47 / 83
第9章 それぞれの役目
狩りの始まり -1
しおりを挟む
涼醒は、険しい瞳で窓ガラスの外を凝視している。
「どうかしたの?」
キノが小声で尋ねる。
「朝通った道と違うな…。本当にN橋に向かってるのか?」
疑いの声を上げる涼醒をサイドミラーに捉え、運転手が笑った。
「タクシーは抜け道を通るもんです。心配しなくても、もうすぐそこだ。で、どっちにします?」
「どっちって、何がだよ?」
「お客さんたち…ラブホテルに行くんじゃないの? あそこに行きたいカップルは皆、N橋のところって言うからてっきり…」
「N橋の近くの家に用があるだけだ。女を連れ込む時だったら、もっと楽しそうな顔してるさ」
鏡の中で涼醒と目を合わせた運転手が、苦笑した。タクシーを路肩に停め、二人を振り返る。
「もうここがN橋だけど…この辺りでいいんですかい?」
キノは辺りを見まわした。
10メートルほど行った先の右手に、2、3軒あるラブホテルのネオンサインが煌々と光っている。けれども、館のある丘へと続く森どころか、橋らしきものの姿さえも見当たらない。
「橋はどこなの?」
キノの言葉に、運転手が微笑む。
「お客さん、地元の人じゃないね。N橋ってのは、昔あった湖にかかってた橋で、今はもうないんですよ。その跡地のことを、この辺の人間は何故かそう呼んでるんです。桜やなんかの木が植えられてて、春は賑わいます。池もあってね」
「それがここ?」
「そこに土手を降りる階段があるが…何せ広い場所でね。お客さんの行きたい家の近くに、ほかの目印はないの?」
「丘があって…そこを下りた大通りにあるバス停が、N橋って書いてあったから、近くにそんな名前の橋があるんだろうと思ってたの。その家の人も、N橋って言えばわかるって」
「ああ、そりゃあっち側だ。ここからじゃ建物に隠れて見えないが、向こうに小高い森がある」
運転手は左前方を指差した。
「私の早とちりから遠回りすることになっちまって…すいません」
「ううん、平気よ。無事に着けば、問題ないよね?」
キノが隣を見ると、涼醒は無言で前方に目を凝らしている。
「涼醒?」
「前の車…何か気になるな」
タクシーの30メートル前、ラブホテルの真向かいの路肩に、一台の車が停車している。
「バス停は、この反対側なんだろ? そこに行く前に、あの車の横…出来るだけゆっくり通ってくれないか」
涼醒がそう言うと、運転手は怪訝そうな顔でうなずいた。
「希音、頭引っ込めてろ」
キノは言われた通り、運転席のシートの陰に身を屈める。涼醒も同じように頭を下げ、左に目を向けている。
発進したタクシーは、しばらくの間のろのろと走り加速した。身体を起こす涼醒を見つめながら、キノもそれに倣う。
「涼醒…?」
「…リシールが二人乗ってた」
キノと涼醒は同時に後ろを振り返った。追ってくる気配はない。遠ざかる車が、闇に飲み込まれて行く。
「あの車がどうかしたんですかい?」
二人の様子を見て、運転手が尋ねる。
「何でもないんだ。喧嘩してる友だちの車に似てたから、会いたくない奴らが乗ってるかと思ってさ。でも、違ったらしい」
涼醒は前に向き直り、息をついた。運転手がおかしそうに笑う。
「お客さんたちくらいの、若いカップルでしたよ。ホテルの前まで来て、喧嘩でもしたんでしょう。そういや二人とも、じっとこっちを見てたな」
キノと涼醒の視線が絡む。
「大丈夫だ」
口を開きかけたキノの手を優しく握り、涼醒が囁いた。
5分足らずで、今朝奏湖の車で通った大通りに出た。見覚えのあるバス停留所の標識が見えて来る。
「バス停のところでいいのかい? 何だったら、その家まで乗せて行きますよ。回り道したお詫びにサービス料金で」
タクシーの速度を徐々に落としながら、運転手が言った。
「…その先を右に入って、少し行ったところで停めてくれ」
涼醒の指示した場所で停まったタクシーの左手に、鬱蒼とした森へと続く道がある。そして、その先には、闇への入口のような門があった。
鉄柵で出来たその黒銀の扉は、わずかに口を開けているように見える。
「あの門…夜は閉まってるって、奏湖さん言ってたよね…」
キノが静かにつぶやいた。その心が感じているのは、嫌な予感ではない。目前に迫るつつある危機への警告だった。
「この後はどうします?」
呑気な声で尋ねた運転手が、窓の外を真剣に見入っている二人の姿に眉を寄せる。
「お客さん?」
「運転手さんなら…この辺りの地理には詳しいはずだし、運転にも自信あるよな?」
涼醒が、努めて自然な調子で言った。
「そりゃあもちろんだが…いったいどうしたっていうんです?」
「少しここで待っててくれないか? すぐに戻る」
「何かまずいことでも?」
「仲間とゲームをしてる。捕まらずに、早く家に着いた方が勝ちなんだ。鬼がいないかどうか…見て来るだけさ」
「…揉め事は困りますよ」
「それなら心配要らない。警察を呼ぶようなことは起きない。ただの鬼ごっこだからな。金は今払う」
涼醒が多めの金を手渡すと、運転手は呆れ顔で笑い、後部座席のドアを開けた。
「すぐ出せるようにしときますかい?」
「そうしてくれ…。馬鹿げた遊びにつき合わせて悪いな」
タクシーから降りた涼醒は、キノの手をしっかりと握る。
「希音、奴らがいたら、全力で走れ」
「わかった」
それが道のどちらに向かってなのか、確認の必要はなかった。
この暗闇の森の中、追っ手を躱しながら2キロの道のりを館まで走り抜けることが可能だと思うほど、キノの思考は不安に冒され麻痺してはいない。
「どうかしたの?」
キノが小声で尋ねる。
「朝通った道と違うな…。本当にN橋に向かってるのか?」
疑いの声を上げる涼醒をサイドミラーに捉え、運転手が笑った。
「タクシーは抜け道を通るもんです。心配しなくても、もうすぐそこだ。で、どっちにします?」
「どっちって、何がだよ?」
「お客さんたち…ラブホテルに行くんじゃないの? あそこに行きたいカップルは皆、N橋のところって言うからてっきり…」
「N橋の近くの家に用があるだけだ。女を連れ込む時だったら、もっと楽しそうな顔してるさ」
鏡の中で涼醒と目を合わせた運転手が、苦笑した。タクシーを路肩に停め、二人を振り返る。
「もうここがN橋だけど…この辺りでいいんですかい?」
キノは辺りを見まわした。
10メートルほど行った先の右手に、2、3軒あるラブホテルのネオンサインが煌々と光っている。けれども、館のある丘へと続く森どころか、橋らしきものの姿さえも見当たらない。
「橋はどこなの?」
キノの言葉に、運転手が微笑む。
「お客さん、地元の人じゃないね。N橋ってのは、昔あった湖にかかってた橋で、今はもうないんですよ。その跡地のことを、この辺の人間は何故かそう呼んでるんです。桜やなんかの木が植えられてて、春は賑わいます。池もあってね」
「それがここ?」
「そこに土手を降りる階段があるが…何せ広い場所でね。お客さんの行きたい家の近くに、ほかの目印はないの?」
「丘があって…そこを下りた大通りにあるバス停が、N橋って書いてあったから、近くにそんな名前の橋があるんだろうと思ってたの。その家の人も、N橋って言えばわかるって」
「ああ、そりゃあっち側だ。ここからじゃ建物に隠れて見えないが、向こうに小高い森がある」
運転手は左前方を指差した。
「私の早とちりから遠回りすることになっちまって…すいません」
「ううん、平気よ。無事に着けば、問題ないよね?」
キノが隣を見ると、涼醒は無言で前方に目を凝らしている。
「涼醒?」
「前の車…何か気になるな」
タクシーの30メートル前、ラブホテルの真向かいの路肩に、一台の車が停車している。
「バス停は、この反対側なんだろ? そこに行く前に、あの車の横…出来るだけゆっくり通ってくれないか」
涼醒がそう言うと、運転手は怪訝そうな顔でうなずいた。
「希音、頭引っ込めてろ」
キノは言われた通り、運転席のシートの陰に身を屈める。涼醒も同じように頭を下げ、左に目を向けている。
発進したタクシーは、しばらくの間のろのろと走り加速した。身体を起こす涼醒を見つめながら、キノもそれに倣う。
「涼醒…?」
「…リシールが二人乗ってた」
キノと涼醒は同時に後ろを振り返った。追ってくる気配はない。遠ざかる車が、闇に飲み込まれて行く。
「あの車がどうかしたんですかい?」
二人の様子を見て、運転手が尋ねる。
「何でもないんだ。喧嘩してる友だちの車に似てたから、会いたくない奴らが乗ってるかと思ってさ。でも、違ったらしい」
涼醒は前に向き直り、息をついた。運転手がおかしそうに笑う。
「お客さんたちくらいの、若いカップルでしたよ。ホテルの前まで来て、喧嘩でもしたんでしょう。そういや二人とも、じっとこっちを見てたな」
キノと涼醒の視線が絡む。
「大丈夫だ」
口を開きかけたキノの手を優しく握り、涼醒が囁いた。
5分足らずで、今朝奏湖の車で通った大通りに出た。見覚えのあるバス停留所の標識が見えて来る。
「バス停のところでいいのかい? 何だったら、その家まで乗せて行きますよ。回り道したお詫びにサービス料金で」
タクシーの速度を徐々に落としながら、運転手が言った。
「…その先を右に入って、少し行ったところで停めてくれ」
涼醒の指示した場所で停まったタクシーの左手に、鬱蒼とした森へと続く道がある。そして、その先には、闇への入口のような門があった。
鉄柵で出来たその黒銀の扉は、わずかに口を開けているように見える。
「あの門…夜は閉まってるって、奏湖さん言ってたよね…」
キノが静かにつぶやいた。その心が感じているのは、嫌な予感ではない。目前に迫るつつある危機への警告だった。
「この後はどうします?」
呑気な声で尋ねた運転手が、窓の外を真剣に見入っている二人の姿に眉を寄せる。
「お客さん?」
「運転手さんなら…この辺りの地理には詳しいはずだし、運転にも自信あるよな?」
涼醒が、努めて自然な調子で言った。
「そりゃあもちろんだが…いったいどうしたっていうんです?」
「少しここで待っててくれないか? すぐに戻る」
「何かまずいことでも?」
「仲間とゲームをしてる。捕まらずに、早く家に着いた方が勝ちなんだ。鬼がいないかどうか…見て来るだけさ」
「…揉め事は困りますよ」
「それなら心配要らない。警察を呼ぶようなことは起きない。ただの鬼ごっこだからな。金は今払う」
涼醒が多めの金を手渡すと、運転手は呆れ顔で笑い、後部座席のドアを開けた。
「すぐ出せるようにしときますかい?」
「そうしてくれ…。馬鹿げた遊びにつき合わせて悪いな」
タクシーから降りた涼醒は、キノの手をしっかりと握る。
「希音、奴らがいたら、全力で走れ」
「わかった」
それが道のどちらに向かってなのか、確認の必要はなかった。
この暗闇の森の中、追っ手を躱しながら2キロの道のりを館まで走り抜けることが可能だと思うほど、キノの思考は不安に冒され麻痺してはいない。
0
あなたにおすすめの小説
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
【完結】「別れようって言っただけなのに。」そう言われましてももう遅いですよ。
まりぃべる
恋愛
「俺たちもう終わりだ。別れよう。」
そう言われたので、その通りにしたまでですが何か?
自分の言葉には、責任を持たなければいけませんわよ。
☆★
感想を下さった方ありがとうございますm(__)m
とても、嬉しいです。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
忖度令嬢、忖度やめて最強になる
ハートリオ
恋愛
エクアは13才の伯爵令嬢。
5才年上の婚約者アーテル侯爵令息とは上手くいっていない。
週末のお茶会を頑張ろうとは思うもののアーテルの態度はいつも上の空。
そんなある週末、エクアは自分が裏切られていることを知り――
忖度ばかりして来たエクアは忖度をやめ、思いをぶちまける。
そんなエクアをキラキラした瞳で見る人がいた。
中世風異世界でのお話です。
2話ずつ投稿していきたいですが途切れたらネット環境まごついていると思ってください。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
旦那様に学園時代の隠し子!? 娘のためフローレンスは笑う-昔の女は引っ込んでなさい!
恋せよ恋
恋愛
結婚五年目。
誰もが羨む夫婦──フローレンスとジョシュアの平穏は、
三歳の娘がつぶやいた“たった一言”で崩れ落ちた。
「キャ...ス...といっしょ?」
キャス……?
その名を知るはずのない我が子が、どうして?
胸騒ぎはやがて確信へと変わる。
夫が隠し続けていた“女の影”が、
じわりと家族の中に染み出していた。
だがそれは、いま目の前の裏切りではない。
学園卒業の夜──婚約前の学園時代の“あの過ち”。
その一夜の結果は、静かに、確実に、
フローレンスの家族を壊しはじめていた。
愛しているのに疑ってしまう。
信じたいのに、信じられない。
夫は嘘をつき続け、女は影のように
フローレンスの生活に忍び寄る。
──私は、この結婚を守れるの?
──それとも、すべてを捨ててしまうべきなの?
秘密、裏切り、嫉妬、そして母としての戦い。
真実が暴かれたとき、愛は修復か、崩壊か──。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる