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第8章 はびこる不安
出発の朝 -1
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銀のフォークが皿を突く音に、白磁を擦るナイフの音が重なる。食器具の触れ合う高く繊細な音のみが響き、それらを動かす者たちの発する声はない。
窓の向こうで輝き始める朝陽の朗らかさとはおよそ不似合いな、重苦しい雰囲気の中で進む朝食。キノと涼醒、食事の不要なジーグ、そして、ジャルドと汐を加えた5人が囲む沈黙のテーブル。
食物を咀嚼し飲み下すというこの動作が、キノにとって今ほど労力を要するものだったことはない。不気味な緊張感の漂う静けさの中、指からすり抜けた銀器が皿の縁を叩き、堅牢な木の表面を打つ。
「ごめんなさい…」
慌てて拾い上げたナイフを脇に置き、キノが言った。
「そんなに堅苦しくしなくていいよ。静か過ぎるのがいけないな。私たちの親睦を深めるためにも、テーブルは楽しくないとね」
ジャルドの笑顔が4人を見まわす。
「護りの石が見つかるという喜ばしい日なのに、皆さん暗い顔をして…何か困ったことでも?」
「今はこれといってない。おまえが何も起こさんかぎりはな」
冷ややかに答えるジーグにわざとらしく肩を竦めて見せ、ジャルドは再びキノに目を向ける。
「希音さん。あんまり食べてないみたいだけど、それじゃ元気が出ないよ。毒なんかもちろん入ってないし…R市は遠いからね」
張り詰めたキノの神経はジャルドの言葉に対する反応を的確に判断し、それを身体の隅々までつつがなく伝達する。
「ありがとう。大丈夫よ。朝はいつもあまり食べないだけなの」
キノの顔が屈託のない笑みを作る。ジーグと涼醒も全く表情を変えず、目配せをするなどの愚も冒さない。
「涼醒君はどう? ラシャから降りたにしては元気そうだね。きみが護りの石を探しに来るなんて、イエルのリシールは人手不足なのかな? もしよかったら、誰でも使ってよ。浩司の代わりに私がついて行こうか?」
キノは息を飲む。けれども、隣に座る涼醒は落ち着いた声で返答をする。
「ありがたいけど遠慮しとくよ。お偉い継承者と一緒だと、希音も俺も緊張するしな。そっちが黙って傍観しててくれるなら、こっちからあんたの手を煩わせることはない。それは保証するよ」
「ヴァイの地に慣れない二人きりじゃ、何かと不便だと思ってね」
「知らない地より、知らない人間に慣れる方が難しいからな。人に気づかう神経を護りだけに向けとく方が賢明だろ? 俺にも地図は読めるし、人並みの体力もある。あとは、リシールの継承者のように一瞬で人を眠らせる超能力者や、誘拐グループに狙われないことを願うだけさ」
「…なるほどね。若くて生きがいいだけじゃなく、分別ある賢哲さも持ち合わせた護衛か。きみのような優秀な人材なら、うちにもほしいな」
「頭も口も上手くなけりゃ、人の上に立つ人間にはなれないらしい。あんたの頭も切れるんだろうな」
穏やかな口調で続くジャルドと涼醒の会話をハラハラしながら聞いていたキノは、はす向かいに座る汐とふと目が合った。
優しくて悲しい瞳…この人が護りを奪おうとしてるなんて、どうしても思えない。ジャルドとは違う…。
汐が微笑んだ。
同じ瞳を見たことがある…浩司じゃなくて…希由香が丘で会った、あの蒼い瞳の男と同じ微笑み…。
「くだらん腹芸はそこまでにしておけ」
ジーグが言った。
「ジャルドよ。この二人に手助けは不要、いかなる手出しも無用と承知してもらおう。お前も意識をなくしたくはあるまい?」
「ジーグがそう言うなら、よけいなお節介をするつもりはないよ。皆にも私から言っておくからね」
「今までの自分の言動から考えて、ラシャがおまえを信用すると思うか?」
ジャルドが、これ見よがしに考える素振りを見せる。
「それなら…こうするのはどう? 明日の夜明けまで、この館から出ることを皆に禁じる。もちろん、私を含めた4人の継承者たちも。それであなたたちの不安が消えるのであれば…いい考えだろう?」
キノはジーグを見た。ジーグは、ジャルドに視線を留めたまま黙っている。
「この辺りのリシールは、今ほとんどこの館に集まってるしね。ああ、ここにいない3人の継承者のことなら心配要らないよ。二人はそれぞれの館にいなければならないし、残るリージェイク・ソプカーは…知っての通り、継承者としては全くの腑抜けだからね。今夜中にはここに来る予定だけど、彼を警戒する必要はないだろう?」
「…余程の時にしか一族の集まりに顔を出さぬリージェイクが、今夜はいったい何をしに来るのだ?」
「そんなの知らないよ。護りの発見を祝おうって誘っても姿を見せなかったのに、さっき急にこっちに来るって連絡が入ったんだ。まあ、ちょうどいいかな。一緒に浩司を迎えられるし。私はまだ彼に会ったことがないから…楽しみだね」
ジーグが鼻先で笑う。
「おまえと浩司が仲良くなることなどあり得んと思うがな」
「そうかな…汐から聞く限りでは、私ととても気が合いそうな男だと思うけど。お互いの良き理解者になれるはずだよ」
「勝手に期待しているんだな」
その時、ポットを手に一人の女が部屋に入って来た。まだ20歳そこそこであろう可愛いらしい顔に、何かを恐れてでもいるかのような表情を貼りつけている。
「あっ! すみません…」
4人にコーヒーを注いで回っていた女が、怯えるような声で詫びた。キノのカップに注ぎ損ねた焦茶の液体を急いで拭き取りながら、頭を下げる。
「気にしないで」
キノが女に微笑むと、ジャルドは大げさに溜息をついた。
「きみは何をやらせてもヘマばかりするね。継承者の妹なら、もっと役に立ってもいいはずなのに」
「え…?」
キノは女を見つめた。俯くその顔は、確かに誰かと似ている。
「彼女は奏湖。ここにいる汐の妹だよ。年は10も離れてるけどね」
再び頭を下げ扉へと向かう奏湖を、ジャルドが呼び止める。
「奏湖。ちょっと待て」
ジャルドがジーグを見る。
「ジーグ。さっき提案したことだけど…この奏湖だけ例外にしてもいいかな? 今日はどうしても外せない授業があるらしいんだ。まだ学生の女一人くらい、何の妨害にもならないだろう? それでかまわないなら…約束してもいい。もし、明日の夜明けまでの間に、一族の誰か一人でもこの館から出たなら、私の力を全て返すってね。あなたが承知すればの話だけど」
ジャルドの言う提案は、キノには不可解なものだった。
窓の向こうで輝き始める朝陽の朗らかさとはおよそ不似合いな、重苦しい雰囲気の中で進む朝食。キノと涼醒、食事の不要なジーグ、そして、ジャルドと汐を加えた5人が囲む沈黙のテーブル。
食物を咀嚼し飲み下すというこの動作が、キノにとって今ほど労力を要するものだったことはない。不気味な緊張感の漂う静けさの中、指からすり抜けた銀器が皿の縁を叩き、堅牢な木の表面を打つ。
「ごめんなさい…」
慌てて拾い上げたナイフを脇に置き、キノが言った。
「そんなに堅苦しくしなくていいよ。静か過ぎるのがいけないな。私たちの親睦を深めるためにも、テーブルは楽しくないとね」
ジャルドの笑顔が4人を見まわす。
「護りの石が見つかるという喜ばしい日なのに、皆さん暗い顔をして…何か困ったことでも?」
「今はこれといってない。おまえが何も起こさんかぎりはな」
冷ややかに答えるジーグにわざとらしく肩を竦めて見せ、ジャルドは再びキノに目を向ける。
「希音さん。あんまり食べてないみたいだけど、それじゃ元気が出ないよ。毒なんかもちろん入ってないし…R市は遠いからね」
張り詰めたキノの神経はジャルドの言葉に対する反応を的確に判断し、それを身体の隅々までつつがなく伝達する。
「ありがとう。大丈夫よ。朝はいつもあまり食べないだけなの」
キノの顔が屈託のない笑みを作る。ジーグと涼醒も全く表情を変えず、目配せをするなどの愚も冒さない。
「涼醒君はどう? ラシャから降りたにしては元気そうだね。きみが護りの石を探しに来るなんて、イエルのリシールは人手不足なのかな? もしよかったら、誰でも使ってよ。浩司の代わりに私がついて行こうか?」
キノは息を飲む。けれども、隣に座る涼醒は落ち着いた声で返答をする。
「ありがたいけど遠慮しとくよ。お偉い継承者と一緒だと、希音も俺も緊張するしな。そっちが黙って傍観しててくれるなら、こっちからあんたの手を煩わせることはない。それは保証するよ」
「ヴァイの地に慣れない二人きりじゃ、何かと不便だと思ってね」
「知らない地より、知らない人間に慣れる方が難しいからな。人に気づかう神経を護りだけに向けとく方が賢明だろ? 俺にも地図は読めるし、人並みの体力もある。あとは、リシールの継承者のように一瞬で人を眠らせる超能力者や、誘拐グループに狙われないことを願うだけさ」
「…なるほどね。若くて生きがいいだけじゃなく、分別ある賢哲さも持ち合わせた護衛か。きみのような優秀な人材なら、うちにもほしいな」
「頭も口も上手くなけりゃ、人の上に立つ人間にはなれないらしい。あんたの頭も切れるんだろうな」
穏やかな口調で続くジャルドと涼醒の会話をハラハラしながら聞いていたキノは、はす向かいに座る汐とふと目が合った。
優しくて悲しい瞳…この人が護りを奪おうとしてるなんて、どうしても思えない。ジャルドとは違う…。
汐が微笑んだ。
同じ瞳を見たことがある…浩司じゃなくて…希由香が丘で会った、あの蒼い瞳の男と同じ微笑み…。
「くだらん腹芸はそこまでにしておけ」
ジーグが言った。
「ジャルドよ。この二人に手助けは不要、いかなる手出しも無用と承知してもらおう。お前も意識をなくしたくはあるまい?」
「ジーグがそう言うなら、よけいなお節介をするつもりはないよ。皆にも私から言っておくからね」
「今までの自分の言動から考えて、ラシャがおまえを信用すると思うか?」
ジャルドが、これ見よがしに考える素振りを見せる。
「それなら…こうするのはどう? 明日の夜明けまで、この館から出ることを皆に禁じる。もちろん、私を含めた4人の継承者たちも。それであなたたちの不安が消えるのであれば…いい考えだろう?」
キノはジーグを見た。ジーグは、ジャルドに視線を留めたまま黙っている。
「この辺りのリシールは、今ほとんどこの館に集まってるしね。ああ、ここにいない3人の継承者のことなら心配要らないよ。二人はそれぞれの館にいなければならないし、残るリージェイク・ソプカーは…知っての通り、継承者としては全くの腑抜けだからね。今夜中にはここに来る予定だけど、彼を警戒する必要はないだろう?」
「…余程の時にしか一族の集まりに顔を出さぬリージェイクが、今夜はいったい何をしに来るのだ?」
「そんなの知らないよ。護りの発見を祝おうって誘っても姿を見せなかったのに、さっき急にこっちに来るって連絡が入ったんだ。まあ、ちょうどいいかな。一緒に浩司を迎えられるし。私はまだ彼に会ったことがないから…楽しみだね」
ジーグが鼻先で笑う。
「おまえと浩司が仲良くなることなどあり得んと思うがな」
「そうかな…汐から聞く限りでは、私ととても気が合いそうな男だと思うけど。お互いの良き理解者になれるはずだよ」
「勝手に期待しているんだな」
その時、ポットを手に一人の女が部屋に入って来た。まだ20歳そこそこであろう可愛いらしい顔に、何かを恐れてでもいるかのような表情を貼りつけている。
「あっ! すみません…」
4人にコーヒーを注いで回っていた女が、怯えるような声で詫びた。キノのカップに注ぎ損ねた焦茶の液体を急いで拭き取りながら、頭を下げる。
「気にしないで」
キノが女に微笑むと、ジャルドは大げさに溜息をついた。
「きみは何をやらせてもヘマばかりするね。継承者の妹なら、もっと役に立ってもいいはずなのに」
「え…?」
キノは女を見つめた。俯くその顔は、確かに誰かと似ている。
「彼女は奏湖。ここにいる汐の妹だよ。年は10も離れてるけどね」
再び頭を下げ扉へと向かう奏湖を、ジャルドが呼び止める。
「奏湖。ちょっと待て」
ジャルドがジーグを見る。
「ジーグ。さっき提案したことだけど…この奏湖だけ例外にしてもいいかな? 今日はどうしても外せない授業があるらしいんだ。まだ学生の女一人くらい、何の妨害にもならないだろう? それでかまわないなら…約束してもいい。もし、明日の夜明けまでの間に、一族の誰か一人でもこの館から出たなら、私の力を全て返すってね。あなたが承知すればの話だけど」
ジャルドの言う提案は、キノには不可解なものだった。
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