ある年のバレンタイン

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ある年のバレンタイン

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 二月十四日。バレンタイン当日。高校生活二回目のこの日、女子たちは朝から騒がしい。女子校ではあるが、イベントごとに関しては共学と大差ない。 
教室で、階段で、あるいはトイレでだって目的を果たせるのなら彼女たちには関係ない。今、私が歩いてる廊下でだって目の前に女の子が二人。
「あのっ!先生これ受け取って下さい!」
「え、私にですか?ありがとうございます。お返しないけどいいですか?」
まぁ、こんなこともある。流石、学校一のイケメン先生でいらっしゃる。
──今年もいっぱい貰うんだろうな
興味のないふりをしてその場を横切ろうとした。
「おはようございます」
「え、お、おはようございます」
唐突なその声に呼吸がつっかえる。女の子たちの目線が自然とこちらに移った。向けられるのはわかりやすい敵意。だが、私には関係ない。

 何度目かのベルが鳴る。時間は待ってはくれない。あの人が来る。
「ほらベル鳴ったぞ。席に着きなさい」
今日一番会いたくない人が目の前にいる。すまし顔の先生が目の前にいる。いつもと同じはずなのに、どうも居心地が悪い。
「ねぇねぇ、先生はチョコ貰えた?」
「私ですか?まぁ、いくつかはね」
「うわ、さすがだわ」
クラスメイトが話題を振る。そんなもの分かりきったことだ。知りたくなかった。朝の光景を見たのだから尚更である。もっと別のことが聞きたかった。こんなにも言葉にならない気持ちが込み上げるなんて私らしくない。顔も名前も知らない誰かに対する嫉妬など無駄だ。私は軽いため息をついた。

 またベルが鳴った。全く集中できなかった。
先生は教室を出て行く。彼が持っているクラスは六時間目で終わる。だから彼は終礼に向かうため真っ直ぐ出て行く。私たちはもう一時間授業だ。同じ学年でも私たちは違う。勉強に重きを置かなければならない空間に身を置いている。最後のベルが鳴り、黒板が化粧を始めてしばらくすると上の階が騒がしくなり始める。掃除当番の子、そのまま帰る子、部活の子、それと……。
平城天皇、薬子の変、そんな言葉が遠くなっていく。騒がしい方へ意識が飛んでいく。楽しそうな笑い声、そこに隠れた緊張混じりの震えた声、今なら全てが聞こえそうだ。色んな声が音が感情が交じり合ってぐちゃぐちゃになって、訳の分からない形になる。そして、私の頭の中に存在するその塊はだんだんと一つの円を形作っていく。抽象的で軽そうなそれを意味もなく眺めていると、丸い塊は突然、風船が割れるような音と共に弾け飛んだ。
気づくと教室の扉が強く閉まった反動で少しの隙間を残して、止まっていた。いつの間にか騒がしかった声もすっかり収まり、この教室の声のみが反響していた。

 終礼が終わり掃除を済ませると、各々が重い鞄を肩にかけて帰っていく。その後ろ姿はみな一様であった。私はただ一人、上の階へ向かう。一段上がるたびに踵が鳴る。また一段、また一段と上がると音はより大きく響こうとした。上りきったその先にあるのは四つの教室。太陽の優しい光が床のタイルを照らす中、一つだけまだ明かりが灯っている部屋があった。そこに引き寄せられ、扉に手をかけた。
「待たせたね。ごめん」
「あっ!お疲れ様」
悪意のない笑顔の友人。そしてその奥に彼がいた。
「今日はこの後、部活ですか?」
「そうですよ。本番近いんで」
こんな他愛も無い会話でも嬉しいものだ。内容はどんなものだっていい。この時間が空間がずっと続けばいいのに、などと考えてしまう。救いようのない嫉妬や妬み、憎悪に等しい感情の一切が排除されたこの場所が驚く程に安心をもたらす。
「部活か…俺も戻るなら高校生だな。いや、大学生でもいいか」
「先生はどんな高校生だったんですか」
「俺はバスケしかやらない奴だった」
彼の口元が少しだけ上がる。よく見ないと分からないほどの変化。まるで自分の操り方を忘れたような、あるいは感情を無意識に抑えているようなそんな感じ。
「そろそろ部活行こう?」
「そうだね。それじゃあ先生さようなら」
「はーい、さよーならー」
友人の背中を追って私もついて行く。友人は私の手を一瞬軽く握って教室を出た。私はそれを合図に足を止める。
「そうだ、先生」
不自然な切り出し方に自分でも反吐が出る。しかし休んでいる暇などなかった。鞄から小さな袋を取り出す。
「ハッピーバレンタイン。没収しといて下さい」
「あ、ありがとうございます」
その場の空気が一気に気まずいものへと変わる。
その刹那の沈黙が私の意識に余裕を与え、手が震え始めた。
「お返しないけどいいですか?」
その言葉に、震える手を掴まずにはいられなかった。上昇していく心拍数のせいで頭が馬鹿になる。
冷静とは真逆の状態で絞り出した言葉。
「それ、嫌って言ったらどうなるんですか?」
興味のないふりをして、からかうように言った。必要以上の好意を悟られないために。
「そうだな……何もしないかな」
「じゃあそれ言う意味無いじゃん」
「俺って最低だな」
「本当に」
お互いに笑い合った。でも、空っぽな笑いしか出てこなかった。もう逃げ出してしまいたいとでも言わんばかりに。私はカバンに腕を通す。上手く力が入らなかった。まだ手は震えている。
「お返しは大丈夫ですよ。それ、私からの日頃の感謝と先生への尊敬の思いですから」
それだけ伝えると、とびらを開けて背を向けたまま彼との空間に別れを告げた。

無我夢中で階段を駆け下りた。湧き上がってくる恥ずかしさと鮮明に思い出される彼の細かな表情に度々足がもつれる。下駄箱まで走って行くと、笑顔の友人が待っていた。
「おっ、来た。ちゃんと渡せた⁈」
「うん、渡したよ。本当にありがとね」 
友人は何も言わずに頭を撫でた。
それから私たちは部活へと向かう。部室に向かうまでの長い道でも鼓動は治らなかった。
「そういえば、先生に何渡したの?」
「市販のやつ。手作りは食べなさそうだから」
「確かに。で、市販の何よ?」
「あー、飴玉の小袋」
「飴⁈」
大きな驚きは、たちまちにやけた顔になった。私にはその意味が全く理解できずにいた。
「運命というか、奇跡ね…」
「ちょっと何言ってるかわかんないや」
「気にしないで。まぁ、お疲れ様でした」
「うん!」
私は彼に何も求めない。傷つくのが怖いとか自己防衛とかそういうものではない。彼との関係に変化など無くても、二人で笑い合える時間があるなら、今はまだそれでいいと思うから。
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