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第12章 祈り
知らないほうが幸せか -1
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丘の上に建つリシールの館。その2階にある客室では、窓から時折流れ込む風がカーテンの裾を持ち上げ、部屋の明度を移ろわせていた。
そろそろ、秋の陽が南の空を過ぎる頃だろうか。キノがベッドに横たわってから1時間あまり。疲れきった心と身体を休めるためにしばしの眠りが必要だとわかっているにもかかわらず、キノは未だ明瞭な意識を手放せずにいる。
眠れない…。
虚ろな瞳を見えない空へと向け、キノは溜息をついた。
早く眠れば、すぐ夕方になる…。そうすれば、頭も身体もちゃんとして、浩司の話が聞ける…。
張り詰めていたキノの神経は弛緩し、精神的にある種の平穏が訪れはしたが、キノの脳裏には数々の疑問が列を成したままだった。そして、心に巣くう不穏な騒めきは、残された唯一の不安を軸に渦巻き続けている。
長い1日がやっと過ぎて…護りは今ここに無事にあって、明日ラシャに戻るのを待つばかり…そして、浩司の祈りを発動する。それが何か…すぐにでも聞きたかったのに…。
キノは目を閉じる。
護りを見つけたいって、自分から思ったのは、浩司がそれを望んだから。何かを知らなくても、『希由香にしてやれることがひとつある』その言葉だけで、納得出来たから。だけど、今は…。
キノの瞼の裏には浩司の瞳が浮かび、先刻の階下での会話が繰り返し耳に響く。
「おまえが何を知るべきか、俺が何を話さなけりゃならないか…。だが、その前にやることがある。それに、落ち着いてから話したい」
「私が…?」
「…俺もだ」
「何を祈るかを教えるだけなのに? 心構えが要るのは私? それとも浩司? 聞くのが怖いよ。でも…知らないままじゃいられない」
「キノ…」
「浩司の望みは、私にわかってあげられるもの?」
「おまえが…あいつとして聞くんじゃなけりゃな」
「え…?」
「…話すのは、夕方まで待ってくれないか。おまえには休む時間が、俺には…確かめる時間が必要だ」
「何を…?」
喜びではなく悲しみの色濃い饗宴を終えた後のような静けさの中、眠る奏湖をその腕に抱き、ジャルドは部屋を後にした。
キノの首筋にあった紅い線は、ほとんどがナイフについていたリージェイクの血で、皮膚はほんのわずかに切れていただけだった。真先に駆け寄ってそれを確認した涼醒は、微かに震える指先でキノの手を握り、その場に座り込んだ。
汐と浩司が静かな囁きを交わし、リージェイクは閉じた扉に遠い瞳を向けていた。
キノは、涼醒の手を握り締めて言いたいことがあった。汐とリージェイクに聞きたいことがあった。けれども、今一番に求め欲するのは、浩司の胸に秘められた切なる望みを知ることだと自覚していた。
キノが口を開く前に、浩司が言った。
「キノ。何か口に入れて、少し眠れ。昨日からずっと…特に昨夜は一晩中、神経使って逃げ回ってたんだ。疲れきってるだろう。涼醒もだ。おまえは、その傷も手当しなけりゃな。シャワーでも浴びて来い」
「私…その前に、浩司に…」
「護りはもう安全だ。話す時間はまだ充分ある。今はまず…休め」
キノは浩司を見つめた。その瞳に込めた思いから、浩司は目を逸らさずに、けれども、聞き届ける時は今ではないと答えた。
『何を…?』
キノのその問いに、浩司は微笑んだ。何も言葉を返さずに、ただ微笑んだだけだった。けれども、浩司の瞳は、はっきりとした答えを表していた。
そこに湛たえる闇も暗い光もそのままに、ただその奥に閉じ込められた心がわずかに溢れ出したかのように、浩司の瞳はいつもと違う色に染められていた。キノを見る時とは異なる、希由香を見つめる時に一瞬見せる、胸を軋ませるほどに切ない瞳。
キノはそれ以上尋ねることも言い募ることもせず、汐の用意した客室へと落ち着いた。
何を食べたのか、シャワーの水が温かいものであったかどうかすらすでに記憶の彼方へと押しやられたキノの心は、ある一点にのみ向けられひたすら不安の出口が開くのを待っている。
私はきっと…浩司の望みをわかってあげられない。もう不安には収まりきらない、それは確かなもの。希由香としてじゃなく私自身が聞いても同じ…だって、希由香の思いに共鳴出来る私が、希由香の拒むことに賛成出来るとは思えないから…。怖い。私の心が受けた使命を果たすのは、まだこれからなのかもしれない…。
壁の向こう、隣の部屋からの物音が、キノの目を再び開かせた。椅子か何かが床に倒れたような音の後に、窓を開閉する音が続く。
涼醒も…まだ寝てないんだ。シャワーを浴びた後、一緒に食事して、部屋の前で別れるまで…私だけじゃなく涼醒も口数が少なかった。私の不安が伝染しちゃったのかな…。それとも、涼醒にも、何かまだ不安に思うことがあるの? 護りはもう無事でも、私に残る不安を知ってるから…?
キノは窓の方へと顔を向けた。裾を揺らすカーテンと、その向こうからちらちらと射し込む陽の光をぼんやりと眺める。
これまで充分過ぎるほど力になってくれた涼醒に、ありがとうしかまだ言ってない。浩司の祈りを知って、ちゃんと納得して…護りをラシャに持ち帰って、全てが終わったら…涼醒に伝えたいことがある。でも、本当は、今すぐそばに来て大丈夫だって言ってほしいよ。私…涼醒に甘え過ぎてる。ひとりで立たなきゃいけないところもあるって、頭ではわかってるのに…。
キノは目を緩めに閉じ、ゆっくりと吸った息を徐々に吐き出した。何度か繰り返すうちに、脳裏を巡る記憶の群れがぼやけ、離散して行く。
浩司があの時見てたのは、私じゃない。確かめたいのは自分の心? それとも、希由香の心…? 希由香は…悲しまないことより、愛することを選ぶ…それを誰よりもわかってるのは…。
浩司の瞳が白い霞に消え入り、キノの心は波間を漂うような微睡みへと彷徨い始めた。
その下方に闇を深める暗底に、まだ光は届かない。
☆☆☆
急がなければ…ラシャからの引きが始まる前に、これをイエルへ…。
自らの意思ではなく別の何かが、キノの意識を支配していた。頭の根底を司るその思考も感覚も、キノのものでありながらそうではない。
何だ? 空間が…開く…!? あれはヴァイの出口…開いたのは…シェラ? 彼女が道を? 何故…。
歪んだ道の現れを感じた。それと同時に、もう一方から押し寄せて来る強大な力を。
いけない…! このままでは、この力が…!
ほんの数秒の間に、全ては決した。
片側から開かれた外界との境の歪み。ラシャからの作為引力。不測の事態による空間のうねり。それらが複雑に作用し合い、無の空間内に亀裂を生んだ。
二つに分離された力の護り。その本体はシェラの身が無事であることを発動され、ヴァイの地に続く孔道へ。封印された力は予期せぬ空間の裂け目に吸い込まれ、鎖された地クリムへと消えた。そして、そこに残すはずだった自らの力は、まるで意図せぬ力に呼ばれるかのように、イエルの地へと放たれるのを感じた。
☆☆☆
驚異的な俊敏さで成されたことと、次いで起こったことの全てを、キノが理解し得たわけではない。けれども、潜在と顕在の狭間を行き交うキノの意識は、解かれた謎と新たな謎を認識するに至る。
不確かな眠りから醒めたキノの目に視覚が戻る。薄く開いた瞼の隙間から、巨大な銀の塊が見える。
これ…は…私…?
夢と現実が一瞬交差し、キノは固く目を閉じ頭を振った。再び開いた目に映ったのは、自分の指にはまる銀色の指輪だった。身体を起こし、深い息を吐く。
二つの護りの行方を見届け意識を断った者。それが誰であるか、キノにははっきりとわかった。彼の夢を見たのは、これが初めてではない。
明瞭に思い出すことの出来る3度の夢は、131年前、『誰が』『何故』力の護りをラシャから持ち去り、その後『どうなった』のかを物語っている。そして、もし、これらが実際に起こった現実であるならば、何故キノが夢に見ることが出来るのか。
三つ目の夢の中で、キノは彼の視点を持っていた。そして、自分自身のものではない感情も。それは、希由香の記憶に同調することに酷似していた。
「カイラ…」
キノのつぶやきを、涼しさを増した風が攫う。紅く染まる空が、街並の西へ去ろうとしている。
抜け出したベッドを整え、勢い良く開いたカーテンを両脇に纏めると、キノはゆっくりと部屋を後にした。
そろそろ、秋の陽が南の空を過ぎる頃だろうか。キノがベッドに横たわってから1時間あまり。疲れきった心と身体を休めるためにしばしの眠りが必要だとわかっているにもかかわらず、キノは未だ明瞭な意識を手放せずにいる。
眠れない…。
虚ろな瞳を見えない空へと向け、キノは溜息をついた。
早く眠れば、すぐ夕方になる…。そうすれば、頭も身体もちゃんとして、浩司の話が聞ける…。
張り詰めていたキノの神経は弛緩し、精神的にある種の平穏が訪れはしたが、キノの脳裏には数々の疑問が列を成したままだった。そして、心に巣くう不穏な騒めきは、残された唯一の不安を軸に渦巻き続けている。
長い1日がやっと過ぎて…護りは今ここに無事にあって、明日ラシャに戻るのを待つばかり…そして、浩司の祈りを発動する。それが何か…すぐにでも聞きたかったのに…。
キノは目を閉じる。
護りを見つけたいって、自分から思ったのは、浩司がそれを望んだから。何かを知らなくても、『希由香にしてやれることがひとつある』その言葉だけで、納得出来たから。だけど、今は…。
キノの瞼の裏には浩司の瞳が浮かび、先刻の階下での会話が繰り返し耳に響く。
「おまえが何を知るべきか、俺が何を話さなけりゃならないか…。だが、その前にやることがある。それに、落ち着いてから話したい」
「私が…?」
「…俺もだ」
「何を祈るかを教えるだけなのに? 心構えが要るのは私? それとも浩司? 聞くのが怖いよ。でも…知らないままじゃいられない」
「キノ…」
「浩司の望みは、私にわかってあげられるもの?」
「おまえが…あいつとして聞くんじゃなけりゃな」
「え…?」
「…話すのは、夕方まで待ってくれないか。おまえには休む時間が、俺には…確かめる時間が必要だ」
「何を…?」
喜びではなく悲しみの色濃い饗宴を終えた後のような静けさの中、眠る奏湖をその腕に抱き、ジャルドは部屋を後にした。
キノの首筋にあった紅い線は、ほとんどがナイフについていたリージェイクの血で、皮膚はほんのわずかに切れていただけだった。真先に駆け寄ってそれを確認した涼醒は、微かに震える指先でキノの手を握り、その場に座り込んだ。
汐と浩司が静かな囁きを交わし、リージェイクは閉じた扉に遠い瞳を向けていた。
キノは、涼醒の手を握り締めて言いたいことがあった。汐とリージェイクに聞きたいことがあった。けれども、今一番に求め欲するのは、浩司の胸に秘められた切なる望みを知ることだと自覚していた。
キノが口を開く前に、浩司が言った。
「キノ。何か口に入れて、少し眠れ。昨日からずっと…特に昨夜は一晩中、神経使って逃げ回ってたんだ。疲れきってるだろう。涼醒もだ。おまえは、その傷も手当しなけりゃな。シャワーでも浴びて来い」
「私…その前に、浩司に…」
「護りはもう安全だ。話す時間はまだ充分ある。今はまず…休め」
キノは浩司を見つめた。その瞳に込めた思いから、浩司は目を逸らさずに、けれども、聞き届ける時は今ではないと答えた。
『何を…?』
キノのその問いに、浩司は微笑んだ。何も言葉を返さずに、ただ微笑んだだけだった。けれども、浩司の瞳は、はっきりとした答えを表していた。
そこに湛たえる闇も暗い光もそのままに、ただその奥に閉じ込められた心がわずかに溢れ出したかのように、浩司の瞳はいつもと違う色に染められていた。キノを見る時とは異なる、希由香を見つめる時に一瞬見せる、胸を軋ませるほどに切ない瞳。
キノはそれ以上尋ねることも言い募ることもせず、汐の用意した客室へと落ち着いた。
何を食べたのか、シャワーの水が温かいものであったかどうかすらすでに記憶の彼方へと押しやられたキノの心は、ある一点にのみ向けられひたすら不安の出口が開くのを待っている。
私はきっと…浩司の望みをわかってあげられない。もう不安には収まりきらない、それは確かなもの。希由香としてじゃなく私自身が聞いても同じ…だって、希由香の思いに共鳴出来る私が、希由香の拒むことに賛成出来るとは思えないから…。怖い。私の心が受けた使命を果たすのは、まだこれからなのかもしれない…。
壁の向こう、隣の部屋からの物音が、キノの目を再び開かせた。椅子か何かが床に倒れたような音の後に、窓を開閉する音が続く。
涼醒も…まだ寝てないんだ。シャワーを浴びた後、一緒に食事して、部屋の前で別れるまで…私だけじゃなく涼醒も口数が少なかった。私の不安が伝染しちゃったのかな…。それとも、涼醒にも、何かまだ不安に思うことがあるの? 護りはもう無事でも、私に残る不安を知ってるから…?
キノは窓の方へと顔を向けた。裾を揺らすカーテンと、その向こうからちらちらと射し込む陽の光をぼんやりと眺める。
これまで充分過ぎるほど力になってくれた涼醒に、ありがとうしかまだ言ってない。浩司の祈りを知って、ちゃんと納得して…護りをラシャに持ち帰って、全てが終わったら…涼醒に伝えたいことがある。でも、本当は、今すぐそばに来て大丈夫だって言ってほしいよ。私…涼醒に甘え過ぎてる。ひとりで立たなきゃいけないところもあるって、頭ではわかってるのに…。
キノは目を緩めに閉じ、ゆっくりと吸った息を徐々に吐き出した。何度か繰り返すうちに、脳裏を巡る記憶の群れがぼやけ、離散して行く。
浩司があの時見てたのは、私じゃない。確かめたいのは自分の心? それとも、希由香の心…? 希由香は…悲しまないことより、愛することを選ぶ…それを誰よりもわかってるのは…。
浩司の瞳が白い霞に消え入り、キノの心は波間を漂うような微睡みへと彷徨い始めた。
その下方に闇を深める暗底に、まだ光は届かない。
☆☆☆
急がなければ…ラシャからの引きが始まる前に、これをイエルへ…。
自らの意思ではなく別の何かが、キノの意識を支配していた。頭の根底を司るその思考も感覚も、キノのものでありながらそうではない。
何だ? 空間が…開く…!? あれはヴァイの出口…開いたのは…シェラ? 彼女が道を? 何故…。
歪んだ道の現れを感じた。それと同時に、もう一方から押し寄せて来る強大な力を。
いけない…! このままでは、この力が…!
ほんの数秒の間に、全ては決した。
片側から開かれた外界との境の歪み。ラシャからの作為引力。不測の事態による空間のうねり。それらが複雑に作用し合い、無の空間内に亀裂を生んだ。
二つに分離された力の護り。その本体はシェラの身が無事であることを発動され、ヴァイの地に続く孔道へ。封印された力は予期せぬ空間の裂け目に吸い込まれ、鎖された地クリムへと消えた。そして、そこに残すはずだった自らの力は、まるで意図せぬ力に呼ばれるかのように、イエルの地へと放たれるのを感じた。
☆☆☆
驚異的な俊敏さで成されたことと、次いで起こったことの全てを、キノが理解し得たわけではない。けれども、潜在と顕在の狭間を行き交うキノの意識は、解かれた謎と新たな謎を認識するに至る。
不確かな眠りから醒めたキノの目に視覚が戻る。薄く開いた瞼の隙間から、巨大な銀の塊が見える。
これ…は…私…?
夢と現実が一瞬交差し、キノは固く目を閉じ頭を振った。再び開いた目に映ったのは、自分の指にはまる銀色の指輪だった。身体を起こし、深い息を吐く。
二つの護りの行方を見届け意識を断った者。それが誰であるか、キノにははっきりとわかった。彼の夢を見たのは、これが初めてではない。
明瞭に思い出すことの出来る3度の夢は、131年前、『誰が』『何故』力の護りをラシャから持ち去り、その後『どうなった』のかを物語っている。そして、もし、これらが実際に起こった現実であるならば、何故キノが夢に見ることが出来るのか。
三つ目の夢の中で、キノは彼の視点を持っていた。そして、自分自身のものではない感情も。それは、希由香の記憶に同調することに酷似していた。
「カイラ…」
キノのつぶやきを、涼しさを増した風が攫う。紅く染まる空が、街並の西へ去ろうとしている。
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