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第1章

ニンジャ受恩す!

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ゆらゆらと微睡む感覚から、自分が命を拾ったことを自覚する。
これも九郎には慣れたことだった。

しかし、あんなに初歩的な失敗を重ねて命を落としかけるなど、何十年ぶりのことかもしくは初めてではないか、と九郎は自省する。
尋問するつもりで相手に情報を渡し、挙句に未知の術理を有すると分かっている相手に油断した。

この体たらくでは命がいくつあっても足りない、と思ったところで、はたと気づく。なぜ?と。
いまの九郎を縛るものなど何もない。前世と同じように後ろ暗い仕事をする理由などないのだ。
やろうと思えばどうとでも生きていけるだけの自信が九郎にはある。

(理由もないのに人を殺す、か。ワシも大概じゃの…)
察するに失敗の原因もそこにある。
緊張感が足りてないのだ。縛るものが何もないということは、背負うものも何もないということだ。
極論、生きる理由すらない。

ゆらゆらとした揺らぎが小さくなっていく。
脳が身体に接続されて、意識が満ちていく感覚。
目覚めだ。

てっきり、目を覚ましたら森の中の硬い地面の上で転がっているものと思っていたが、予想外なことに自分を包むのは肌触りのいい柔らかい感覚だった。空や森の木々ではなく細かい装飾が施された天井が見える。
しかも近くには人の気配がするとあって、九郎は跳ねるように身を起こした。その際に、自分の体のあちこちを包帯が覆っていることに気づく。

「お目覚めですの?」

寝台の横の椅子に、あの夜に目にした美しい少女が腰かけていた。間近で見た少女は月明かりの下で遠目に見るより更に美しく、深い碧の瞳には気品と若さが並存する輝きがあった。
更に、その後ろには燕尾服を着た眼光鋭い初老の男が控えていた。細身ながらも、老いの見えない鍛え上げられた体つきから相当"デキる"と見て取れる。

「ここは…?」
「当家が保有する別荘ですわ。貴方が裏の森の中で倒れてたところを当家で保護させていただきました」

この少女に拾われたということか、と九郎は理解する。

「それは、かたじけない。大変な…」

お世話になったと口にしようとしたところで、少女の発言に遮られる。

「それよりも。体に違和感はございませんの?酷い有様でしたのよ?」
「酷い?」
「ええ。全身の火傷に加えて、打ち身、骨折、折れた肋骨が肺に刺さっておりましたし、腕に至っては千切れかけで指は爛れて癒着してましたの。でしょう?グスタフ」
「…ええ、お嬢様。治療が間に合って幸いでした」
「………」

少女の言葉に男がちょっと間を空けて同意した。
(そこまでの損傷を起こす威力だったとは…)
やけに生々しい少女の説明に九郎は驚きを禁じ得なかった。つくづくこの世界を甘くみていたことを痛感する。
拘束し、無力化した状態からああも容易く対戦車砲を超える威力を発揮するとなると、認識をさらに数段上げる必要があった。

それにしてもずいぶん胆力の座ったお嬢さんだ、と九郎は感心する。
説明の通りなら、目を背けたくなるような有様だった九郎の姿を物怖じもせず語るのだ。普通の少女ではない。

「並々ならぬご厚意、ご慈悲に賜りまして、感謝の意に堪えません。このご恩、身命を賭してお返しいたします」

受けた恩の重さに九郎は態度を改めた。
寝台から降り、床に片膝をついて謝意を表する九郎に少女は目を丸くして、驚いたように口元を覆う。

「まあ…そんな、お気になさらなくて大丈夫ですのよ。どうか、お身体が良くなるまでごゆっくりなさって下さいまし」
「いえ、お陰様でもう体は動きます。卑賤な身でありますが、多少芸に覚えがございます。ここで働かせてはいただけないでしょうか?」

床の上で深く頭を垂れた九郎に、少女は困惑し、言いにくそうに返す。

「しかし、両親が不在にしている以上、その…身元の不確かな方を雇うようなことはわたくしの一存では、決めかねますわ」
「仰せの通りです、お嬢様。どこの馬の骨とも知らぬ小僧を軽々に屋敷に雇い入れるのは避けるべきかと」

男の重い冷たい言葉を、返す言葉もないなと九郎は冷静に受け止めた。
上流階級における雇用条件は何よりも身元が確かなことが前提だ。
前世でも政治家や貴族、セレブから情報を得るために手っ取り早いのは、間に信頼を置ける人間を挟むことだった。
保証人どころか、ロクな偽装身分アンダーカバーも用意していない今の九郎では問題外だ。
しかし、ここで引き下がるのも不義理が過ぎる、どうしたものかと逡巡しているところ、押し黙った九郎をどう受け止めたのか、少女が再び口を開いた。

「…いいでしょう。何か事情がお有りなご様子。両親にはわたくしから説明いたしますわ」

少女の唐突な翻意を九郎は疑問に思うが、その真意を測る前に事態は進んでいく。

「グスタフ、彼を貴方に預けますわ。身元はこのわたくしが保証いたします」
「お嬢様、それは保証とは言いかねます」

呆れたような男の言葉にコロコロと少女は笑って、からかうように言った。

「そんな固いことをおっしゃらないで。わたくしが彼を信用するというのです。それともなぁに?貴方はこんな幼気な少年が恐ろしいのかしら?」
「はぁ…かしこまりました。ご両親には私から報告いたします」

男は諦めのため息を1つ吐いて、改めて九郎に向き合った。
男の所作は1つ1つに洗練された美しさが宿っている。九郎からしてもこの男を殺るには苦労しそうだ、と思わせる力があった。

「申し遅れました、私はこの家の家令ハウススチュワードを務めますグスタフと申します。貴方は今から私の部下となります。…今日のところは体を休めなさい、明日から徐々に働いていただきます」

言うだけ言って、グスタフは少女に一礼し部屋を出て行ってしまった。
残された少女はくすっと笑うと床に跪いたままの九郎に手を差し伸べた。

「わたくしとしたことが、まだお名前を聞いていませんでしたわね」
「失礼をいたしましたお嬢様。私は九郎と申します。姓は…持ちません」

九郎は差し出された手を取らずに立ち上がり、その場で恭しく礼をした。

「クロウとおっしゃいますのね。わたくしはグレーティア、グレーティア=オークウッドと申します。これからどうぞ、よろしくお願いいたしますわ」

グレーティアと名乗った少女は差し出した手を引きながら、華々しく笑った。
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九郎の使用している客間から退室したあと、グレーティアはグスタフの執務室に足を向けた。

ノックもしないで入室してくるグレーティアをグスタフは執務机に座ったまま片眉を上げて見るだけだ。

「どう思いましたの?」
「バケモノですな。だが、腑抜けております」

端的な問いと答えだが、目的語は明確だ。数日前から客間の寝台を独占している少年のことに決まっている。

「アレでよろしかったのですかな、お嬢様?」
「もちろんですわグスタフ。腑抜けていながら、手練れ5人と渡り合い、そのうち4人を返り討ちする。さらには…」
高位魔術師ハイウィザードの詠唱付き自爆魔法を至近距離で食らっておきながら、、ですかな?」

グレーティアの言葉を引き継いだグスタフのセリフに、少女はにんまりと笑ってみせた。

「あれも、老骨には冷や汗ものでしたぞ」
「売り物にはなるべく高い値をつけるのが信条なのですわ。それが恩であろうとも」

ロクでもない信条を披露しながらも、少女は酷く愉快げだ。

「あのような拾い物、逃したとあってはかえってお父様とお母様に叱られてしまいますわ」
「…あの小僧、私を値踏みしておりましたぞ、"殺せるか"とね。価値観が狂っている手合いです」

グスタフの苦虫を噛み潰したような言葉で少女はますます笑いが止まらなくなる。

「ふふっ、だから貴方、彼の名前も聞かずに出て行ってしまったのね?あのグスタフが、本当にあんな少年に恐れを抱くなんて!」

グレーティアの挑発にグスタフもますます渋面を濃くする。

「お戯れがすぎますぞ、お嬢様。私があんな腑抜けた小僧に遅れを取るとでも?」
「それですわ、グスタフ」

グレーティアはいよいよ満面の笑みだ。

「貴方ほどの者が、女子供というだけで油断をする。だから女子供は恐ろしく、だからこそ価値があるのですわ。
…彼は私の見えない刃になりますわよ」

華々しく美しい笑みの奥から、滴るような毒と引き裂くような荊が覗いていた。
だが、この時はまだグレーティアは九郎の真価を知らない。変わった仔犬を拾った程度の感覚だ。
その仔犬が天地を呑む狼であることをまだ誰も知らない。
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