言霊

ICHI

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言霊

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 五月の長い連休が明けると地獄の月曜日がやってくる。

 休日のおかげで、だらけきった体に久しぶりの朝五時半起床はこたえた。聞き慣れた玄関の引き戸を開ける音。向かいの家に住む老人は相変わらずの早起きらしい。最低限の身支度を整え台所に立った。朝食のメニューを決めていないにもかかわらず、体が勝手に動くのは日々の研鑽の賜物だろう。

 七時。

 夫に朝食を食べさせ仕事に送り出すと、入れ替わりで起きてくる小学生の息子にまた朝食を食べさせる。親子のくせに絶望的に好みが違う男どものせいで、我が家の朝は効率化とは程遠い無法地帯だ。

 気がつくと、夫が食べた納豆の空き箱の上に、クシャクシャになった書類が無造作に放り出されている。恐る恐る覗いてみる。どうやら新しくなった学校の連絡網のようだ。見ると赤木さんの電話番号が変わっている。
なるほど。何度かけても繋がらない謎が解けた。ため息をつきながら、納豆臭い書類を壁際の棚上にある電話機の横に画鋲で貼った。

 新学期が始まってからすでに五回目の「学校からもらったものはその日のうちに出しなさい」は、テレビ画面の前で歯を磨きながら、めざましじゃんけんに向けてスタンバイする息子の耳を虚しく通り過ぎていく。諦めて散らかった食器類を台所に下げる。少しすると、シンクをたたく水道水の音に紛れて息子の「いってきます」が聞こえてきた。声のトーンが高い。どうやら今日のじゃんけんは勝ったようだ。

 息子が帰ってくるのは午後三時。それまでに洗濯と掃除、買い物を済ませる。最近、自転車で二十分以上かかる駅までの買い物がストレスに感じ始めた。運動不足だということにして、老化いう現実からなんとか目を背けている毎日だった。



 都心から約一時間。通勤圏内に位置する千葉県K市は、人口三十万人を要する県内でも有数の中核都市だ。駅前は大規模な駅ビルや商業・娯楽施設が溢れ、常に活気づいている。日常生活に不充はないどころか、むしろ便利な街だろう。
 
その反面、駅前中心地から十五分も自転車を走らせると景観は様変わりする。数キロ先まで伸びる美しい田園風景。市境を跨ぐように広がる森林は城址公園になっていて、カブトムシやクワガタ、時にはイタチやキジといった珍しい野生動物を見かけることもあるほど、豊かな自然が維持されている。

 三十年の住宅ローンで購入した終の住処は、そんな昔ながらの自然を有するK市のはずれにある。高台にある我が家から、息子が通う小学校までは坂を下ってわずか徒歩一分。子育て環境としては申し分ない好立地だ。
 
 音楽の授業だろうか。洗濯物を干す二階のベランダからは、息子の同級生たちの歌声が微かに聞こえてくる。カゴの中で申し訳なさそうに縮こまっているTシャツを広げ、物干し竿に吊るしながら曲のタイトルを思案する。またいつもの一週間がはじまったのだ。

 おおかたの家事を終えると十時半を少し回っていた。休み明けのせいかいつもよりペースがやや遅い。一息入れよう。今から午後までの約二時間は束の間の自由時間だ。
 
 リビングにあるソファに腰をおろす。ホットコーヒーを飲みながら適当につけたテレビからは、ここのところ毎日のように人気タレント同士の不倫ニュースが流れている。一体誰に向けられたニュースなのだろう。チャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばした時、不意に後ろで電話が鳴った。

 平日の昼間にかかってくる電話は九割が出るに値しないことは百も承知だが、万が一ということもある。八回目の呼び出し音に合わせて受話器をとった。


「……もしもし。町屋さんのお宅でしょうか?」


「……。はい。そうですが」


「あの、もしかしてしおり?」
 
唐突に名前を呼ばれ面食らった。


「えっ? はい、そうですけど、あの、どちら様ですか?」


「あっ。あたし。ゆき。高校の同級生の!」


「えっ! ゆき? うそ、ほんとに? どうしたの? かなり久しぶりだよね?」
 声のボリュームが上がる。思いがけない電話越しの来訪者に気分が高揚した。


「そうだよ。久しぶり! 元気? どれくらいぶりだっけ? 電話番号変わってなくてよかった。もしかしたらつながらないかと思ってたから」
 こちらのリアクションに安心したのか、声色からよそよそしさが消えた。


「変わってない。変わってない。どれくらいだっけ? もう十年くらいになる?」


「かなぁ。たしか最後にあったの東京だったじゃん? あたしが夏休み取れたから東京行った時」


「そうそう! 仕事の休み合わせてね。あれいつ頃だったっけ? 二十五、六くらいの時?」


「たしかそれくらい。じゃあ、十一年前だ。びっくり。もうお互い三十七だもんね」

 そういえばそうだった。会話をしているうちに蘇ってくるあの頃の記憶。当時私はまだ独身で、東京のマンションに姉と二人で暮らしながらOLをしていた。その時、東京観光も兼ねて遊びにきたゆきと浅草の雷門や東京タワーにいった。開園してから一年足らずだったディズニーランドはチケットが取れずに断念した覚えがある。

 ゆきと会ったのはそれが最後だった。お互い仕事も忙しくなってなかなか予定が合わず、自然と連絡を取り合う回数も減った。私は結婚した時も身内だけの式だったため、誰も招待していない。確か、千葉県に家を買った年に年賀状を出したのが最後だったはずだ。

「だね。ゆきは今どうしてるの? あのとき確か名古屋だったよね? 今も?」


「ううん。転勤で今は東京。まぁ東京っていってもH市だけどね。今も同じ会社で働いてるよ。しおりは千葉だっけ?」


「うん、千葉の田舎。こっちに家買ってね。息子がもう三年生」


「三年生! そっかぁ。早いねぇ。年賀状で結婚したのは知ってたけど。年取るわけだ。あたしは独身だから親が帰ってこいってうるさくてさ。でも、いまさら島根に帰ってもねぇ……。しおりは? 最近実家帰ってる?」


「ううん。ここ二年は帰れてないんだ。ちょっといろいろ忙しくてね」

 島根県H市。私たちが生まれ育った街。日本海に面した、これといって何の特徴もない小さな港町で過ごした十八年間は遥か遠い昔のことだ。両親は今も地元に健在で、息子の夏休みに家族で帰省するのが毎年の恒例だったが、ここ二年は夫の仕事の都合がつかずに行けていなかった。

「あたしなんか四年も帰ってないよ。めんどくさくて。じゃあちょうどいいかな……」


「ん?」


「実はさ、なんか今度地元で高校の同窓会があるんだって。あたしたち三年二組の。で、どうする? って電話なんだ」


「同窓会かぁ。島根でしょ?」


「そうそう。来月の終わりみたい。しおりはどうする? 厳しい? あたしはちょうど仕事休めそうでさ。実家にもしばらく帰ってないからついでに顔出そうかなって」


「うーん。私はちょっと無理かなぁ。子供のこともあるし。せめて東京だったらね」


「だよね。OK! わかった。あたしから伝えとく。地元には今年帰るの?」


「まだわかんないんだ。夫の休み次第でね。あっ! そういえばこれって連絡網回してるの? 私も誰かに回す?」


「なんか地元組が連絡先分かる人にかけてるんだって。あたしは連絡先知ってるあと二人くらいにかけてみる」


「そっか。私は誰も連絡先わかんないなぁ。こっち来ちゃってから付き合いないし。ゆきは誰から連絡きたの?」


「ふふ。それがさ、誰だと思う?」

 勿体ぶるように笑うゆきの声色は、あの頃とまったく変わっていない。


「……ちさと?」


「正解! よくわかったね! 驚かせようと思ったのに。まぁ、でもわかるか。いつも一緒にいたもんね」

 原井ちさと。懐かしい同級生の顔が目に浮かんだ。高校二年のクラス替えで一緒になったちさととは同じ一月生まれ。誕生日順に並ぶ四月の座席割で一つ後ろの席だったこともあって、すぐに仲良くなった。

 ヨーロッパあたりの外国人を思わせる白い肌にブロンドの瞳。少し色素の薄い金色がかった長い髪が、印象的で羨ましかったのを覚えている。決して口数が多い方ではないが社交的だった彼女とは、ゆきも交えてよく三人で過ごした。

 頭の良かったちさとは成績も優秀で、定期テストの順位はいつも一桁台。テスト中こっそり答えを見せてもらったことがあるのは私たちだけの秘密だ。高校時代体操部に所属していた私とゆきの帰りはいつも七時過ぎ。帰宅部だったちさとは、図書館で読書をしながら私たちを待っていてくれた。

 読書家だった彼女は、特に海外の古典文学を好んで読んでいた。カフカやプルースト、カミュやヘッセなど、私が読書好きになったのも彼女による影響が大きかった。そういえば、夫と新居を探しにこの土地を下見にきた時、何となく居心地の良い既視感に襲われたのは、学生時代にちさとが教えてくれた小説の世界観に似た雰囲気を感じたからだったのかもしれない。

「もしもし? しおり? 聞いてる?」


「あっ! うんうん、やっぱりね。そんな気がしたよ! ちさとかぁ。元気してた? 島根なんでしょ?」


「うん。そうだって。ねぇ……。ちさとと最後に会ったのっていつだっけ?」


「えっと……。あたしたちが上京する直前じゃなかったっけ? ほら、いつもいってた喫茶店。名前が出てこないけど……」


「アゼリアだ!」
 
受話器の向こうでゆきが叫ぶので驚いて耳を離した。


「あっ。そうだ! アゼリア」


「しおりがたしか、アザレアってずっといってて、ちさとがいつもアゼリアだって突っ込んでたよね」


「そうだったっけ? でも懐かしいなぁ。しょっちゅういってたもんね。ゆきはあそこのマスター好きだったじゃない?」


「そうそう! あたし、おじさまフェチだったからね」


「本気で告白しようとしたときは焦ったよ。あれ以来、ゆきも会ってないんでしょ? 連絡も?」


「うん。同じ。電話もらったのが一週間くらい前なんだけど。……実はさ、そのことなんだけど、ちょっと様子がおかしかったような気がしたんだよね」


「様子? ちさとの?」


「そう。う~ん。様子ってゆうか、あたしはさ、ちさとが電話くれたからてっきり行くもんだと思ってたんだけど、なんか、これないんだって」


「同窓会? そうなの? 地元いるんでしょ?」


「うん。なんか地元にはいるみたいなんだけど、どうしてもいけないらしくてさ。で、理由聞いても教えてくれないんだよね。どうしてもの一点張りでさ」

 意外だった。高校時代のちさとは寂しがり屋で、一人でいるのを嫌がる女の子だった。私たち三人は、卒業までの二年間をほとんど毎日一緒に過ごしたはずだ。親よりも長い時間を共有しただろう。
 三人の進路が決まって離ればなれになることがわかった時、一番寂しそうにしていたのも彼女だった。すでに東京で暮らしている姉のマンションに行くことが決まっていた私は、一足先に街を出ることになっていた。

私が島根で過ごす最後の日、彼女は大粒の涙を流しながら何度も帰ってきてねと繰り返していた。ゆきも私と同じように名古屋に上京することが決まっていたため、地元で就職することになっていたちさとだけが、結果的に取り残される形になった。
 誰よりも落ち込んでいた寂しがり屋のちさと。あの子の性格であれば同窓会は絶対に来るはずだと思ったのに。

 ちさとと最後に連絡をとったのはいつだっただろうか。不思議と思い出せなかった。それは、大好きで何度も繰り返し完読し、登場人物が放った細部の台詞まで鮮明に記憶しているのに、なぜかタイトルだけがでてこない小説の痕跡を手繰るような感覚で、私の神経を逆撫した。

「ねぇ。ゆきはちさとと最後に連絡とったのっていつ?」


「それがさぁ。なんか覚えてないんだよね。名古屋時代ではあるはずなんだけど……」
 ゆきの返事は苛立ちと戸惑いを含んでいる。私と同じだと思った。


「本人に聞かなかったの?」


「うん。あたしも地元に帰れてなかったしさ。なんか冷たいやつみたいに思われたら嫌だなって」
 実は私も覚えていないとはなんとなくいえなかった。


「そっか。どんな話したの? 昔話?」


「そうそう。久しぶりだったけど、やっぱり話すと色々盛り上がってさ。三時間以上も長電話しちゃったよ。もちろん高校の時の話だよね。あのビンタ事件覚えてる? あの話とか」


「あった。あった。もちろん覚えてる。あれは衝撃だったもんね」

 ビンタ事件。あれは確か高校二年のとき。クラス替えの雰囲気にもだいぶ慣れた五月くらいだったはずだ。仲良くなり三人で帰ることが多くなっていた私たちは、その日も駅に向かっていつもの通学路を歩いていた。

 当時私たちが通っていた学校は、県立の割に校則が厳しく、身体検査や手荷物検査が不定期で行われていた。もちろん生徒たちは教師の目を盗んでいろんな物を学校に持ち込んだ。私たち三人も例外ではなく、化粧品や好きなアイドルのグッズなどを持ち寄って、見せ合うことが日々の楽しみだった。

 毎日、学校帰りにお互いの戦利品自慢大会を開催していた私たち。その日も例によって大会は盛り上がりを見せていた。
 
 当時テレビで大人気だったアイドル「新御三家」に夢中だったゆきは、三人の生写真をいつも持ち歩いていた。私はメイクや洋服などファッションに興味があり、私たちは当時流行っていた雑誌や化粧品を見せあったり交換したりした。ちさとはというと、同年代の女子が熱中するような娯楽にはあまり興味がない様子で、いつも私とゆきが繰り広げる自慢大会を少し離れた客席から笑顔で眺めていた。
 
 あれは、ゆきの好きだった郷ひろみのプロマイドを三人で見ながら談笑していた時だ。

 不意に走る強烈な手の痛みが盛り上がる大会に水を刺した。私が握っていた手からこぼれ落ちたプロマイドは、風に乗って駅前ロータリーの方へヒラヒラと運ばれてゆく。
 
 見上げると、目の前には古臭いツイードの背広を着た中年男が仁王立ちで私たちの進行を阻んでいる。逆光気味の立ち位置が造りだす影は、男の表情を絶妙に覆い隠し、呼吸に合わせて上下する眼鏡に反射した西日の光は、ブスブスと私たちの瞳を容赦無く突き刺してくる。

 目の前の男が、教育指導の教師だと気づくのに時間がかかったのはそのせいだろう。
 頭の中でさっきまでの熱気が瞬く間に引いていく音がする。楽しかった空気が一変し、私たちは一様に視線を落とした。殴られた右手の甲は熱をもって強く脈打っている。

「必要ないものは学校に持ってくるな」


「……すいません」
 
 私の力ない返答は、隣を走ってきたタクシーのエンジン音に滲んで消えた。ゆきは不満そうに飛んで行った郷ひろみを目で追っている。すでに車道の向こう側、歩道近くを漂っている。早く取りにいかなければ見失ってしまうかもしれない。


「出しなさい」
 
 高圧的な台詞が飛んでくる。私は少し躊躇した後、痛む右手を渋々カバンの中に突っ込んだ。


「……嫌です」

唐突な声。弱くて今にも消え入りそうなか細い音は、それとは不釣り合いな確固たる意志の強さを内包している。ちさとの声に反応したのは、それがおよそ彼女の体から発せられたものとは信じられなかったせいもあった。
 そんな行動とは最も対極にいる気がしていた人物の意外な行いに、私はまるでどこかジャングルの奥地で発見された新種の動物を見るような感覚を抱いて彼女を見た。

 彼女の延長線上、向こう側にいるゆきと目が合う。私側から見えるちさとの横顔は、教師が首から下げている悪趣味な柄のネクタイをじっと見つめている。バックを握る手には力を込めた時にできる筋がくっきりと浮かんでいた。

「嫌じゃないんだよ。出す。それと生徒手帳」
 心臓の鼓動が全身にこだましている。鞄に入れっぱなしにしていた右手にはじっとりと汗が滲んでいるのを感じた。私は教師に見つかったことよりも、ちさとが反抗したことに衝撃を受けていた。
 クラスメイトになってから二ヶ月程度。寂しがり屋でちょっとシャイな女の子というイメージを持っていた私にとって、彼女の行動は完全に予想外だった。

「……いこうっ」
 
 おどおどする私たちの腕を掴んで走り出すちさと。私たちは声も出ない。


「おい!」
 
 後ろで野太い怒鳴り声が聞こえる。左手にゆき、右手に私の腕を握りながら走るちさと。呆気にとられている私たちは、ただただ言われるがままに走った。足音に驚いて振り返る人達を尻目に駅前のロータリーを抜け、駅の階段を駆け登る。ホームには絶妙なタイミングで下り電車が入って来ている。手動で扉を開け目の前の車両に飛び乗った。

 肋骨から弾け飛びそうになる心臓を押さえながら、登ってきた階段を振り返る。ゆっくりと動き出す景色。あの教師の姿は確認できなかった。

「ちょ、ちょっと座ろう」
 
 電車が駅のホームを脱出すると、疲労困憊といった様子でゆきが呟いた。
 私たちは目の前のボックス席に腰を下ろす。平日の十九時過ぎ。田舎町の私鉄沿線の乗客はまばらだ。私たちは何を話すでもなく車窓に流れる景色をただ見つめていた。

どれくらいそうしていただろうか。やっと呼吸が落ち着きはじめた頃、窓際に座るゆきが笑っていることに気がついた。

「ふふ……。ふふふふっ」
 
 目を合わせる私とちさと。彼女の顔にもうっすらと笑みが浮かんでいる。つられて笑う私。ゆきの笑い声はさらに勢いを増し、伝染するように私たちも笑った。なにがおもしろいのかはわからない。ただ三人とも堰をきったように笑いが止まらなかった。

「ふふっ。ご、ごめんね」
 
 笑いながらちさとがゆきにいう。

「なにが?」


「郷ひろみ」


「あぁ。いいよ。私どっちかってゆうと秀樹派だから」


「そっか。よかった」
 
 向かいの席でゆきに微笑むちさとの表情はひどくさっぱりしている。私は突然、自分自身がひどく幼稚で、無力な子犬にでもなったような感覚に囚われて泣きそうになった。

「しおり、手、大丈夫?」
 
 ゆきが私の手を心配そうに覗き込む。

「うん、平気。名誉の負傷だよ」
 
 私はそういって強がって見せたが、内心はまだ身体中に動揺の余韻を感じていた。

「ほんと、あいつ最低じゃない? 女の子に暴力なんてさ。だから生徒に嫌われてんだよ」
 
 ゆきはまるで自分がされたかのように手をさすりながら、電車を降りるまであの教師に対する罵詈雑言を捲し立てていた。
 三つ目の駅でゆきを見送ると、辺りは徐々に暗くなりはじめた。車内をぐるっと見回す。いつの間にか乗客は私たち二人だけになっている。

「ちさとって足速いんだね」


「そんなことないよ。本ばっかり読んでるから運動苦手だし。さっきは夢中でね」


「本好きなの? どんなやつ?」


「カフカとかドストエフスキーとかヨーロッパの古典が好き」


「へぇ。海外の? 読んでみたい。おもしろい?」


「ちょっと難しいけど私は好き。うちは両親が共働きで、私、小さい頃から鍵っ子だったから本ばっかり読んでたんだ。今度貸してあげよっか?」


「うん! ちさとのおすすめのやつで!」


「わかった。バレないように持ってくる」

 ゆきが降りた駅の二つ先。学校がある駅から数えて五つ目の駅で私は降りた。座っていたボックス席と反対側のドアに向かって歩く。振り返るとちさとが笑っていた。電車の中でしようと思った今日のお礼は、なんとなく恥ずかしくて結局言えずじまいだった。
 
 私はちさとの好きな物が海外の小説だということを知って、彼女との距離が前より縮まった気がしていた。
 ちさとの後ろ、車窓越しに見える日本海には、まさに今沈もうとしている夕日が薄い帯のように水平線を橙に彩っている。そのせいだろう。ちさとの少し金色がかった綺麗な長髪は、いつもより少し明るく輝いて見える。
 動き出した電車に向かって手を振る。右手の痛みはすでに消え、代わりに少しばかりの赤らみが甲をうっすらと染めていた。

 翌日、私たちは職員室に呼び出され、それなりに説教を受けた。私は内心、ちさとがまた何かやるんじゃないかとドキドキして、説教の内容はほとんど入ってこなかったのだけど、横を見るとゆきもそんな様子で、危うく笑い出しそうになるのを堪えるのに必死だった。

「ちさとさぁ。自分はこれないくせに私としおりは絶対来てって」


「そっかぁ。私もできればいきたいんだけどね。ちょっと今回は」


「うん。しょうがないよ。あっ。ねぇ。今度さ、会おうよ。私、今東京にいるし同窓会行ってくるからさ、その報告もかねて久しぶりに!」


「うん、いいよ。私も話聞きたいし。六月の終わりだっけ?」


「そうそう。平気?」


「大丈夫だよ! 予定あけとく」


「オッケー。じゃあ、同窓会終わったらまた電話するね」
 
 ゆきとは同窓会のあと、会う約束をして電話を切った。また電話をくれるという。
 久しぶりに聞いた旧友の声は私の意識を十一年前に引き戻すには十分で、ゆきと話している間中、私はずっとセーラー服を着ている気分だった。彼女の声色やトーン、話す時のイントネーションや口癖など、電話越しに伝わってくるらしさがいちいちたまらなくて気持ちが高揚した。


 思えば、家族で帰省した時に行くのは海や観光施設などのレジャースポットが大半で、学生時代に親しんだ場所には卒業以来まったく行っていない。あれから二十年近く。当時の面影はどのくらい残っているだろうか。今度帰省した時にはちょっと足を伸ばして確認してみよう。
 
 受話器をおいてからそんな余韻に浸っているうちに、気がつくと十三時を回っていた。すっかりぬるくなってしまったコーヒーを飲み干し、ろくに見ていなかったテレビを消す。息子が帰って来るまで二時間弱。今日は駅まで買い物に行く時間はなさそうだ。

 駅とは反対側、環状道路沿いにあるスーパーへ急ぐ。数年前に購入した自転車はそろそろ寿命とみえて、右ハンドルのブレーキをかけるたびに信じれれない金切り声をあげた。生来の頭痛持ちである私には耐えがたい苦痛だったが、徒歩でいくよりはマシなのだから仕方がない。
 息子が通う小学校の正門前を抜けて交差点を右へ。まっすぐ半キロほど直進すると左手に大きな総合病院が見えてくる。
 
 同窓会に行けない理由を教えてくれないんだよね。ゆきの一言が不意に頭をよぎった。
 
 ……ちさとは体調でも悪いのだろうか。
 
 病院の入り口に止まっている救急車の赤色灯を眺めながら、ふとそんなことを思った。
 
 市境の中途半端な場所にある複合商業施設は、小規模だがスーパーや飲食店、ゲームセンターなどが数店舗入り、土地を持て余した無駄に広い駐車場が特徴的だ。平日の昼間のせいか敷地内は閑散としている。
 
 ガラガラの駐車場を横切り自転車を止める。正面玄関を入ると、左手には全国展開している有名な本屋がテナントに入っている。目線の高さより少しばかり低い壁の向こうには、何列にも渡ってびっしりと並べられた単行本達がお行儀よく整列し、前を通る未来の読者に、自分たちの存在をキラキラとアピールしているのが見える。
 外から確認できる見出しプレートには、学生時代に読んだ覚えのある懐かしい名前が散見できる。足を止めて中を覗いた。

 そういえば、学生時代あれだけ読んだ小説も最近はめっきり読まなくなってしまった。特に母親になってからは、せいぜい息子を寝かしつけるために読んだ絵本程度しか、活字に触れた記憶はない。
 
 時間ができたらまた読みたいと思ってはいたものの、気がついたらこの年齢になっていた。ちさとの顔が浮かぶ。あの子は今でも変わらず小説を読んでいるんだろうか。なんとなく気になった。
 
 目の前をネギが飛び出したスーパーの袋を抱えたおばあちゃんが通り過ぎる。目的を思い出し、本屋の前を駆け足で後にする。そうだ。今の私には、小説よりも今夜の夕食に使う豚肉が必要なのだ。



 六月。
 
 ゆきから電話をもらってからの一ヶ月半は、あっという間に過ぎていった。時折二人のことを考えたり、学生時代のことで物思いにふけることはあったものの、そんなささやかな感傷は日々の慌ただしい生活に飲み込まれ、同窓会のことをあれやこれや想像する余裕はなかった。
 午前中、部屋干しの洗濯物に悪戦苦闘している最中、唐突に電話が鳴った。

「はい。町屋です。」


「……。しおり?……あたし、ゆき」


「もしもし? ゆき? どうだった? 同窓会。行ったんでしょ?」


「うん。行ってきた。……そのことなんだけど」
 
 電話越しに聞こえてくるゆきの声は一ヶ月前と少し違って聞こえた。

「どうしたの?」


「しおり、いつ会える? 今週平気?」
 
 私の質問には答えない。

「えっ? 今週か。う~ん、土曜だったら夫もいるから平気だけ……」


「じゃあ、お願い。土曜に。詳しいことはその時話すから」


「うん、わかったけど大丈夫? なんかあったの?」


「……。ちょっと、あたしも色々混乱してて。とにかく電話じゃなんだから土曜日にね」

 そういうと、ゆきは慌ただしく電話を切った。私たちは七月一日の土曜日に、東京駅八重洲口の鉄道会館内にある大丸で待ち合わせることにした。

「混乱してて」。ゆきはそういった。
 どうしたのだろう。普通に考えたら、同窓会の席で混乱するようなことが起こるとも思えないが、久しぶりに会った旧友たちとの間で、なにかあったのかもしれない。
 
 てっきり、この前のような調子で、思い出話に花が咲くような展開を勝手に想像していた私は複雑な気持ちになった。受話器を置き、視線を外に向ける。ここ数日まったく止む気配のない雨は、視線よけに植えたサザンカの楕円葉を伝って、絶え間なく窓ガラスを濡らしている。また今日も一日中雨なのだろうか。



 七月一日。午前十時三十分。
 日暮里駅で山手線に乗り換えると、土曜日ということもあって、さすがに車内は混雑していた。空は相変わらずの曇天で、分厚い雲と高層ビル群に覆われた東京の街はひどく無彩色だ。

 東京駅の人の量に圧倒されながら八重洲口へ向かって歩く。新幹線乗り場の前は、大袈裟なスーツケースを持った家族連れや外国人の群れでごった返している。数ヶ月前に地下鉄で起きた惨劇がまるで嘘のようだった。
 
 駅構内には駅弁屋や土産物屋など多くの店舗が軒を連ねている。改札付近のロータリーにある構内案内図の横、今夏公開予定の映画「耳をすませば」の宣伝ポスターに目が止まった。確か息子が見たがっていたことを思い出す。母親と映画を見に行ってくれるのもあと少しだろうか。
 
 人混みを縫ってやっとの思いで改札を出た直後、目の前から聞き覚えのある声に呼び止められた。

「しおり!」

 薄手のベージュのジャケットに白いTシャツ、ライトブルーのスラックス。ファッション感度の高い小柄な女性と目が合う。

「ゆき?」
 
 十一年ぶりに会ったゆきはひどく大人っぽくみえた。いや、もちろん、お互いもういい歳なのだから大人っぽいという表現はおかしいのだけど、私にとってのゆきはあのセーラー服のゆきなのだ。そういえば名古屋から会いにきてくれた時も同じように感じた覚えがある。

「しおり……なんか大人っぽくなった?」
 
 ゆきが両方の眉を上げていった。さすがに同級生。考えることは同じだ。

 私たちはひとしきり笑った後、場所を大丸の中にある喫茶店に移すことにした。ゆきに電話の時のような様子はみて取れない。少し安心していると、降り出した雨を眺めながらゆきがいった。

「なんかさ、雨の日って地元の匂い思い出さない? あの磯臭さと生臭さが混じった独特のやつ。漁港臭ってゆうかさ。あったじゃん?」


「うんうん。わかる。雨の日は湿気で余計匂ったよね」


「そうそう。こっちは全然そんなことないんだけど、やっぱ染み付いてるのかね。雨を見ると一緒にあの匂いがいつもついて来るんだよね」

 島根県は北側を日本海に接している。私たちの地元であるH市もその半分が海だった。街を支える産業は当然漁業で、私たちの周りにいた大人たちの半分は、漁師や漁業組合関連の仕事に従事していた。
 
 海には漁船が溢れ、毎日おびただしい数の魚を獲って戻ってくる。海岸線沿いに永遠と広がる漁港や生鮮市場からは、よくわからない呪文のような漁師たちの叫び声が毎日聞こえてきた。街には市場から仕入れた魚を乗せたケートラがそこら中を走り回っていて、すれ違うたびに生臭い魚の匂いが全身にまとわりついてきた。

「東京に来てびっくりしたのはさ、あの匂いがないのと、スーパーで売ってる魚の不味さね。あたし、しばらく魚なんて買う気にもなれなかったもん」
 
 ゆきが笑っていった。

「確かに。私も時間かかったなぁ。今では全然買っちゃうけどね。慣れって怖いね」


「ほんと。もはや日本海の魚の味を忘れてしまったかも。最近、魚自体めんどくさくてあまり食べないし。独り身はこれだからね」

 大丸の内部はさすがに都心の百貨店といった風で、オシャレなアパレル店や化粧品などを扱った店が所狭しと営業している。ブランド名の入った大きな買い物袋を持った若者たちがどこを見ても目についた。
 田舎暮らしに慣れきっていた私にとって、久しぶりの都会の空気は少し息苦しく、若い頃、こんな環境の中で生活していたのかと思うと、今さらながら自分が信じられなかった。

「みんな、こなれてるように見えるけどさ、実際はあたしたちと同じ地方出身者ばっかだよ。東京は田舎者が創ってる街だもん」

 確かにそうなのかもしれない。そう思って改めて眺める人のむれは、なんだかひどく滑稽に見えた。

 
 目的の喫茶店にはすぐに着いた。運よく壁際のテーブル席が空いたため、二人で腰を下ろす。揃ってアイスコーヒーを注文した。店内はシャンデリア風の照明から漏れるやわらかいトーンの光が印象的で、木目調の壁が落ち着いた雰囲気を演出している。

 向かい合って改めて見るゆきは、お世辞ではなくとても綺麗になっていた。ファッションはもちろん、メイクや髪型に至るまで手入れが行き届いている。それに比べて私はどうだ。アイロンで誤魔化してはいるものの、着古した感が否めない白のブラウスに、安っぽいデニム。足元は雨を心配して安定のスニーカーだ。同級生に目の前でまざまざと見せつけられたビジュアルの差に、今さらながら少し落ち込んだ。
 
 そこそこの劣等感に苛まれながら、運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけると、見計ったようにゆきが口を開いた。

「……。でね。同窓会のことなんだけど」

 そうだった。見た目や雰囲気のことに意識が囚われて失念していたが本題はそこなのだ。

「うん」
 
 覚悟はできてるといわんばかりに返事をする。

「ん。どうしよ。何から話せばいいんだろ。えっと」


「同窓会にはいったんでしょ? そこで何かあったの?」


「うん。いった。ただ、そこで何かがあったってわけでもなくて……」

 基本的になんでもはっきり話すゆきにしては珍しく、奥歯にモノが詰まったような歯切れの悪い言い回しが続いた。

「同窓会はね、いってきた。学校の近くにできてた海鮮料理屋さん。二十人くらいは来てたかな。典子とか彩子も来てた。男子連中はハゲも多くてさ。神谷とか」

 ゆきの口から懐かしい名前が次々と溢れてくる。正直、何人かは記憶が曖昧な存在もいたけれど、ほとんどのクラスメイトは鮮明に顔が浮かんだ。

「三浦先生も来てくれたしね」


「そうなんだ。どうだった。変わってない?」


「いやいや、さすがにもうおじいちゃんだよ。だってあの時いくつ? 四十くらいだったでしょ? ってことはもう還暦とかじゃない?」


「おじいちゃんって。でも、もうそれくらいになるかぁ」

 担任だった三浦先生の顔が浮かぶ。もっとも私の記憶にあるのは約二十年前の先生の姿だ。

「ちさとは結局来れなかったんでしょ?」


「……。うん。実はさ、そのことなの」


「……。そのことって?」

 ゆきは私の質問には答えず、俯いたままコーヒーに浸かった氷を見つめている。
 隣のテーブルには、サラリーマン風の男性が注文したサンドウィッチが、ウェイトレスによって運ばれてきている。遅めの朝食か、それとも早めの昼食だろうか。とりあえず何か頼もうかとゆきの顔に視線を向けた時、彼女はすでに泣いていた。
 
 唐突な旧友の涙に私は動揺した。右手で口元を塞ぎながら肩を震わせるゆきの目からは、堰をきったように際限なく涙が溢れてくる。そのうち嗚咽まじりの泣き声も混じりはじめた。

「……。ゆき」
 
左手に触れる。恐ろしく冷たい。握って少し揺すった。彼女は大丈夫といった風に何度もうなずく。

「……ちさとに何かあったの?」
 
私は切り出した。

「最初っからおかしいって思ってた。来ないっていうし、理由も言わない」


「……うん」


「同窓会にはやっぱりきてなかった」


「……うん」
 
ゆきは涙を拭いながら一度天井を見上げ、再び視線を落とした。

「地元組の子たちに聞いたらね、発起人はちさとなんだって」


「えっ? そうなの? でも、ちさと来てなかったんでしょ?」


「……あたしもおかしいと思って聞いたの。そしたら」


「――って」

 すでに降り出していたのだろうか。突然の驟雨の粒が、店の窓ガラスを激しくノックする。爆竹が跳ね回るような騒音に、店内にいる人間はみな一様に窓の外に気を取られているようだ。

 比較的広い店内において、私とゆきだけが微動だにせず沈黙している様は、はたから見たら少し異様だったかもしれない。ゆきの消え入りそうな声は、雨の音に溶けて私の鼓膜には届かなかったが、彼女の唇の動きはその意思を正確に私に伝えていた。


「死んだ」

 
 彼女のくちびるはそう語っていた。私は思わず反復した。
  
 無言で頷くゆき。
 
 全身の血液が凄まじい速さで駆け巡るのを感じる。熱を帯びる体。脈打つ四肢。発汗の予感。ひどく遠くに響く雨の音。
 
 私たちはしばらくの間、ただ座っていた。

「……どうして?」
 
 やっとの思いで声を絞り出す。ゆきは少し前からだいぶ落ち着いた様子だったが、気をつかってくれたのだろう。私が何かいうまで黙って待っていた。

「事故だって。トラック」


「……うそ」


「もうすぐ一年だって」
 
 最近だとわかって衝撃が増した。適当な言葉が出てこない。元々脆弱な自分の語彙力が改めて恨めしかった。

「えっ? 一年? だってゆき……」

 咄嗟に違和感に気づいた。ゆきは私の反応を予め予期していたような目で、まっすぐこちらを見ていった。

「うん、でもあたしが電話をもらったのは間違いなくちさとだった」


「……どうゆうこと?」
 
 一瞬わけがわからなかった。私が理解できていないのだろうか。

「私も混乱してる」

 頭の中の記憶を必死で探す。ゆきから電話をもらったのが五月の連休明け。あの時、ゆきは一週間前にちさとから電話を受けたといった。でも、今の話では現実、そのちさとは一年近く前に死んでいるのだ。

「ちさとが電話してきたってこと?」


「……わかってるよ。わかってる。ありえない。しおりからしたらあたしの勘違いって思うよね」
 
 確かに現実的に考えたらそうなのだ。死者からの電話だなんて。


「でもね。この前もいったと思うけど、三時間以上も話したんだよ? いくら久しぶりとはいっても他人だったら気づくと思う」


「うん」


「話の内容だってそう。アゼリアのことだって、ビンタ事件だって全部話した。あれは、あたしたち三人しか知らない話でしょ?」
 
 ゆきの口調が強くなる。私は黙って頷いた。

「それに……」
 
 ゆきが言わんとしていることはわかった。自分が嘘をついていないといいたいのだろう。私は彼女が嘘をついているとは思っていないし、思いたくもなかった。そもそも、そんなことをする理由がない。ただ、この事態をどう解釈すればいいかと問われると、返答に困った。

「これ」
 
 ゆきはバッグからおもむろに何かを出して私に見せる。

「あっ」


「同窓会がはじまる前にみんなで撮ったんだ。酔っちゃうとグダグダになりそうだからって」
 
 写真だった。私にとって懐かしい顔が勢ぞろいしている。日付は九十五年六月二十四日の土曜日。

「見せようと思ってさ。持ってきたんだ」
 
 ゆきを疑ってはいなかったものの、こうして同窓会の存在を裏付ける証拠を見せられたことで、私は内心ほっとした。

「あたしさ、同窓会でちさとのこと聞いた時、今みたいにけっこう泣いちゃってさ。みんなに慰められて。おかげで同窓会ってゆーか、途中からちさとのお別れ会みたいになっちゃった」


「……うん」
 
私はちさとのいない写真を見つめながら答えた。

「でね。よくよく考えたら、あたし、名古屋から東京に引っ越したタイミングで電話番号変わっててさ。誰もあたしの連絡先知らなくて。あたしがちさとから電話もらったっていったら、ちょっと変な空気になっちゃって」
 
 確かにそれでは誰もゆきに連絡することはできない。

「何いってんのみたいな。一応さ、みんなにはあたしに連絡くれたか聞いたんだけど、やっぱ誰もしてなくて」


「……うん」


「……。そしたら、三浦先生がね」
 
 ゆきの声は再び震え始めた。

「自分のところに来たんだって。ちさとが。事故のちょっと前に。今度同窓会やるから来てくれって」


「……うん」

私は単調な相槌が精一杯だった。

「なんか、ちさとさ、卒業してからも先生に仕事のこととか、たまに相談してたらしくて。いっつも、あたしたちの話してたって……」
 
 両腕を組み、思わず右の壁にもたれかかった。目の前にあるアイスコーヒーのグラスが滲んで何重にも見える。

「会いたいって」
 
 鼻水と涙で見るに耐えないお互いの顔を確認し合いながら、私たちは年甲斐もなく二人して声をあげて泣いた。
 視界に映る喫茶店の窓ガラスは、この世のものとは思えないほどひどく歪んで見えて、それが外を濡らす雨のせいなのか、それとも瞳を濡らす涙のせいなのか、私には判断できなかった。



 目の前を電車が通過してゆく。東京駅山手線内回りのベンチに座り、向かいのホームを眺める。降っていた雨は喫茶店を出た時、すでにやんでいた。傘を持っている人がチラホラ目に付く。今日の出番はもうないだろう。
 
 ゆきとは駅で別れた。お互い、どうしていいのかわからないというのが本音で、それぞれ頭の中を整理する時間が必要だった。散々泣きじゃくった後、しばらく放心していた私たち。お店からしたら迷惑な客だったろう。会計の時、ウェイトレスの女の子が若干引きつった顔をしていたから間違いない。
 
 気持ちは少し落ち着いた。相変わらずちさとの顔が脳裏にこびりついて離れない。私は最後に会った日のことを思い返していた。

 ゆきと電話で話した喫茶店アゼリア。あれは七十七年の三月だったか。目を閉じると、あの日の記憶が脳内いっぱいにゆっくりと広がっていく。

「ほんとに? やめなって」


「だって、あたしたちもう卒業したんだからいいじゃん! 来月から社会人でしょ」


「ゆき、そういう問題じゃなくてさ、相手いくつだと思ってんの?」


「五十~二、三?」


「こっちは十八なんですけど」
 
 私は呆れるようにいった。

「だって大人の男がいいんだもん」

 私の上京が迫った三月の某日。私たち三人は、いつもの喫茶店アゼリアでだべっていた。ゆきは三人で来れるのも最後だからというよくわからない理由で、前から一方的に憧れていた店のマスターに告白すると言い出し、私を慌てさせた。

「ちさと! 止めて」


「ふふふ。いいじゃん。告白すれば。でもゆきは四月から名古屋でしょ? 遠距離になっちゃうね」


「そうなの。そこが悩みなんだよね。こんなことなら地元で就職すればよかった」
 
 いいながら、ゆきはカウンターでグラスを拭いているマスターに怪しい視線を投げかけている。

「もしかして、ちさともおじさま好き?」
 
 私は焦って確認した。

「ううん。お父さんより年上はちょっとね」
 
 ちさとは爽やかに答える。

「えっ? ちさとのお父さんいくつ?」
 
 ゆきが勢いよく振り返った反動でテーブルが揺れ、私のコーヒーがカップの中でチャプチャプ鳴った。

「四十三かな」


「うそ? 若くない? しおりのお父さんは?」


「うちは今年四十八だったかな」


「ほんとに? うちは今年で還暦なんだけど」


「ゆきは末っ子だし、遅い時の子供だからだよ」
 
 ちさとがチーズケーキを食べながらいう。

「じゃ、じゃあ、あたしの彼氏はあんたたちのお父さんより年上になっちゃうわけ?」

 すでに彼氏扱いしているところが気になるが、その通りだ。
 絶望したような表情のゆきの横で、ちさとが外を眺めながらしみじみといった様子で口を開いた。

「……ここに三人で来るのも今日が最後なんだね」
 
 私たちがいつも座っている席からは、三年間通った駅前の小さなロータリーが一望できた。外では時間を持て余したタクシーの運転手たちが煙草をふかしている。風に乗ってたなびく白煙は、あっという間に空に消えていく。私は少しだけ感傷的になった。

「いーなぁ。しおりは。東京だもんね。武道館行きたい! 私の秀樹に会える!」


「私はちょっと不安だな。今までこの街から出た事ないし」


「でも、しおりは向こうにお姉ちゃんいるんでしょ? じゃあいいじゃん。私は名古屋でひとりだもん」
 
 メロンソーダのさくらんぼをつつくゆきはふてくされ気味だ。

「みんなバラバラになっちゃったね。次に三人で会えるのはいつだろう」


「う~ん、夏かなぁ? そもそも社会人って夏休みあるの?」


「どうなんだろね。できれば夏には帰ってきたいよね」

  私は何気なく呟いた。

「帰ってきてね。また三人でコーヒー飲もう」
 
 ちさとが笑う。その表情は少し寂しそうだった。

「まぁ、あたしにはマスターと結婚して、この喫茶店に嫁ぐという選択肢も残されてるけどね」


「いまだにクリームソーダ飲んでるお子ちゃまには無理無理」
 
 ジャレあっている私とゆきをみてちさとは微笑んでいる。

「そうだ。しおり、これ」
 
 そういうと、ちさとは持っていたバッグから本を一冊取り出して私に差し出した。

「とりあえずいったんこれで最後だね」
 
 小説だった。【青い眼が欲しい】トニ・モリソン著。

「お、なになに?」
 
 ゆきが覗く。

「小説かぁ。好きだねあんたたち」
 
 小説に興味がないゆきは、つまらなそうに名古屋で彼氏を探そうだとか、ぶつぶついいながらクリームソーダを流し込む。一体どこまで本気なのだろう。

 仲良くなって以来、ちさとと私は定期的にお互いが買ったり借りたりした小説をシェアしていた。私はちさとの影響で、海外の古典文学の知識にはそれなりに明るくなった。彼女が読む作品は、いわゆる大衆小説というよりは純文学が多く、そんな彼女の感性に、私はいつもなんとなく大人の知性みたいなものを感じ、うらやましさと軽い嫉妬を覚えた。

「いいの? でも返すのが……。」


「私が一番好きな小説。いつでもいいよ。今度島根に帰ってきたときで」


「うん。わかった。帰ってきたときに持ってくるね。ありがとう」

 
 私たちは最後の喫茶店を満喫して外に出た。例年に比べて少し肌寒い午後だった。人っ気のない、いつものロータリー。煉瓦造りの古い駅舎。部活で帰りが遅くなるとよく使った錆びた公衆電話。見慣れ過ぎたこの景色も、今日で見納めだ。

 二人は最後だからといって、私が住んでいる最寄り駅で電車を降りてくれた。私たちは次の電車が来るまでの間、ホームで話をした。その間、ちさとは何度もしつこいくらいに帰ってきてねと繰り返した。ゆきはどう思っていたかわからないが、少なくても私はそう遠くないうちに帰ってくるつもりだったし、ちさとの態度は少し大袈裟なように感じていた。

 話しているうちに泣きべそをかきだしたちさとを見て、ゆきがもらい泣きするものだから、私まで泣きそうになったが必死で堪えた。また三人で遊ぼうといって撫でたちさとの髪の毛は、信じられないくらい柔らかく温かかった。

 上りと下り。双方の車両を同時に見送る。
 それぞれの電車が動き出し、私を起点に、ちさととゆきの距離がゆっくりと離れてゆく。何度も向きを変えながら、泣いている二人の顔が完全に見えなくなるまで手を振る。電車はあっという間に見えなくなった。島根で過ごした私の十八年はこうして終わりを告げた。

 あの頃よりもだいぶ潤いのなくなった自分の右手を眺める。ちさとの髪の毛の感触は当然もう残っていない。ちさとの姿を見たのはあの日が最後になってしまった。

 東京でのOL生活は想像以上に大変で、結局、最初の数年間は地元に帰ることはできなかった。ちさとや、地元の何人かの友達とは、上京した最初のうちこそ定期的に連絡をとっていたものの、転職を機に一人暮らしをはじめた頃には、自然と疎遠になっていたような気がする。
 
 痺れを切らした両親が、東京観光もかねて私や姉のところに遊びにきたことはあったものの、私が島根に帰ったのは上京してから五年目の冬だった。その頃には、ゆきとたまにやりとりをする程度で、ちさとを含めた同窓生たちとの連絡は完全に途絶えていた。

 その後、私は転職先で知り合った夫と結婚し退職。息子を身ごもった。自分の家庭を持ったことで昔の人間関係はより希薄になった。そして私は母親になる。母親になった私にとって、高校時代の思い出はいつしか遥か遠い昔の出来事になっていた。

 私はなんて薄情な女なのだろう。自分の過去を振り返りながら思った。

 また三人で遊ぼう。夏には帰ってきたい。かつて自分の放った白々しい台詞たちは、群れを成し、言霊となって容赦無く私の空疎な良心を突き破ってくる。拒むことなどできない。なぜなら、あの時私の口から溢れ出した言葉達は紛れもなく、今の私自身を形成する血であり肉なのだ。
 
 あの子は、ちさとはどんな思いでゆきに電話してきたのだろう。あれからどんな思いで過ごしていたのだろう。本当は、十九年間ただの一度も会いに来ない友人を、いや、もはや友人などと思っていなかったかもしれない。そんな同級生を嫌いになっていたのではないか。連絡もよこさない最低な女と思っていたのではないか。人として軽蔑していたのではないか。それとも、それともあの日のように泣いていたのだろうか。

 私はその間もずっと自分の今を続けてきた。すべて終わった綺麗な思い出として一方的にピリオドを打ち、なにくわぬ顔をして今を生きていた。毎日家事をして、家族で食事を楽しみ、開いた時間にコーヒーを飲みながら、くだらないテレビを見る。夫と息子と自分。変わらない日常。
 
 そして、息子に笑って言い聞かせていた。友達を大切にしなさいと。



 家に着いた頃には八時を回っていた。駅の公衆電話から夫に電話を入れ、夕食は息子と済ませてくれるように頼んでおいた。とてもではないが食事の準備をする気力のない私には、電話越しに異変を悟られないように努力することが精一杯だった。家族に要らぬ心配をさせたくない細やかな意地だ。最低限の家事を済ませて早々と寝室に引き揚げた。

 相変わらず私の頭の中を支配している言霊たちは、まるで地球の周りを絶えず回遊してる人工衛星のように、ユラユラと私の脳内をうろついて、ちさとのビジョンを絶えず送信してくる。
 
 私は脳内に映し出され続ける、ちさとの笑顔に吸い寄せられるようにクローゼットを漁った。一番上の棚、左隅に放置されている茶色い箱を引きずり出す。十九年前、島根から引っ越してきた時に使った段ボール箱は、すでにボロボロだった。側面に印刷された懐かしい引越業者のキャラクターロゴと目があう。
 
 開いたままの上蓋には、マジックで「高校時代」と書かれている。紛れもなく私の字だ。中には実家で使っていた辞書やお気に入りの電気スタンド、文房具などが収まっている。社会人になって勉強が必要になったら使おうと思い、持ってきたものたちだった。
 
 上の方に入っているものを大方外に出すと、段ボールの底からカビ臭さを纏って、たくさんの小説たちが顔を出した。取り出して確かめる。カミュ、サガン、カフカ。ヘミングウェイにフィッツジェラルド。私の青春を彩った名作たち。すべてちさとに影響されて好きになり、購入した作品たちだ。

 考えてみれば、社会人になって会社の書類に触れる時間が増える代わりに、小説に触れる時間はみるみる減っていった。結婚する頃には、私の青春たちは私の手によって、この一メートル四方の小さな茶色い箱の中に完全に追いやられ、息子が生まれたことを契機に気がつくと私の記憶から消えていた。

 段ボールの最奥。あのトニ・モリソンに手が伸びる。クローゼットの奥で長年埃まみれにされた挙句、とうとう持ち主の元に帰ることができなかったこの小説は、私を恨んでいるだろうか。

 そんなつもりじゃなかった。忘れようとしたわけじゃない。私には私の人生があって、家庭があって、子育ても家事もあって、毎日大変で、あんたに会ってる暇なんかとてもじゃないけどなくって。しょうがなかった。まさか死ぬなんて思わない。そのうち会えればいいなって。

 釈明とも開き直りともつかない、歪な感情の吐露こそが自分自身の行動に対する罪悪感の証明だった。
 わかっている。全部わかっているんだ。
 
 どんなことをいっても、なにをしても現実はここにある。
 
 涙で濡れた十九年前の黄ばんだ小説は、顔を近づけるとカビの匂いに混じって懐かしい思い出の香りがした。思わず抱きしめる。

 
 ちさと……ごめんね。


「もしもし。ゆき?」
 
 翌日の日曜日。夫と息子が出かけたタイミングを見計ってゆきに電話した。

「うん。あたしも電話しようと思ってた」
 
 声のトーンや雰囲気で、ゆきの考えていることはなんとなくわかった。おそらく彼女もそうだろう。

「会いにいこう」

「そうだね」

 私たちはちさとの一周忌に合わせて帰省することにした。息子は夫の実家に預かってもらえそうだ。夫にはことの詳細は伝えていない。天国の友達から同窓会に誘われたから行ってくる。といっても信じてはもらえないだろう。
 
 ゆきが受けたという電話の真相は結局わからなかった。でも、私たちには忘れてはならない大切な友人が存在して、私は、私が原因で、果たすことのできなかった彼女との約束を守らなければならない。その事実だけで十分だった。

 綺麗にクリーニングしたトニ・モリソンを開く。徹夜で再読した名作は色あせることなく私の心を打った。形見になってしまったこの小説のことは、向こうに着いたらすべて、正直にちさとのご両親に話そうと思う。そして、できればこのまま私が持っていたいと頼んでみよう。
 
 学生の頃、アゼリアでちさとと小説の選評会をやっていたことを思い出す。彼女はこの小説をどんな風に読んだのだろう。今度会う時までに、私の感想を整理しておかなければ。

 段ボールをクローゼットにしまう。
  
 猛暑の前兆だろうか。まだ七月上旬だというのに、今年はすでにセミが鳴きはじめている。二階自室の窓を開けると、強い日差しとともに玄関の方から息子の元気なはしゃぎ声が聞こえてきた。

 本を閉じ、ベッドの横に置く。この気温では汗だくの洗濯物が大量に出るはずだ。今日はもう一度洗濯機を回さなければならないだろう。
 
 私は急ぎ足で階段を降り始めた。
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