子供達も、肩の上の少女まで声を上げて笑っていた。
明くる日、
(重い・・・)
不意に胸の上の重みにうなされ、目が覚める。いつものように動物達と寛ぎながら遊んでいたはずなのだが、どうやら寛ぎ過ぎていつの間にか眠りこけてしまっていたらしい。
「モモコ・・・近い」
瞼を開いたのと同時に目が合った眼光の鋭いモモコ(イグアナの名だ)をやんわりと押しのける。モモコは織斗の胸に乗り上げ、舐めるように織斗の顔を眺めていた。いや、実際に舐められた。
(こいつら絶好の暖房器具だな)
ゆっくりと体を起こし、改めて自分が眠っていた環境を見やる。
猫達は脇に顔を埋めるようにして丸まり、それに縦列して左右それぞれにゴールデンレトリバーのゴン太と雑種犬のココが織斗の体にピッタリと横付けて眠っている。
(あ、そういやチビは?)
モモコがどいてくれたおかげで腹の上で眠っていたはずのちーちゃんがいないことに気付いた。
ちーちゃんは、織斗のパーカーの両側から手を入れるタイプの大きなポケットがお気に入りらしく、遊んでいるとすぐに潜り込んできてそのまま眠ってしまうのだ。
(あ、いた)
キョロキョロと部屋を見渡すとほどなく、庭に出る引き戸の前でニィニィと鳴いているちーちゃんを見つけた。
外に出たいのか、仕切りに戸を爪で引っかいている。
「チビ、じゃない。ちーちゃん、どうしたんだ?」
ついつい前の呼び名で呼んでしまってから、ちーちゃんに歩み寄る。ちーちゃんは耳を羽ばたかせるように動かした後で織斗を見上げ、またニィと鳴いた。
「外に何かあるのか?」
ちーちゃんを抱き上げ、庭を伺う。そこには吉野と、グレートピレニーズの子犬を連れた眼鏡の少年がいた。しかも、何やら二人してスケッチブックに向かっているようだ。
(あの犬、名前何て言ったっけ・・・ケンシロー?違うな。なんかバッファローみたいな・・・)
ぼんやりと眺めながら思案する。そうしていると、子犬の方が織斗に気づいた。忙しなく尻尾を振って、キャンキャン鳴きながらこちらへ駆け寄ってくる。
「あ、うごいちゃダメだよ~」
吉野が眉を八の時にして立ち上がる。眼鏡の少年も困り顔で子犬を呼んだ。
「戻ってきてよ~、マッケンロー」
(それだ、マッケンロー)
謎が解けて、心の中でなるほど、と手を打つ。そしてチビを肩に乗せて引き戸を開けた。
「何してるんだ?」
尻尾を振って駆け寄って来たマッケンローを撫でながら、吉野に尋ねる。子犬に続いて駆け寄って来た吉野と眼鏡の少年は互いのスケッチブックを示した。
「はると君の宿題だよ」
「マッケンローの絵を描くの」
眼鏡の少年は“はると君”という名前らしいことを織斗は今知った。しかし、白い子犬を描いたという二人の絵は、何とも言い難い仕上がりのようで・・・
(わたあめ)
はると君のこじんまりとした絵を見て抱いた感想はこれだ。大きなスケッチブックの端の方に、申し訳程度の大きさで書かれている。
けれどそれよりもひどいのは吉野の絵。
(ホラー?)
はると君とは対照的にスケッチブックいっぱいに描かれているのは良いのだが、子犬の可愛らしさとは程遠い、何処となく薄気味悪い代物だ。特に歯が怖い。
「あー、今へたくそだって思ったでしょ~」
吉野がぷっくりと頬を膨らませ、はると君はしょんぼりと肩を落とした。
「いや別に・・・」
「はい!」
取りあえず否定しようと試みるが、吉野がスケッチブックを押し付けてくる方が早かった。
「そんなに言うなら織斗も描いてみて! お絵描き教室のお孫さんなんだから得意でしょ~? 」
半ば無理矢理に鉛筆を握らせる。
(“そんなに言うなら”って、何も言ってないのに・・・)
腑に落ちない織斗だった。肩の上のちーちゃんもニィ、と一鳴きした。
(まぁ、ちょっとくらいならいいか)
期待に満ちた瞳でこちらを見ているはると君の視線に負けて、そっと溜息を洩らす。そして縁側に腰かけている織斗の足にしきりに乗り上げようとしているマッケンローを見つめた。
集中してその姿を脳裏に焼き付け、あとは素早く鉛筆を走らせる。
「わ~、上手~」
織斗の隣に座り、腕にしがみつくようにして手元を覗き込んだ吉野が言った。
「す、すごい・・」
はると君も頬を高揚させて織斗の描いたマッケンローを見つめる。それから、自分の絵とを見比べて眉を八の字にした。
「・・・どうやったら、そんな風に描ける?」
切実な様子で問いかける。
あまりに真っ直ぐに見つめられるため、織斗は少し落ち着かない気持ちになった。
「取りあえず、それもうちょっと大きく描けよ。そしたら、どこをどう直せば良くなるか教えてやるから」
はると君のスケッチブックを指差して、ポツリポツリと言う。
はると君は陽の差したような笑顔に変わり、織斗の隣に座って次のページに絵を描き始めた。ご主人様の真剣な様子に、マッケンローは舌を出して首を傾げている。
「ねぇねぇ、これ僕が貰ってもいい~?」
未だ織斗の腕にしがみついたままでいた吉野が、織斗の絵を指差す。
「欲しいか? こんなの」
落書き程度のものなのに、と意外に感じたが、吉野は嬉しそうに頷いた。
「お部屋に飾るんだもん」
そう言ってスケッチブックを奪い取った吉野は、鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌だ。
(ホント変な奴・・・)
織斗は呆れて溜息を洩らす。だが、
「あ、織斗今笑った!」
吉野に指を差されて、自分の頬が緩んでいたことに気付いた。
「笑った顔初めて見たよ~!ねぇねぇ、もう一回笑って!」
大はしゃぎの吉野が織斗の腕を引く。
「・・・・・嫌だ」
織斗は顔を引き締めて、はると君の方に向き直った。
***
帰宅後、織斗は祖母が昔営んでいた絵画教室にいた。
土間を増築して作られたスペースのため同じ家屋内にはあるのだが、帰省してからここを訪れることはなかった。
自宅用の玄関は別にあるためそこから出入りすれば事足りるからなのだが、実際はそんな単純な問題ではなく、意図的に避けていたのだ。絵画教室を、ではない。そこにある画材道具たちを見ることを、だ。
(当時のままなんだな・・・)
見回し、無造作に立てかけてあるキャンバスや棚にある筆などに何となしに触れてみる。
初めのうちこそ脈が速くなっていたが、慣れ親しんだ油絵の具の匂いに、徐々に緊張が解れていくのが分かった。
真っ白なキャンバスを一つ見つけると、織斗はふっと笑った。
それから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。食事を取ることも忘れていた。
眠ることもしないうちに空が明るくなって、そしてまた暗くなっていたが、それにすら気付かなかった。
織斗の集中を途切れさせたのは、一本の電話だ。
祖母の家の電話機がけたたましく鳴った。それが鳴ることを、織斗はこの家に来てからずっと恐れていた。
電話の相手は分かっている。そして、その内容も。
「もしもし・・・」
目を閉じて、深呼吸してから受話器を取った。
間違い電話なら、と最後の祈りすら届かずに、想像通りの声が響いた。電話の主は抑揚のない事務的な口調で事実を述べる。
なぜこの男がそんなに冷静でいられるのか、織斗には分からない。
「分かっているとは思うが、お前は葬式には・・・」
ようやく声に感情が乗ったかと思えば、声を潜めて念押しをされる。
「承知しています。出るつもりはありません」
男の言葉を遮り、織斗は固い声で言った。
相手の電話が切れるなり、織斗の手からこぼれるようにして受話器が落ちる。
茫然。
未だかつて、この言葉がこれほど当てはまった事はあっただろうか。
まるで地面が形を成さなくなったように、真っ直ぐ立てている気がしない。激しい立ちくらみに襲われるような、そんな感覚だ。
(吉野・・・)
不意に思い浮かんだ顔に、すがりつきたい衝動に駆られた。今吉野に会わなければ自分が消えてなくなってしまうような、そんな気すらしてくる。
ほとんど夢遊病者のような足取りで、織斗は吉野の元へ向かった。
染井動物病院の前に着くと、吉野がちーちゃんを抱いて立っていた。
「あ、織斗。来るのが遅いぞー。もう夜だぞー」
こちらに気付くなり、無邪気な笑みで駆け寄ってくる。
「あんまり遅いからここで待ってたんだぞー」
悪戯めかして言いながら、ちーちゃんの肉球で織斗の頬を叩く真似をする。
だがすぐに、いつもと違う様子を感じ取ったのか真剣な眼差しへと変わった。
「織斗、どうしたの?」
ちーちゃんのではなく吉野の手のひらで織斗の頬に触れる。
「上着も着ないで、風邪引くよ。お部屋の中に入ろう? 」
織斗の顔を覗き込む、優しい笑み。
吉野は何も言わないでいる織斗の手を引き、病院へいざなった。相変わらず患者はおらず、吉野の飼っている動物たちは思い思いの場所でくつろいでいる。二階に上がると、吉野はようやく引っ張っていた手を離してくれた。
「ホットミルク入れてあげるね。ちょっと待ってて」
織斗を座布団に座らせ、そう言ってキッチンに向かおうとする。
その後ろ姿に向けて、織斗は口を開いた。
「ばあちゃんが死んだんだ」
自分でも驚くほど無機質な声だった。
吉野はこちらを振り返り、一歩、また一歩と踏み出して、あとはもう飛びつくようにして織斗に抱きついた。
織斗の頭を抱え込むようにして、力強く抱きしめる。
何も言わないでいてくれることが逆にありがたかった。
「たった一人の家族だった・・・」
ほとんど声にならない声を絞り出す。そして堪えきれずに、涙が溢れた。
吉野はただ黙ったままで、ゆっくりと織斗の背中をさする。
吉野の腕の中はひどく頼りないくせに、とてもとても暖かかった。
織斗は本妻の子供ではなかった。
体の弱かった母親が他界し、仕方なしに父親に引き取られたが、当然ながら義母との折り合いは悪く、いつも苦虫を噛み潰したような顔で見られていた。
父親すら腫れ物に触れるような態度で織斗に接した。
それでも世間体を気にして必要最低限のことはしてくれたが、問題はすぐに起きた。
義母が妊娠によってナイーブになり、織斗に辛く当たり始めたのだ。
口汚く罵られるのは常、打たれるのも、物を投げつけられる事も多かった。時には投げられた皿の破片で怪我をしたこともある。
そこで見かねた父は、織斗を祖母の家に預けた。ひとまず出産までの間、と言って。
祖母は嫌な顔一つせずに織斗の食事を作ってくれた。一緒に遊んでくれた。絵を描くことを教えてくれた。
自分にとっては孫であることに変わりはないのだと、そう言って家族として迎えてくれた。
祖母の家は、織斗にとって母が亡くなってから初めて安らげる場所となっていた。ほんの短い間ではあったのだが。
両親の元へ戻ってからは逃げるように全寮制の学校に入り、溝はますます深まっていった。
親戚で集まるような行事には織斗だけ出席を許されず、更にそれはあくまで織斗が勝手をしている所為だと吹聴された。
両親だけでなく、遠戚にまで“これだから愛人の子は”と蔑まれ、孤立していく一方だった。
けれどその間もずっと祖母だけは味方でいてくれたのだ。
「ばあちゃんにどうしても会いたくて、この町に来たんだ」
吉野の入れてくれたホットミルクを飲みながら、織斗は言った。
「そしたら危篤だって聞いて・・・信じられなかった。見舞いにも行けないし」
病院には義母や父が交代で付いている上、連絡を受けた親戚もやって来る。
父は祖母の状況を伝えた二の句に“くれぐれも病院に顔は見せるな”と続けた。
「貰ってた合鍵があったおかげで家には入れたから、もしもの事があった時にはばあちゃんちの電話にかけてくれるように親父に頼んだ」
祖母がいつでも帰ってきて良いからと渡してくれていた合鍵。家族の証明のような気がして、織斗にとっては何よりの支えだった。
けどもう、いつ帰ってきたとしても祖母はいない。二度とあの笑顔は見られない。
「俺は・・・もう本当に独りになったんだ・・・」
うわ事のように呟く。
ずっと頷いて聞いていた吉野は、織斗の髪をそっと撫でた。小さな子供にするような、とても優しい手つきで。
「独りじゃない。織斗には僕がいるよ」
ハッキリした口調で言い、織斗の顔を自分の方へと向ける。
「僕が織斗の家族になる」
正面から視線が合い、その眼差しの強さに驚いた。
「お前って・・・人間まで拾うんだな」
吉野は捨てられた動物を連れ帰る癖があるのだと思い出し、織斗は苦笑する。苦笑したつもりだったが、何だか泣き笑いのようなおかしな表情になった。
持っていたマグカップを置いて、吉野を抱き寄せる。
まるでそれが当然のことのように口付けをして、体を重ねた。
抱いているのは織斗の方なのに、ずっと吉野が抱き締めてくれているような、そんな感覚だった。
***
吉野の朝は散歩から始まる。
猫たちは好きな時に勝手に出掛けているようだが、犬二匹は散歩に連れて行ってやらなければならない。
ちなみに朝の散歩だけはイグアナのモモコも連れて行く。
「おはよう、みんな」
挨拶がてらに動物たちを撫でてまわり、最後はモモコだ。
モモコは吉野が子供の頃から使っている学習机の上にいた。一見鋭いが実はぼんやりとした目で、じっと壁を眺めている。
「モモコはこの絵が好きだね」
モモコに目線の高さを合わせ、吉野も壁を見上げる。
壁に貼ってあるのは白い子犬の絵だ。織斗の描いた、鉛筆書きの。
「元気かなぁ・・・織斗」
何処か遠い目をして、ぽつりと呟く。慰めのつもりなのか、モモコがペロリと頬を舐めてくれた。
織斗が姿を見せなくなってから、もう3ヶ月ほど経つ。
あの夜が明けた次の日の朝、吉野が目を覚ましたときには織斗の姿はなく、それきりになった。
織斗が寝泊まりしていたはずの絵画教室にも赴いてみたが、いつ見ても明かりがついていることはない。
織斗はこの街からいなくなってしまったらしい。
織斗が宝物にしていた合鍵だけが机の上に置かれていたが、うっかり忘れていってしまったのか、わざと置いていったのかは分からなかった。
「お散歩行こ、モモコ」
申し訳程度にリードをつけて、モモコを抱き上げる。
すでに玄関で待ちかまえていたゴン太とココを伴い、桜の木のある公園を目指した。
公園に着くと、桜の木の前で子供たちが集まっていた。中心には白い子犬---と呼ぶにはもうすっかり大きくなってしまったが---を連れたはると君がいる。子供たちの視線は全てはると君の持っている雑誌に注がれているようだった。
「みんなで何見てるの~?」
面白い漫画でも読んでいるのだろうかと、好奇心に胸を躍らせながら声をかける。
子供たちは一斉にビクリと肩を震わせ、そうかと思えばひどく興奮した様子で吉野に話しかけてきた。あまりにも一斉に話し出されためよく聞こえない。
「お、織斗がこれに載ってる!」
はると君が雑誌を吉野に差し出す。珍しく大きな声を出したせいで、声が裏返っていた。
「織斗・・・?」
思いがけない言葉に、吉野は呆ける。
促されるままに誌面に視線を落とせば、それは有名そうな画家のインタビュー記事だった。
有名そうな画家・・・写真に写っている男は確かに織斗だ。
かっちりとしたスーツを着こなし、髪もきちんとセットして、もちろん無精ひげもない。
背筋を伸ばして精悍な眼差しをカメラに向けているその表情は、吉野たちの知る彼とはまるで別人のように見えた。
「海堂織斗絵画展・・・」
見出しを読み上げ、吉野はまた呆ける。子犬の絵を描いた時の織斗を思い出し、“通りで上手い訳だ”とぼんやり考えた。
「どこが無職の引きこもりだよ、もう・・・」
少しばかり泣きそうになって、それでもなんとか微笑んだ。
《個展開催記念独占インタビュー 秀麗の画家、海堂織斗の素顔に迫る》
インタビュアー(以下、イとする):まず初めに、不躾ではありますが、個展を開くのはかなり久々ですよね?
海堂織斗(以下、海とする):本当に不躾ですね(笑) まぁ確かに、最近はナリを潜めていましたけど。
イ:噂では深刻なスランプに陥っていたとか?
海:はい。正直なところ、キャンバスに向かうと動機がして手が震えるほどでした。病んでたのかもしれませんね。
イ:ですが、それを克服したからこそ今回の個展開催に至ったのだと思いますが、ずばりスランプ脱出のきっかけは?
海:単純なことですよ。ちょっと里帰りをして来たんです。
イ:田舎に帰ってリフレッシュしたわけですね。
海:まぁそんなところです。
散歩の帰りは、家までの100メートルほどの距離になると、モモコも歩きたがる。かなりのスローペースを余儀なくされるが、犬たちも存分に駆け回った後だから満足しているのか、モモコのペースに合わせて歩いてくれる。
ゆっくりと歩いていると、ついついいろんな考えが巡った。大抵は朝ご飯は何を食べようかとか、おやつにシュークリームを食べようとか、そんな事ばかりなのに、最近は織斗のことで頭がいっぱいだ。
はると君がほとんど押しつけるように織斗の載っている雑誌を貸してくれたのは、そんな吉野の気持ちを察したからだろう。
病院の前に着くと、そこには車が一台停まっていた。この街にはあまりそぐわないほどの、あからさまな高級車だ。
車の傍らには長身の男が立っていた。
「・・・ただいま」
少しぎこちなく微笑んで言う。織斗の笑った顔を見るのはこれが二度目だ。
「嘘つき」
吉野は頬を膨らませて言ってのけ、それから織斗に駆け寄った。ジャンプして織斗の首にぶら下がるようにして抱き付く。
「全然ニートじゃないじゃん、無職じゃないじゃん、引きこもりじゃないじゃん」
立て続けに責めると、織斗は苦笑して吉野を抱き上げた。
「嘘じゃない、今は立派な無職でニートだ。まぁ確かに引きこもってはないけど・・・」
ゆっくりとかぶりを振ってから吉野を下ろす。それから織斗は吉野の手にあった雑誌に気付き、少しバツの悪そうな顔をした。
「それ、読んでないのか?」
尋ねられ、吉野は素直に首を振る。まだ途中、初めの方しか読めていない。
織斗は雑誌を受け取ってページをめくり、目的の箇所を吉野に示した。
「“事実上引退”・・・?」
紙面の文字を読み、吉野は目を丸くする。
「今回の個展を最後に、今後制作活動をするつもりはない。つまり画家は廃業。だから無職。嘘じゃないだろ?」
なぜか得意げに織斗は言った。
確かにその通りのことが、文字になって刻まれている。
織斗が画家だったことすらつい先ほど知ったばかりなのに、今度は画家も辞めたのだと聞かされても、困惑するばかりだった。
ようやく追いついてきたゴン太とココは早速織斗の匂いを確かめている。
「久しぶりだな」
織斗はしゃがみ込んで犬たちを撫で、一足遅れでやってきたモモコを慣れた仕草で抱き上げた。
「これからはまた毎日来るからな」
高い高いをしながら、また笑顔を浮かべる。いつも表情の乏しかった織斗とは別人のようだ。
「また毎日・・・?」
モモコにかけられた言葉に吉野は首を傾げる。
織斗はモモコを抱き抱えたままで頷いた。
「ばあちゃんの家に越してくる事にしたんだ。初めは土地ごと俺が買ってやろうと思ってたんだけど・・・そんな事しなくても、ばあちゃんが遺言で俺に渡すって残してくれてた」
穏やかな口調で織斗は話す。吉野はまた少し泣きそうになった。悲しいからではなく、織斗の祖母が織斗を本当に大切に思っていたのだということが嬉しかったからだ。
「色んな手続きして手間取ってたら、もう3ヶ月も経ってて・・・本当にごめん」
雑誌を吉野に返してから、織斗は改めて謝罪の言葉を口にする。
吉野は思い切り首を振った。
「おかえりなさい」
先ほどは返さずにいた言葉をかみしめるように言って、再び織斗にしがみつく。
抱き合って互いに唇を寄せようとしたが、間にいたモモコにぺろりと舐められた。
《個展開催記念独占インタビュー 秀麗の画家、海堂織斗の素顔に迫る 続き》
イ:今回の個展で一番の目玉はやはりあの桜の精だと思いますが・・・
海:スランプを脱出するきっかけになったものです。
イ:・・・ということは、里帰り中に構想を練ったと言うことでしょうか?
海:えぇ、そうです。大きな桜の木がある公園があって、まぁこの時季だから花なんて咲いてないんだけど、それでもやっぱり何処かインスピレーションのようなものを感じました。
イ:少年のようにも少女のようにも見えますが、桜の精にモデルはいるんですか?
海:いますよ。少年でも少女でもないですけどね(笑)
イ:相当な高値が付くと思われますが、この絵だけはお売りにならないのだとか?
海:飾る場所も決めていますし、持って帰って見せたい相手がいますから。
織斗の毎日は、それまでの昼夜逆転の不健康な生活から一変していた。
吉野に頼まれた通りに律儀に染井動物病院に通っているからだ。
“手伝いに来て”と言っていた割には何か仕事頼まれたりするようなことはない。
動物達と遊んだり、吉野と他愛ない話をしたり、時には一緒に食事をしたりするだけだ。コンビニ弁当や惣菜を買いに行くのは織斗の役目なので、手伝いらしいことと言えばそのくらいだろうか。
(“ついでにシュークリームも”って・・・食い物まで子供だな)
コンビニの袋を覗いてそっと溜息をもらす。
今日はこのコンビニに行くと伝えたら、“それならおやつも”とリクエストされたのだ。
何でも吉野はこのコンビニのシュークリームがお気に入りらしい。
(・・・ん?)
染井動物病院に着くと、軒先で吉野が子供たちに囲まれていた。
彼らは近所の幼稚園生~小学生で、たまに遊びにやって来るため織斗も何度か顔を合わせたことがある。
輪の中心にいる吉野は、白熊のような子犬を抱いているようだ。どうやら子供達の中でも一番利発そうな眼鏡の少年が連れてきたらしい。
「ピレニーズはね~、大人になったらすっごくすっごく大きくなるんだよ~」
「すっごくってどのくらい?」
吉野が子犬を高い高いしながら言うと、子供達は目を輝かせて尋ねる。吉野は満面の笑みを浮かべ、そうかと思えば不意に目が合った織斗を指差した。
「なんと2メートル! あのお兄ちゃんくらいだよ~」
吉野があはは、と笑うと子供達の視線が一斉にこちらへと注がれる。
「・・・・2メートルも、ない」
ぼそりと呟く織斗。
だが、子供達の好奇心は完全に織斗に向けられてしまったようで・・・
「すっげー、にーちゃんでっけー!」
「どうやったらそんなに大きくなれるの? なに食べたら大きくなる?」
「子供の時から背高かったの?」
「牛乳いっぱい飲んだの?」
「うちのパパよりおっきいね!」
駆け寄って来てうろちょろと織斗の周りを取り囲む。
「ねーねー、肩車して」
どの子から返事をすれば良いのか戸惑っていると、ツインテールの一番小さな女の子が両手を延ばしてきた。
(肩車ってどうやれば・・・)
ますます戸惑う。
取りあえずしゃがみ込んで女の子を抱きかかえてやると、慣れているのか自分から肩に乗った。
「たかーい!!」
織斗が立ち上がると、女の子がキャーと感激の声を上げる。周りの子供達も“僕も私も”とこぞって手を伸ばした。
そんな様子をウズウズしながら見ていたのは吉野だ。
「僕もー!」
無邪気に言い、両手を広げて駆け寄ってくる。
「・・・お前は無理だ」
「えぇ~」
織斗が眉を顰めて吉野を制止すると、思い切り不満そうな声を出した。
「織斗のけちー」
頬を膨らませて織斗の腰に抱きつく。
「おりとのけちー」
「けちー」
子供達をそれを真似、織斗の背中や脚などに各々しがみつき始めた。
「離せ。危ないから」
困惑する織斗をよそに、吉野も子供達も、肩の上の少女まで声を上げて笑っていた。
明くる日、
(重い・・・)
不意に胸の上の重みにうなされ、目が覚める。いつものように動物達と寛ぎながら遊んでいたはずなのだが、どうやら寛ぎ過ぎていつの間にか眠りこけてしまっていたらしい。
「モモコ・・・近い」
瞼を開いたのと同時に目が合った眼光の鋭いモモコ(イグアナの名だ)をやんわりと押しのける。モモコは織斗の胸に乗り上げ、舐めるように織斗の顔を眺めていた。いや、実際に舐められた。
(こいつら絶好の暖房器具だな)
ゆっくりと体を起こし、改めて自分が眠っていた環境を見やる。
猫達は脇に顔を埋めるようにして丸まり、それに縦列して左右それぞれにゴールデンレトリバーのゴン太と雑種犬のココが織斗の体にピッタリと横付けて眠っている。
(あ、そういやチビは?)
モモコがどいてくれたおかげで腹の上で眠っていたはずのちーちゃんがいないことに気付いた。
ちーちゃんは、織斗のパーカーの両側から手を入れるタイプの大きなポケットがお気に入りらしく、遊んでいるとすぐに潜り込んできてそのまま眠ってしまうのだ。
(あ、いた)
キョロキョロと部屋を見渡すとほどなく、庭に出る引き戸の前でニィニィと鳴いているちーちゃんを見つけた。
外に出たいのか、仕切りに戸を爪で引っかいている。
「チビ、じゃない。ちーちゃん、どうしたんだ?」
ついつい前の呼び名で呼んでしまってから、ちーちゃんに歩み寄る。ちーちゃんは耳を羽ばたかせるように動かした後で織斗を見上げ、またニィと鳴いた。
「外に何かあるのか?」
ちーちゃんを抱き上げ、庭を伺う。そこには吉野と、グレートピレニーズの子犬を連れた眼鏡の少年がいた。しかも、何やら二人してスケッチブックに向かっているようだ。
(あの犬、名前何て言ったっけ・・・ケンシロー?違うな。なんかバッファローみたいな・・・)
ぼんやりと眺めながら思案する。そうしていると、子犬の方が織斗に気づいた。忙しなく尻尾を振って、キャンキャン鳴きながらこちらへ駆け寄ってくる。
「あ、うごいちゃダメだよ~」
吉野が眉を八の時にして立ち上がる。眼鏡の少年も困り顔で子犬を呼んだ。
「戻ってきてよ~、マッケンロー」
(それだ、マッケンロー)
謎が解けて、心の中でなるほど、と手を打つ。そしてチビを肩に乗せて引き戸を開けた。
「何してるんだ?」
尻尾を振って駆け寄って来たマッケンローを撫でながら、吉野に尋ねる。子犬に続いて駆け寄って来た吉野と眼鏡の少年は互いのスケッチブックを示した。
「はると君の宿題だよ」
「マッケンローの絵を描くの」
眼鏡の少年は“はると君”という名前らしいことを織斗は今知った。しかし、白い子犬を描いたという二人の絵は、何とも言い難い仕上がりのようで・・・
(わたあめ)
はると君のこじんまりとした絵を見て抱いた感想はこれだ。大きなスケッチブックの端の方に、申し訳程度の大きさで書かれている。
けれどそれよりもひどいのは吉野の絵。
(ホラー?)
はると君とは対照的にスケッチブックいっぱいに描かれているのは良いのだが、子犬の可愛らしさとは程遠い、何処となく薄気味悪い代物だ。特に歯が怖い。
「あー、今へたくそだって思ったでしょ~」
吉野がぷっくりと頬を膨らませ、はると君はしょんぼりと肩を落とした。
「いや別に・・・」
「はい!」
取りあえず否定しようと試みるが、吉野がスケッチブックを押し付けてくる方が早かった。
「そんなに言うなら織斗も描いてみて! お絵描き教室のお孫さんなんだから得意でしょ~? 」
半ば無理矢理に鉛筆を握らせる。
(“そんなに言うなら”って、何も言ってないのに・・・)
腑に落ちない織斗だった。肩の上のちーちゃんもニィ、と一鳴きした。
(まぁ、ちょっとくらいならいいか)
期待に満ちた瞳でこちらを見ているはると君の視線に負けて、そっと溜息を洩らす。そして縁側に腰かけている織斗の足にしきりに乗り上げようとしているマッケンローを見つめた。
集中してその姿を脳裏に焼き付け、あとは素早く鉛筆を走らせる。
「わ~、上手~」
織斗の隣に座り、腕にしがみつくようにして手元を覗き込んだ吉野が言った。
「す、すごい・・」
はると君も頬を高揚させて織斗の描いたマッケンローを見つめる。それから、自分の絵とを見比べて眉を八の字にした。
「・・・どうやったら、そんな風に描ける?」
切実な様子で問いかける。
あまりに真っ直ぐに見つめられるため、織斗は少し落ち着かない気持ちになった。
「取りあえず、それもうちょっと大きく描けよ。そしたら、どこをどう直せば良くなるか教えてやるから」
はると君のスケッチブックを指差して、ポツリポツリと言う。
はると君は陽の差したような笑顔に変わり、織斗の隣に座って次のページに絵を描き始めた。ご主人様の真剣な様子に、マッケンローは舌を出して首を傾げている。
「ねぇねぇ、これ僕が貰ってもいい~?」
未だ織斗の腕にしがみついたままでいた吉野が、織斗の絵を指差す。
「欲しいか? こんなの」
落書き程度のものなのに、と意外に感じたが、吉野は嬉しそうに頷いた。
「お部屋に飾るんだもん」
そう言ってスケッチブックを奪い取った吉野は、鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌だ。
(ホント変な奴・・・)
織斗は呆れて溜息を洩らす。だが、
「あ、織斗今笑った!」
吉野に指を差されて、自分の頬が緩んでいたことに気付いた。
「笑った顔初めて見たよ~!ねぇねぇ、もう一回笑って!」
大はしゃぎの吉野が織斗の腕を引く。
「・・・・・嫌だ」
織斗は顔を引き締めて、はると君の方に向き直った。
***
帰宅後、織斗は祖母が昔営んでいた絵画教室にいた。
土間を増築して作られたスペースのため同じ家屋内にはあるのだが、帰省してからここを訪れることはなかった。
自宅用の玄関は別にあるためそこから出入りすれば事足りるからなのだが、実際はそんな単純な問題ではなく、意図的に避けていたのだ。絵画教室を、ではない。そこにある画材道具たちを見ることを、だ。
(当時のままなんだな・・・)
見回し、無造作に立てかけてあるキャンバスや棚にある筆などに何となしに触れてみる。
初めのうちこそ脈が速くなっていたが、慣れ親しんだ油絵の具の匂いに、徐々に緊張が解れていくのが分かった。
真っ白なキャンバスを一つ見つけると、織斗はふっと笑った。
それから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。食事を取ることも忘れていた。
眠ることもしないうちに空が明るくなって、そしてまた暗くなっていたが、それにすら気付かなかった。
織斗の集中を途切れさせたのは、一本の電話だ。
祖母の家の電話機がけたたましく鳴った。それが鳴ることを、織斗はこの家に来てからずっと恐れていた。
電話の相手は分かっている。そして、その内容も。
「もしもし・・・」
目を閉じて、深呼吸してから受話器を取った。
間違い電話なら、と最後の祈りすら届かずに、想像通りの声が響いた。電話の主は抑揚のない事務的な口調で事実を述べる。
なぜこの男がそんなに冷静でいられるのか、織斗には分からない。
「分かっているとは思うが、お前は葬式には・・・」
ようやく声に感情が乗ったかと思えば、声を潜めて念押しをされる。
「承知しています。出るつもりはありません」
男の言葉を遮り、織斗は固い声で言った。
相手の電話が切れるなり、織斗の手からこぼれるようにして受話器が落ちる。
茫然。
未だかつて、この言葉がこれほど当てはまった事はあっただろうか。
まるで地面が形を成さなくなったように、真っ直ぐ立てている気がしない。激しい立ちくらみに襲われるような、そんな感覚だ。
(吉野・・・)
不意に思い浮かんだ顔に、すがりつきたい衝動に駆られた。今吉野に会わなければ自分が消えてなくなってしまうような、そんな気すらしてくる。
ほとんど夢遊病者のような足取りで、織斗は吉野の元へ向かった。
染井動物病院の前に着くと、吉野がちーちゃんを抱いて立っていた。
「あ、織斗。来るのが遅いぞー。もう夜だぞー」
こちらに気付くなり、無邪気な笑みで駆け寄ってくる。
「あんまり遅いからここで待ってたんだぞー」
悪戯めかして言いながら、ちーちゃんの肉球で織斗の頬を叩く真似をする。
だがすぐに、いつもと違う様子を感じ取ったのか真剣な眼差しへと変わった。
「織斗、どうしたの?」
ちーちゃんのではなく吉野の手のひらで織斗の頬に触れる。
「上着も着ないで、風邪引くよ。お部屋の中に入ろう? 」
織斗の顔を覗き込む、優しい笑み。
吉野は何も言わないでいる織斗の手を引き、病院へいざなった。相変わらず患者はおらず、吉野の飼っている動物たちは思い思いの場所でくつろいでいる。二階に上がると、吉野はようやく引っ張っていた手を離してくれた。
「ホットミルク入れてあげるね。ちょっと待ってて」
織斗を座布団に座らせ、そう言ってキッチンに向かおうとする。
その後ろ姿に向けて、織斗は口を開いた。
「ばあちゃんが死んだんだ」
自分でも驚くほど無機質な声だった。
吉野はこちらを振り返り、一歩、また一歩と踏み出して、あとはもう飛びつくようにして織斗に抱きついた。
織斗の頭を抱え込むようにして、力強く抱きしめる。
何も言わないでいてくれることが逆にありがたかった。
「たった一人の家族だった・・・」
ほとんど声にならない声を絞り出す。そして堪えきれずに、涙が溢れた。
吉野はただ黙ったままで、ゆっくりと織斗の背中をさする。
吉野の腕の中はひどく頼りないくせに、とてもとても暖かかった。
織斗は本妻の子供ではなかった。
体の弱かった母親が他界し、仕方なしに父親に引き取られたが、当然ながら義母との折り合いは悪く、いつも苦虫を噛み潰したような顔で見られていた。
父親すら腫れ物に触れるような態度で織斗に接した。
それでも世間体を気にして必要最低限のことはしてくれたが、問題はすぐに起きた。
義母が妊娠によってナイーブになり、織斗に辛く当たり始めたのだ。
口汚く罵られるのは常、打たれるのも、物を投げつけられる事も多かった。時には投げられた皿の破片で怪我をしたこともある。
そこで見かねた父は、織斗を祖母の家に預けた。ひとまず出産までの間、と言って。
祖母は嫌な顔一つせずに織斗の食事を作ってくれた。一緒に遊んでくれた。絵を描くことを教えてくれた。
自分にとっては孫であることに変わりはないのだと、そう言って家族として迎えてくれた。
祖母の家は、織斗にとって母が亡くなってから初めて安らげる場所となっていた。ほんの短い間ではあったのだが。
両親の元へ戻ってからは逃げるように全寮制の学校に入り、溝はますます深まっていった。
親戚で集まるような行事には織斗だけ出席を許されず、更にそれはあくまで織斗が勝手をしている所為だと吹聴された。
両親だけでなく、遠戚にまで“これだから愛人の子は”と蔑まれ、孤立していく一方だった。
けれどその間もずっと祖母だけは味方でいてくれたのだ。
「ばあちゃんにどうしても会いたくて、この町に来たんだ」
吉野の入れてくれたホットミルクを飲みながら、織斗は言った。
「そしたら危篤だって聞いて・・・信じられなかった。見舞いにも行けないし」
病院には義母や父が交代で付いている上、連絡を受けた親戚もやって来る。
父は祖母の状況を伝えた二の句に“くれぐれも病院に顔は見せるな”と続けた。
「貰ってた合鍵があったおかげで家には入れたから、もしもの事があった時にはばあちゃんちの電話にかけてくれるように親父に頼んだ」
祖母がいつでも帰ってきて良いからと渡してくれていた合鍵。家族の証明のような気がして、織斗にとっては何よりの支えだった。
けどもう、いつ帰ってきたとしても祖母はいない。二度とあの笑顔は見られない。
「俺は・・・もう本当に独りになったんだ・・・」
うわ事のように呟く。
ずっと頷いて聞いていた吉野は、織斗の髪をそっと撫でた。小さな子供にするような、とても優しい手つきで。
「独りじゃない。織斗には僕がいるよ」
ハッキリした口調で言い、織斗の顔を自分の方へと向ける。
「僕が織斗の家族になる」
正面から視線が合い、その眼差しの強さに驚いた。
「お前って・・・人間まで拾うんだな」
吉野は捨てられた動物を連れ帰る癖があるのだと思い出し、織斗は苦笑する。苦笑したつもりだったが、何だか泣き笑いのようなおかしな表情になった。
持っていたマグカップを置いて、吉野を抱き寄せる。
まるでそれが当然のことのように口付けをして、体を重ねた。
抱いているのは織斗の方なのに、ずっと吉野が抱き締めてくれているような、そんな感覚だった。
***
吉野の朝は散歩から始まる。
猫たちは好きな時に勝手に出掛けているようだが、犬二匹は散歩に連れて行ってやらなければならない。
ちなみに朝の散歩だけはイグアナのモモコも連れて行く。
「おはよう、みんな」
挨拶がてらに動物たちを撫でてまわり、最後はモモコだ。
モモコは吉野が子供の頃から使っている学習机の上にいた。一見鋭いが実はぼんやりとした目で、じっと壁を眺めている。
「モモコはこの絵が好きだね」
モモコに目線の高さを合わせ、吉野も壁を見上げる。
壁に貼ってあるのは白い子犬の絵だ。織斗の描いた、鉛筆書きの。
「元気かなぁ・・・織斗」
何処か遠い目をして、ぽつりと呟く。慰めのつもりなのか、モモコがペロリと頬を舐めてくれた。
織斗が姿を見せなくなってから、もう3ヶ月ほど経つ。
あの夜が明けた次の日の朝、吉野が目を覚ましたときには織斗の姿はなく、それきりになった。
織斗が寝泊まりしていたはずの絵画教室にも赴いてみたが、いつ見ても明かりがついていることはない。
織斗はこの街からいなくなってしまったらしい。
織斗が宝物にしていた合鍵だけが机の上に置かれていたが、うっかり忘れていってしまったのか、わざと置いていったのかは分からなかった。
「お散歩行こ、モモコ」
申し訳程度にリードをつけて、モモコを抱き上げる。
すでに玄関で待ちかまえていたゴン太とココを伴い、桜の木のある公園を目指した。
公園に着くと、桜の木の前で子供たちが集まっていた。中心には白い子犬---と呼ぶにはもうすっかり大きくなってしまったが---を連れたはると君がいる。子供たちの視線は全てはると君の持っている雑誌に注がれているようだった。
「みんなで何見てるの~?」
面白い漫画でも読んでいるのだろうかと、好奇心に胸を躍らせながら声をかける。
子供たちは一斉にビクリと肩を震わせ、そうかと思えばひどく興奮した様子で吉野に話しかけてきた。あまりにも一斉に話し出されためよく聞こえない。
「お、織斗がこれに載ってる!」
はると君が雑誌を吉野に差し出す。珍しく大きな声を出したせいで、声が裏返っていた。
「織斗・・・?」
思いがけない言葉に、吉野は呆ける。
促されるままに誌面に視線を落とせば、それは有名そうな画家のインタビュー記事だった。
有名そうな画家・・・写真に写っている男は確かに織斗だ。
かっちりとしたスーツを着こなし、髪もきちんとセットして、もちろん無精ひげもない。
背筋を伸ばして精悍な眼差しをカメラに向けているその表情は、吉野たちの知る彼とはまるで別人のように見えた。
「海堂織斗絵画展・・・」
見出しを読み上げ、吉野はまた呆ける。子犬の絵を描いた時の織斗を思い出し、“通りで上手い訳だ”とぼんやり考えた。
「どこが無職の引きこもりだよ、もう・・・」
少しばかり泣きそうになって、それでもなんとか微笑んだ。
《個展開催記念独占インタビュー 秀麗の画家、海堂織斗の素顔に迫る》
インタビュアー(以下、イとする):まず初めに、不躾ではありますが、個展を開くのはかなり久々ですよね?
海堂織斗(以下、海とする):本当に不躾ですね(笑) まぁ確かに、最近はナリを潜めていましたけど。
イ:噂では深刻なスランプに陥っていたとか?
海:はい。正直なところ、キャンバスに向かうと動機がして手が震えるほどでした。病んでたのかもしれませんね。
イ:ですが、それを克服したからこそ今回の個展開催に至ったのだと思いますが、ずばりスランプ脱出のきっかけは?
海:単純なことですよ。ちょっと里帰りをして来たんです。
イ:田舎に帰ってリフレッシュしたわけですね。
海:まぁそんなところです。
散歩の帰りは、家までの100メートルほどの距離になると、モモコも歩きたがる。かなりのスローペースを余儀なくされるが、犬たちも存分に駆け回った後だから満足しているのか、モモコのペースに合わせて歩いてくれる。
ゆっくりと歩いていると、ついついいろんな考えが巡った。大抵は朝ご飯は何を食べようかとか、おやつにシュークリームを食べようとか、そんな事ばかりなのに、最近は織斗のことで頭がいっぱいだ。
はると君がほとんど押しつけるように織斗の載っている雑誌を貸してくれたのは、そんな吉野の気持ちを察したからだろう。
病院の前に着くと、そこには車が一台停まっていた。この街にはあまりそぐわないほどの、あからさまな高級車だ。
車の傍らには長身の男が立っていた。
「・・・ただいま」
少しぎこちなく微笑んで言う。織斗の笑った顔を見るのはこれが二度目だ。
「嘘つき」
吉野は頬を膨らませて言ってのけ、それから織斗に駆け寄った。ジャンプして織斗の首にぶら下がるようにして抱き付く。
「全然ニートじゃないじゃん、無職じゃないじゃん、引きこもりじゃないじゃん」
立て続けに責めると、織斗は苦笑して吉野を抱き上げた。
「嘘じゃない、今は立派な無職でニートだ。まぁ確かに引きこもってはないけど・・・」
ゆっくりとかぶりを振ってから吉野を下ろす。それから織斗は吉野の手にあった雑誌に気付き、少しバツの悪そうな顔をした。
「それ、読んでないのか?」
尋ねられ、吉野は素直に首を振る。まだ途中、初めの方しか読めていない。
織斗は雑誌を受け取ってページをめくり、目的の箇所を吉野に示した。
「“事実上引退”・・・?」
紙面の文字を読み、吉野は目を丸くする。
「今回の個展を最後に、今後制作活動をするつもりはない。つまり画家は廃業。だから無職。嘘じゃないだろ?」
なぜか得意げに織斗は言った。
確かにその通りのことが、文字になって刻まれている。
織斗が画家だったことすらつい先ほど知ったばかりなのに、今度は画家も辞めたのだと聞かされても、困惑するばかりだった。
ようやく追いついてきたゴン太とココは早速織斗の匂いを確かめている。
「久しぶりだな」
織斗はしゃがみ込んで犬たちを撫で、一足遅れでやってきたモモコを慣れた仕草で抱き上げた。
「これからはまた毎日来るからな」
高い高いをしながら、また笑顔を浮かべる。いつも表情の乏しかった織斗とは別人のようだ。
「また毎日・・・?」
モモコにかけられた言葉に吉野は首を傾げる。
織斗はモモコを抱き抱えたままで頷いた。
「ばあちゃんの家に越してくる事にしたんだ。初めは土地ごと俺が買ってやろうと思ってたんだけど・・・そんな事しなくても、ばあちゃんが遺言で俺に渡すって残してくれてた」
穏やかな口調で織斗は話す。吉野はまた少し泣きそうになった。悲しいからではなく、織斗の祖母が織斗を本当に大切に思っていたのだということが嬉しかったからだ。
「色んな手続きして手間取ってたら、もう3ヶ月も経ってて・・・本当にごめん」
雑誌を吉野に返してから、織斗は改めて謝罪の言葉を口にする。
吉野は思い切り首を振った。
「おかえりなさい」
先ほどは返さずにいた言葉をかみしめるように言って、再び織斗にしがみつく。
抱き合って互いに唇を寄せようとしたが、間にいたモモコにぺろりと舐められた。
《個展開催記念独占インタビュー 秀麗の画家、海堂織斗の素顔に迫る 続き》
イ:今回の個展で一番の目玉はやはりあの桜の精だと思いますが・・・
海:スランプを脱出するきっかけになったものです。
イ:・・・ということは、里帰り中に構想を練ったと言うことでしょうか?
海:えぇ、そうです。大きな桜の木がある公園があって、まぁこの時季だから花なんて咲いてないんだけど、それでもやっぱり何処かインスピレーションのようなものを感じました。
イ:少年のようにも少女のようにも見えますが、桜の精にモデルはいるんですか?
海:いますよ。少年でも少女でもないですけどね(笑)
イ:相当な高値が付くと思われますが、この絵だけはお売りにならないのだとか?
海:飾る場所も決めていますし、持って帰って見せたい相手がいますから。
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