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第一章 たった一人の温泉旅行中に

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 十一月上旬。まさに露天風呂のシーズン到来である。

 俺の名は磐石明いわいし あきら二十二歳。会社の有給を使ってこの穴場温泉宿でのんびり過ごすのが趣味である。

 名字が磐石明で名が二十二歳ではない。そんな名の奴はいないだろう。

 二十二歳という若さで有給を取って温泉が趣味とか、若者はもっと若者らしくとよく言われるが他人の言うことをいちいち聞いてたら人生満喫できないものだと思っているのであまり気にしていない。

 平日にこうして温泉に来ると、休日に比べて料金も安く運が良ければ今日のように温泉が貸し切り状態になるのだ。

 これこそ来た甲斐があるというものだ。

 会社では流れ作業を黙々とこなし、急な残業や休日出勤も我慢してやっている。特に課長のパワハラにも耐えながら会社の歯車の一員として身体を酷使して働いているのだ。

 精神と身体に安らぎを与えるのは義務のようなものと考えている。この貸し切り温泉で……。

「ん?」

 なかなか広いここの露天風呂。岩場の向こうへは近寄らないと見えない死角になっているのだが。

 静かに月を眺めていたが、どうもお湯の音が不自然に感じる。

 貸し切りだと勝手に思っていたのは自分だけで実は奥に誰か先客がいたのかしら?

 最初から先客がいるのを承知していたら気にもならないのだが、貸し切り状態と思っていただけに誰か人がいるのかどうか気になって仕方がなかった。

 いるかいないか、それだけを確かめるために、すーっと岩場の方に近寄るとそこには女性らしき人が湯船に浸かっていた。

 白いうなじを見て女性だと思い込んだだけかもしれなかったが、本当に女性だった場合に気まずいので岩場から離れ、元いた場所でくつろぐことにした。

「それにしてもここ、混浴じゃなかったはずだけどなぁ。スタッフ?  いやいや、ロン毛の男が髪をかき上げていただけだったのかも。色白の男もたくさんいるさ」

 そう自分に言い聞かせ、また静かな月を眺めていた。

 高校を卒業して上京する為に探した会社に入社。やりたい仕事じゃないけど真面目にしてたら生活できるだけの給料が手に入る。

 そう贅沢をしなければだ。

 根がヲタクなので一人でアニメや漫画を見ることが苦ではない。逆に幸せな一時である。

 休日はそうやって過ごし、イベントやライヴに出掛ける資金を確保する。

 そう、上京の目的はそういったイベントに参加する為であった。

 地方からだと交通費や宿泊費など余計な物がかさむし、日時によっては参加できないのも多々あるからだ。その点、上京してればその心配がない。逆に行きすぎて金欠の心配が増えてしまうのだが。

 

 会社の同僚との交際費は一切いらないと言っても過言ではない。理由は大きく三つ程あるのだが、仕事以外での付き合いは控えている。会社の行事で参加するくらいだがそれでいいのだ。別に職場で仲間を作るつもりはないし、かえって気を使ってしんどいだけであろう。

 特定の彼女も自分の生活リズムを崩されるという理由で作っていない。と自分に言い聞かせている。

 理由の一つにヲタクであることがある。

 昔に比べてアニメも漫画も市民権を得てきたが、まだまだ人生の中心に置いた生活を公にすると一転、大人になれよという眼差しを向けられる。

 それが嫌で、かと言ってそれ以外の話題について行くこともできないし苦痛でしかないからだ。

 二つ目の理由に小説を書いて投稿していることがある。

 受賞して書籍化作家にでもなれば話は変わるのかもしれないが、俺の書いている内容が一般に受け入れられ易いものではない。

 常に一次落ちでは先が長いのだが、好きで書いているので苦痛ではない。寧ろ書きたいのに同僚と遊ぶ時間で失われる方が苦痛である。

 

 せっかくの温泉でリラックスしてストレス発散をしたいのに、今日はやけにストレスな事が頭に浮かぶ。

 長湯を終え、湯船から上がった俺は脱衣場へ入っていった。

 浴衣に着替え、大きな鏡に向かってドライヤーで髪を乾かしていると、マッサージチェアに座って扇風機に当たっている女性が映った。

「え?」

 と驚いたがドライヤーを止めなかったお陰で漏れた声はさほど気にならない音量に留まった。

「めちゃめちゃだらけてるなぁ」

 マッサージチェアの背もたれを倒し、首振る扇風機に身を委ねているようにみえたその女性は精根尽きたかのようにうなだれていた。

「さっきの人か?  いやでも俺より先に出てった様子もなかったし。ってかここ男性用脱衣場のはずなのに。やっぱり従業員かなにかなのだろうか」

 例え誰であろうと自分に危害があるわけでもなく、せっかく有給を使って非日常を楽しんでいるのだから、人との関わりは極力避けて通りたかった。

 ある程度髪が乾いたので俺は今晩泊まる部屋に戻った。

 扉を開けるとそこには料理が準備されていた。奥には布団も敷かれ、後は食べて寝るだけ。風呂上がりにこれ程の幸せがあるのだろうか。

 旬の物はあっても、松茸とか高額になるようなコースはいつも選ばない。何を食べても幸せなのだから。

 特に俺は天婦羅が好きだ。野菜でもなんでも天婦羅であれば美味しく頂いている。敢えて言うならば海老の天婦羅が大好物である。

 天婦羅は熱々のうちに食べた方がサクサクしててより美味しいのだが、大好物の海老はついつい後の方に残してしまいがちである。これは性格なので仕方ないのだろう。

 天婦羅にはすまし汁が良く合う。

 そして茶碗蒸しも熱々。

 炊き込みご飯になると、それだけでお腹が起きてしまう程おかわりをしてしまいそうだ。

 本当は美味しい物をゆっくり味わいながら食べるのが良いのだろうが、会社でも家でも一人で黙々と食べる習慣がついているので、こんなご馳走でも早食いになってしまいがちだ。

 それでも、大好きな海老の天婦羅は後の方に残してしまうのだが。

「お腹すいてるんですか?」

 俺は美味しい料理をまんべんなく食べながら幸せを感じていたが、これはもう見て見ぬふりもできず、しかし何て声をかけるべきなのだろうかと考えた結果の言葉だった。

 その女性はキョトンとして動きが止まったままだった。

 海老の天婦羅に伸ばした手も止まったまま。

 目だけは俺と合って、まばたきを何度か繰り返している。

 もういいのだろうか?  そう考えたのだろうか、海老の天婦羅を掴んだ手を口元に持っていく。

「いや、海老!」

 またビクっとした女性は口に入れる寸前のところで手を止める。

「もしかして、見えてる?」

「見えてる。おもいっきり。俺の大好物な海老の天婦羅をまさに食べようとしている姿がくっきりと!」

「お猿さんが?」

「は?  長湯でのぼせたような色白の女性が見えますが?」

 これ以上開かないのだろうと思わせる程、目を見開いた女性。おそらくかなり驚いているのだろう。ただ、脳内で驚いても食欲は別の脳なのだろうか、止まっていた手が動き俺の海老の天婦羅は彼女の口の中に吸い込まれていった。

「それ、俺の海老だから!」

 女性は口に咥えた海老を一気に口の中に納めてから立ち上がると、部屋の角に逃げてこちらの様子を伺っているようだった。

「モグモグモグ!」

「食べてから喋れ! 何言ってるのか全くわからんぞ」

 食べるのと喋るのを同時にしても両方とも機能していない。少しだけ時間をかけて口に含んだ海老を飲み込んで再び喋り出した。

「何故、わらわが見えるのじゃ?」

「え? なにそれ? クイズ? 人の料理勝手に食べといて、質問したいのは俺の方なんだけど」

 折角の料理が冷めないうちに、俺は淡々と食べるのをやめなかった。

「グゥゥ」

 沈黙した部屋に女性のお腹が鳴る音が響いた。

「やっぱりお腹がすいているんだな。けどこれは俺のだからお前は自分の部屋に帰って食べろよな」

 見た目二十歳くらいだろうか。自分より若く見えるからそれくらいだろうと思っただけで、実際の女性の年齢というのを当てるのは難しいものである。

 本人に聞かれたら、だいたい若く年齢を言うのがリア充の基本みたいなところがあるが、俺には縁のないことだ。

 少し湿った長い髪を下し、この旅館の浴衣を着ていることからどこか別の部屋の客なんだろうとわかる。

 一人旅か連れときて喧嘩したか事情は知らんが、勝手に人の部屋で料理を断りもなく食べて良いものではない。そうおばあちゃんに教えてもらわなかったのか?

 断れば良いというものではないが、了解を得れば良いのだろう。ただ俺は聞かれても了解はしないがな。

 しかも堂々と食べて挙句の果てには見えるのですかって、どんな言い訳だろうか。

 酔ってる風でもないし、友達と来て罰ゲームか悪戯でもしようとしたのかしら。と、思った自分の言葉で先程のことを思い出す。

「もしかして、さっき男湯に入ってたり扇風機に当たっていたのもお前等なのか?」

「な! あれは猿だったでしょ?」

「猿なもんか! さっきから猿にばかり汚名を着せやがって。なんだっていうんだよ」

「なんで猿に見えないよの? わらわはちゃんと化けてたでしょ?」

「化ける? そうかお前……」

 言いかけたと同時に部屋の窓が開けられ、外から吹雪が舞い込んできた。温泉に浸かってた時は良い天気だと思ったのに、山の天気は変わりやすいといっても極端だろうに。

「うふふふふふふふ」

 開放された窓際に立ち、不敵な笑みを浮かべ俺を見る女性の背後からは吹雪が一層増してくる。

 夜の黒さと真逆の白い肌は、より存在感を表す。

 すぅっと俺を見たまま部屋の外に消えていく。まるで窓が自動のように自然と閉じていき、完全に閉じると部屋の中は平穏を取り戻したかのようだった。

 少し散らかった料理を整えて食事を再開しようとした時、丁度同じ窓が勢いよく開いた。

「寒い寒い寒い寒い!」

 吹雪と共に先程出て行った女性が肩をすくめ、震えながら部屋に入ってきて火鉢にあたる。

「お前が吹雪起こしたんじゃないのかよ?」

「そうよ! 久しぶりに起こしたら止め方わかんなくなって遭難しそうになったわよ」

 歯をガチガチ言わせながら喋る姿から本気で寒いのだろうというのが伝わってくる。

「まぁこれでも飲んで、身体を温めてから帰れよ」

 差し出した湯呑を受け取り、一気に飲み干した。

「ぷしゅーーー」

 今の言葉を表現するならば耳から湯気が勢いよく飛び出るようなものだろうか、顔が真っ赤になって目がうつろになっている。

「こり、お酒じゃんじゃんかいぃ!」

「ちょっとろれつが微妙だけど、酔ったのか?」

「人間めぇ! わらわを酔わせて、どどどどどーするつもりられら!」

 フラフラと立ち上がり、また窓の方に寄っていく。身体は温まったようだが、酔い覚ましに水でも飲んだ方が良いのではないだろうか。

 勢いよく窓を開け出て行くところで立ち止まったかと思うと、クッと振り返る。

 吹雪はいつの間にか止んでいるようだ。粉雪が所々に舞い落ちる程度。

「に、二度と会うことはない! もし会ったらその首を凍らせて落としてくれようぞ!」

 そう言い残して女性は暗闇に消えて行った。
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