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第6章 目の前の悪夢

助けは要らない

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 レイプされるのは最悪の苦痛だった。
 身体の中心に奔る激痛は、耐えるのを放棄したいくらいだった。
 だけど。
 あの時は半分パニック状態だったし、その痛みがどんなものか予想すら出来なかった。
 だから。
 事前の恐怖は、どんな苦痛かを知ってからレイプされるよりは少なかったはず。

 でも、これは……くるのがわかっている痛みを受けるのは……恐怖だ。



 嫌だ……!

 この男……おかしいよ……何が楽しくてこんなこと……!?



 針が皮膚を突き破る瞬間まで、凱は顔のすぐ横にある自分の腕を見ていた。

「っうああ……ッ! ッつう……ッあ……いッ! つッあああッ……!」

 凱が叫び声を上げるのと同時に、きつく目を閉じた。

「っあッ! う……あ……っくッ……! う……ッあ、んんッ……うっ……!」

 呻き声が止まらない。
 男が針をじわじわと進めているのか……刺さった状態が苦痛なのか……。

「いいよ。その瞳で睨まれるとゾクゾクする」

「はっ……へんたい、だ……な……」

 目を開けた。

 凱の腕に、針が突き刺さっている。
 内側の柔らかい皮膚の部分に、ボディピアスのように貫通している。

 ただし、普通のボディピアスをくぐらすよりも遥かに長い幅をだ。

 男の言葉通り、凱は男を睨んでいた。
 虚ろな瞳じゃない。
 ものが見えている目だ。



 凱……!



 声には出さずに凱を呼ぶ。



 気づいて!
 もうちょっとだけ右見て!
 凱!



 凱が男から視線を外した。
 その瞳が僕のほうに向けられる。



 ここだよ!
 凱……!



 凱の視線が、僕を捉えた。

 ほんの1、2秒。凱の目が見開いた。
 その短い時間に。
 凱が何を理解して、何を予想して……何を決めたのか、僕にはわからない。

 だけど……これだけは確かだ。



 僕がここにいることを、凱は知った。



 助けようとしていることを伝えるために、ポリタンクの上で背伸びをした。
 口元まで見えれば、唇の動きで言葉をわかってくれるはず。

 凱の視線が窓に向いていることを男に気づかれないためには、数秒で僕の意志を伝えなきゃならない。



 た・す・け・る・よ……。



 喋るよりはゆっくり。でも、急いで、音を出さずに口を動かした。

 僕と視線を合わせたまま、凱は問うように片方の眉を上げる。

 伝わらなかった……!?

 もう一度……。

 今度は一語一語が読み取りやすいように、大きく口を動かす。



 た・す・け・る・よ……。



 一瞬眉を寄せた凱の口元がほころんだ。

 伝わった!?

 そう思った瞬間、男の腰が動いた。

「っう……あっ、んッ……っあ……」

 男に視線を戻した凱が呻く。

「もう1本いるか?」

 凱が目を閉じる。
 眉間に深い皺。

 溜息とともに、凱の目を開く。

「いらないっ……つったら、やめんのか……よ」

 喉の奥で、男が笑った。

「可愛げがないな」

 ガサゴソと袋を探る音。

 凱の瞳が僕を見た。
 そして、首を横に振る。

「わるかった、な」

 凱が言った。
 僕を見たまま。

「ほんと、に……わるかった」

 もう一度。

「そう思ってるなら素直になれよ」

 男が答える。

 だけど、凱の言葉は……僕あてだ。
 不自然にならないように、僕に言ってるんだ。



『悪かった』

『ほんとに悪かった』



 今日ここに来させて?
 こういう事態になってて?
 こんな場面を……僕に見せることになって……?

「たすけは、いらない……」

 凱の視線が僕を射る。
 そして、すぐにそれは正面に戻された。

「だから、ぬけよ」

 その言葉は男に、だ。



『助けは要らない』



 これは、僕にだ。

 助けは要らない……。

 本当に?
 どうして……?
 だって、このままじゃ……。

「っう! あ……っく……!」

「刺した衝撃で中が締まる。だから、このままだ」

 薄目を開けた凱が、大きく息を吐く。

「へんた、いには……ちかづく、な……か」



『変態には近づくな』



「おまえにはもう、手遅れな助言だな。いくぞ」

 男が針を手にかまえる。

「ひだり……に……して、くんない?」

 すでに1本の針が刺さっている凱の右腕に近づく男に、凱が言う。
 男は何も言わず、方向を変えた。

 凱がこっちを向く。

 男の注意を逆側に逸らした……のか。
 この状況でよく……。



 ……・……・……。



 さっきの僕と同じように、凱が無音で口を動かした。



 何……!?
 何て言ってるの……!?
 全然わからない……!



 言おうとすることが僕に伝わってないことがわかったのか。
 凱が再び口を開こうとして、そのまま叫び出す。

「うあああッ! っくッあっ! いっ……あっ、つッ……! あっあああッ……!」

 凱の左腕に、2本目の針。

「やっぱりいいな」

 満足気にそう言って、男が腰を動かし始める。

「っん、ああッ! やっ……くっ……っう! はっうあ……! っく……!」

 凱はもう僕の方を見ていない。

 固く閉じては開く凱の目には、今何が見えているのか。
 苦悶の表情と荒い呼吸。



 見ていられない……!



 なのに、どうすることも出来ない。


 自分がまだ無力な子どもだっていう事実を、嫌というほど思い知った。

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