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第5章 凍てつく炎
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日直だった恭祐は集めた数学のノートを持ち職員室に向かった。担任の机に置き、教室に戻ろうとして「高塔!」と呼び止められた。美術を担当する林だ。何事かと近づくと、「ジャーン!」と鼻高々に賞状を広げてみせた。
「お前の風景画、コンクールで特別賞をとったぞ!いやぁ素晴らしい!構図といい色合いといい絶品だからな。しかし提出した時、生乾きだったのが何ともお前らしかった!」
そばにいた教師達にも賞状を見せびらかすと「さすが高塔だ!」と驚嘆の声が口々に上がる。
「ありがとうございます。だけどそれ、高塔彬従の名前になってますよね。俺は高塔恭祐です、3組の。」
「あれそうか!また間違えたな、すまんすまん!」
悪びれる風もなく、林はガハハと笑った。
「ったく、俺はアキじゃねーよ。」
職員室を出て恭祐は思わずため息を吐き、ムッとしながら教室に向かった。
「キョウ、探したんだよ!」
呼び止められて振り向くと、そこには自分を見上げる玲がいた。
「玲は後ろからでも俺がアキじゃないって分かるんだね。」
「当たり前よ!キョウはキョウじゃない。」
「なんで分かるの?」
「そうね、歩き方とか、肩幅とか?」
「肩幅?」
「うん、キョウの方が背中が広いのよ。」
小さな両手をパッと広げて玲は背中の広さを示してみせた。その仕草が可愛くて恭祐はほっこりと笑う。
「あと、キョウの方が不機嫌な顔してる時が多いのよね。何かあったの?」
「ああ、また林先生にアキと間違えられた。つーか最近一日に一回はアイツに間違えられるよ。」
「そうなんだ!でも髪型も似てるし制服を着ているとそっくりだから分かんないかも。私服ならキョウはお洒落でアキはワイルドだから。」
「ワイルドって……確かに小学生の頃は外でサッカーとかして暴れてくるから泥だらけで傷だらけでユズママにいつも怒られていたな!」
アハハと笑い合うと、恭祐は先ほどまでの苛立ちがすとんと消え失せた。
「そうだ、今週の日曜日にアキのバスケの決勝戦があるの。一緒に応援に行かない?」
「日曜日は空手の練習がある。」
「そうなんだ…」
玲はがっかりした。
「何時から?玲が行くなら俺も行くよ。」
「ホント?練習は?」
「サボるよ。たまにはアキの応援にも行ってやるかな。」
「やったぁ!」
屈託なく笑う玲に見惚れ、恭祐は試合の時間を尋ねた。
「おーい、玲!こんなところにいたのか。」
彬従と太一がやってきた。
「日曜日一緒に行こうよ。何時に待ち合わせする?」
「アキ達に任せるわ。」
「俺も行く。玲に誘われたところ。」
「キョウは空手の練習があるから行かないって言ったじゃないか!」
「アキ、キョウ、ケンカしちゃダメよ!」
そして玲は彬従と夢中になって話しを始め、ポツンと独り取り残されたように恭祐は佇んだ。
「いろいろ残念だなぁ、キョウ!」
「うるせえ!」
ニヤニヤ笑う太一にパンチを喰らわせ、恭祐は逃げるように立ち去った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
仕事を終え深夜になり大きな屋敷に天日彬従は帰り着いた。
「あきさま、お帰りなさいませ。」
長年この屋敷に仕える葵が出迎えた。しかしいつもと違い落ち着きが無い。
「どうかした?」
「何がです?」
「……母さんに何かあった?」
図星を差され、葵は表情を硬くする。
「母さんはどこ?」
しばらく返事をためらったが意を決した葵は彬従を見上げた。
「お父様のお部屋にいらっしゃいます。どうか沙良さまをお叱りにならないでください!」
「俺が母さんを責めたことがある?」
不意に葵は涙ぐんだ。
いつもは内鍵を閉められ外の者を遮断している父の部屋の扉が開け放たれていた。
「母さん、ここで何をしているの?」
息子の声に驚き、沙良はハッとパソコンから顔を上げた。目は血走り髪は乱れている。輝くように美しかった母は見る影もなくやつれていた。
クローゼットの中は全て投げ出され、あらゆる引き出しが開けられ中身は空になっていた。
今、父の彬従は柊と共にアメリカへ出張している。その留守の間に母は潜り込んだのだ。
「父さんの居ない間に何を探しているの?」
「あき……」
沙良は手を止め呆然と息子を見つめた。
「あの人は行ってしまうわ……」
「父さんは俺達を棄てたりしないよ。」
「きっと行ってしまう……」
「おやすみ、ここは俺が元に戻しておくね。」
母を抱きしめポンポンと背中を撫でてやると、痩せた身体はぐったりと崩れ落ちた。
「沙良さま、お部屋に戻りましょう。」
葵と共に母を支えながら彼女の寝室に連れて行き、彬従は寝入るまで手を繋いでいた。
やがて静かな寝息を立て、母は眠りに落ちた。
「あきさま、申し訳ございませんでした。夕方からまた落ち着きを無くされて……」
「いいんだよ。しばらく症状も穏やかだったのに……」
「沙良さまは憂いているのです。あきさまが成人されてからずっと……お父様が沙良さまを置いて出て行かれてしまうと……」
「父さんはどこにも行かないよ。俺と約束したんだ。」
彬従は葵に母を任せて父の部屋に戻った。
彬従の父と母は婚姻関係を結んだものの寝室を一度も共にしていない。
それは父が母に突きつけた結婚の条件だった。
世間的にはおしどり夫婦を演じている優しい父が、頑として母が『妻』であることを拒絶する理由……それを思うたび、彬従の心には冷たい蒼い炎が灯る。
「こんなにめちゃくちゃにして……元に戻すのは無理だろう。帰ってきたらきっと父さんは気付くよな。」
スーツをハンガーに掛け部屋着を丁寧に畳んで棚にしまう。父は必要以上に荷物を持たない。いつでもこの屋敷を立ち去るかのように。
最後に彬従はパソコンに向かった。父はロックすら掛けていない。まるでいつ盗み見られても構わないかのようにメールもアクセス履歴もクリアされパソコン内部には保存されているデータが一つも存在しない。外部データすらも彼は置かない。彼の真実を何一つ悟られないように……
だが母の見ていた画面を立ち上げると、現れたのは集合写真だった。
自分に瓜二つの少年が誇らしげにトロフィーを掲げ笑顔を向ける。
傍らには彼の母である華音が幸せそうに微笑んでいた。
彬従は即座にデータを削除し、パソコンを床にたたきつけた。
「平和そうな顔をして。何でも手にして幸せか。俺が必ずお前から全てを奪ってやる。」
まだ逢ったこともない異母弟の存在……
蒼い炎が彬従を焦がし、深い闇へと突き落とした。
日曜日、天日彬従はいつものスーツでは無くカジュアルな服装に着替え自室を出た。
「あきさま、椎名さまがいらっしゃってます。」
「樹が?」
葵に呼び止められ、首を傾げて表に出ると、彼用の社用車の横で第一秘書の椎名樹が待ちわびていた。
「どうしたの、今日は樹も休みのはずだよ?」
「あきさまがお出かけになると高井に聞きましたので……」
「仕事じゃないよ、プライベートで出掛けるんだ。」
「どちらにしてもSPをお付けしなくてはなりません。でしたら私が警護にあたります。」
「樹はせっかくの休みを潰して俺に付き合うの?彼女はいないの?」
「大学時代に付き合っていた女にはずいぶん前に振られました。私が、その、彼女を放置して仕事ばかりしているからって……」
「それは気の毒なことをしたな!」
アハハと明るく笑い飛ばし、彬従は椎名と並んで車に乗り込んだ。
「どちらにお出かけになるのですか?」
「……バスケットの試合を観に行くのさ。」
「あきさまが、ですか?どなたの試合ですか?」
「行けば分かるよ。」
車は高速道路に乗り、一時間ほど走って一般道に降りた。運転手の高井はナビの指示に従いながら車を走らせた。着いた場所は県立の総合体育館だ。
垂れ幕には地元中学のバスケットボールの地方大会が開催されていると記載されていた。
「中学生の大会ですか?」
「そうだよ。」
「まさか……」
「そのまさかだよ。異母弟の試合を観に来たんだ。決勝戦に出るらしい。」
彬従はうっすらと笑みを浮かべた。
車を降りると彬従は迷いもせずに体育館の中に入っていった。場内は熱気に包まれ、コート上にいる2チームを応援し合う勇ましい掛け声や鳴り物の音に満ち溢れていた。
二階ギャラリーの手すりにもたれてコートを覗き込む。
いた。すぐに異母弟だと分かった。
派手な顔立ち、派手なプレイ。体育の授業で習った知識しかないバスケットボールだが、彼が卓越した才能の持ち主であることはすぐに分かった。誰よりも素早く動き回り誰よりも高く跳躍し、凄まじいまでの得点能力を存分に発揮してチームを勝利に導く。彼の活躍に皆が熱い声援を送っていた。
「あきさま、こんなことをして、お父様にはなんと説明されるのです?」
後をついてきた椎名は恐る恐る尋ねた。
「父さんには内緒にしておいて。それにあの子に逢うつもりはないんだ。」
そう、ただ知りたかった、異母弟がどんな少年なのか……
試合は第3ピリオドを終え、彼のチームがリードしていた。
ベンチに座り、声を掛けたり手を叩いたり、同じチームのメンバーを鼓舞する。誰もが彼の声に耳を傾け目を離さずにいる。
「……生まれ持ってのリーダーの資質か。」
彬従は目を細めてその華やかな存在感を確かめた。
「えっ?」
可愛らしい声がした。振り返ると凛とした美しい顔立ちの少女が唖然として見上げていた。少女はくるりと後ろを向き、一目散に来た道を引き返した。
「異母弟の知り合いか。」
誰もが驚くだろう、彼と自分とは瓜二つなのだから。
「あれ早かったね、トイレは空いてたの?」
慌てて応援席に戻ってきた玲に、恭祐が声を掛けた。しかしすぐに様子がおかしいと気付いた。
「大変!キョウとアキにそっくりな人がすぐそこにいた!」
「その人の年は?お父さんくらい?」
思い当たる人物のいる恭祐はすぐに立ちあがった。
「ううん、若い人よ!」
青ざめる玲の肩を叩いて落ち着かせた。若い人?では自分の予想は外れだ。一体誰なんだ?
「華音ちゃん、ちょっと来て。」
前の席に座っていた華音の耳元に囁いた。
「どうしたの?」
きょとんと眼を丸くする華音の手を引き、恭祐は玲に導かれて二階ギャラリーの出入口に向かった。
「いない!ここに居たのに!」
玲はキョロキョロ辺りを見回した。
「……逃げたのか。」
「どうしたの?第4ピリオドが始まるわよ!」
「華音ちゃんに確かめて欲しいことがあるんだ。」
恭祐は華音の手を握りしめたまま、階段を駆け下り体育館の出口を目指した。
その後ろ姿はすぐに見つかった。従兄に良く似た背の高いスラリとした美しい肢体……
「待ってください!」
勇気を振り絞り、恭祐はその青年を呼び止めた。
「……チビあき!」
振り向いたその青年の顔を見るなり、華音は彼に飛びついた。
「か……おんちゃん……」
天日彬従は驚き、華音の身体を受け止めた。
甘く優しい香り、柔らかな頬、豊かな胸……はるか昔、幼かった自分をいつもこうやって抱きしめ愛しんでくれた……
「逢いたかったわ!元気だった?お父さんそっくりになったわね!」
涙をぽろぽろと零し、華音は両手で彬従の頬を挟んで愛しい男の面影を追った。
「あなたは……天日彬従さん、ですか?」
顔を上げると、先ほど逢った少女の横に自分と瓜二つの少年が居た。
「君は、そうか、トキ叔父さんの息子さんの……」
「高塔恭祐です。」
明らかな敵意を露わにして少年はそう名前を告げた。
「あの子に逢ってやって!もうすぐ試合が終わるから!」
「えっ!でも……」
「お願いよ!」
華音は彬従の腕を取り、グイグイと一階のフロア出入口に連れて行った。
試合は残り4分を切っていた。圧倒的優位を保ち、高塔彬従のチームがリードしていた。彼の運動量は全く落ちてはいない。むしろ相手の息の根を止めるかのように次々と得点を重ねリードを広げる。
「チビあき、あの子と話をしてやって。」
「華音ちゃん、俺はもうチビじゃないよ。」
「そうね!こんなに大きくなっちゃって!」
アハハと明るく笑う華音に彬従は見惚れた。
「ねえ、安心して。私もあの子もあなたからお父さんを奪ったりしないから……」
「華音ちゃんはそれでいいの?」
「うん。」
「父さんがいなくても、華音ちゃんは幸せなの?」
「うん。だからチビあき……あなたも幸せになって。」
掴まれた腕に圧が掛る。優しい香り、優しい声……彬従は不意に心が揺れ、大きくて印象的な瞳を涙で滲ませた。
「キョウ……あの人は?」
華音達よりも少し離れた場所で玲は青ざめ恭祐に寄り添った。
「アキの異母兄だよ。」
途端に玲は涙を流した。
「何があったんだ?」
振り向くと蓮が心配そうに二人を見つめていた。
「レンちゃん、アキのお兄さんが来ているの!」
いつの間にか玲はしゃくりあげて泣いていた。小さな肩をそっと抱き寄せ、恭祐は頭を撫でてやった。
「アイツが……天日彬従か。」
華音に寄りそう背の高い青年の後ろ姿を蓮は睨みつけた。
試合終了を告げる笛の音が高らかに鳴り響いた。
「やった!全国大会出場よ!」
華音は跳び上がって天日彬従に抱きついた。
恭祐は一階フロアに掛け込んだ。チームメイトに揉みくちゃにされ、彬従が歓喜の雄叫びを上げていた。
「アキ!アキ!」
呼びかけに彬従は気付かない。そばにいた太一が恭祐のただならぬ様子に気づいて彼を促し、やっとそばに寄って来た。
「どうしたの!そんな怖い顔して!」
彬従はぜいぜいと荒い息を吐きながら笑っていた。
「一緒に来て!驚くなよ。」
「何だよ?」
恭祐は彬従の腕を掴み出口に向かって走り出した。
最初に目に入ったのは母の華音だった。嬉しそうに笑っている。彼女は背の高い青年の腕を掴んでいた。
誰だろうと顔を見て、息を止めた。彬従は凍りついたようにその場に立ち尽くした。
「あの人、お前のお兄さん、天日彬従さんだ……」
恭祐の言葉が終わらないうちに、彬従は駈け出した。そして異母兄に飛びついた。
華音にされたのと同じように抱きつく高塔彬従に天日彬従は思わずうろたえた。
「……あの、彬従君?抱きつかれるのは嬉しいんだけど、君、汗でびっしょりなんだが。」
「あ、ごめん!」
慌てて弟は飛び退いた。
「兄さん、どうしてここに?」
「君に逢いたくて……トキ叔父さんにバスケの大会があるって聞いたから……」
「そうなんだ、嬉しいよ!初めて逢ったのにそんな気がしない!」
弟は弾けるような明るい笑顔を見せた。愛され慣れているんだ……彬従の心はぎゅっと硬くなった。
「ねえ彬従君、君は幸せ?」
兄の突然の問いかけに弟はきょとんとした。
「幸せだよ!今は特に優勝して全国に行けてめちゃくちゃ幸せ!」
「お父さんがいなくても、幸せ?」
弟は答えなかった。その濁りの無い瞳はスッと母に向けられた。
「また来る……そうしたらゆっくり話そう。」
「チビあき、きっと来て!必ずよ!」
華音は潤んだ瞳で彼を見上げた。
「華音ちゃん……」
天日彬従は華音をぎゅっと胸に押し込めた。「ぎゃー!」と叫ぶ弟には目もくれず、彼女を離すと真っすぐ体育館を出て行った。
「おい待てよ!」
呼び止められて足を止めた。振り向くと色白で背の高い青年が睨んでいた。
「君は?」
「比江嶋蓮。俺の名前、知っているだろ。」
「そうか、君がシュウの『奇跡の子』か。俺に何の用?」
「もう二度とアキ達の前に現れるな!」
「君に指図される覚えは無いんだが。」
フッと鼻で嗤い、天日彬従は車に乗り込んだ。
目を閉じ一言も口をきかない彬従を、椎名はおろおろと心配した。
やがて天日の屋敷に着いた。出迎えた葵がいろいろ詮索して話しかけてきたが、彬従は黙って自分の部屋に直行し、ドアを開け飛び上がるほど驚いた。
父が待っていたのだ。
「今日はどこに行っていた。」
「父さん……」
立ち上がり、彬従を出迎え、父はふと鼻をピクリと動かした。何かを確かめるように息子を抱き寄せその肩に顔を埋めた。
「華音に逢ったのか?」
「えっ!」
「あいつの匂いがする。」
慌てて彬従は父を突き放した。
「華音に逢って何をする気だ?」
「華音ちゃんに逢いに行ったんじゃありません!」
「華音や彬従に手を出すな。たとえお前でも赦さない。」
父の瞳に凍てつくような蒼い炎が灯っていた。フッと息子の喉に手を掛け、くびるように力を込めた。
「父さん、華音ちゃんも彬従も幸せだって言ってた。父さんがいなくても幸せだって言ってた!だから父さんはここで俺と母さんと幸せになろうよ!」
「俺が……幸せに……」
息子の喉を押さえる手をパタリと下ろし、父は黙って部屋を出て行った。
呆然としたままベッドに崩れ落ちた。
ふと腕を鼻に当て、香りを吸い込む。甘く優しい、華音の残り香……
「なぜ、俺は華音ちゃんの子供じゃないんだ……」
彬従は携帯電話を手にした。
「もしもし華蓮……君に逢いたい……うん、明日……いや、今すぐに。」
耳元で華蓮の悦ぶ声がした。彬従は制止する葵を振り切り家を飛び出した。
「欲しいものはどんな手を使っても手に入れたいと願うのは『天日の血』か、それとも『吉良の血』なのか……」
ほんの少し前まで幸せだった心が砕け散った。そしてまた蒼い炎が彼の心を凍てつかせた。
「お前の風景画、コンクールで特別賞をとったぞ!いやぁ素晴らしい!構図といい色合いといい絶品だからな。しかし提出した時、生乾きだったのが何ともお前らしかった!」
そばにいた教師達にも賞状を見せびらかすと「さすが高塔だ!」と驚嘆の声が口々に上がる。
「ありがとうございます。だけどそれ、高塔彬従の名前になってますよね。俺は高塔恭祐です、3組の。」
「あれそうか!また間違えたな、すまんすまん!」
悪びれる風もなく、林はガハハと笑った。
「ったく、俺はアキじゃねーよ。」
職員室を出て恭祐は思わずため息を吐き、ムッとしながら教室に向かった。
「キョウ、探したんだよ!」
呼び止められて振り向くと、そこには自分を見上げる玲がいた。
「玲は後ろからでも俺がアキじゃないって分かるんだね。」
「当たり前よ!キョウはキョウじゃない。」
「なんで分かるの?」
「そうね、歩き方とか、肩幅とか?」
「肩幅?」
「うん、キョウの方が背中が広いのよ。」
小さな両手をパッと広げて玲は背中の広さを示してみせた。その仕草が可愛くて恭祐はほっこりと笑う。
「あと、キョウの方が不機嫌な顔してる時が多いのよね。何かあったの?」
「ああ、また林先生にアキと間違えられた。つーか最近一日に一回はアイツに間違えられるよ。」
「そうなんだ!でも髪型も似てるし制服を着ているとそっくりだから分かんないかも。私服ならキョウはお洒落でアキはワイルドだから。」
「ワイルドって……確かに小学生の頃は外でサッカーとかして暴れてくるから泥だらけで傷だらけでユズママにいつも怒られていたな!」
アハハと笑い合うと、恭祐は先ほどまでの苛立ちがすとんと消え失せた。
「そうだ、今週の日曜日にアキのバスケの決勝戦があるの。一緒に応援に行かない?」
「日曜日は空手の練習がある。」
「そうなんだ…」
玲はがっかりした。
「何時から?玲が行くなら俺も行くよ。」
「ホント?練習は?」
「サボるよ。たまにはアキの応援にも行ってやるかな。」
「やったぁ!」
屈託なく笑う玲に見惚れ、恭祐は試合の時間を尋ねた。
「おーい、玲!こんなところにいたのか。」
彬従と太一がやってきた。
「日曜日一緒に行こうよ。何時に待ち合わせする?」
「アキ達に任せるわ。」
「俺も行く。玲に誘われたところ。」
「キョウは空手の練習があるから行かないって言ったじゃないか!」
「アキ、キョウ、ケンカしちゃダメよ!」
そして玲は彬従と夢中になって話しを始め、ポツンと独り取り残されたように恭祐は佇んだ。
「いろいろ残念だなぁ、キョウ!」
「うるせえ!」
ニヤニヤ笑う太一にパンチを喰らわせ、恭祐は逃げるように立ち去った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
仕事を終え深夜になり大きな屋敷に天日彬従は帰り着いた。
「あきさま、お帰りなさいませ。」
長年この屋敷に仕える葵が出迎えた。しかしいつもと違い落ち着きが無い。
「どうかした?」
「何がです?」
「……母さんに何かあった?」
図星を差され、葵は表情を硬くする。
「母さんはどこ?」
しばらく返事をためらったが意を決した葵は彬従を見上げた。
「お父様のお部屋にいらっしゃいます。どうか沙良さまをお叱りにならないでください!」
「俺が母さんを責めたことがある?」
不意に葵は涙ぐんだ。
いつもは内鍵を閉められ外の者を遮断している父の部屋の扉が開け放たれていた。
「母さん、ここで何をしているの?」
息子の声に驚き、沙良はハッとパソコンから顔を上げた。目は血走り髪は乱れている。輝くように美しかった母は見る影もなくやつれていた。
クローゼットの中は全て投げ出され、あらゆる引き出しが開けられ中身は空になっていた。
今、父の彬従は柊と共にアメリカへ出張している。その留守の間に母は潜り込んだのだ。
「父さんの居ない間に何を探しているの?」
「あき……」
沙良は手を止め呆然と息子を見つめた。
「あの人は行ってしまうわ……」
「父さんは俺達を棄てたりしないよ。」
「きっと行ってしまう……」
「おやすみ、ここは俺が元に戻しておくね。」
母を抱きしめポンポンと背中を撫でてやると、痩せた身体はぐったりと崩れ落ちた。
「沙良さま、お部屋に戻りましょう。」
葵と共に母を支えながら彼女の寝室に連れて行き、彬従は寝入るまで手を繋いでいた。
やがて静かな寝息を立て、母は眠りに落ちた。
「あきさま、申し訳ございませんでした。夕方からまた落ち着きを無くされて……」
「いいんだよ。しばらく症状も穏やかだったのに……」
「沙良さまは憂いているのです。あきさまが成人されてからずっと……お父様が沙良さまを置いて出て行かれてしまうと……」
「父さんはどこにも行かないよ。俺と約束したんだ。」
彬従は葵に母を任せて父の部屋に戻った。
彬従の父と母は婚姻関係を結んだものの寝室を一度も共にしていない。
それは父が母に突きつけた結婚の条件だった。
世間的にはおしどり夫婦を演じている優しい父が、頑として母が『妻』であることを拒絶する理由……それを思うたび、彬従の心には冷たい蒼い炎が灯る。
「こんなにめちゃくちゃにして……元に戻すのは無理だろう。帰ってきたらきっと父さんは気付くよな。」
スーツをハンガーに掛け部屋着を丁寧に畳んで棚にしまう。父は必要以上に荷物を持たない。いつでもこの屋敷を立ち去るかのように。
最後に彬従はパソコンに向かった。父はロックすら掛けていない。まるでいつ盗み見られても構わないかのようにメールもアクセス履歴もクリアされパソコン内部には保存されているデータが一つも存在しない。外部データすらも彼は置かない。彼の真実を何一つ悟られないように……
だが母の見ていた画面を立ち上げると、現れたのは集合写真だった。
自分に瓜二つの少年が誇らしげにトロフィーを掲げ笑顔を向ける。
傍らには彼の母である華音が幸せそうに微笑んでいた。
彬従は即座にデータを削除し、パソコンを床にたたきつけた。
「平和そうな顔をして。何でも手にして幸せか。俺が必ずお前から全てを奪ってやる。」
まだ逢ったこともない異母弟の存在……
蒼い炎が彬従を焦がし、深い闇へと突き落とした。
日曜日、天日彬従はいつものスーツでは無くカジュアルな服装に着替え自室を出た。
「あきさま、椎名さまがいらっしゃってます。」
「樹が?」
葵に呼び止められ、首を傾げて表に出ると、彼用の社用車の横で第一秘書の椎名樹が待ちわびていた。
「どうしたの、今日は樹も休みのはずだよ?」
「あきさまがお出かけになると高井に聞きましたので……」
「仕事じゃないよ、プライベートで出掛けるんだ。」
「どちらにしてもSPをお付けしなくてはなりません。でしたら私が警護にあたります。」
「樹はせっかくの休みを潰して俺に付き合うの?彼女はいないの?」
「大学時代に付き合っていた女にはずいぶん前に振られました。私が、その、彼女を放置して仕事ばかりしているからって……」
「それは気の毒なことをしたな!」
アハハと明るく笑い飛ばし、彬従は椎名と並んで車に乗り込んだ。
「どちらにお出かけになるのですか?」
「……バスケットの試合を観に行くのさ。」
「あきさまが、ですか?どなたの試合ですか?」
「行けば分かるよ。」
車は高速道路に乗り、一時間ほど走って一般道に降りた。運転手の高井はナビの指示に従いながら車を走らせた。着いた場所は県立の総合体育館だ。
垂れ幕には地元中学のバスケットボールの地方大会が開催されていると記載されていた。
「中学生の大会ですか?」
「そうだよ。」
「まさか……」
「そのまさかだよ。異母弟の試合を観に来たんだ。決勝戦に出るらしい。」
彬従はうっすらと笑みを浮かべた。
車を降りると彬従は迷いもせずに体育館の中に入っていった。場内は熱気に包まれ、コート上にいる2チームを応援し合う勇ましい掛け声や鳴り物の音に満ち溢れていた。
二階ギャラリーの手すりにもたれてコートを覗き込む。
いた。すぐに異母弟だと分かった。
派手な顔立ち、派手なプレイ。体育の授業で習った知識しかないバスケットボールだが、彼が卓越した才能の持ち主であることはすぐに分かった。誰よりも素早く動き回り誰よりも高く跳躍し、凄まじいまでの得点能力を存分に発揮してチームを勝利に導く。彼の活躍に皆が熱い声援を送っていた。
「あきさま、こんなことをして、お父様にはなんと説明されるのです?」
後をついてきた椎名は恐る恐る尋ねた。
「父さんには内緒にしておいて。それにあの子に逢うつもりはないんだ。」
そう、ただ知りたかった、異母弟がどんな少年なのか……
試合は第3ピリオドを終え、彼のチームがリードしていた。
ベンチに座り、声を掛けたり手を叩いたり、同じチームのメンバーを鼓舞する。誰もが彼の声に耳を傾け目を離さずにいる。
「……生まれ持ってのリーダーの資質か。」
彬従は目を細めてその華やかな存在感を確かめた。
「えっ?」
可愛らしい声がした。振り返ると凛とした美しい顔立ちの少女が唖然として見上げていた。少女はくるりと後ろを向き、一目散に来た道を引き返した。
「異母弟の知り合いか。」
誰もが驚くだろう、彼と自分とは瓜二つなのだから。
「あれ早かったね、トイレは空いてたの?」
慌てて応援席に戻ってきた玲に、恭祐が声を掛けた。しかしすぐに様子がおかしいと気付いた。
「大変!キョウとアキにそっくりな人がすぐそこにいた!」
「その人の年は?お父さんくらい?」
思い当たる人物のいる恭祐はすぐに立ちあがった。
「ううん、若い人よ!」
青ざめる玲の肩を叩いて落ち着かせた。若い人?では自分の予想は外れだ。一体誰なんだ?
「華音ちゃん、ちょっと来て。」
前の席に座っていた華音の耳元に囁いた。
「どうしたの?」
きょとんと眼を丸くする華音の手を引き、恭祐は玲に導かれて二階ギャラリーの出入口に向かった。
「いない!ここに居たのに!」
玲はキョロキョロ辺りを見回した。
「……逃げたのか。」
「どうしたの?第4ピリオドが始まるわよ!」
「華音ちゃんに確かめて欲しいことがあるんだ。」
恭祐は華音の手を握りしめたまま、階段を駆け下り体育館の出口を目指した。
その後ろ姿はすぐに見つかった。従兄に良く似た背の高いスラリとした美しい肢体……
「待ってください!」
勇気を振り絞り、恭祐はその青年を呼び止めた。
「……チビあき!」
振り向いたその青年の顔を見るなり、華音は彼に飛びついた。
「か……おんちゃん……」
天日彬従は驚き、華音の身体を受け止めた。
甘く優しい香り、柔らかな頬、豊かな胸……はるか昔、幼かった自分をいつもこうやって抱きしめ愛しんでくれた……
「逢いたかったわ!元気だった?お父さんそっくりになったわね!」
涙をぽろぽろと零し、華音は両手で彬従の頬を挟んで愛しい男の面影を追った。
「あなたは……天日彬従さん、ですか?」
顔を上げると、先ほど逢った少女の横に自分と瓜二つの少年が居た。
「君は、そうか、トキ叔父さんの息子さんの……」
「高塔恭祐です。」
明らかな敵意を露わにして少年はそう名前を告げた。
「あの子に逢ってやって!もうすぐ試合が終わるから!」
「えっ!でも……」
「お願いよ!」
華音は彬従の腕を取り、グイグイと一階のフロア出入口に連れて行った。
試合は残り4分を切っていた。圧倒的優位を保ち、高塔彬従のチームがリードしていた。彼の運動量は全く落ちてはいない。むしろ相手の息の根を止めるかのように次々と得点を重ねリードを広げる。
「チビあき、あの子と話をしてやって。」
「華音ちゃん、俺はもうチビじゃないよ。」
「そうね!こんなに大きくなっちゃって!」
アハハと明るく笑う華音に彬従は見惚れた。
「ねえ、安心して。私もあの子もあなたからお父さんを奪ったりしないから……」
「華音ちゃんはそれでいいの?」
「うん。」
「父さんがいなくても、華音ちゃんは幸せなの?」
「うん。だからチビあき……あなたも幸せになって。」
掴まれた腕に圧が掛る。優しい香り、優しい声……彬従は不意に心が揺れ、大きくて印象的な瞳を涙で滲ませた。
「キョウ……あの人は?」
華音達よりも少し離れた場所で玲は青ざめ恭祐に寄り添った。
「アキの異母兄だよ。」
途端に玲は涙を流した。
「何があったんだ?」
振り向くと蓮が心配そうに二人を見つめていた。
「レンちゃん、アキのお兄さんが来ているの!」
いつの間にか玲はしゃくりあげて泣いていた。小さな肩をそっと抱き寄せ、恭祐は頭を撫でてやった。
「アイツが……天日彬従か。」
華音に寄りそう背の高い青年の後ろ姿を蓮は睨みつけた。
試合終了を告げる笛の音が高らかに鳴り響いた。
「やった!全国大会出場よ!」
華音は跳び上がって天日彬従に抱きついた。
恭祐は一階フロアに掛け込んだ。チームメイトに揉みくちゃにされ、彬従が歓喜の雄叫びを上げていた。
「アキ!アキ!」
呼びかけに彬従は気付かない。そばにいた太一が恭祐のただならぬ様子に気づいて彼を促し、やっとそばに寄って来た。
「どうしたの!そんな怖い顔して!」
彬従はぜいぜいと荒い息を吐きながら笑っていた。
「一緒に来て!驚くなよ。」
「何だよ?」
恭祐は彬従の腕を掴み出口に向かって走り出した。
最初に目に入ったのは母の華音だった。嬉しそうに笑っている。彼女は背の高い青年の腕を掴んでいた。
誰だろうと顔を見て、息を止めた。彬従は凍りついたようにその場に立ち尽くした。
「あの人、お前のお兄さん、天日彬従さんだ……」
恭祐の言葉が終わらないうちに、彬従は駈け出した。そして異母兄に飛びついた。
華音にされたのと同じように抱きつく高塔彬従に天日彬従は思わずうろたえた。
「……あの、彬従君?抱きつかれるのは嬉しいんだけど、君、汗でびっしょりなんだが。」
「あ、ごめん!」
慌てて弟は飛び退いた。
「兄さん、どうしてここに?」
「君に逢いたくて……トキ叔父さんにバスケの大会があるって聞いたから……」
「そうなんだ、嬉しいよ!初めて逢ったのにそんな気がしない!」
弟は弾けるような明るい笑顔を見せた。愛され慣れているんだ……彬従の心はぎゅっと硬くなった。
「ねえ彬従君、君は幸せ?」
兄の突然の問いかけに弟はきょとんとした。
「幸せだよ!今は特に優勝して全国に行けてめちゃくちゃ幸せ!」
「お父さんがいなくても、幸せ?」
弟は答えなかった。その濁りの無い瞳はスッと母に向けられた。
「また来る……そうしたらゆっくり話そう。」
「チビあき、きっと来て!必ずよ!」
華音は潤んだ瞳で彼を見上げた。
「華音ちゃん……」
天日彬従は華音をぎゅっと胸に押し込めた。「ぎゃー!」と叫ぶ弟には目もくれず、彼女を離すと真っすぐ体育館を出て行った。
「おい待てよ!」
呼び止められて足を止めた。振り向くと色白で背の高い青年が睨んでいた。
「君は?」
「比江嶋蓮。俺の名前、知っているだろ。」
「そうか、君がシュウの『奇跡の子』か。俺に何の用?」
「もう二度とアキ達の前に現れるな!」
「君に指図される覚えは無いんだが。」
フッと鼻で嗤い、天日彬従は車に乗り込んだ。
目を閉じ一言も口をきかない彬従を、椎名はおろおろと心配した。
やがて天日の屋敷に着いた。出迎えた葵がいろいろ詮索して話しかけてきたが、彬従は黙って自分の部屋に直行し、ドアを開け飛び上がるほど驚いた。
父が待っていたのだ。
「今日はどこに行っていた。」
「父さん……」
立ち上がり、彬従を出迎え、父はふと鼻をピクリと動かした。何かを確かめるように息子を抱き寄せその肩に顔を埋めた。
「華音に逢ったのか?」
「えっ!」
「あいつの匂いがする。」
慌てて彬従は父を突き放した。
「華音に逢って何をする気だ?」
「華音ちゃんに逢いに行ったんじゃありません!」
「華音や彬従に手を出すな。たとえお前でも赦さない。」
父の瞳に凍てつくような蒼い炎が灯っていた。フッと息子の喉に手を掛け、くびるように力を込めた。
「父さん、華音ちゃんも彬従も幸せだって言ってた。父さんがいなくても幸せだって言ってた!だから父さんはここで俺と母さんと幸せになろうよ!」
「俺が……幸せに……」
息子の喉を押さえる手をパタリと下ろし、父は黙って部屋を出て行った。
呆然としたままベッドに崩れ落ちた。
ふと腕を鼻に当て、香りを吸い込む。甘く優しい、華音の残り香……
「なぜ、俺は華音ちゃんの子供じゃないんだ……」
彬従は携帯電話を手にした。
「もしもし華蓮……君に逢いたい……うん、明日……いや、今すぐに。」
耳元で華蓮の悦ぶ声がした。彬従は制止する葵を振り切り家を飛び出した。
「欲しいものはどんな手を使っても手に入れたいと願うのは『天日の血』か、それとも『吉良の血』なのか……」
ほんの少し前まで幸せだった心が砕け散った。そしてまた蒼い炎が彼の心を凍てつかせた。
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