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第一章 たった一人の温泉旅行中に

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 ヲタクらしいカッコ悪いキレ方である。ただ、キレたからと言って戦闘力がアップするわけでもないし、昔に封印していた格闘技の奥義が解除されるわけでもない。

 討論する程度である。マシンガンのようにヲタクについてなんたらを喋りかけるだけなのだが、一般のリア充からすれば只の罵声にしか聞こえない。

 当然いつまでも相手にしている場合でもないので、大抵は相手にされなくなりその後虚しい空気だけが俺の周りを取り巻くだけだ。

 これを社内でしてしまった場合、しゃーないでは済まされない。その日から周りの社員から向けられる見下した目線。

 このキレる感情はコントロールできないものなのだ。だから自分がヲタクであることさえも隠している。

 社内に少しアニメ好きがいたとしても、温度差によって必ず衝突するのだ。

「あ、そこまでマニアじゃないし」

 きっとこの言葉が返ってくるのだ。やがて溝が深まり俺がヲタクである噂が広まっていく。見える! 最悪のシナリオが見えるのだ。だからヲタクカミングアウトを誰にもしない。

 そうすれば感情をコントロールできないキレるリスクも回避できる。

 元々、親交を深めなければ込み入った会話も無く平穏に過ごせるというものだから。

「お前、さっきから何をぶつぶつ言ってるんだぁ?」

「あ、聞こえてたなら話は早い。じいちゃんが教えてくれた大事な事を教えてやるよ」

 両肘を前に曲げ、掌を左手は上に向けて右手は相手に向けると白く光りだす。

 光る掌から弓と矢がゆっくりと姿を現した。

「俺の一族は、あやかしの姿を見ることができる。中には被害を及ぼすあやかしもいるんだが、お前みたいに」

 完全に現れた弓に矢を添えて狒々に向けて構える。

「じいちゃんってお前、あの沖田総一郎の孫か!」

「いや違うんだけど。誰それ? このタイミングで人違いとかやめてくれるかな、俺もじいちゃんも恥ずかしいじゃねぇか」

「ふっ! 脅かしやがって! だったら恐れることはねぇぜ!」

 狒々ヒヒは一歩、窓に近寄る。恐らくこの部屋に入って襲おうとするのがわかる。

 躊躇なく俺は矢を放つ。こんな時にためらったり、相手の話を聞こうと隙を与えると予想外の出来事が起こったりするものだ。

 しかし俺にはそんな性分も優しさもない。あやかしと分かち合うつもりも共存も微塵もない。

 放たれた矢は狒々の胸元ど真ん中を射抜く。貫通した矢は夜空に向かって消えて行った。

 後ろに大の字で倒れる狒々は気を失っている。やがてその姿は消え、自分の巣に魂は戻っていく。

 用が済んだ弓は光の粒になって舞い上がりながらすっと消えていった。

      ※

 少しだけ積もった雪が眼下の寒さを物語る。

 紫の空に吐息は吸い込まれていく。

 湯気もまた、空の彼方に呼ばれては消える。

 深い眠りから覚め、凍えそうな景色を見ながら入る風呂の雰囲気は格別な味わい。

 朝焼けの瞬間、陽を覆う雲は幼子の頬のようなピンクに染まる。

 地上から空まで紫一色に染まる時間がある。この瞬間が俺はとても好きだ。

 一日の始まり、楽しかった昨日の余韻に浸る時もある。憂鬱な時もある。

 それでもまた陽は登ってくれる。新しい一日の始まり。

 全ての物に色眼鏡など無用のように紫一色。

 陽の存在を知らしめる時、この世界は瑠璃色になる。

「正確には空だけだよね。地上は緑に覆われているし」

「ちょっと黙っててくれるかな?」

「朝っぱらから一人お風呂に入ってブツブツ独り言を聞いてたら寂しいのかなと思って言ってあげたのに」

「余計なお世話。ってかなんでお前まだここにいるんだよ!」

「夜は結界張ってたから入れなかったのよ。やっと外してくれたから帰ってきたの。それよりお背中流しましょうか? お兄ちゃん」

「誰がお兄ちゃんだ」

 萌える、萌える展開だ。しかしこの展開に流されては相手のペースになる。ここは断固たる拒絶を……。
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