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第14章 真の望みを祈れ
本当の望み -2
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「希由香を忘れる…?」
「…あいつを忘れたいと思ったことは、一度もない」
「逃げるのは…幸せから…?」
浩司は答えない。
「幸せになるのが怖いの? 手に入れて、なくすのが? それとも、願いを叶えるのが怖いの? 望みは叶わない方が幸せ? 求めてる時が幸せで、幸せの頂点が望みの叶うその瞬間なら、一番の幸せは、死ぬまで求め続けるものが心にあることじゃない? 愛することと愛されることのほかに何が心を満たせるの?」
「キノ…」
「愛が幻想かどうか、確かめるのが怖いの? 実現したら壊れるかもしれない? でも、これは消えない幻想だよ。なくなったりしない」
「わかってる」
一度消えた微笑みが浩司の口元に戻り、再び消えて行く。
「だから、怖いんだ。幸せがじゃなく、それが俺の弱いところを突いて…狂わすかもしれないことがな」
キノの指先は、震えを止めていた。代わりに、いつの間にか食い込んでいた爪が、白い手首に紅い痕を残している。
「この3年間、希由香は俺を思い続けた。自分を愛さず、メールで一方的にふった男を、別れてから一度も会わずにだ。この館に来るまで、俺は知らなかった。自分の存在が、あいつにとってどれだけのものなのかをな。今はもう…知っちまってる。俺のために死ねると言ったのは、本気だ」
「あなたも、命を賭けた。シキと約束した時は、本当の望みを祈るつもりだった…違う?」
「…そうだ」
「じゃあ…枷はいつから?」
「意識の戻った希由香にもう一度会ったら、俺は二度とあいつを手放せない。おまえに夢を見せて希由香の記憶を辿るうちに、そう思った」
そう思うのが、どうしてまずいの? 希由香が浩司を嫌になって離れていくことなんか、考えられない。じゃあ、何が…?
「私、思ったの。心を見ないように生きて来たせいで、それを見つめた時、自分にとって大切なものを選ぶことに臆病になる…それが、あなたの弱さだって」
「…昼間に確かめたかったのは、大切なものは何かだ。さすがにおまえは鋭いな」
キノは軽く頭を振った。浩司は、変わらぬ静か過ぎる瞳をキノに向けている。
「はっきり言っていいよ。幸せに狂わされるとどうなるの?」
浩司がゆっくりとまばたいた。その短い間に芯に光を湛えた瞳が、希由香を見る。キノは反射的に後ろを振り返った。けれども、もちろん、ベッドに身を横たえる希由香は、目を醒ましたりはしていない。彼女を見つめるキノの耳に、浩司の声が届く。
「俺にとっての大切なものが、希由香の命じゃなくなるだろう。俺は死んでも…死ぬくらいであいつをひとりにはしない」
どういう意味…? 死んでもひとりにはしないって…それは…。
「希由香は、命を祖末になんかしないよ。どんなに寂しくても」
「わかってる」
「そう。じゃあ…あなたが望むの? 一緒に死んでほしいって…?」
キノは勢い良く上体を戻した。希由香から離した二人の視線が衝突する。その刹那、浩司の瞳に宿る鈍い光がどこから来るものか、そして、今にも消えそうに儚気な理由を、キノは悟った。
閉じ込められていた心が、冷たい鎖を解き凍てつく檻の残骸を越え、不安に縁取られた自由意志の中を彷徨い出そうとしている。けれども、近くて遥かな幸福を見つめる浩司の心は、その光に寄り添う闇の存在をすでに知ってしまっているのだと。
希由香…ごめんね。私、これから勝手なこと言うけど…。
浩司から目を逸らさず、キノは希由香に語りかける。
もし、間違ってたら…後で訂正して…。
「軽蔑してくれ」
吐き出すようにそう言った浩司の顔に、強い蔑みの笑みが浮かぶ。
「あいつの心に自分を残すのが苦しいと言っていた俺が、あいつを死なせても平気だと言うんだからな。望まないなら望ませてやるとまで考えて、だ」
「浩司…」
「俺は…幸せに酔うのが怖い。死んでもかまわない瞬間が、その中にあるって知るのがな」
自虐的な笑みの拭われた浩司の表情が、感情の一切を抜き取られでもしたかのように平坦になり、そして、天の底に堕ち込んだ後のような静けさを纏う。
「あいつの身体はともかく…心をひとり残して行ける自信が、俺にはない」
「…いいよ」
キノは微笑んだ。
「彼女の大切なものは、始めから…あなたの心だから。救うためなら、守るためなら、命なんて惜しくない」
困惑と痛みの皺を眉間に寄せ、浩司は握り締めていた拳を開く。
「心も身体も、ほしいものは全部あげる。残していくのが嫌なら、ひとりじゃ寂しいなら一緒に行くし、あなたがいなくてもしっかり生きていく。忘れること以外なら、何でも出来るよ。なくしたくないのは、あなたへの思いだけだから」
「キノ、おまえは…」
「希由香じゃない。今のは、私が彼女だったら思うことよ。だけど、そうかけ離れた気持ちじゃないって自信はあるの」
そう、私が彼女だったら…。友理に聞かれたことがある。もし、希由香と関係ないところで浩司に出会ったら、彼を好きになったかって…。私…愛したよ。きっと、彼女と同じくらい。でも、私にとって、浩司はいつだって、『希由香の愛する浩司』だった…私は…二人を愛してる。
互いの瞳を射抜いたまま、短い沈黙が時を刻む。
「あいつとおまえは、性格も考え方も似てるところはあるが…心は別だ」
溜息混じりに、浩司が言った。
「だから、あなたに嫌われるかもしれないことも、困らせることも言える」
キノは、浩司を見つめる瞳に力を込める。
「もし、希由香があなたを愛するために生まれて来たなら…きっと、彼女の寿命も同じ頃終える…そう思ってて。幸せの大きさは、長さよりも深さで量るものだってわかって。4年前、あなたと出会ったのは、彼女の幸運だった。今、彼女ともう一度出会ったことは、あなたの幸運だって信じて。それでも、死ぬ時のことだけを考えて、二人じゃなきゃつくれない幸せを諦める意気地なしなら…あなたを愛さずにはいられない希由香に同情するよ」
「おまえの…」
すっくと腰を上げるキノを凝視したまま、浩司がつぶやく。
「その強さには、憧れるな」
「…こっちに来て」
キノは浩司に背を向けた。静かに深い息を吐き、ベッドのそばにしゃがみ込む。
「最後のひとつを聞いて。彼女の代わりに言うから…彼女を見てて」
顔を上げずにキノが言った。隣に立つ浩司の指先が、微かに震える。
希由香…私の役目はここまでだね。呪いを解くのは護りの力でも、彼を本当に救うのは…あなただから。
「浩司…」
キノは熱くなる目を閉じた。
「あなたに、会いたい」
「…あいつを忘れたいと思ったことは、一度もない」
「逃げるのは…幸せから…?」
浩司は答えない。
「幸せになるのが怖いの? 手に入れて、なくすのが? それとも、願いを叶えるのが怖いの? 望みは叶わない方が幸せ? 求めてる時が幸せで、幸せの頂点が望みの叶うその瞬間なら、一番の幸せは、死ぬまで求め続けるものが心にあることじゃない? 愛することと愛されることのほかに何が心を満たせるの?」
「キノ…」
「愛が幻想かどうか、確かめるのが怖いの? 実現したら壊れるかもしれない? でも、これは消えない幻想だよ。なくなったりしない」
「わかってる」
一度消えた微笑みが浩司の口元に戻り、再び消えて行く。
「だから、怖いんだ。幸せがじゃなく、それが俺の弱いところを突いて…狂わすかもしれないことがな」
キノの指先は、震えを止めていた。代わりに、いつの間にか食い込んでいた爪が、白い手首に紅い痕を残している。
「この3年間、希由香は俺を思い続けた。自分を愛さず、メールで一方的にふった男を、別れてから一度も会わずにだ。この館に来るまで、俺は知らなかった。自分の存在が、あいつにとってどれだけのものなのかをな。今はもう…知っちまってる。俺のために死ねると言ったのは、本気だ」
「あなたも、命を賭けた。シキと約束した時は、本当の望みを祈るつもりだった…違う?」
「…そうだ」
「じゃあ…枷はいつから?」
「意識の戻った希由香にもう一度会ったら、俺は二度とあいつを手放せない。おまえに夢を見せて希由香の記憶を辿るうちに、そう思った」
そう思うのが、どうしてまずいの? 希由香が浩司を嫌になって離れていくことなんか、考えられない。じゃあ、何が…?
「私、思ったの。心を見ないように生きて来たせいで、それを見つめた時、自分にとって大切なものを選ぶことに臆病になる…それが、あなたの弱さだって」
「…昼間に確かめたかったのは、大切なものは何かだ。さすがにおまえは鋭いな」
キノは軽く頭を振った。浩司は、変わらぬ静か過ぎる瞳をキノに向けている。
「はっきり言っていいよ。幸せに狂わされるとどうなるの?」
浩司がゆっくりとまばたいた。その短い間に芯に光を湛えた瞳が、希由香を見る。キノは反射的に後ろを振り返った。けれども、もちろん、ベッドに身を横たえる希由香は、目を醒ましたりはしていない。彼女を見つめるキノの耳に、浩司の声が届く。
「俺にとっての大切なものが、希由香の命じゃなくなるだろう。俺は死んでも…死ぬくらいであいつをひとりにはしない」
どういう意味…? 死んでもひとりにはしないって…それは…。
「希由香は、命を祖末になんかしないよ。どんなに寂しくても」
「わかってる」
「そう。じゃあ…あなたが望むの? 一緒に死んでほしいって…?」
キノは勢い良く上体を戻した。希由香から離した二人の視線が衝突する。その刹那、浩司の瞳に宿る鈍い光がどこから来るものか、そして、今にも消えそうに儚気な理由を、キノは悟った。
閉じ込められていた心が、冷たい鎖を解き凍てつく檻の残骸を越え、不安に縁取られた自由意志の中を彷徨い出そうとしている。けれども、近くて遥かな幸福を見つめる浩司の心は、その光に寄り添う闇の存在をすでに知ってしまっているのだと。
希由香…ごめんね。私、これから勝手なこと言うけど…。
浩司から目を逸らさず、キノは希由香に語りかける。
もし、間違ってたら…後で訂正して…。
「軽蔑してくれ」
吐き出すようにそう言った浩司の顔に、強い蔑みの笑みが浮かぶ。
「あいつの心に自分を残すのが苦しいと言っていた俺が、あいつを死なせても平気だと言うんだからな。望まないなら望ませてやるとまで考えて、だ」
「浩司…」
「俺は…幸せに酔うのが怖い。死んでもかまわない瞬間が、その中にあるって知るのがな」
自虐的な笑みの拭われた浩司の表情が、感情の一切を抜き取られでもしたかのように平坦になり、そして、天の底に堕ち込んだ後のような静けさを纏う。
「あいつの身体はともかく…心をひとり残して行ける自信が、俺にはない」
「…いいよ」
キノは微笑んだ。
「彼女の大切なものは、始めから…あなたの心だから。救うためなら、守るためなら、命なんて惜しくない」
困惑と痛みの皺を眉間に寄せ、浩司は握り締めていた拳を開く。
「心も身体も、ほしいものは全部あげる。残していくのが嫌なら、ひとりじゃ寂しいなら一緒に行くし、あなたがいなくてもしっかり生きていく。忘れること以外なら、何でも出来るよ。なくしたくないのは、あなたへの思いだけだから」
「キノ、おまえは…」
「希由香じゃない。今のは、私が彼女だったら思うことよ。だけど、そうかけ離れた気持ちじゃないって自信はあるの」
そう、私が彼女だったら…。友理に聞かれたことがある。もし、希由香と関係ないところで浩司に出会ったら、彼を好きになったかって…。私…愛したよ。きっと、彼女と同じくらい。でも、私にとって、浩司はいつだって、『希由香の愛する浩司』だった…私は…二人を愛してる。
互いの瞳を射抜いたまま、短い沈黙が時を刻む。
「あいつとおまえは、性格も考え方も似てるところはあるが…心は別だ」
溜息混じりに、浩司が言った。
「だから、あなたに嫌われるかもしれないことも、困らせることも言える」
キノは、浩司を見つめる瞳に力を込める。
「もし、希由香があなたを愛するために生まれて来たなら…きっと、彼女の寿命も同じ頃終える…そう思ってて。幸せの大きさは、長さよりも深さで量るものだってわかって。4年前、あなたと出会ったのは、彼女の幸運だった。今、彼女ともう一度出会ったことは、あなたの幸運だって信じて。それでも、死ぬ時のことだけを考えて、二人じゃなきゃつくれない幸せを諦める意気地なしなら…あなたを愛さずにはいられない希由香に同情するよ」
「おまえの…」
すっくと腰を上げるキノを凝視したまま、浩司がつぶやく。
「その強さには、憧れるな」
「…こっちに来て」
キノは浩司に背を向けた。静かに深い息を吐き、ベッドのそばにしゃがみ込む。
「最後のひとつを聞いて。彼女の代わりに言うから…彼女を見てて」
顔を上げずにキノが言った。隣に立つ浩司の指先が、微かに震える。
希由香…私の役目はここまでだね。呪いを解くのは護りの力でも、彼を本当に救うのは…あなただから。
「浩司…」
キノは熱くなる目を閉じた。
「あなたに、会いたい」
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