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ロイエンタール王国の国境を警護する北方司令部、通称『北壁』に春を呼ぶ嵐が吹き荒れた。砦を囲む深い森に地吹雪が唸り大地を凍りつかせる。

執務室で書類にペンを走らせていた最高司令官ヴィクトリア・エルザ・ファーレンホルスト少将はふと顔を上げた。

宝石のような紺碧の瞳、雪のように白く滑らかな肌、輝く金色の長髪、小柄だが豊満な肉体を窮屈な軍服に包み込んだその麗しい姿から、彼女は『北壁の白雪姫』と呼ばれている。

しかし見た目と真逆の剛毅な性格、自分より遥かに巨大な男を易々と投げ飛ばす柔術の達人であり、剣でも負け無しの勇ましい女傑だ。身分も高く王族とも繋がりの深いファーレンホルスト公爵家の一人娘でもある。

「マチアス、今夜は警備の兵達を早めに交代させよう。この寒風に長い時間さらされては無駄に体力を消耗するだけだ。油断は禁物だが今夜くらいはゆっくり出来るだろう。」

「確かに、こんな荒天の中を突撃してくる愚か者は、さすがにいないだろうね。」

彼女の傍らに常に控える副司令官マチアス・デーレンダールが涼やかな目を細め凛とした口の端を上げた。才気活発で卒の無いこの男が気を緩めるほど今宵の嵐は激しいのだなとヴィクトリアは紺碧の瞳を和ませた。

ヴィクトリアとマチアスは士官学校時代からの長い付き合いだ。マチアスは裕福な商家の出身だが志願して士官学校に入学し、同期のヴィクトリアと出逢った。彼の類い希なる才能に惚れ込んだヴィクトリアが彼を取り立て、彼女の昇進と共に彼の地位も上がって行った。しかし誰もが認める人望も併せ持った彼に誹謗の声が上がることはなかった。



執務室を出て宿舎に向かう途中、廊下のいたるところに氷柱が垂れ下がり、凍えるすきま風がガタガタと窓の格子を揺らす。

「春が来てまた小競り合いで忙しくなる前に兵舎の補修も手を打たねば。これでは敵に負けるより先に嵐に負けてしまうわ。」

「今なら工兵たちが暇を持て余している。資材も残っているから、すぐに手を回そう。」

「早いものだな、私たちがこの北壁に着任してからもう五年か……」

「初めは寒さが堪えたけれど、最近じゃすっかり慣れて身体を温める火酒が旨くて仕方がない。」

「マチアスは酒の飲み過ぎだ。最近お腹の回りがずいぶんとポッコリ成長してはいないか?」

「ったく、気にしているのに!ヴィクこそ顎の下の肉つきがよくなっただろう?」

「何を!鍛錬しているから目立ちはしないよ!」

実際屈強な体躯を暇さえあればイヤと言うほど絞り込んでいる二人に無駄な贅肉など無い。しかし年令には勝てないところもあるのだ。軽口を叩き合ってアハハと笑い廊下を進んでいると、バタバタと革靴を踏み鳴らして近づいてくる者がいた。誰かと思えば従卒のマリアンヌだ。彼女はヴィクトリアの侍女だったが、主が軍に入ると自らも志願して入隊し、今でもヴィクトリアの身の回りの世話をし続けている。

「姫さま、大変!大変です!」

「マリアンヌ、何をそんなに慌てているの?」

「南方司令部のエンゲルハルトさまがいらっしゃいました!」

「エドワルドが?いったい何の用があるのだ。」

ヴィクトリアはマチアスと顔を見合わせ、応接室に急いだ。



轟々と暖炉の火が燃え暑いほどに温められた応接室で、ソファーにふんぞり返っていた南方司令部副官エドワルド・エンゲルハルト大佐は、ヴィクトリアを見るとにこやかに立ち上がり跪いて彼女の右手に敬愛のキスを落とした。

「ご機嫌よう、ヴィクトリア。相変わらず美しいな。」

「どうした、こんな嵐の中を、わざわざ北壁に来るなんて。」

「王のご命令なんだよ、アンタを王都に連れてこいとな。残念なことに、北方出身のこの俺に白羽の矢が当たったのだ。まあこれくらいの吹雪は大したことないさ。だが俺の部下達はみな慣れぬ寒さに死にかけている。面倒をみてやってくれないか。」

「分かった。マリアンヌ、彼らに火酒を。それから温かい部屋で休ませてやれ。」

「畏まりました。」

凍えて雪だるまのように固まっているエドワルドの従者たちを連れ、マリアンヌは出て行った。

「それで、アレクサンドル陛下はなぜ私を呼び戻すのだ?」

「分からんが、何か急なことらしい。最近の王都で変わったことと言ったら、王の末の弟君が留学先より戻られた、それくらいなんだがなぁ。」

「フレデリクが?懐かしい!」

国王アレクサンドルの異母弟で10才年の離れた少年を、ヴィクトリアは思い出した。最後に逢ったのは確か士官学校を卒業した時、彼はまだ8才だった。兄上と同じ輝く金髪に青空のような瞳、ミルク色のぽわぽわと柔らかく甘い香りがする肌を押し付け甘えてきた彼を愛しいと抱きしめ、手放したくないとまるで姉か母のような気持ちになったものだ。

「というわけで、支度をしてくれ。今すぐに王都に戻るぞ。ああそうだ、馬と従者も借りなければ。」

「え、もう?」

「一刻も早く、との陛下のお申し付けだ。」

なんだか嫌な予感しかしない……国王アレクサンドルの父である前国王とヴィクトリアの母は兄妹で、二人は王家の血を引く従兄妹同士。幼いころからアレクサンドルにはたびたび無理難題を押し付けられてきた。軍に入隊し、遠く離れた北壁で平和に暮らしてきたっていうのに……

「俺も付いていく。ヴィクの身に何かあっては大変だ。」

「おいおい、マチアスは心配性だな。ところでお前ら、もうヤったのか?」

エドワルドがニヤリとしてからかうと、ヴィクトリアはポカンと彼を見返した。

「ば、ばかな!俺とヴィクはそういう間柄ではない!」

「マチアスは聖人君子かい?士官学校の頃から何かとイチャイチャしていたくせに、こんな美女がすぐ近くにいて、押し倒したくならないのかよ。」

「お、押し倒すって……!」

「エドワルドは女にだらしなさすぎるのだ。お父上のエンゲルハルト閣下が常々中央指令部でお嘆きになっていると聞くぞ。それに、北壁の警護は代々エンゲルハルト家の役目ではないか。それをエドワルドがさっさと南方司令部に着任してしまうから……」

「こんなに寒くて何にもない土地で凍えながら暮らすなんざ、もうこりごりだよ。南の国はいいぞ、女たちの股が緩くて挿れ放題だ。親父は俺に期待などしていない。家名を汚さなければ何をヤラかしたってお咎め無しさ。そんな話は後にして、さっさと支度をしてくれ!」

エドワルドは士官学校時代の二年先輩だ。都合の悪いことには一切耳を貸さないのは昔からまるで変っていないとヴィクトリアはため息をつき、マリアンヌを呼んで荷支度を命じた。



騒ぎを聞きつけた北壁の猛者たちが次々と集まり、ヴィクトリアの出立を見送った。

「姫さま、どうぞお気をつけて。留守中は我々がしかとお護りしますから。」

「頼んだぞ。それから休憩中の兵達には温かいワインを振る舞っておくれ。我が領地よりワインがたんと届いている。ただし飲み過ぎるなと一言添えてな。」

「今年のは甘味と酸味のバランスが絶妙で、飲み出すと止まらなくなるからな。大量に仕入れたし、大盤振る舞いしましょうよ。」

しれっと笑顔を浮かべるマチアスを、エドワルドが意地悪げに小突いた。

「ふふ、公爵家より仕入れたワインを軍に高値で売りつけるとは、デーレンダール商会は旨い商売をするものだな。」

「退役したら実家を継ぐつもりなんだ。今のうちに少しでも儲けておかないと。」

「お前を退役などさせはしない。私が軍に居るうちは、常に私と共にあるのだ。」

「もちろん、俺は片時もヴィクのそばから離れはしないさ。」

スラリと背の高いマチアスを見上げると、彼は琥珀色の瞳に誇らしげな悦びの色を煌めかせる。その様子を、部下の猛者達がニマニマと微笑ましく見守っていた。

「では行ってくる!みな気持ちを引き締めて。私も用が済み次第すぐに戻ってくるから!」

彼女の倍はあろうかという巨漢たちが揃って身を屈め心配そうに取り囲む。カカカと笑い飛ばして部下たちの胸をドンと打ちつけ気持ちを鼓舞し、ヴィクトリアは踵を返した。



王より遣わされた馬車にヴィクトリア、エドワルド、マチアス、そしてマリアンヌが乗り込んだ。深い森を抜け、夜通し街道を走り、夕方には国王の待つ王都に到着した。控えの間にマチアスとマリアンヌを待たせ、エドワルドに急かされて彼とともにヴィクトリアは国王の待つ謁見室へと足を運んだ。

「おおヴィクトリア!麗しの我が従妹、北壁の白雪姫よ!久しぶりであったな、よく顔を見せておくれ!」

国王アレクサンドルは立ち上がり大袈裟な身振りでヴィクトリアを抱きしめた。長く伸ばしたオシャレ髭が頬に突き刺さり、彼女は苦笑いをするのが精いっぱいだった。

「お久しぶりでございます、アレックスお兄さま。私に御用とは、いったい何?」

「ほら見てごらん、フレデリクが帰ってきたのだよ。こんなに立派になって!美麗な男だろう!」

玉座の陰から現れた青年を驚いて見上げた。

「フレド、大きくなったわね!」

「ええ、お姉さま。毎日お姉さまを思って鍛え上げてきましたから。」

ツツと歩み寄り、小さかったフレデリクは、長身を折り曲げヴィクトリアを見下ろしていた。

「昔と変わらず、見事なボディですね。ゾクゾクする。」

にこやかに微笑みながら、フレデリクはヴィクトリアの胸元に手を這わせ、豊満な乳房を布越しに揉みしだいた。

「ああ、夢のようだ、お姉さまと触れ合える日が来るなんて!」

うっとりと目を閉じ、大きな手ががしがしと乳房を這い回る。ハッと我に返ったヴィクトリアはその手をがっしりと押さえつけた。

「……フレド、お戯れはおよしなさい。」

「そんな、僕はお姉さまを手に入れるために日夜努力してきたんですよ?」

「な、なに?」

「フレデリクはお前と結婚したいと申しておる。受け入れてくれまいか、ヴィクトリア?」

「バカなことを!フレドは私よりも10才も年下ではありませんか!」

「愛さえあれば、年の差なんて、関係ないでしょ?」

フレデリクはすかさず腰を抱き、頭の後ろを押さえつけ唇を寄せてきた。

「ふ、ふざけるなっ!」

拳を突き出し一撃でフレデリクを吹き飛ばしたヴィクトリアは、思わず「あああっ!」と声を上げた。

「あーあ、やっちまった!」

そばに居たエドワルドが床に尻もちをついた王子を引き起こした。

「フフフ、相変わらず、お姉さまは勇ましい。」

「ごめんなさい、つい!痛かった?」

慌てて駆け寄ったヴィクトリアの手を掴むと、フレデリクはぐいと引き寄せた。軽々と肩に乗せられぐるりと天地が回る。ダンと床に叩きつけられたヴィクトリアの目の上を星が飛び回った。すかさずフレデリクは彼女の上に馬乗りになり手足を押さえつけた。

「俺、寝技が得意なんだ。試してみる?」

「ば、ばか、離せっ!」

「フフフ、お姉さまは言ったよね、自分より強い男じゃなきゃ結婚しないって。だから俺、鍛えてきたよ。お姉さまより強いんだよ?」

組み伏され唇を合わせられ、ヴィクトリアはジタバタもがいた。このままフレデリクの言いなりになるのだろうか!

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