この世界よりも、あなたを救いたい~幸運がいつもあなたのそばにあるように~

Kinon

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第10章 夜明け前の攻防

チェイス -3

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 階段は向こうのはし…下まで行けば、出口の前に支払いの窓口がある。ホテルの人がいるところは安全だと思いたい。後は、外に出てどうするか…。

 コの字型の廊下を曲がろうとしたキノは、階段の手前にあるエレベーター付近からの人声に足を止めた。

 まさか…!

 考えている暇はない。キノは途中にあった自販機コーナーへと引き返す。幸いにも、そこには廊下から死角になる空間があった。

 キノが身を隠すのと同時に、一組の男女がその前を通る。

 入口で会った女かどうかはわからない。そして、これからセックスをするような雰囲気の微塵みじんもないこの二人の姿を、キノは目にしていない。けれども、キノは彼らが自分を追ってきたリシールだと確信する。

 キノが部屋を選んだ時点でこのフロアは満室であり、この20分足らずの間に退室したカップルがいる可能性は低い。

 私がいた部屋に向かったなら、ここは見えないはず。落ち着いてゆっくり…早く、外に出なきゃ…。

 キノは深呼吸をし、再度廊下に忍び出た。ささやき声とともに聞こえて来るかすかな金属音を背に、け出したくなる気を抑え歩いていく。

 何度も後ろを振り返りながら階段を降りきったキノは、早過ぎる退室を殊更ことさらいぶかしがられることもなく出口を通った。



 タクシーは、ここに呼ばない方がいい。せめて隣のホテルか、どこか別のわかりやすいところに…。

 薄暗い駐車場を急ぐキノの目が、路地に一番近い場所にある車にまる。
 一瞬、キノも車内にいる二人も、自分と目を合わせている人物が何者かわからず、ただじっと互いを見つめ合う。
 次の瞬間、キノはさとった。

 この人たちも…リシールだ!

 きびすを返しけ出すキノの耳に、車のドアを開閉する音が相次いで聞こえる。リシールたちも、キノが誰かを認識したらしい。
 自分たちの探す、護りを持つ者であると。

 建物のわきを全力で走っていたキノは、垣根かきねの前で足を止めた。
 石や鉄の塀ではない。密集して植えられた庭木で作られた垣根なら、通り抜けることは出来る。平たく刈り込まれた2メートル強の高さの木々は、隣のホテルを囲んでいるものらしかった。

 向こう側が見えぬほどに茂り合う枝をき分け、キノは頭を下げて身体からだを押し込んだ。肌をく荒い枝先から目だけを守り、隣の敷地へと抜ける。
 そこは建物の裏手にあたり、いくつかの物置と駐車している車の列、そして、ホテルへの入口に路地へ続く道と、身を隠す場所も逃走路も様々にある。

 キノは斜め前方を見やった。

 あそこに…。

 ひりひりする頬を気にもかけず、キノはもう一辺の垣根に急いでもぐり込む。

 間一髪で、リシールたちが垣根を超えてくる前に、キノは更に次の垣根の向こう側に消えていた。足音を忍ばせてその場を離れるキノの後ろで、キノを見失った二人が何かを言い交わす声が遠くなる。

 キノは静かに大通りへと走り出した。



 タクシーを呼んで…時間を稼ごう。そして、護りを…。

 人気のない通りを横切り、キノはN橋に下りる土手沿いを行く。

 N橋のところに下りて、ラブホテルの向かいの土手の前にタクシーを呼んで、来るまで下で待ってれば…見つかる前に乗れさえすれば、何とかなる…。

 キノが大通りへと出た路地は、入った横道の一本手前だった。ラブホテルを右前方に、キノは昨夜のタクシー運転手が言っていた階段を左下に探す。

 早くしないと…。

 60メートルほど先、急勾配の芝生の土手の間に、人口の岩肌で作られた階段が見えた。
 それと気づかぬうちに明度を増して行く闇の中。白に近い灰色のコンクリートが、青白い光苔ひかりごけに覆われているかのようにうっすらと浮かび上がっている。

 あった…あれだ。

 ほっとして緊張を緩めたキノの表情が、またたく間に凍りつく。
 ホテルに続く道から飛び出して来た一台の車が、キノの斜め前方に停車した。路肩にうずくまった車体の両脇りょうわきから降り立った二つの人影が、キノを正面に見据える。

 逃げ…なくちゃ…。

 咄嗟とっさに振り返ったキノの身体からだが硬直する。後方に、ライトを消した黒い車が停車しているのが見えた。

 今から呼んでも、警察は間に合わない。人通りのない、車も滅多に通らないここで、どうしたら…。

 キノは呆然と辺りを見まわした。

 後方の車のドアが開けられ、車内ライトが点灯する。運転席に一人を残し、助手席の一人だけが降りてくる。

 ごめんね…涼醒。せっかくいっぱい助けてくれたのに…私、考えが甘かったみたい…。

 通りを横切って来る二人も、後方からやってくる者も、もう急いではいなかった。

 おびえて足をすくめるか弱い獲物。傷を負って動けない哀れな獲物。ただ静かに悠然ゆうぜんとそれに手を下す強者のように、ゆっくりと近づいて来るリシールの猟者りょうしゃたち。

 このくらいの高さなら、飛び下りてもきっと平気。逃げ切れる可能性はほとんどなくても、N橋を突っ切って…館に向かいたい。そして、つかまった時は…。

 暗い土手を見つめながら、キノは覚悟を決める。

 護りはラシャに戻るよ。でも、発動は出来ないかもしれない…。浩司、ごめんなさい…!

 足を踏み出そうとしたその時、視界のはしよぎった白いものを、キノは反射的に目で追った。
 薄れ始めた朝の闇を、白い車が疾走している。高回転にうなるエンジンの音を響かせながら、ホテルの先にある交差点を、すさまじいスピードで右折してくる。
 キノからそれぞれ30メートル足らずの場所にいた3人のリシールたちも、突進とっしんしてくる車に目を見開き足を止めている。

 路上の二人が、叫び声を上げて進路から飛びのいた。それと同時にキノの前を通り過ぎた車が、ブレーキランプをあかく点灯する。タイヤが路面に摩擦まさつする悲鳴が一声、朝露あさもやの湿気を帯びた空気を切り裂いた。
 ヘッドライトの明りが半円を描くように路面をめ、その車体が、放心したように立ちすくむキノの目前で停まった。

「キノ! 早く乗れ!」

 開かれた窓から聞こえたその声に、キノは一瞬のためらいもなく助手席のドアノブをつかんだ。
 中をのぞき込んで確認する必要はない。今、このヴァイの地において、キノをではなくと呼び得る唯一ゆいいつ人の者。

 キノはこの声を知っている。
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