音楽を辞めた私の、25歳の誕生日

春風凜

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音楽を辞めた私の、25歳の誕生日

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「…多いって」
 目の前でゆらゆらと揺れる25の炎を見つめて、私は言葉を失った。毎年変わらない、真っ白なクリームの上に苺がこれでもかと乗せられているケーキは、蝋燭で埋め尽くされていた。
「さ、早く吹き消して、一気に!」
「一気には無理だよ…」
 困惑する私を他所に、母はぐいぐいと私の背中を押してケーキに近づける。
「トランペット吹きの肺活量、見せてくれよー!」
 既にビールを入れて赤ら顔の祖父が、テーブルの向こう側から囃し立てる。
「私もう25なんだよ?…トランペット辞めて、何年経つと思ってるの…」
 渋々ながら息を吹きかけると、わずか半分ほどの蝋燭の炎が消えた。
 音楽を辞めてから、丸9年が経った、25歳の誕生日。だんだんと特別味もなくなってくる。もそもそとケーキを食べながら、いつも通りの家族との会話は続く。
「おねぇが吹奏楽辞めて、もう10年になるんだね」
 思わず顔をしかめる。酸っぱい苺に当たってしまった。
「すごかったもんなぁ、パーンってやってよぉ」
 祖父はいつだって、たった今演奏を聴いてきたかのように話す。
「なんで辞めたの?」
 兄が私の顔を覗き込んだ。ここで泣いてはいけない。ここは楽しい、私の25歳のお祝いの場なんだから。
「はは、まぁ、なんとなく…ね。あ、友達から電話来てたわ。部屋戻るね」
 ケーキの後の紅茶もそこそこに、立ち上がって部屋に向かう。だから嫌なんだ、家族で話すのは。
「そっか。…改めて、誕生日おめでとう、琴音」
 スマホに夢中になる振りをして、兄の言葉は宙を彷徨って、消えた。

 ベッドに倒れ込むと、嫌でも古びた電子ピアノが目に入る。他に置き場もないから、仕方ない。
 10年前、このピアノはそろそろ悲鳴を上げるのではないかというほど、ひっきりなしに弾かれていた。兄も妹も弾いていたが、一番は私だった。夢中で弾いた。もちろん上手くなりたいという気持ちはあったが、それ以上に、鍵盤に指を置いているその瞬間が楽しかった。そんなことを思い出したくなくて、無理やり目を閉じる。
 兄が小学校に上がると、ピアノを習い始めた。個人経営の小さな教室だけど、兄はめきめきと力をつけていった。そんな兄に憧れて、兄が弾いていない時間を見計らっては、一本指でたどたどしく音を出した。私が小学生になると、当たり前のように私もピアノを習い始めた。
 私がピアノに夢中になっている間に兄は中学生になり、吹奏楽部に入部した。何度も演奏会に足を運んだ。兄がサックスを演奏する姿は、普段同じ家に住んでいる家族と思えないほど、格好良かった。そんな兄に憧れて、中学生になった私は迷うことなく吹奏楽部に入り、トランペットを始めた。夢中で毎日吹き続けた。
 校内の選抜を勝ち抜いて、ソロコンテストにも出場した。私は銅賞の賞状を、誇らしげに持ち帰った。
「おかえり! 琴音、お兄ちゃんがね、ソロコンテストで金賞だったの! しかもグランプリ!」
「おにぃすごいよ! 県大会も頑張って!」
 兄を囲んではしゃぐ母と妹を目にした途端、私は銅賞の賞状を背中に隠した。
「琴音はどうだった?」
 兄の無垢な視線に、どう答えたのか、今となっては思い出せない。
 気づいたら、部屋の真ん中に一枚、くしゃくしゃの賞状が落ちていた。

 コンコンと、部屋の扉が外から叩かれる音で、我に返った。
「おねぇ、ピアノ弾かせてー」
 妹の声だ。私は一度深呼吸をして答える。
「ごめん今無理―」
「ちぇー」
 あっさりと引き下がってくれた。よかった。
 現在大学生の妹も同じく、小学生になってからピアノを始め、中学生で吹奏楽部に入部した。高校でも大学でも、吹奏楽を続けている。妹の通っていた高校の吹奏楽部は決して強豪ではなかったが、妹が部長になってからの快進撃は目を見張るものがあった。部長として部の士気を上げ、全員で必死に練習し、20年ぶりの快挙となる県大会出場を果たした。
 私はといえば、兄と同じ、吹奏楽の強豪校を受験した。
 結果は、不合格だった。
 滑り止めで受けていた地元の私立高校に入学しても尚、音楽を諦められなかった。吹奏楽部の体験入部の門を叩いた。既に入部届に名前も書いていた。
 その入部届は出されることはなかった。
 私が出す音は、誰よりもへんてこな音だった。
 くしゃくしゃの入部届と共に、トランペットをケースに仕舞い、クローゼットの奥底に押し込んだ。

 25歳二日目を迎えた。今年何度着たかわからない、ふんわりしたワンピースを纏い、駅前のベンチに座る。SNSに挙げられたウェディングドレスの写真を見つめながら、思わず溜息をつく。もう今年で四件目だ。
「琴音さん…ですか?」
 右側に人の気配を感じると共に、声をかけられて立ち上がった。写真で見たのと同じ、細身の男性だ。視線を合わせようとするとほんの少し首を上に向けるくらいの身長だ。これもプロフィールの申告と相違ない。
「タケルさんですか? 初めまして、琴音です。今日はよろしくお願いします」
 にこりと微笑みかけ、男性の隣に立つ。手が触れないくらいの距離感で、歩き出した。

 マッチングアプリを始めて、もう一年以上経つ。
「琴音、紹介するよ。今付き合ってる彼女なんだ」
「俺たち、その…結婚を考えてるんだ」
 兄のはにかむ姿が頭に浮かぶ。私がマッチングアプリを始めたこととは、関係ない。
「おねぇ見てよー。彼氏がブレスレットくれたの!」
 妹の腕にきらりと光るブラスレットも頭に浮かぶ。これも私とは、関係ない。
「琴音さんって、アプリ始めてどれくらいなんですか? 結構いろんな男性と会ったりしてます?」
 これは今目の前にいる男性から発せられた言葉だ。どうにか意識を目の前の男性に向ける。
「まだ始めたばっかりで…会ったのは二人くらいですね」
 同じ言葉を、もう何人にも投げかけている。嘘をつくことに、罪悪感がない訳ではない。でも一年以上もマッチングアプリをやっていて、今だに彼氏の一人もいない私など、市場価値がないことなどわかっている。
「タケルさんは、どれくらいやってらっしゃるんですか?」
「いやぁ、僕も似たような感じですよ」
 ダウト。こうやって私たちは騙し合いながら、表面的に心地良い会話をしながら、相手を見定めていく。
 悪くない。年収は私よりあって、店までのエスコートも完璧。適度にこちらに話を振ってくれて、会話も卒がない。
「そういえば琴音さんって、名前に『音』が入ってますよね。音楽とかやってるんですか?」
 表情を隠すように、とびきりにっこりと微笑んだ。

「ただいまー」
 ピカピカに磨いたハイヒールを脱ぎ捨てて、リビングに向かう。
「おかえりー。何あんた、また男の人と会ってたの?」
 母の問いには答えず、椅子に腰かける。テーブルの上には、ひよこの形をした銘菓が並んでいる。一つ手に取り、頭から齧り付く。
「お兄ちゃんの彼女さんが持ってきてくれたのよ。ほんといい子よねー」
 母は嬉しそうにひよこのお尻を頬張っている。
「あ、そういえばね、お兄ちゃんの彼女さん、トランペットやってみたいんですって」
 トランペット、という言葉に、思わずぴくりと反応してしまう。
「あんたもう何年も吹いてないでしょ? 貸してあげてよ」
「…でも、ずっと使ってないから、動くかわかんないし」
 必死でひよこの頭を口に押し込む。
「あんなに毎日丁寧に手入れしてたんだから、大丈夫よ。一旦見てみなさいよ」
「でも…」
「どうせもう吹かないんでしょ? もったいないんだから。いくらしたと思ってるの、あれ」
 母はコーヒーを一口飲むと、台所に向かっていった。私は部屋に戻り、クローゼットの前に立った。
 クローゼットを開く。一見、洋服たちがずらりと並んでいるだけだ。ロングコートをめくった先に、それはある。
 これを手放したら、私が音楽をすることは、本当にもう二度とないだろう。
 開け放たれたクローゼットを見つめながら、しばらくかんがえる。でも私はもう音楽はしないと決めたんだ。この際思いきって手放すのも、ありかもしれない。
 そう言い聞かせながら、ロングコートの裾をめくり、黒いケースを引きずり出した。
 軽く埃を払いながら、そっとケースを開いた。今も尚輝く金色のトランペットの上には、あの頃と変わらず、くしゃくしゃの紙が一枚乗っていた。これはもう、捨てなければならない。
 そう思い、何気なく紙を開いた。
 そこには私の字で名前と、「吹奏楽部」と書かれている。指で拭っても、ボールペンで書いたので、消えない。忌々しく思いながらも、何気なく、さらに視線を下に向ける。
 ある文字に気づいたとき、私は紙を握りしめたまま、階段を駆け降りた。
「お兄ちゃん!」
 リビングの扉を勢いよく開く。台所にいた母が驚き、「わっ」と声を出した。
「何よもう、いきなり騒がしいわね」
「お兄ちゃんは⁈」
 リビングを見渡しても、兄の姿はない。
「お兄ちゃんなら、さっき出かけたとこよ」
「どこに行った⁈」
「さぁ…友達のとこって言ってたから、駅に向かってるんじゃない?」
 母ののんびりした声を全て聞かないうちに、私は薄汚れたスニーカーに足を突っ込み、玄関を飛び出した。
 駅までの道は一つしかない。その道を、ひたすら走る。普段走ったりなんてしないから、すぐに息が切れる。それでも足は止まらなかった。
 ようやく見覚えのある背中を見つけたとき、考えるより先に声が出ていた。
「お兄ちゃん!」
 あまりの大声に、周りの数人も私に視線を向けた。ほとんどの人がちらりと私を一瞥して駅に向かう中、兄は少し驚いた顔をしながらも、私の側に歩いてきた。
「琴音、どうしたんだよ、そんなに急いで」
「お兄ちゃん、これ…」
 右手に握りしめた紙を広げて見せる。
「これ、どういうこと…?」
 そこには、はっきりと兄の筆跡があった。
『琴音の音が、聴きたい』
 兄はしばらく、その文字を見つめていた。
「今、やっと気づいたの?」
 私はこくこくと頷く。
「そのままの意味だよ。琴音、高校入ってから音楽辞めちゃっただろ? また琴音が吹くトランペットが聴きたいなって」
「でも…私、お兄ちゃんみたいに上手く吹けないし…」
 人目があるにも関わらず、気づけば私の目からは、涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
「お兄ちゃんみたいに、何でもできる人には、なれないんだよ…勉強も、恋愛も、音楽も…お兄ちゃんみたいには、できないんだよ…」
 言いながらどんどんいろんなものが込み上げてきて、涙が止まらない。
 私は兄のようにはできない。何だってそう。こんな自分、消えてしまいたい…。
「俺だって、琴音みたいにはできないよ」
 兄は私の両肩をしっかりと掴んだ。
「俺はできることしかやらないだけだよ。でも琴音は、何だって自分のやりたいことは、ちゃんと挑戦してきたじゃんか。それに琴音は…誰よりも、楽しそうに音楽やってただろ」
 驚いて兄の顔を見つめていると、兄はちょっと恥ずかしそうに鼻を掻いた。
「俺、職場じゃポンコツ扱いだし。いっつも上司に怒られてさ…」
 気づけば、涙は止まっていた。
「お兄ちゃんにも、できないことがあるの…?」
「当たり前だろ」
「本当に、私のトランペットが聴きたいって思ってるの?」
「だからそう言ってるだろ。琴音にしか出せない音があるんだから」
 その一言で、肩の荷がすとんと、落ちた気がした。
 私にしか出せない音。音程やリズムの正確さとか、そういうことじゃない、私だけの音。
「さ、帰ろうか」
「出かけるんじゃなかったの?」
「もっと重要な用事ができたからな。…吹いてくれるんだろ?」
 ひんやりとしたマウスピースの感触に、息を吹き込んだときの唇の震え。それを全て感じたとき、私の気持ちは高揚する。
 久々に吹かれたトランペットは、やっぱり強豪校のエースには敵わない、へんてこな音だった。
 それでも、兄は満足そうに聴いていた。
 すっかり桜も散った初夏の青空に、私の音は、いつまでも響いていた。
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