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第三章 嘘の幸せと真実の絶望と

59 カルアミルク04

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「元気ないのはお腹が空いてるからじゃないのか?」

 トイレから戻った所長はいつも通りだった。言われみれば夕方にケーキを食べたっきりで空腹だということに気付いたとたん、所長のカツサンドが無性に美味しく見えた。

「旨いぞ、ここのカツサンドは。メニューには無いんだがな」

 そりゃそうだろう。バーでカツサンドを食べる姿はミスマッチに感じる。だけど注文して普通に出てくるくらいだから所長はよく頼んでいるのだろうとわかる。

「お前も食えよ。マスター、ハムサンドお願い」

「いや、カツサンド注文させてくださいよ」

 マスターはニコリとして俺の頼んだカツサンドを作りに裏のキッチンに消えて行った。途中、カツサンドにはカルアミルクよりこっちが合う、と言ってジンを二つ追加した。相変わらずよく飲む人だ。

 

 カツサンドが出るより早く所長の電話が鳴った。

 『日比谷君、遅くにゴメン』

「おぉ豚平《とんぺい》、いつもの所でお前の同僚を食べてたところだ」

 カツサンドのことを同僚と言わないでもらいたい。今から食べるのは俺なのだから。

「例の取引が今夜……わかった、難大《なんだい》コンテナ埠頭《ふとう》の第八倉庫だな」

 電話を切ったところで丁度カツサンドとジンが二つ出てきた。電話の相手が豚平《ぶたひら》さんだとは分かったが、カツサンドを一口食べ、落ち着いてから何かあったのですかと尋ねた。

「あぁ、食べながらでいいからゆっくり聞けよ。俺がずっと追ってた麻薬組織の密売取引が今夜行われるって情報が豚平《とんぺい》から入ったんだ」

 麻薬取引と聞いて一瞬、カツサンドを食べる手が止まった。かなり危険な案件だということが聞いただけでわかる。

 警察に通報しても無駄のようだった。市民からの通報で動く警察の規模で取り締まれる案件ではないこと。

 発砲に躊躇する日本の警察では逆に警察が危険であること。

 それは麻薬組織が拳銃を持っているのが確定しているようなものであると同時に、確実に殺しにくるということでもあった。

「"W"が浄化されたら後で自首すると思うが、豚平《とんぺい》の知り合いに鯱島って刑事がいるから、処理した後はその刑事のお手柄になるんだがな。持ちつ持たれつってやつだよ。その刑事も単独で動けないっていうのは不便なことだがな」

 組織というものは、大きくなればなるほど小回りが利かなくなる。その典型的な例が警察組織だと所長は言った。有望で正義感の強い警察はマタジに転職すれば良いのだと漏らしたが、本音かどうかは定かではない。

「もしかして、この一件があるかもしれないから、事務所に残っていたのですか?」

「どうかな」

 絶対そうであると確信させるような返事だった。

 酒の弱い俺は、カルアミルクを全部飲んでしまったことをこの時後悔したのだが。

 それに、今夜の所長は随分ジンを飲んでいるのだが大丈夫なのだろうか。今夜は曜子のことで生死についての話しもしてくれた……。

 これが死亡フラグにならなければ良いのだが。

 俺の嫌な不安は暗闇に消えて行くことになった。
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