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第8章 引き裂かれた想い
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「母さんっ!母さんっ!」
彬従は浴槽に飛び込み、母の両脇に腕を突っこみ力いっぱい身体を湯から引き上げた。意識の無い母は重く支え切れず、湯の中に引きずり込まれそうになる。
「どうした!」
悲鳴を聞いた蓮と恭祐が駆けつけた。
「母さんが……っ!」
ずぶ濡れになりながら彬従は悲痛な叫び声を上げた。
「キョウ!救急車呼んで!」
「分かった!」
恭祐はダッと風呂場を飛び出した。蓮はすぐさま浴槽に飛び込むと彬従を助けて華音を支えた。遅れてきた柚子葉は目を見開き凍りついている。
「アキ、せーので持ち上げるよ!」
狼狽える彬従に呼び掛け、力を合わせて華音の身体を浴槽から引きずり出し床に横たえた。
柚子葉が慌てて裸のままの華音にタオルを被せゴシゴシと拭った。
「華音ちゃん!華音ちゃん!」
呼びかけに反応は無い。蓮は首筋に手を当てた。
「脈はある。」
「息してないよ!」
ガタガタと彬従は震えていた。
「アキ、胸の真ん中を力一杯押して!」
言われるがままに彬従は腕を伸ばし体重を掛け、母の胸元を勢いよく何度も押した。
蓮は華音の顎を持ち上げ、口を合わせて息を吹き込んだ。わずかにコポコポと音がする。
もう一度息を吹き込んだ。
「ぐぅっ……うっ!」
顔を横に向けると、華音は水を吐き出し、そのままフウッと呼吸が戻った。
「良かった……!」
彬従はペタリと座り込んだ。ホッとした途端、蓮もガクガクと座り込んだ。
「5分くらいで来るって!」
救急車を呼びに行った恭祐が駆け戻った。
「華音!華音!」
柚子葉が泣きながら耳元で名前を呼び続けた。
ふっと華音は目を開けた。ぼんやりと目を動かし、彬従を見つけると弱々しく手を差し伸べた。
「母さんっ!しっかりして母さんっ!」
彬従は華音にしがみついた。
「……ア……キ……ア……かえ……て……き……」
彬従の頭を抱え込み、唇を合わせると、力を無くしたその腕はパタリと床に落ちた。
「ユズママ、先に病院に行ける?保険証とか用意するね!」
柚子葉はハッと我に返り、恭祐に指示されながら華音の身支度を整え、救急車を迎える準備をした。
「アキ、着替えて!ユズママと一緒に救急車に乗っていくんだ!」
恭祐はずぶ濡れの彬従の服を脱がせ、乾いたタオルで身体を拭ってやり、新しい服を着せた。
やがてサイレンとともに救急車が到着した。救急隊員達に華音を任せ、柚子葉と彬従が同乗して病院に向かった。
「レン、しっかり!」
「あ、ああ……」
恭祐に促され、放心状態のままガクリと座り込んでいた蓮はブルッと身震いをして立ち上がった。
華音は県立総合病院に搬送された。
知らせを聞いた詩音と季従、祐都、雄太も駆けつけた。
検査の結果、重症にはならずに済んだと診断され、皆が安堵の吐息を吐いた。
「酒を飲んで風呂に入って眠り込んだのか……なんでそんなことを……」
待合室で祐都はゾクリと震えた。
「ここ数日、毎晩遅くまで台所でお酒を飲んでいたの。余りに量が多いから注意したのに、アキが気付かなかったら大変なことになっていた……」
柚子葉は涙を流し、悔しそうに唇を噛んだ。
「母さんの部屋、お酒の匂いがした……心配掛けまいと部屋で飲んでいたのかな……」
彬従は呆然と視線を泳がせた。
彼のそばに寄り添って、恭祐は震える彬従の手を黙って握りしめた。
病院は完全看護だったため、皆が帰宅を促された。
「病院のことは俺に任せて。」
副院長でもある雄太が安心させるようにそう言った。
「必要な荷物は一旦家に戻って私が持ってくる。」
「私も手伝う。」
柚子葉は詩音の目を見てうなずいた。
「会社の方は俺が瑛や凉と協力して何とかする。しばらく無理せず休みなさいよ。」
祐都はポンポンと詩音と季従の肩を叩いた。
ホッと安堵の笑みを浮かべ、若い経営者夫婦は祐都に寄り添った。
柚子葉の車には詩音が乗り込み、先に家を目指して出発した。季従は息子達を乗せ、車を走らせた。
「大変だったな。だけどもう大丈夫。お前たちのおかげで華音ちゃんは助かったんだよ。」
馴れた手付きで季従はハンドルを切った。
それまで冷静だった恭祐が突然ぽろぽろと泣き出した。
「ありがとう、キョウとレンが居てくれたおかげだよ。」
すっかり落ち着きを取り戻した彬従が、逆に彼の肩を抱き慰めた。
「俺……父さんの、言葉を聞い、たら、大変な、ことだった、って、急に思い出して……」
しゃくりあげ泣き続ける恭祐をぎゅっと抱きしめ、彬従は愛おしそうに頭をこすりつけた。
「キョウがテキパキ動いてくれて助かったよ。」
助手席から振り返り、蓮が労いの言葉を掛けた。救助隊員の指示に従い、手早く華音の身を整え荷物をまとめたのは彼の働きによるものだった。
「どこかに寄ってメシ食っていいかな?安心したら腹が減ったよ。」
季従はいつもの人懐こい笑顔で微笑み、息子達も皆ホッとして賛成した。
馴染みの料亭に季従は立ち寄った。
「まあトキちゃん!イケメン揃いで素敵!」
店の女将が自ら出迎えた。
「俺の子供達だよ。」
「あら、双子ちゃんのパパだったかしら?」
「こっちは兄貴の息子でこっちが俺の子。4ヶ月違いなんだけど見た目ソックリだろ。」
「詩音ちゃんに似てるわねぇ!」
女将は頬に手を添えて彬従と恭祐をニコニコと見比べた。世間話をしながらベタベタと季従にまとわりつき個室に案内した。
「父さん、あの人とどういう関係?」
父に馴れ馴れしい女将に腹を立て、恭祐は部屋に入るなりプリプリと怒りを露わにした。
「ただの常連客と店の経営者だよ。」
息子が怒る理由が分からずに、季従はキョトンとした。
「トキちゃんが浮気する訳無いだろ!」
沈んでいた彬従が可笑しそうにケラケラ笑った。
夕飯は済ませていたが、蓮も彬従も恭祐も、出された料理をパクパクと元気良く食べまくった。
「美味い!今度家でも作ってみようかな。」
「ユズとレンが家事をしてくれるから俺達はみんな助かるよ。」
季従はニコニコと笑った。
「俺や母さんが人並み以上に良い暮らしをしていられるのは、華音ちゃんや高塔家のおかげだからね。恩返しになるなら何でもするよ。」
蓮は微笑み返した。
「母さんはいつも言ってる。華音ちゃんがいなかったらきっと路頭に迷ってた……もしかしたら親子揃って死んでいた……親父に再会することも出来なかったって……」
季従は箸を止め、ふと微笑んだ。
「本当に苦労して来たからね……ユズも……華音ちゃんも……」
「……なぜ母さんはこんなに急におかしくなってしまったの?」
青ざめ、目の前の皿を見つめたまま、彬従が尋ねた。
「アキ、俺から話をする……華音ちゃんを苦しめていることを……その大元を……」
いつも穏やかな季従が暗く険しい顔をし、義姉と実兄の愛する息子を見つめた。
「アキの父親、そして俺の兄である吉良彬従は、アキのお母さんではない女性と結婚した。」
季従は続けた。
「兄さんは……アキちゃんは、小さな頃から華音ちゃんを一途に愛していた。でも華音ちゃんは不妊症で子供が出来ない身体だと言われていた。一族の存続のためにおばあちゃんの茉莉花さまに、二人は結婚を固く禁じられたんだ。」
「関係無いでしょ?結婚するのに子供が出来るか出来ないかなんて。」
恭祐は眉を寄せ尋ねた。
「そうでは無かったんだ、昔はね。」
遠くを見るように季従は顔を上げた。
「どんなに反対されても二人は密かに愛し合っていた。だけど大学生の頃、一時期だけ絶縁していたことがあった。その時に、アキちゃんは別の女の子と付き合った。その期間は僅かだった。すぐにアキちゃんと華音ちゃんは仲直りして、大学を卒業すると二人はおばあちゃんの反対を押し切って同棲を始め、幸せに暮らしていた。」
そばで黙って聞いていた蓮は険しい表情を浮かべた。
「ところがある日、アキちゃんの元に男の子が訪ねてきた。アキちゃんにそっくりの……その子は大学時代に関係を持った女性が密かに産んだアキちゃんの子供だった。」
「この前、俺の試合を観に来てくれた、あのお兄さん?」
彬従の問いに季従はうなずいた。
「その子がアキちゃんに頼んだんだ。お母さんの具合が悪いから助けてくれって、一緒に暮らしてくれって。」
「それで華音ちゃんを棄てたのか、アキのお父さんは。」
きつい言い方をした蓮に恭祐は驚いた。
「棄てたと言われても仕方が無いな。」
季従はふとため息を吐いた。
「別れたあとなのに、俺は生まれたの?」
彬従はぎゅっと拳を握った。
「アキちゃんと別れてから華音ちゃんは不妊治療を始めた。アキちゃんの大学時代の友達で不妊治療の第一人者だった雄太さんが治療に当たった。治療は成功し、華音ちゃんはアキちゃんそっくりの子供を生んだんだ。」
「不妊治療までして……母さんは……俺を……父さんの子供を生んだのか……」
彬従は口元を手で押さえた。
「華音ちゃんが妊娠してからアキちゃんは華音ちゃんとの関係を断絶した……親友だった祐都さんや雄太さんともだ。」
「アキのお父さんは高塔の家に戻って来ないの?」
恭祐が泣きそうな顔で尋ねた。
「分からない……俺が尋ねてもアキちゃんは一切答えようとはしないんだ。」
小さく横に首を振り、季従はため息を吐いた。
「いずれにせよ、アキちゃんは簡単には帰っては来れないだろう。何よりあの天日財閥を取り仕切っているのは他でもないアキちゃんだから……」
さっきまで美味しいと思っていた料理が急に喉を通らなくなった。
うなだれる彬従を肩を抱き、恭祐は頭をこすりつけて慰めた。
屋敷に戻ると、柚子葉と詩音がバタバタと走り回っていた。
彬従は自分の部屋に戻りベッドに腰を下ろしガタガタと震えた。
「アキ……」
蓮と恭祐が様子を見にやってきた。
「さっき、母さんが俺にキスをした……アキって呼びながら……帰って来たって言いながら……」
「お父さんと間違えたのかもしれないな。」
恭祐は彬従の横に座り、すりすりと頭を撫でた。
「俺、お父さんに逢いに行く。何も出来ないかも知れないけど……当たって砕けろだ!」
「俺も行くよ。」
「俺も。」
蓮と恭祐はうなずき合い、彬従を両脇から抱きしめた。
うっすらと開けた瞳に、記憶に無い部屋の天井が映った。
日常とは違う、薬品の匂い……顔には酸素マスク、腕には点滴……見知らぬさらさらとした寝具……
ここは病室?……何故ここにいるのだろう?
何かの重みが肩に掛かっている。顔を向けて驚いた。
息子の彬従が頭を寄せ、すやすやと眠っていた。
手を伸ばし、その背中に触れた。幼い頃とは違う鍛えられた少年の筋肉質な体躯に今更ながらに驚く。
「気が付いたのね!」
柚子葉が泣きそうな笑顔で覗き込んだ。
「ここは……?」
「雄太の病院よ!華音、あなた、お風呂に入っている途中で意識を無くして溺れたの。アキが気付いてすぐに病院に運ばれて助かったのよ!」
華音は目を見開き、息子の頭をそっと撫でた。
「……母さん、良かった!」
目を覚ました彬従は母に抱きついた。
すぐにナースコールで連絡すると、華音を案じて泊まり込んでいた雄太が担当医と共に病室に飛び込んできた。
「こんなに早く意識が回復するならもう大丈夫だ!」
黒縁メガネを外し、ギリシャ彫刻のような美しい顔を歪めて涙を流した。
「アキ、ユズ、雄太、心配掛けてごめんなさい……」
華音は愛する息子に頬ずりした。
その後華音は診察を受け、担当医から良い結果を聞き、柚子葉と彬従はホッとした。
柚子葉は早速家で待機している詩音や蓮達に無事を知らせた。
その日の午後、詩音と共に神崎美桜が駆け付けた。
「あらぁアキ!ますますイケメンになったわね!」
華音の異母妹で詩音とは血の繋がらない姉である彼女は華やかな笑顔で甥に挨拶した。
「お久しぶりです、美桜叔母さん。」
ぺこりと彬従は頭を下げた。
「びっくりしたわ、華音が入院するなんて。」
「ごめんね、みんなに心配掛けちゃって……」
まだ弱々しいが、安らかな笑顔で華音がそう言った。
「もう飲み過ぎちゃダメよ!」
「二度としないわ。」
ベッドに横たわり、寝具の端を掴み顔を隠す幼い子供のような華音に皆が微笑んだ。
「だけど姉妹三人が揃うなんて何年ぶりかしら?こんなことでも無ければなかなか美桜に逢えないものね。」
「やーね、縁起でもないこと言わないでよ!」
美桜は夫の神崎大成に連れ添って東京に住まいを移した。普段から彼の仕事を補佐しており実家に帰る余裕はほとんど無かった。詩音から連絡が行き、久しぶりに故郷に戻って来たのだ。
長時間の面会は許されず、華音の無事に安堵し病室を後にした。
「良かった、思っていたより元気そうで……」
病室を出た途端、美桜は涙を流した。
「吉良彬従に連絡した?」
「いえ、それはシュウに任せているの。」
柚子葉が顔を曇らせた。
「華音の命が危なかったって知ったら、今度こそアキも天日財閥なんか放り投げて戻ってくるんじゃないかしら?」
「美桜さん……」
険しい顔で唸る美桜にチラリと目配せして、柚子葉は彬従の様子をうかがった。
「あ、ごめんなさい。」
慌てて美桜は口を押さえた。
「また近いうちに戻るわ。私もいろいろあるのよ……あ、柊さんによろしくね!」
ニコリと微笑み、美桜は黒塗りの大きなリムジンに乗り込み去って行った。
「さすが神崎グループ当主の奥さまね。貫禄が違う。」
詩音がムーッと口を曲げた。
「天日と並ぶ大財閥だものねぇ……でも、シュウによろしくって何なのかしら?」
どちらかと言えば質素な華音や詩音とは異なる派手な美桜を、柚子葉も呆気に取られて見送った。
彬従はまだ病室に心残りがあった。
「アキ、もう大丈夫よ。今日は家に帰りなさい。」
「明後日には退院出来るらしいの。しばらくは家でゆっくり静養してもらうわ。」
「うん……」
詩音に促され、彬従は帰り道についた。柚子葉にも慰められたが、それでもまだ彬従は落ち着かず、何度も振り返り、母がいる病室の方角を眺めた。
4日間入院した後、華音は退院し自宅療養することになった。
忙しい雄太は、華音の様子を気にして診療の合間を縫い足繁く高塔の家を見舞った。
「雄太ったら、そんなに心配しなくても大丈夫よ。」
ベッドに横になったまま、華音はケラケラ笑った。
「いや、めまいがするなら無理はするな。」
「でも早く仕事に復帰したいの。」
「華音が家にいるとアキが喜ぶから、たまにはゆっくりするのもいいんじゃない?」
柚子葉もクスクス笑った。
「アキはいつ帰ってくるんだ?」
「いつもなら7時過ぎかなぁ。」
その時、階下でドタバタと足音がした。
「ただいま!」
彬従が駆け込んできた。
「あらアキ、部活は?」
「今日は休んだ!だって今朝母さんの具合が悪そうだったから気になって……」
ベッドの横に腰掛け、母の顔を覗き込んだ。
「夜眠れなくて何度も目が覚めただけよ。」
「そう言うことはちゃんと言いなさい!」
雄太はまたおろおろして華音の額に触れた。
「二人とも心配し過ぎ!」
華音は苦笑いを浮かべた。
「そうだ、ミセツさんから電話があったのよ。気分転換にホテルに泊まりにいらっしゃいって言ってくれたわ。レンももうすぐ夏休みだし、みんなでのんびりしない?」
「いいわね!」
「体調が悪くなったらすぐに俺に連絡するんだよ!」
「雄太こそ心配し過ぎて病気になっちゃうわ!」
ハラハラとする雄太を見て、華音と柚子葉はクスクスと笑い合った。
部屋に戻って学生服を脱ぎ、携帯電話を取り出し太一に折り返し掛け直した途端ボロクソに怒鳴られた。
「てめー、なに部活サボってるんだよ!もうすぐ全国大会なんだぞ!」
「母さんの具合がまだ悪いから……」
「つかお前、お母さんが倒れたって佐和には話したくせに、なんで俺には言わないんだよ。」
「えっ?いや、だって佐和はマネージャーだから……」
「それだけ?」
「それだけ、だよ。」
太一はわざとらしく「ふーん」と笑い声を上げた。
前の日の夜遅く、急に不安になって思いつめ、泣きそうな声で佐和に電話して手厚く励ましてもらったことを思い出し、太一にバレていないかと彬従は内心ヒヤヒヤした。
「それは置いといて、玲がマネージャーになりたいって言ってるらしい。」
「良いんじゃない?一人じゃ大変だから誰か手助けが欲しいって佐和が言ってた。」
「知ってる?男バスのマネになりたいって女子が殺到してて、諸橋先輩が必死で全部断ってるの。」
「へー。」
「元凶はお前だからな。」
「俺、関係無いだろ。」
「ばーろー!ともかく明日の朝練は出ろよ!」
「分かった。」
彬従はブチっと電話を切り、途端にニコリと口角を上げた。
そのまま彬従は恭祐の部屋に向かった。彼は軽快な音楽を聞きながら英語の宿題をしていた。彬従の姿を見てムッと口を曲げた。
「なんだよ、また宿題でも忘れたの?」
「ねえねえ、玲が男バスのマネになるらしいよ。」
「は?マジ?」
密かに慌てふためく恭祐の様子を見て、彬従はニヤリとした。
「キョウもこの際、男バスに入りなよ。」
「ヤダよ、絶対。」
「毎日部活で話せるよ?帰りはチャリで送っていけるし、試合の時はドリンク貰えたりテーピングとかアイシングとかしてもらったりいろいろスキンシップとれるし、何より一番近くでお前を応援してくれるんだぜ?」
「だ、だって、ア、アキが目当てで入部するんだろ!」
「そろそろ空手も飽きたんじゃない?勝って当たり前の試合より、俺達と一緒に一勝を目指して汗を流そうよ!」
「うるさい!確かに空手は飽きたけど……」
「とりあえず体験だけでも来いよ!決まりな!」
「ちょっと待て!勝手に決めるな!」
後ろでギャーギャー喚く恭祐を置き去りにし、彬従は笑いながら自分の部屋に戻った。
夏休みに入り一日だけ部活の休みをもらい、彬従は母達と共にホテルカザバナ・ベイエリアを訪れた。
海辺の美しい景色に映える、白を基調とする南欧風の建物だ。
このホテルのオーナーは、華音や柚子葉の古くからの知り合いである桐ケ谷美雪だった。彼女の両親が経営していた最初のホテルカザバナは経営難から廃業し、元の場所には巨大なアウトレットモールが建設された。その後小高い山の上に再建したが、夫となった桐ケ谷貞春が再開発された海辺の土地を入手し、以前より小規模ながらも昔の面影を忠実に再現させたホテルを復活させたのだ。
「みんなの荷物はまとめて預けるからね。」
夏休みで戻ってきたばかりの蓮が車から旅行バッグを下ろした。
恭祐は自分と両親の荷物を手にした。
「父さんも母さんも仕事を休んで平気なの?」
「一泊だから大丈夫よ。」
詩音は普段の冷徹な経営者の顔を忘れ、愛する夫の腕を取りリゾート気分を満喫していた。
「いらっしゃい!お久しぶり!」
美雪とその娘の菜穂が皆を出迎えた。
「懐かしいですね……ここの建物、15年前と少しも変わっていない……」
華音は鮮やかに思い出を蘇らせた。
「すっかり古びちゃったけど、そこがまた味わいがあっていいでしょ?」
昔と変わらぬ明るい笑顔で美雪は答えた。
「菜穂ちゃんも大きくなりましたね。」
「お転婆になって困るわ!」
「元気があってイイってパパは言うわよ!」
「貞春さんらしいです!」
菜穂が茶目っけたっぷりに母にしがみつき、美雪は可愛い娘に微笑み返した。
美雪と柚子葉は話をしながら先を歩き、菜穂は蓮や恭祐にまとわりついた。
「アキ……あなたは15年前ここで生を受けたのよ……」
華音は潮の匂いのするエントランスで、昔何度もそうしたように建物を見上げた。
遠い目をして呟く母を見守り、彬従はそっと柔らかな母の手を握りしめた。
彬従は浴槽に飛び込み、母の両脇に腕を突っこみ力いっぱい身体を湯から引き上げた。意識の無い母は重く支え切れず、湯の中に引きずり込まれそうになる。
「どうした!」
悲鳴を聞いた蓮と恭祐が駆けつけた。
「母さんが……っ!」
ずぶ濡れになりながら彬従は悲痛な叫び声を上げた。
「キョウ!救急車呼んで!」
「分かった!」
恭祐はダッと風呂場を飛び出した。蓮はすぐさま浴槽に飛び込むと彬従を助けて華音を支えた。遅れてきた柚子葉は目を見開き凍りついている。
「アキ、せーので持ち上げるよ!」
狼狽える彬従に呼び掛け、力を合わせて華音の身体を浴槽から引きずり出し床に横たえた。
柚子葉が慌てて裸のままの華音にタオルを被せゴシゴシと拭った。
「華音ちゃん!華音ちゃん!」
呼びかけに反応は無い。蓮は首筋に手を当てた。
「脈はある。」
「息してないよ!」
ガタガタと彬従は震えていた。
「アキ、胸の真ん中を力一杯押して!」
言われるがままに彬従は腕を伸ばし体重を掛け、母の胸元を勢いよく何度も押した。
蓮は華音の顎を持ち上げ、口を合わせて息を吹き込んだ。わずかにコポコポと音がする。
もう一度息を吹き込んだ。
「ぐぅっ……うっ!」
顔を横に向けると、華音は水を吐き出し、そのままフウッと呼吸が戻った。
「良かった……!」
彬従はペタリと座り込んだ。ホッとした途端、蓮もガクガクと座り込んだ。
「5分くらいで来るって!」
救急車を呼びに行った恭祐が駆け戻った。
「華音!華音!」
柚子葉が泣きながら耳元で名前を呼び続けた。
ふっと華音は目を開けた。ぼんやりと目を動かし、彬従を見つけると弱々しく手を差し伸べた。
「母さんっ!しっかりして母さんっ!」
彬従は華音にしがみついた。
「……ア……キ……ア……かえ……て……き……」
彬従の頭を抱え込み、唇を合わせると、力を無くしたその腕はパタリと床に落ちた。
「ユズママ、先に病院に行ける?保険証とか用意するね!」
柚子葉はハッと我に返り、恭祐に指示されながら華音の身支度を整え、救急車を迎える準備をした。
「アキ、着替えて!ユズママと一緒に救急車に乗っていくんだ!」
恭祐はずぶ濡れの彬従の服を脱がせ、乾いたタオルで身体を拭ってやり、新しい服を着せた。
やがてサイレンとともに救急車が到着した。救急隊員達に華音を任せ、柚子葉と彬従が同乗して病院に向かった。
「レン、しっかり!」
「あ、ああ……」
恭祐に促され、放心状態のままガクリと座り込んでいた蓮はブルッと身震いをして立ち上がった。
華音は県立総合病院に搬送された。
知らせを聞いた詩音と季従、祐都、雄太も駆けつけた。
検査の結果、重症にはならずに済んだと診断され、皆が安堵の吐息を吐いた。
「酒を飲んで風呂に入って眠り込んだのか……なんでそんなことを……」
待合室で祐都はゾクリと震えた。
「ここ数日、毎晩遅くまで台所でお酒を飲んでいたの。余りに量が多いから注意したのに、アキが気付かなかったら大変なことになっていた……」
柚子葉は涙を流し、悔しそうに唇を噛んだ。
「母さんの部屋、お酒の匂いがした……心配掛けまいと部屋で飲んでいたのかな……」
彬従は呆然と視線を泳がせた。
彼のそばに寄り添って、恭祐は震える彬従の手を黙って握りしめた。
病院は完全看護だったため、皆が帰宅を促された。
「病院のことは俺に任せて。」
副院長でもある雄太が安心させるようにそう言った。
「必要な荷物は一旦家に戻って私が持ってくる。」
「私も手伝う。」
柚子葉は詩音の目を見てうなずいた。
「会社の方は俺が瑛や凉と協力して何とかする。しばらく無理せず休みなさいよ。」
祐都はポンポンと詩音と季従の肩を叩いた。
ホッと安堵の笑みを浮かべ、若い経営者夫婦は祐都に寄り添った。
柚子葉の車には詩音が乗り込み、先に家を目指して出発した。季従は息子達を乗せ、車を走らせた。
「大変だったな。だけどもう大丈夫。お前たちのおかげで華音ちゃんは助かったんだよ。」
馴れた手付きで季従はハンドルを切った。
それまで冷静だった恭祐が突然ぽろぽろと泣き出した。
「ありがとう、キョウとレンが居てくれたおかげだよ。」
すっかり落ち着きを取り戻した彬従が、逆に彼の肩を抱き慰めた。
「俺……父さんの、言葉を聞い、たら、大変な、ことだった、って、急に思い出して……」
しゃくりあげ泣き続ける恭祐をぎゅっと抱きしめ、彬従は愛おしそうに頭をこすりつけた。
「キョウがテキパキ動いてくれて助かったよ。」
助手席から振り返り、蓮が労いの言葉を掛けた。救助隊員の指示に従い、手早く華音の身を整え荷物をまとめたのは彼の働きによるものだった。
「どこかに寄ってメシ食っていいかな?安心したら腹が減ったよ。」
季従はいつもの人懐こい笑顔で微笑み、息子達も皆ホッとして賛成した。
馴染みの料亭に季従は立ち寄った。
「まあトキちゃん!イケメン揃いで素敵!」
店の女将が自ら出迎えた。
「俺の子供達だよ。」
「あら、双子ちゃんのパパだったかしら?」
「こっちは兄貴の息子でこっちが俺の子。4ヶ月違いなんだけど見た目ソックリだろ。」
「詩音ちゃんに似てるわねぇ!」
女将は頬に手を添えて彬従と恭祐をニコニコと見比べた。世間話をしながらベタベタと季従にまとわりつき個室に案内した。
「父さん、あの人とどういう関係?」
父に馴れ馴れしい女将に腹を立て、恭祐は部屋に入るなりプリプリと怒りを露わにした。
「ただの常連客と店の経営者だよ。」
息子が怒る理由が分からずに、季従はキョトンとした。
「トキちゃんが浮気する訳無いだろ!」
沈んでいた彬従が可笑しそうにケラケラ笑った。
夕飯は済ませていたが、蓮も彬従も恭祐も、出された料理をパクパクと元気良く食べまくった。
「美味い!今度家でも作ってみようかな。」
「ユズとレンが家事をしてくれるから俺達はみんな助かるよ。」
季従はニコニコと笑った。
「俺や母さんが人並み以上に良い暮らしをしていられるのは、華音ちゃんや高塔家のおかげだからね。恩返しになるなら何でもするよ。」
蓮は微笑み返した。
「母さんはいつも言ってる。華音ちゃんがいなかったらきっと路頭に迷ってた……もしかしたら親子揃って死んでいた……親父に再会することも出来なかったって……」
季従は箸を止め、ふと微笑んだ。
「本当に苦労して来たからね……ユズも……華音ちゃんも……」
「……なぜ母さんはこんなに急におかしくなってしまったの?」
青ざめ、目の前の皿を見つめたまま、彬従が尋ねた。
「アキ、俺から話をする……華音ちゃんを苦しめていることを……その大元を……」
いつも穏やかな季従が暗く険しい顔をし、義姉と実兄の愛する息子を見つめた。
「アキの父親、そして俺の兄である吉良彬従は、アキのお母さんではない女性と結婚した。」
季従は続けた。
「兄さんは……アキちゃんは、小さな頃から華音ちゃんを一途に愛していた。でも華音ちゃんは不妊症で子供が出来ない身体だと言われていた。一族の存続のためにおばあちゃんの茉莉花さまに、二人は結婚を固く禁じられたんだ。」
「関係無いでしょ?結婚するのに子供が出来るか出来ないかなんて。」
恭祐は眉を寄せ尋ねた。
「そうでは無かったんだ、昔はね。」
遠くを見るように季従は顔を上げた。
「どんなに反対されても二人は密かに愛し合っていた。だけど大学生の頃、一時期だけ絶縁していたことがあった。その時に、アキちゃんは別の女の子と付き合った。その期間は僅かだった。すぐにアキちゃんと華音ちゃんは仲直りして、大学を卒業すると二人はおばあちゃんの反対を押し切って同棲を始め、幸せに暮らしていた。」
そばで黙って聞いていた蓮は険しい表情を浮かべた。
「ところがある日、アキちゃんの元に男の子が訪ねてきた。アキちゃんにそっくりの……その子は大学時代に関係を持った女性が密かに産んだアキちゃんの子供だった。」
「この前、俺の試合を観に来てくれた、あのお兄さん?」
彬従の問いに季従はうなずいた。
「その子がアキちゃんに頼んだんだ。お母さんの具合が悪いから助けてくれって、一緒に暮らしてくれって。」
「それで華音ちゃんを棄てたのか、アキのお父さんは。」
きつい言い方をした蓮に恭祐は驚いた。
「棄てたと言われても仕方が無いな。」
季従はふとため息を吐いた。
「別れたあとなのに、俺は生まれたの?」
彬従はぎゅっと拳を握った。
「アキちゃんと別れてから華音ちゃんは不妊治療を始めた。アキちゃんの大学時代の友達で不妊治療の第一人者だった雄太さんが治療に当たった。治療は成功し、華音ちゃんはアキちゃんそっくりの子供を生んだんだ。」
「不妊治療までして……母さんは……俺を……父さんの子供を生んだのか……」
彬従は口元を手で押さえた。
「華音ちゃんが妊娠してからアキちゃんは華音ちゃんとの関係を断絶した……親友だった祐都さんや雄太さんともだ。」
「アキのお父さんは高塔の家に戻って来ないの?」
恭祐が泣きそうな顔で尋ねた。
「分からない……俺が尋ねてもアキちゃんは一切答えようとはしないんだ。」
小さく横に首を振り、季従はため息を吐いた。
「いずれにせよ、アキちゃんは簡単には帰っては来れないだろう。何よりあの天日財閥を取り仕切っているのは他でもないアキちゃんだから……」
さっきまで美味しいと思っていた料理が急に喉を通らなくなった。
うなだれる彬従を肩を抱き、恭祐は頭をこすりつけて慰めた。
屋敷に戻ると、柚子葉と詩音がバタバタと走り回っていた。
彬従は自分の部屋に戻りベッドに腰を下ろしガタガタと震えた。
「アキ……」
蓮と恭祐が様子を見にやってきた。
「さっき、母さんが俺にキスをした……アキって呼びながら……帰って来たって言いながら……」
「お父さんと間違えたのかもしれないな。」
恭祐は彬従の横に座り、すりすりと頭を撫でた。
「俺、お父さんに逢いに行く。何も出来ないかも知れないけど……当たって砕けろだ!」
「俺も行くよ。」
「俺も。」
蓮と恭祐はうなずき合い、彬従を両脇から抱きしめた。
うっすらと開けた瞳に、記憶に無い部屋の天井が映った。
日常とは違う、薬品の匂い……顔には酸素マスク、腕には点滴……見知らぬさらさらとした寝具……
ここは病室?……何故ここにいるのだろう?
何かの重みが肩に掛かっている。顔を向けて驚いた。
息子の彬従が頭を寄せ、すやすやと眠っていた。
手を伸ばし、その背中に触れた。幼い頃とは違う鍛えられた少年の筋肉質な体躯に今更ながらに驚く。
「気が付いたのね!」
柚子葉が泣きそうな笑顔で覗き込んだ。
「ここは……?」
「雄太の病院よ!華音、あなた、お風呂に入っている途中で意識を無くして溺れたの。アキが気付いてすぐに病院に運ばれて助かったのよ!」
華音は目を見開き、息子の頭をそっと撫でた。
「……母さん、良かった!」
目を覚ました彬従は母に抱きついた。
すぐにナースコールで連絡すると、華音を案じて泊まり込んでいた雄太が担当医と共に病室に飛び込んできた。
「こんなに早く意識が回復するならもう大丈夫だ!」
黒縁メガネを外し、ギリシャ彫刻のような美しい顔を歪めて涙を流した。
「アキ、ユズ、雄太、心配掛けてごめんなさい……」
華音は愛する息子に頬ずりした。
その後華音は診察を受け、担当医から良い結果を聞き、柚子葉と彬従はホッとした。
柚子葉は早速家で待機している詩音や蓮達に無事を知らせた。
その日の午後、詩音と共に神崎美桜が駆け付けた。
「あらぁアキ!ますますイケメンになったわね!」
華音の異母妹で詩音とは血の繋がらない姉である彼女は華やかな笑顔で甥に挨拶した。
「お久しぶりです、美桜叔母さん。」
ぺこりと彬従は頭を下げた。
「びっくりしたわ、華音が入院するなんて。」
「ごめんね、みんなに心配掛けちゃって……」
まだ弱々しいが、安らかな笑顔で華音がそう言った。
「もう飲み過ぎちゃダメよ!」
「二度としないわ。」
ベッドに横たわり、寝具の端を掴み顔を隠す幼い子供のような華音に皆が微笑んだ。
「だけど姉妹三人が揃うなんて何年ぶりかしら?こんなことでも無ければなかなか美桜に逢えないものね。」
「やーね、縁起でもないこと言わないでよ!」
美桜は夫の神崎大成に連れ添って東京に住まいを移した。普段から彼の仕事を補佐しており実家に帰る余裕はほとんど無かった。詩音から連絡が行き、久しぶりに故郷に戻って来たのだ。
長時間の面会は許されず、華音の無事に安堵し病室を後にした。
「良かった、思っていたより元気そうで……」
病室を出た途端、美桜は涙を流した。
「吉良彬従に連絡した?」
「いえ、それはシュウに任せているの。」
柚子葉が顔を曇らせた。
「華音の命が危なかったって知ったら、今度こそアキも天日財閥なんか放り投げて戻ってくるんじゃないかしら?」
「美桜さん……」
険しい顔で唸る美桜にチラリと目配せして、柚子葉は彬従の様子をうかがった。
「あ、ごめんなさい。」
慌てて美桜は口を押さえた。
「また近いうちに戻るわ。私もいろいろあるのよ……あ、柊さんによろしくね!」
ニコリと微笑み、美桜は黒塗りの大きなリムジンに乗り込み去って行った。
「さすが神崎グループ当主の奥さまね。貫禄が違う。」
詩音がムーッと口を曲げた。
「天日と並ぶ大財閥だものねぇ……でも、シュウによろしくって何なのかしら?」
どちらかと言えば質素な華音や詩音とは異なる派手な美桜を、柚子葉も呆気に取られて見送った。
彬従はまだ病室に心残りがあった。
「アキ、もう大丈夫よ。今日は家に帰りなさい。」
「明後日には退院出来るらしいの。しばらくは家でゆっくり静養してもらうわ。」
「うん……」
詩音に促され、彬従は帰り道についた。柚子葉にも慰められたが、それでもまだ彬従は落ち着かず、何度も振り返り、母がいる病室の方角を眺めた。
4日間入院した後、華音は退院し自宅療養することになった。
忙しい雄太は、華音の様子を気にして診療の合間を縫い足繁く高塔の家を見舞った。
「雄太ったら、そんなに心配しなくても大丈夫よ。」
ベッドに横になったまま、華音はケラケラ笑った。
「いや、めまいがするなら無理はするな。」
「でも早く仕事に復帰したいの。」
「華音が家にいるとアキが喜ぶから、たまにはゆっくりするのもいいんじゃない?」
柚子葉もクスクス笑った。
「アキはいつ帰ってくるんだ?」
「いつもなら7時過ぎかなぁ。」
その時、階下でドタバタと足音がした。
「ただいま!」
彬従が駆け込んできた。
「あらアキ、部活は?」
「今日は休んだ!だって今朝母さんの具合が悪そうだったから気になって……」
ベッドの横に腰掛け、母の顔を覗き込んだ。
「夜眠れなくて何度も目が覚めただけよ。」
「そう言うことはちゃんと言いなさい!」
雄太はまたおろおろして華音の額に触れた。
「二人とも心配し過ぎ!」
華音は苦笑いを浮かべた。
「そうだ、ミセツさんから電話があったのよ。気分転換にホテルに泊まりにいらっしゃいって言ってくれたわ。レンももうすぐ夏休みだし、みんなでのんびりしない?」
「いいわね!」
「体調が悪くなったらすぐに俺に連絡するんだよ!」
「雄太こそ心配し過ぎて病気になっちゃうわ!」
ハラハラとする雄太を見て、華音と柚子葉はクスクスと笑い合った。
部屋に戻って学生服を脱ぎ、携帯電話を取り出し太一に折り返し掛け直した途端ボロクソに怒鳴られた。
「てめー、なに部活サボってるんだよ!もうすぐ全国大会なんだぞ!」
「母さんの具合がまだ悪いから……」
「つかお前、お母さんが倒れたって佐和には話したくせに、なんで俺には言わないんだよ。」
「えっ?いや、だって佐和はマネージャーだから……」
「それだけ?」
「それだけ、だよ。」
太一はわざとらしく「ふーん」と笑い声を上げた。
前の日の夜遅く、急に不安になって思いつめ、泣きそうな声で佐和に電話して手厚く励ましてもらったことを思い出し、太一にバレていないかと彬従は内心ヒヤヒヤした。
「それは置いといて、玲がマネージャーになりたいって言ってるらしい。」
「良いんじゃない?一人じゃ大変だから誰か手助けが欲しいって佐和が言ってた。」
「知ってる?男バスのマネになりたいって女子が殺到してて、諸橋先輩が必死で全部断ってるの。」
「へー。」
「元凶はお前だからな。」
「俺、関係無いだろ。」
「ばーろー!ともかく明日の朝練は出ろよ!」
「分かった。」
彬従はブチっと電話を切り、途端にニコリと口角を上げた。
そのまま彬従は恭祐の部屋に向かった。彼は軽快な音楽を聞きながら英語の宿題をしていた。彬従の姿を見てムッと口を曲げた。
「なんだよ、また宿題でも忘れたの?」
「ねえねえ、玲が男バスのマネになるらしいよ。」
「は?マジ?」
密かに慌てふためく恭祐の様子を見て、彬従はニヤリとした。
「キョウもこの際、男バスに入りなよ。」
「ヤダよ、絶対。」
「毎日部活で話せるよ?帰りはチャリで送っていけるし、試合の時はドリンク貰えたりテーピングとかアイシングとかしてもらったりいろいろスキンシップとれるし、何より一番近くでお前を応援してくれるんだぜ?」
「だ、だって、ア、アキが目当てで入部するんだろ!」
「そろそろ空手も飽きたんじゃない?勝って当たり前の試合より、俺達と一緒に一勝を目指して汗を流そうよ!」
「うるさい!確かに空手は飽きたけど……」
「とりあえず体験だけでも来いよ!決まりな!」
「ちょっと待て!勝手に決めるな!」
後ろでギャーギャー喚く恭祐を置き去りにし、彬従は笑いながら自分の部屋に戻った。
夏休みに入り一日だけ部活の休みをもらい、彬従は母達と共にホテルカザバナ・ベイエリアを訪れた。
海辺の美しい景色に映える、白を基調とする南欧風の建物だ。
このホテルのオーナーは、華音や柚子葉の古くからの知り合いである桐ケ谷美雪だった。彼女の両親が経営していた最初のホテルカザバナは経営難から廃業し、元の場所には巨大なアウトレットモールが建設された。その後小高い山の上に再建したが、夫となった桐ケ谷貞春が再開発された海辺の土地を入手し、以前より小規模ながらも昔の面影を忠実に再現させたホテルを復活させたのだ。
「みんなの荷物はまとめて預けるからね。」
夏休みで戻ってきたばかりの蓮が車から旅行バッグを下ろした。
恭祐は自分と両親の荷物を手にした。
「父さんも母さんも仕事を休んで平気なの?」
「一泊だから大丈夫よ。」
詩音は普段の冷徹な経営者の顔を忘れ、愛する夫の腕を取りリゾート気分を満喫していた。
「いらっしゃい!お久しぶり!」
美雪とその娘の菜穂が皆を出迎えた。
「懐かしいですね……ここの建物、15年前と少しも変わっていない……」
華音は鮮やかに思い出を蘇らせた。
「すっかり古びちゃったけど、そこがまた味わいがあっていいでしょ?」
昔と変わらぬ明るい笑顔で美雪は答えた。
「菜穂ちゃんも大きくなりましたね。」
「お転婆になって困るわ!」
「元気があってイイってパパは言うわよ!」
「貞春さんらしいです!」
菜穂が茶目っけたっぷりに母にしがみつき、美雪は可愛い娘に微笑み返した。
美雪と柚子葉は話をしながら先を歩き、菜穂は蓮や恭祐にまとわりついた。
「アキ……あなたは15年前ここで生を受けたのよ……」
華音は潮の匂いのするエントランスで、昔何度もそうしたように建物を見上げた。
遠い目をして呟く母を見守り、彬従はそっと柔らかな母の手を握りしめた。
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