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第5章 悲しみ、涙、そして、願い

願いは誰のために -1

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 キノの目に浩司のひとみが映る。希由香の手の中にあった護りと同じ、闇色の光。

 あの石を、護符ごふのように握り締めていた希由香の気持ちがわかる。愛する男のひとみによく似た小石に、彼の幸せを祈る…それは彼女にとって、力の護りの発動よりも神聖で、意味のある…。

 強い目眩めまいに襲われ、キノの視界が回る。床が抜け、地の底へちて行くような感覚とともに、身体からだに感じる重力がゆがんだ。肩を揺する浩司の手を感じる。

「キノ、俺の声は聞こえるな? 目を閉じてゆっくり呼吸しろ」

 心配そうな浩司の声が、キノの頭に響く。

「もう一度…記憶に戻して…。希由香の持ってた護り…あの後、どこにやったのか、見つけなきゃ…」

「今は無理だ。これ以上やると、おまえの神経が参っちまう」

「でも…もう少しで…」

あせらなくてもいい。ラシャに降りてからでも、まだ時間はある」

「今…何時?」

 重い頭を持ち上げ、キノは目をらす。うつろなキノのの前で、部屋がぐにゃりと揺れていた。その視界が、浩司の胸にふさがれる。

「もうすぐ3時だ」

 浩司がキノを抱き上げる。

「4時になったらリシールのところへ行く。それまで、少し休め」

 キノをベッドに寝かせ、浩司が言った。ようやくその機能を取り戻したキノの目が、浩司をとらえる。

 見つめ合ったひとみから、浩司が目を伏せる。

「何も考えずに、頭を休めるんだ。俺は向こうの部屋にいる」

「ここにいて…ひとりで考え込むより、話してた方が…落ち着くの」

 しばらくその場に立ち尽くしていた浩司が、ベッドを背に座り込む。

「希由香が、どうしてあの街に行ったのか、わかったんでしょう…?」

「…俺に記憶は見えないが、おまえを通して感じ取れる。あいつは…」

 キノは目を閉じる。

「あの海を…見に行ったんだな」

「私も、初めて見る景色だったよ。夕陽が落ちる海…本当は、そこに降る雪も見たかったけど…」

「この辺りから見に行ける海は、朝陽は昇っても、夕陽には染まらない。雪もほとんど降らないしな」

「…どうしても、あの海が見たかった。でも、陽が沈む海なら、どこでもよかったわけじゃない。R市を選んだのは…浩司の住んでたところだから?」

 短い沈黙の後、浩司が口を開く。

「あいつはいつも、俺が好むものを知りたがった。だが、俺の嫌がることは敏感に感じ取って、無理に聞きはしない。両親や子供の頃について、希由香に話したことはなかった。いい想い出があるわけでもないしな。ただ…俺がR市の生まれで、そこで見る海が好きだと言ったことがある」

「だから…」

「それだけじゃない」

 その声にわずかなけんを感じ、キノは目を開いた。浩司の方に顔を向ける。

「海があかきらめく様子や、どんなふうに雪がそこに消えていくのか話すうちに、何年も目にしてないその風景が目に浮かんだ。そして、俺は…言っちまったんだ。いつか、おまえにも見せたい…と」

 額を手で覆った浩司が、天井を見上げる。

「あの海を見たいと言う希由香に、次の冬まで一緒にいたら連れて行ってやると答えた。俺にとっては、意味のない約束だった。そんな頃まで付き合うつもりはなかったからな。だが、あいつは…それをずっと憶えてて…」

 浩司は頭を抱え込んでうつむいた。その指に光るラシャの指輪を、キノはぼんやりと見つめる。薄紅うすべに色の透明な石。あの空とともに薄れて行った、水のの色。

「すごく、綺麗きれいだったよ。いつかまた見たいと思った。今度は、雪が降ってる時、浩司と一緒に…」

 振り向いた浩司が、キノを見る。

「希由香は、それが叶わない夢だって知ってた。だから、ひとりで行った。でも、寒くて、寂しくて…あなたを忘れるなんて、とても出来ないと思った」

「…俺を忘れなけりゃ、あいつは幸せになれない」

 心の痛みに、キノの表情がゆがむ。

「あなたも希由香も、お互いの幸せを願ってる。なのに、二人の幸せを重ねて考えることは出来ないなんて…悔しいよ」

 浩司が力なく微笑む。

「そういう運命だと思うしかないことは、世の中にいくらでもある」

 キノは湶樹の言葉を思い出す。何故なぜ護りを見つけるのが自分でなければならないのかとたずねた時、同じ言葉を聞いた。

 そういう運命…私が今こうして、別の世界にいる希由香を知り、浩司を知り、成就することのない二人の愛になげくのも、護りを見つけるのが私の使命だから? 世界を壊すことも救うことも出来る力…でも…。

 キノはふらつく身体を起こす。 
「護りが見つかって、世界は救われても、希由香が幸せになるわけじゃないよ」

 部屋の灯りに照らされ闇を際立たせた浩司のが、キノを見上げる。

「…そうだな」

 キノは眉を寄せる。

「じゃあ、どうして…」

 言いかけた言葉を飲み込み、キノは頭を振った。

 呪いをくことは考えるなって、浩司は言った。ラシャは、そんなことに護りを使わないって。でも…希由香のために護りを見つけたいってことは、つまり…。

「今は考えるな。もうすぐわかる」

 キノは深い溜息ためいきをついた。

 護りの在処ありかがわかったら…。

 浩司に視線を戻したキノは、黒い小石を思い浮かべる。

「希由香は、大切そうに護りを持ってたの。いつどこで手に入れたのかわからないけど、あの日偶然拾ったとは思えない」

「力の護りは、石だったか?」

 浩司のひとみをじっと見つめ、キノは切な気に微笑んで頷く。

「黒い、親指の先くらいの小石だった。真黒じゃなくて、少しだけ透明で闇の色の…まるで、浩司のみたいな」

「俺のは闇の色…か。おまえにも、そう見えるのか?」

「初めて見た時、の色じゃなく、その奥にある、黒よりも深い闇に…、とらわれちゃうと思ったよ。何度も見てるうちに、悲しみに胸がまった。何を見て…知ってしまったひとみなんだろうって」

 浩司が目を逸らす。

「闇は…それを持たない人間を引きつける。そこにひそむものに、好奇心をそそられるんだろう。俺に興味を持った女は、必ずこう聞いた。『今までに何があったの?』ってな。答えたことは一度もないが…」

「希由香も?」

「…あいつは何も聞かなかった。俺を取り巻くものが何なのかってことよりも、ただ…ここから俺を救い出したいと思ったんだろう。あいつ自身、闇の存在がどういうものか、知ってたからな」

「どうして…?」

「希由香のひとみにも闇があった。始めは…俺があいつに近づいたのは、一時でも、互いの孤独を忘れるために抱き合えればいいと思ったからだ。あいつにとっての俺も、それだけでよかった。だが…」

 希由香はあなたを愛した…そして、あなたも…。

「今でも全くわからない。どうして、あいつがここまで俺を思うのか…」

 まるで迷子の子供のように孤独で不安気な浩司の横顔に、キノの心が締め付けられる。

「せめて…今の俺に出来ることを、してやりたいんだ」

 静かな沈黙の中、ベッドのはしに座り、キノは浩司の肩に手を置いた。

「私もよ…」

 浩司が真直ぐにキノを見る。

「護りがどこにあろうと、その姿を知っているのは、おまえだけだ」

 キノのも、浩司の視線を真正面から捉える。

「たとえ道端にあったとしても、見間違ったりはしない。でも、適当な場所に捨てたなんてことはないと思う。もし、あの石を、お守りみたいに持ち歩いてたなら、今も、希由香のところにあるのかも…」

 二人は同時に時計を見る。3時58分。ゆっくりと立ち上がった浩司の差し出す手を取り、キノがうなずいた。


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