デキタテ

狐猫(キツネコ)

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「フワリって、デキタテのパンを食べたことあるか?」

 鶏のようなトサカを持った、オスのカラスが口を開いた。

 突然の質問に対し、隣にいるフワリと呼ばれたメスのカラスは困惑の顔を浮かべている。

 昼下がりの青空の下、ポカポカとした春の陽気に包み込まれた閑静な住宅地。

 とある電柱の上に並んで停まる二羽のカラス。

 二羽のはるか足元には、住宅地に設けられた小さなゴミ捨て場がある。

 二羽は先程まで、ここで食事をしていたようだ。

「……なによ、デキタテって?」

 食後の余韻を邪魔されたフワリと呼ばれたメスのカラスは、少しばかり不機嫌な様子で聞き返した。

「人間どもがそう呼んでいたんだ。どうやら完成したばかりのもの、をそう言うらしい」

 デキタテ。フワリにはあまり聞き馴染みのない言葉だった。

「多分ないと思うけど、トサカは食べたことあるの?」

「ああ、近くのパン屋でな。人間が床に落としたと言って捨てたものを頂いた」

「へー、それでどうだったの?」

 トサカと呼ばれたオスのカラスは口を紡いだ。どうやらデキタテのパンの味を思い出しているようだった。

 少し離れた場所にある、小学校の鐘がキンコンカンと鳴り響く。

 その鐘が鳴り止む頃になって、トサカはようやく口を開いた。

「……うまかった」

 満足気な顔を浮かべているトサカのとなりで、フワリは次の言葉を待っている。

 小学校の鐘がもう一度鳴り響く。

 しかし、二度目の鐘が鳴り止み、次第に子供たちの声が大きく聞こえるようになっても、それ以上の言葉がトサカから出てくることはなかった。

「……それだけ?」

 痺れを切らしたフワリが聞くと、トサカは小さく頷いた。

 その反応に、フワリはガックリと肩を落とす。

 口下手なトサカが、わざわざ話の種として持ってきたのだから、よほど伝えたいことがあるのだと思ったからだ。

 落胆するフワリの気持ちを感じ取ったのか、トサカは慌てて感想を付け足した。

「その、なんていうか、フワフワというか、モチモチというか、今までに食べたことがないような感じというか……とにかく、うまかったんだよ」

「……ふーん」

 たいして情報の増えていない感想に、フワリは素っ気ない返事をしつつも、トサカの顔から目が離せなかった。

 トサカの顔は、鋭い眼光を携えた普段の引き締まった顔とは違い、どこか緩んだ優しい表情を浮かべている。

 それなりに長い付き合いのあるフワリにとっても、見たことのない姿だった。

「珍しいわね、あんたが食べ物のことを考えるなんて」

 トサカにとって、食事は空腹を満たすものでしかないことを知っているフワリは、少しからかうような口調で言った。

「ああ、自分でも驚いている。これほど、また食べたいと思った食べ物はないからな……」

 淡々と喋っているが、その声はどことなく上ずっている。

 トサカからこんな言葉が出てくることに、フワリは驚いた。

 それほどまでにデキタテとは美味しいものなのかと。

「あんたがそこまで言うとはね……あたしも食べてみたいなー、デキタテのパンってやつ」

 フワリは空を見上げて、背筋を伸ばすように羽を横に伸ばす。

 そして頭の中で、デキタテのパンを想像した。

 口下手で、食にたいして興味のないトサカが、思い、喋り、再び食べたいと考えるほどの食べ物。

 いったいどれほどの美味しさなのだろうと、フワリは想像を掻き立てた。

 妄想するデキタテのパンに、よだれを垂らしそうになっているフワリに、トサカは質問した。

「……食べてみたいか、デキタテのパン?」

 ハッと、慌てて口元を隠しながら、フワリは答える。

「そ、そりゃあ、食べてみたいけど……そう簡単に食べられるものでもないでしょう?」

 パン屋ならフワリもいくつか知っているが、どのお店でもデキタテのパンにありつけた試しはない。

「まあ、難しいことではあるが……ひとつ、考えがある」

「なんか、いい方法があるの?」

 フワリの言葉に頷くと、トサカは真面目な顔で言い放った。

「俺自身が……デキタテのパンを作ればいいんだ」

 その言葉の後、二羽の間に沈黙が流れた。

 フワリの頭の中は真っ白になっていた。

 それは、トサカの言葉の意味が理解できずに困惑していたせいである。

「ごめん、いまなんて言った?」

 聞き間違いかと思ったフワリは、トサカに聞き返す。

「俺が、デキタテのパンを作る……!」

 聞き間違いではなかった。むしろ、聞き間違いであってほしかったとフワリは思った。

「……あんた、自分が何を言ってるのかわかってるの?」

 あまりにも突拍子のない発言に、頭を抱えるフワリ。

「あれは人間だから作れるのよ。カラスであるあんたには無理よ」

「い、いや、やってみなければわからんだろ……!」

 否定するフワリの言葉に、トサカはたじろぎながらも言葉を返す。

「やってみなければわからんって……あんた、パンの作り方なんて知ってるの?」

「そ、それは……今からどうにか、なんとか……」

 トサカは言葉に詰まった。それはパンの作り方など考えてもいなかったからだ。

 トサカの様子に察したフワリは、小さくため息をついた。

「やめたほうがいいわよ。笑い者になりたくないならね」

「そ、そうか……」

 フワリの言葉にトサカは俯いてしまった。

 立派な翼が地につくほどに、ガックリと肩を落としている。

 思いの外、落ち込んでしまったトサカの姿に、フワリは驚いた。

「……ちょ、ちょっと、そんなに落ち込まなくてもいいじゃない?」

「いいんだ。お前の言うとおり、カラスにパン作りなんて無理だろう……」

 顔をあげて微笑んで見せるトサカだったが、その顔には寂しさが浮かんで見える。

 言い過ぎたのかと思ったフワリは、慌てて言葉を取り繕う。

「そ、その、気持ちはすごい嬉しかったよ。本当に! それだけ、美味しいんだろうなって分かったし!」

「そうか……」

 二羽の間に、少し気まずい空気が流れる。

 先程まで、小学校の方から聞こえていた子供たちの大きな声が、次第に聞こえなくなっていった。

 そうしてすこし静かになった後、そんな雰囲気が苦手なフワリは耐えられなくなった。

「……ごめん、言い過ぎたかな?」

「いや、お前は悪くない。俺の方こそ、変なことを言ってすまない……」

 再び沈黙が流れるかと思ったが、フワリの胸に湧いた疑問がそれを突き破った。

「……なんで、そこまでしようと思ったの?」

 フワリは、遠くを見つめるトサカの顔を、覗き込むようにして質問した。

 トサカは変な冗談を言うやつではない。

 おそらくパンを作ると言ったのも本気なのであろう。

 しかし、フワリにはトサカがそこまでしてくれる理由がわからなかった。

 フワリの疑問に僅かな沈黙を挟んだ後、トサカは静かに話しだした。

「……本当にうまかったんだ……初めて、食べ物で感動した」

 時々、間を空けながらも、トサカはゆっくりと話していく。

「暖かくて……柔らかくて……思わず夢中になって食べたんだ」

 フワリは黙って、トサカの言葉を聞いていた。

 ゆっくりと話すその姿が、慎重に言葉を選んでいるように見えたからだ。

「もう一度、食べたいと思って……しばらく、その店の近くにいたが……あれ以来、出てくることはなかった」

 普段の口下手なせいで、喋ること自体があまり好きではないトサカが、こんなにも頑張って喋っている。

 フワリは、そんなトサカが伝えようとしていることを静かに聞いていた。

「どうしたら、もう一度食べられるのかと考えたら……その、自分で作ることを思いついたんだ……」

「……なるほどね」

 そこまで聞いて、フワリはやっと胸の内がスッキリした。

「あんたがそこまで言うとは……あー、あたしも食べたいな、デキタテのパン!」

 そう言ってフワリは、スッキリした顔で天を仰ぐ。

 しかし、その隣でトサカは難しい顔をしていた。

 眉間にシワを寄せ、嘴を噛み締め、その瞳には力が込められている。

「違う……」

 トサカは小さく呟いた。本当に小さな呟きだったが、その裏には熱を帯びた意志があるようだった。

「……違うって、何が?」

 その小さな呟きに気づいたフワリは、トサカに視線を戻す。

 「その……違うというか、違わないのだが……違うんだ」

 トサカの心臓の鼓動が強くなる。

 まるで全身が震えているかのような錯覚に襲われている。

 しかし、そんなことを知らないフワリには意味が分からなかった。

 自分から説明したことが違うとはどういうことだろうか?

「はっきり言ってよ。何が違うの?」

 フワリの言葉に、トサカの心臓はドンドンと強く鳴り響いていく。

 その鼓動は、翼の先まで届いているかのように感じていた。

「その……もう一度、食べたいと思ったのは事実なんだが、それだけじゃないんだ」

「どういうこと?」

 ポカンとした顔を見せるフワリ。

 それとは裏腹に、トサカの心臓はもはや爆発するのではないかと思うほどに、胸の中で鳴り響いている。

 トサカは、口から飛び出しそうになる心臓をグッと飲み込んだ。

 それと同時に、覚悟を決めたようである。

「……俺は……お前にプレゼントしたかったんだ、デキタテのパンを!」

「……プレゼント?」

 トサカは落ち込んでいた顔を上げて、フワリの顔を真っ直ぐに見つめる。

 そして、大きな声で宣言した。

「好きだ、フワリ! 俺と結婚してくれ!」

 俺と結婚してくれ。トサカはフワリに対して、夫婦になることをお願いしたのだ。

 それすなわち、プロポーズである。

 トサカはいま、オスとして、漢として、一世一代の告白をしたのだ。

 トサカの鼓動は、もはや目の前にいるフワリにも聞こえるのではないかと思うほどに、大きく強く高鳴っている。

 しかし、フワリはトサカの鼓動には気づかなかった。

 なぜならば、フワリの心臓も同じくらい、いや、それ以上に強い鼓動を打ち鳴らしていたからである。

 プロポーズをされた瞬間、最初はトサカの言ったことが分からなかった。

 しかし、次第に脳が追いつき、その言葉の意味を理解し始めると共に、フワリの心臓も強く高鳴っていったのだ。

 プロポーズされたフワリの顔は、真っ黒い羽の上からも分かるくらい紅潮し、体は燃え上がりそうなほどに熱を帯びていた。

「え、いやっ……あの……その……!」

 何かを言わなければと考えるが、頭は正常に働かず、言葉も出てこない。

 そんなフワリに、今度はトサカが痺れを切らし、追い打ちをかけた。

「……駄目か?」

 その言葉に、フワリの心臓は弾けそうなほどに高鳴った。

 フワリは、真っ直ぐ見つめてくるトサカの瞳から目が離せない。

 今までトサカのことを、オスとして見ていなかったわけではない。

 周りのオスに比べれば、トサカはそれなりに男前の顔つきである。

 口下手で抜けているところもあるが、自分の考えというものをしっかりと持っているところも、フワリは好感をもっていた。

 しかし、決してオスとして見ていたわけでもない。

 ただ、一緒にご飯を食べて、どうでもいいお喋りをする友達。

 それくらいの関係だと思っていた。

 その友達が、友達以上の関係になって欲しいと頼んできたのだ。

 言わば「友達を辞めよう」と言っているも同然の、目の前のオスにどのような言葉を返せばよいのか、フワリには皆目見当もつかなかった。

 しかし、これ以上黙っているわけにもいかない。

 フワリの心臓は、何かを言わなければ本当に弾け飛びそうなほどに高鳴っていたからだ。

 なにより、トサカの顔を見ればわかる。

 生半可な気持ちで言ったことではないことを……

 フワリは、そんなトサカに適当なことは言いたくなかった。

 だからこそ、決めたのだ。

 下手に考えた言葉を放つのではなく、心が思ったことを吐き出そうと……

 ……結果。

「お、お願いします……」

 先程までのしっかりとしたフワリの声とは違い、それは小さく、か細いものであった。

 しかし、返事そのものは、はっきりとした肯定であった。

 フワリは軽く俯き、目をキョロキョロとさせている。

 トサカは真っ直ぐにフワリを見つめているが、何も言わない。フワリの返事が聞こえなかったわけではない。

 フワリの返事が心のなかでし、身動きが取れなかったのだ。

 トサカには、それだけの衝撃であった。

 フワリは正面を向いたまま、足を横に出して、トサカに一歩近づいた。

 横に十センチほど開いていた二羽の間隔が五センチほどに縮まる。

 その距離感にトサカの体が強張る。

 フワリはさらに近づく。

 間隔が二センチほどになる。

 縮まるフワリとの距離感に、身動きが取れなくなっていたトサカも、思わずたじろいだ。

 二羽の視線が交わる。

 フワリも、トサカも、何も言わなかった。

 ただ二羽のカラスは、このデキタテの関係を胸の中で噛み締めているのであった。
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