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リンの話によると 1
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夏の残像は古い晩鐘のように、その繊細な音を響かせる。張り付く熱気と蝉の唸るような声を私達の心に残したまま、平然と爽快に背中を向けて、時と季節の中へと私達を残して去っていった。
夏の思い出に浸る暇なくリンは私の前に現れた。リンと最後に言葉を交わしたのは数ヶ月前である。そんな彼女がどこか辛辣で深刻で不快な表情を浮かべているものだから私も狼狽し、頭に浮かんだ気の効かないジョークの数々は脳の奥深くに放棄した結果、長い沈黙と言うこの世の果てのような空気が流れ込んでいると言う始末である。
西の空に広がる紫色の夕焼けは、かなり高くまで広がっている。私は逃避するように空へと視線を向けた。
それから私とリンは無言のまま歩いた。数分、いや、数十分だったかもしれない。リンは公園のベンチに真っ直ぐと身を起こして腰掛けながら、私に向って漸く語りだした。
「伝達事項だ」
会議室のホワイトボードの横に立つ上司。リンは部屋の後方に座って彼の話を聞いていた。彼は不健康な程に身体に肉を蓄えた男で、だらだらと纏わりの無い話をする。会計部門を仕切るほどの器もない、スタッフ会議を運営する力量も無い。彼の声は耳元に纏わりつく蚊の羽音のようなものだ。昇進を勝ち取るほど賢いが、そこに止まらざるえないほど愚か。
リンは途端に気が滅入った。他人に対して手厳しすぎるのかもしれない。けれど、世界が血を流し、泣き叫び、炎に包まれている間にも、彼らは無知と鈍感さ故に気付けずにいるのだ。
リンのポケットで携帯が鳴った。メールを眺める、同時にせり上がった胃液を吐き出しそうになった。
『進行が早まった』
アラビア語で書かれたメールにリンは震える手で返信した。
『無理。少なくとも今はまだ準備不足』
『仲間が撃たれた』
鼓動が速まる。彼らは今、何処にいるの?抗議運動じゃないはず。局だ。国営テレビ局を攻撃中。反体制派の名において真実を放送しようとしているのだ。
『パソコンに向え』
今は出来ない、駄目だ。活動を続けるにはこの会社にいればこそ、多くの帯域を利用でき、高いセキュリティーを逆手にとって容易に回線に潜り込める。会社に無用な注意は引かれたくない。
『頼む、君しかいないんだ。頼む』
判断もつかないまま、リンは会議を抜け出していた。
『何をしてほしいの?』
『やつ等は嘘を放送している。我々は止める。真実を示すことが出来る』
『我々は身動きが取れない。局に入れない、放送を止めてくれ』
彼らは理解していないようだが、政治的ハッカーの力は<アラブの春>が証明した。抗議団体にファイアウォールを破らせる支援、無線LANアクセスポイントの設置、政府系ウェブサイトにDDoS攻撃やハッキングによる書き換え、非公開文書の暴露。
やらないと……。今日、人が死ぬことを防げなかったが、政府の放送を閉ざすことによって国際的な注目を反政府に集めさせることが出来る。前に進もうとしている人々を助けることが出来る。真実は人々を救えるのだ。
リンは廊下に並んだ自動販売機の底に貼り付けておいた携帯電話とUSBキーを掴む。キーにはハッカーツールが一通り揃っている。ポートスキャナー、ポータルウェア、トロイ、キーロガー。それを持ってリンは企業のサーバーファームに急いだ。用途はホスティングサービスにトラフィック制御に、企業のイントラネット。リンには入室資格はないがハックしたキーカードが役に立った。
携帯電話からケーブルを延ばし、USBを任意のサーバーに繋げる。
一部のハッカー達はアラブ世界のコンピューターに入り込むのは容易だと考えている。だが、近年、アラブやカタールから大量に入ってくるハイテク部品とDIYの組み合わせにより事情はすっかり変わった。アラブ人たちのセキュリティーの腕は向上した。
それでも、リンには及ばない。
リンは、ポートスキャナーを立ち上げて、脆弱性を見つけ出すために自家製のマップソフトを使用する。国営テレビの裏口を蹴り飛ばすのに時間は掛からなかった。それぞれのコンソールのポートを傍受し始めたときに、鳴る筈の無い携帯が鳴った――――。
夏の思い出に浸る暇なくリンは私の前に現れた。リンと最後に言葉を交わしたのは数ヶ月前である。そんな彼女がどこか辛辣で深刻で不快な表情を浮かべているものだから私も狼狽し、頭に浮かんだ気の効かないジョークの数々は脳の奥深くに放棄した結果、長い沈黙と言うこの世の果てのような空気が流れ込んでいると言う始末である。
西の空に広がる紫色の夕焼けは、かなり高くまで広がっている。私は逃避するように空へと視線を向けた。
それから私とリンは無言のまま歩いた。数分、いや、数十分だったかもしれない。リンは公園のベンチに真っ直ぐと身を起こして腰掛けながら、私に向って漸く語りだした。
「伝達事項だ」
会議室のホワイトボードの横に立つ上司。リンは部屋の後方に座って彼の話を聞いていた。彼は不健康な程に身体に肉を蓄えた男で、だらだらと纏わりの無い話をする。会計部門を仕切るほどの器もない、スタッフ会議を運営する力量も無い。彼の声は耳元に纏わりつく蚊の羽音のようなものだ。昇進を勝ち取るほど賢いが、そこに止まらざるえないほど愚か。
リンは途端に気が滅入った。他人に対して手厳しすぎるのかもしれない。けれど、世界が血を流し、泣き叫び、炎に包まれている間にも、彼らは無知と鈍感さ故に気付けずにいるのだ。
リンのポケットで携帯が鳴った。メールを眺める、同時にせり上がった胃液を吐き出しそうになった。
『進行が早まった』
アラビア語で書かれたメールにリンは震える手で返信した。
『無理。少なくとも今はまだ準備不足』
『仲間が撃たれた』
鼓動が速まる。彼らは今、何処にいるの?抗議運動じゃないはず。局だ。国営テレビ局を攻撃中。反体制派の名において真実を放送しようとしているのだ。
『パソコンに向え』
今は出来ない、駄目だ。活動を続けるにはこの会社にいればこそ、多くの帯域を利用でき、高いセキュリティーを逆手にとって容易に回線に潜り込める。会社に無用な注意は引かれたくない。
『頼む、君しかいないんだ。頼む』
判断もつかないまま、リンは会議を抜け出していた。
『何をしてほしいの?』
『やつ等は嘘を放送している。我々は止める。真実を示すことが出来る』
『我々は身動きが取れない。局に入れない、放送を止めてくれ』
彼らは理解していないようだが、政治的ハッカーの力は<アラブの春>が証明した。抗議団体にファイアウォールを破らせる支援、無線LANアクセスポイントの設置、政府系ウェブサイトにDDoS攻撃やハッキングによる書き換え、非公開文書の暴露。
やらないと……。今日、人が死ぬことを防げなかったが、政府の放送を閉ざすことによって国際的な注目を反政府に集めさせることが出来る。前に進もうとしている人々を助けることが出来る。真実は人々を救えるのだ。
リンは廊下に並んだ自動販売機の底に貼り付けておいた携帯電話とUSBキーを掴む。キーにはハッカーツールが一通り揃っている。ポートスキャナー、ポータルウェア、トロイ、キーロガー。それを持ってリンは企業のサーバーファームに急いだ。用途はホスティングサービスにトラフィック制御に、企業のイントラネット。リンには入室資格はないがハックしたキーカードが役に立った。
携帯電話からケーブルを延ばし、USBを任意のサーバーに繋げる。
一部のハッカー達はアラブ世界のコンピューターに入り込むのは容易だと考えている。だが、近年、アラブやカタールから大量に入ってくるハイテク部品とDIYの組み合わせにより事情はすっかり変わった。アラブ人たちのセキュリティーの腕は向上した。
それでも、リンには及ばない。
リンは、ポートスキャナーを立ち上げて、脆弱性を見つけ出すために自家製のマップソフトを使用する。国営テレビの裏口を蹴り飛ばすのに時間は掛からなかった。それぞれのコンソールのポートを傍受し始めたときに、鳴る筈の無い携帯が鳴った――――。
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