狭間のユメ

星山遼

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 『読書好きで、図書室が似合う物静かな感じ』、それが穂乃香のイメージだとクラスメイトは評する。学校の成績も国語や家庭科の評価が比較的高く、彼女自身もそれらの科目を好んでいる。
 しかし、今でこそ文系少女な穂乃香も、幼少時は割とアクティブだった。秋人を始めとする友達と一緒にジャングルジムのてっぺんに登ったり、鬼ごっこに明け暮れる日々を送っていた。
 とは言え、昔は昔、今は今。
「ま、・・・・・・って」
 呼吸をするだけで精一杯で、まともに声が出せない。
 毎日剣道部で鍛えている秋人の脚力に、穂乃香がついていくのは無理がある。走るには不向きな革靴のせいでかかとや爪先に痛みを感じ始めていて、限界が近い。
 苦しげに喘ぐ穂乃香を見て、秋人はやむを得ないとばかりにスピードを緩めた。背後を振り返り、追い掛けて来る姿が見えないのを確認して立ち止まる。
 足に力が入らず、ふらふら揺れていた穂乃香の体が、とん、と固い物に触れた。こめかみから顎へと伝い落ちる汗を指先で払い、解けて広がった髪を掻き上げて目を向けると、灰の色をした樹皮があった。
 大きな木、だった。葉は一枚もついておらず、枝の先まで灰色に染まったさまが寒々しさを際立たせている。
 幹に凭れて体を支え、肩で荒く息をつく。徐々に呼吸が落ち着いて、ようやく周囲を見回す余裕を得た。
 いつの間にか、空の色はそのままに景色が一変していた。
 灰色の木が点々と生えている。あるものは穂乃香の腕ほどに細く、またあるものは穂乃香一人では抱えられない程に太い。そのいずれも、葉も実もない枯れ木だった。
 先程まで乾いた土だった地面は灰色に。踏み締めると、さくり、と軽い音が鳴る。それは土ではなく細かく砕けた樹皮の堆積だった。
 軽くブレザーの裾が引っ張られる。振り向くと、額に汗を浮かべた秋人が太い幹を指し示した。
「ひとまず、あの木に隠れて様子を見よう」
 穂乃香の返答を待たず移動する秋人を、覚束ない足取りで追う。
 幹の陰から顔を覗かせて注意深く周囲を警戒する秋人の隣に、穂乃香は腰を下ろしかけた。ふと瞬く。
 彼に任せ切りにしてはいけない。
 目で見える範囲は、秋人が警戒してくれる。ならば、視力で劣る自分は。
 呼吸をなるべく抑えるように努め、耳をそばだてる。幸い風もなく、地面は乾いた樹皮で覆われているから、自分達以外の何かが接近して来れば足音が聞こえる筈だ。
 二人の呼吸だけが満ちる世界。その中で、穂乃香の聴覚が捉えた音があった。この音は、もしや。
「あ」
「さっきのアレは何だったんだ?」
 微かに漏れた声に、秋人の言葉が被る。
 穂乃香が顔を上げると、秋人は制服の上着を脱いでスポーツバッグに突っ込んでいた。インナーの襟元へ指を掛け、ぱたぱた扇いでいる。
「あ・・・・・・五十嵐君には何に見えましたか?」
 うっかり『あーくん』と呼びそうになって、言い直す。秋人は気付かなかったのか、構わずに話を続けた。
「・・・・・・幽霊?」
「やはりそう見えましたか」
「その割には足がちゃんとあったみたいだけどな」
 砂埃を巻き上げ、大地を揺らす程の地響きを以て追い掛けて来るのだから、足はあったのだろう。だが、それを除けば彼らの出で立ちは確かに『幽霊』に当てはまった。
「リアル『幽霊と鬼ごっこ』だとしたら、怪奇現象好きには堪らないイベントですね」
 穂乃香がハンカチで汗を拭いながら言うと、何故かがっくり秋人の肩が落ちた。汗で張り付いた水色のインナーが、彼のしなやかな筋肉を浮かび上がらせる。
 男の子、なんですよね。あーくんは。
 意識すると、駆けていた時とは違う熱さが頬へ上って来た。慌てて視線を引き剥がす。
「五十嵐君、お疲れですか?」
 全力疾走しましたからね、といつもの口調を心掛ける穂乃香の頭上へ、盛大な溜め息が落ちる。
「アレが幽霊だと仮定して、何故俺達を追い掛けて来るんだ?」
「私達が逃げたからじゃないですか?」
「・・・・・・逃げ出す前から、こっちへ向かって突進して来ていただろうが」
 秋人が頭を抱えてしゃがみ込む。
「言われてみればそうですね」
 彼は更に項垂れてしまった。
 穂乃香相手にこの話題を続けるだけ不毛と判断したのか、秋人の問いが変わる。
「そもそも、ココは一体どこなんだ?」
 穂乃香は答えない――否、答えられない。どこかに見知った建物や景色を見出せないかと探してみても、広がるのは立ち枯れた木々だけ。
 返答を期待していないのか、秋人の疑問は続く。
「何故俺達は・・・・・・俺達だけがこんなところにいる?」
 穂乃香は、はっ、と息を飲んだ。秋人が傍にいるお陰で安心しきっていたが、言われてみれば両親やクラスメイト、先輩後輩と言った身近な人々がココにはいない。
「もしかしたら、どこかにいるのかも知れませんけど・・・・・・」
 この状況では、知人と遭遇する可能性は低いだろう。不自然な静けさも、それを肯定している気がした。
 ごくり、と音を立てて秋人の喉が鳴った。見上げる穂乃香の先で、彼の口元が歪んでいる。
「それに俺達はここで目覚める直前、何をして・・・・・・っ」
 言葉は途中で詰まった。喉を押さえて咳き込む秋人の背へ、穂乃香は躊躇いがちに手を伸ばす。壊れ物に触れる様に掌を添えてさすった。
 しばらくそうしていると、秋人が片手を挙げた。それを合図に手を離すと、彼は一つ大きく咳払いをして深呼吸した。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、何とか」
 それでもまだ違和感が残るのか、秋人は喉に手を当てた。あ、とか、ん、とか声を出して調子を確認した後、スポーツバッグから水筒を取り出して振る。音はしない。
「喉、渇いたな」
「あ、それなら。あっちから水の音が聞こえましたよ。川が流れているのかも知れませんね」
 先程、言いかけたのはそれだった。
 穂乃香が示す方向へ目を向けた秋人は、仕方無さそうに頷いた。
「まぁ、工場の排水が垂れ流されているとか、そういう事は無いだろうさ」
 腰を上げて歩き出した秋人を、穂乃香は二歩引いた距離を空けてついて行く。先程と違って繋がれない掌を、そっと胸に抱いた。
 そして、秋人の言葉を反芻する。
 目覚める直前の出来事を思い出そうとするが、記憶を探ろうとすればする程、胸の重苦しさが増していった。
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