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今日もあなたを好きでいる
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好き。
ただそれだけのことなのに、どうして伝えられないままズルズルと、ここまで来てしまったのだろう。
いや、理由は分かっているのだ、たぶんずっと前から。
十年も前、恋に落ちたその瞬間から、ずっときっと。
実らない片思いを続ける期間って、平均でどのくらいなんだろう。
一年?半年?それとももしかして、一ヶ月にも満たない?
残念ながら他の人の恋愛事情なんてよく知らないから、推測の域を出ないけれど、きっとそんなに長い間、人は苦しいだけの一方通行な想いを抱え続けはできないものなのだろう。
「お先に失礼しまーす」
ナースセンターに声をかければ、お疲れ様と在り来たりな労いの言葉をかけられ、今日も勤務先の病院を後にする。
ヒイヒイ言いながらもなんとか看護学校を卒業して、ありがたいことに内定をもらった総合病院に勤めてから、早五年が経っていた。
ハードな仕事にも慣れてきて、毎日忙しいがそれなりに充実した日々を送っている。
「ただいまー」
買い物袋を提げて帰宅する自分を迎える真っ暗な部屋にも、悲しいことに慣れてしまった。
いやはや、慣れとは恐ろしいものである。
探り当てたスイッチを押し明かりを付ければそこは、この五年で徐々に作り上げてきた自分の城。
ソファーの後ろから、にゃあと鳴いて可愛い我が家のお姫様が顔を出した。
朝干してから出た洗濯物を取り込んで、お風呂の栓を閉める。
お風呂が沸くまでに洗濯物を畳み、夕飯の下拵えをしておく。
今夜は遅くなったから、簡単に親子丼と水菜のサラダ、それから春キャベツの味噌汁だ。
「明日は休みだから…いいよね」なんて誰に言うでもなく言い訳じみた独り言をつぶやいて、お姫様に餌を与えてからお風呂に向かった。
お気に入りの入浴剤を入れたピンク色のバスタブに浸かって、明日のことを考える。
朝はゆっくり起きて、買い置きしているミックス粉でホットケーキを焼こう。
お昼からは、この前の休日に一目惚れしてお迎えしてしまった檸檬色のワンピースにオフホワイトのカーディガンを羽茉莉って、十年来の友人である絢乃の誕生日プレゼントを探す旅に出よう。
夕方には仲間内で飲む約束があるから、時間に気をつけなくては。
有名ホテルの通りにある…なんていうお店だったっけ。
各地の地酒が揃っていて料理も美味しいと、夕弦が太鼓判を押していたほどだから、とっても楽しみだ。
ぽかぽかしてきた身体を真綿のようにふわふわのバスタオルで包み、少し勇気を出して挑戦してみた赤の下着とパステルピンクのパジャマを纏えば、リラックスタイムの始まりだ。
出汁で鶏ももと長ネギを炊いておいた鍋に溶き卵をふんわりと流し込み、味噌汁を温める。
冷蔵庫から、美園からお土産に貰ったドレッシングと缶ビールを取り出して、ローテーブルにセットする。
春になったとはいっても夜はまだ冷え込むらしく、肌寒くなってきたので暖房を入れる。
引っ越し祝いに貰った二合炊き用の小さな炊飯器からご飯をよそって、いい感じに半熟になった鶏ももの卵とじを丼に盛りつければ、完成。
味噌汁と水菜のサラダも忘れずに、さあ、手を合わせて「いただきます」。
缶ビールをプシュッと開け、グビグビと喉に流し込む。
「ぷはぁ」
そう、これこれ。
この瞬間が何より幸せなのよねぇ。
テレビをつけて、しばらくリモコンのボタンを押し続けていたけれど、コレという番組もなく、適当にドラマを流しておくことにした。
どうやらよくあるラブストーリーのようで、もしかしてこれがナースたちの間で流行っている作品かな、なんてことをふと思ったりする。
『もう疲れたよ』
ふいに耳に入ってきたセリフに、思わず箸が止まる。
『君のことを好きでいることに、疲れちゃった』
テレビの中では、ヒロインが悲しそうに微笑んでいた。
『この気持ちから、私を解放して』
胸が、ドクンドクンと波打つ。
まるで自分の気持ちを、代弁してくれているかのようにさえ思えた。
この先の展開を知りたくはなくて、震える指先でテレビの電源を落とす。
あんなに美味しく食べていたはずなのに、最後の一口は味がしなかった。
ざわつく気持ちが落ち着くことはなく、お酒は進む。
ビール三缶、チューハイ二缶、懲りずに今度は白ワインを開けようとしている。
涙は出ない。
もう流す涙も失くしてしまったから。
いくら純粋培養と言われようと、生き物である以上どんな人間も恋をするものである。
その昔、茉莉江には好きな人がいた。
初めての恋だった。
大好きで大好きで堪らなかった。
でも、端から叶わない恋だった。
だって相手には、好きな人がいたのだから。
それでもいつかは振り向いてくれるんじゃないかと、馬鹿な夢を見たこともあった。
だけど彼は、終ぞ振り向いてはくれなかった。
そして今もなお、茉莉江は彼を好きでいる。
彼もまた、あの頃と同じ人に想いを抱いている。
今年で、十年になる。
十年間も、不毛な恋を続けているままなのである。
茉莉江も、そして彼も、想い人に想いを告げることなく。
仲間全員で集まれたのは、実に数ヶ月ぶりのことであった。
結局昨晩、白ワインも一瓶飲み干したのだが、そんなことは取るに足らないと軽い足取りで店に向かった。
一般的に、酒に弱い女性は男性に受けがいいという。
確かにほろ酔いの女の子の上気したほっぺは可愛いし、たとえ少々酒癖が悪くても、水のようにがぶがぶ呑む女よりはずっと好ましいだろう。
残念ながら茉莉江は老舗酒造の家柄の所為か大酒飲みで、いわゆる『ザル』というやつなのだが。
「次、何呑む?」
左隣に座る陸にメニュー表を見せられ、茉莉江は迷いなく薩摩の芋焼酎を指差す。
「いいね、僕もそれにしようかな」
「ロックだよね」、肯けば陸はみんなの分もまとめて注文してくれる。
「実はどれにしようか迷ってたんだよね。便乗しちゃった」
「知ってる。さっきからずっと唸っていたの、見ていたもの」
「でも、口出ししなかったね」
澄んだ目で見つめられるのは嫌いじゃないけれど、得意ではない。
「…だって、最後はちゃんと決めるでしょう?」
息が詰まって、なんとか返した答えは間違えてはなかっただろうか。
陸は、満足そうに微笑む。
「茉莉江は、なんでも決めるのが早いよね」
「そう、かしら」
首を傾げて、覚えている限りのことを思い出してみる。
食事や買い物といった小さなことから、志望校や職業という大きなことまで。
確かに、決めるのは早いほうなのかもしれない。
「でもその分、失敗することも多いわ」
「そうだね」
思い出し笑いのように相好を崩す陸に、抗議の意を込めて少し頬を膨らませてみせれば、彼の視線は既に茉莉江にはないことに気づく。
無意識のうちに陸の視線の先を追えば、そこには最早お決まりのように円がいて、茉莉江は面白くないと歪んだ口元を隠すように純米酒をくいっと呑む。
向かいの奥に座る円は隣に座る廉にいつものように揶揄われていて、しかしその頬は翠子色に染まり、つり目は目尻が下がりとろんとしている。
相変わらず、酔うのが早い。
それでいて酒好きなのだから、タチが悪い。
でも、陸はそんな円も好きなのだろう。
素面の強がりで意地っ張りで泣き虫な円も、努力家で才智に優れた円も、全部、ぜんぶまとめて好き、なのだろう。
知っている。
十年も前から知っている。
陸が円のどこを好きなのか、なんて。
その想いがどれだけ強いか、なんて。
知りたくなんてなかったけれど、陸を好きになる度に嫌というほど気付かされたのだ。
そして気がつけば茉莉江は円を好きな陸ごと、彼を好きになってしまっていたのだった。
『話があるの』。
そんな連絡が円から届いたのは、飲み会からそう日を置かない木曜日の夕方だった。
ちょうどその日、夜勤だった茉莉江はナース服に着替える際に更衣室で返事をすると、妙な胸騒ぎを抱えたままナースセンターに向かった。
金曜日の夜、駅前のバーで。
夜勤を終えてボロボロの身で帰宅した茉莉江は、約束の時間ギリギリまで貪るように眠っていて、慌ててシャワーを浴びて支度に取り掛かる。
花柄のブラウスにダスティピンクのワイドパンツを合わせ、ジュエリーボックスから適当に選んだ指輪を右手中指にはめる。
ころんとした形のバッグを引ったくり、ブラウスとお揃いのネイビーのパンプスを履き、家を出る。
もちろん施錠は忘れずに。
そうして全速力で待ち合わせ場所まで駆けた茉莉江を迎えた円は、「五分遅刻ね」といつになく優しく微笑んだのだった。
バーカウンターに二人並んで座り、それぞれに好みのカクテルを頼む。
「どうぞ」
差し出されたマルガリータとマティーニを各々手元に引き寄せながら、どこか緊張した様子の円が話を切り出しやすいようにと、茉莉江は口を開いた。
「それで、話って?」
「…あんたには、誰より先に言わなくちゃって思って」
そう前置きする円の横顔を、ざわつく思いで見つめる。
「私ね」
その先を聴きたいような、聴きたくないような、曖昧な気持ちで見つめる。
きっと、彼女が何を話すのか、勘づいているから。
「結婚するの」
ストン、と心の奥に落ちてきた一つの区切りは意外と呆気なくて、言葉を失う。
否、言葉に迷ったのだろう。
「おめでとう」
出来るだけ穏やかに微笑んで声に出した祝福は、震えてはいなかっただろうか。
円が照れくさそうにはにかんでいるから、大丈夫だったのだろう。
半透明の海が浮かぶグラスに、そっと口をつける。
きりりとした鋭さが、喉を駆け抜ける。
確か、五年前のことだった。
長い間、周囲をヤキモキさせていた円と廉が、付き合うことになったと揃って報告してきたことがあった。
高校時代から続いた両片想いの関係に区切りがついたことは友人として喜ばしいことであったが、陸の心境を思うと気が気ではなかった。
「大丈夫?」
良かったねと二人に微笑む陸に、さりげなくそう尋ねたことをよく覚えている。
「何が?」
とぼける陸は深い笑みを浮かべていて、恐ろしさすら感じたのだっけ。
それと同時に何も話してくれないことに対して、憤りを覚えたのだった。
「わたしにくらい、吐きこぼしてもいいのに」
そう言って唇を尖らせた茉莉江の頭をぽんぽんと撫で、それから陸はこう言ったのである。
「君だから、吐きこぼせないんだよ」
結局、あの言葉の真意を計ることはできないままだ。
ただ単純に、茉莉江は口が軽いからと言いたかっただけなのかもしれない。
または、できることなら考えたくはないが、陸が茉莉江の気持ちに気づいていて、その上で茉莉江を傷つけてしまうことを憚ったのかもしれない。
理由は何にせよ、「それなら、陸の気持ちのやり場は何処にあるの」という問いの答えは、見つかりやしないのだが。
二十五歳までに、結婚。
子どもは、男女合わせて三人は欲しい。
それが茉莉江の幼い頃からの、漠然とした夢だった。
実際、この恋に溺れていると感じるようになるまでは、そんな夢、簡単に叶えるものだと思っていた。
そうして気がつけば、自分の中での予定では結婚していたはずの年齢を過ぎていたのだけれど。
「ごめん、遅くなった」
ガラガラと引き戸を開けて顔を出したスーツ姿の彼に、「先に呑んでたよ」とグラスを持ち上げ、揺らして見せる。
彼はそれに微笑を浮かべ席に着くと、ため息のようなものをこぼしながらネクタイを緩めた。
「とりあえず生?」
「とりあえず生」
店員を呼び出し、彼の分の生ビールとそれから適当に肴を頼む。
「珍しいね、茉莉江が二人で呑みたいって言うなんて」
確かに、滅多にしないことをした自覚はあった。
円から結婚の報告を受けた後、陸のことが気に掛かっていた茉莉江は円と廉のことには触れずに陸に連絡を入れ、約束を取り付けた。
アルコールで緩んだ気持ちで好意を零してしまいそうだと思い自重していた、サシ飲みに誘い出して。
「んー」
曖昧に笑って、グラスに残る純米酒を流し込む。
いつもより喉がヒリヒリするのは、たぶん気のせい。
「…陸が、またひとりで抱え込んで、苦しんでるんじゃないかと思って」
「…何のこと?」
貼り付けたような微笑みは、やはり茉莉江に恐ろしさを感じさせる。
「この期に及んでとぼけるの?」
負けてしまいそうな気持ちに鞭を打って、そう問い返した茉莉江を陸は無言で見つめてくる。
「お待たせしました、ジョッキの生と枝豆、冷奴、イカの塩辛です」
「ありがとうございます」
店員ににこっと見せた笑顔は、いつもの彼のもの。
店員が去るのを視認してから、茉莉江は再び口を開いた。
「廉と円、結婚するんだってね」
「そうらしいね」
「よかったよね」
「そうだね」
陸は、瞬きひとつしない。
仮面のような笑みを、崩しやしない。
「うそつき」
口をついて出た言葉に、誰より茉莉江自身が驚いていた。
違う。
こんな、責めるようなことを言いたかったわけではないのに。
「はは。うそつき、かあ」
言葉をぶつけられた当の陸はといえば、一瞬だけ驚きの表情を見せたが直ぐにまた微笑みを浮かべると、そう言った。
「まあ、当たらずとも遠からず、かな」
煽るようにビールを飲む彼を何とも言えない気持ちで見つめ、茉莉江は次の言葉を必死に探す。
元々出来が良いとは言えない頭だが、殊に陸のこととなると、正解がまるで分からない。
「…君はそうは見えないと言うかもしれないけど、喜ばしいと心から思ってるんだよ」
ジョッキを握ったまま、陸は初めて円のことで正直な気持ちを茉莉江に吐いた。
「ただ、…そうだな、少しの淋しさはないとは言えないかな」
「淋しさ?」
「そう、淋しさ」
口寂しさに手をつけた枝豆は、塩気が多くて少ししょっぱい。
「二人が付き合い始めたときに、遅かれ早かれこんな日が来ることも予感していたし、あのときから少しずつ、円ちゃんへの気持ちも諦めてきたんだ」
それは茉莉江だとて、知っていた。
陸は二人が付き合ってからというもの、度々恋人を作っていたから。
でも、それが諦めだとは茉莉江には到底思えなかった。
だから茉莉江も、陸に想いを伝えることをしなかったのだ。
自分の想いを押し殺してでも、円の代わりには絶対になりたくなかったから。
「だけど、まあ、実際にそのときが来るとやっぱり…淋しいよね」
どんな手を伸ばしても、自分のものにはならないのだと実感するから?
自分のものなのだと、言われているように思えてしまうから?
聞けるわけもなかった。
言えるわけもなかった。
まだ、円を好きでたまらないのでしょう、なんて。
「好きをやめたい」
開口一番、そう言い放った茉莉江に咲子は瞬いた。
「どうしちゃったの、茉莉ちゃんってば」
テーブルに項垂れる茉莉江を撫でて、チョコレートあるよと駄目元で言ってみれば、食べる、とむくっと起き上がる。
「翠子は子ども産んで、咲子ちゃんも結婚したっていうのに」
「よく分からないけど、なんかごめんね?」
「ううん!幸せになってね!!」
「うん?」
鳥に餌をやるように、茉莉江の口にチョコレートを投げ入れる。
茉莉江はそれを暫く口内で溶かした後、咲子のTシャツの裾を摘んだ。
「兎に角、みんな収まるべきところに収まって行ってるのに、わたしだけいつまでも不毛な片想いしてるのが嫌なの」
「うーん、つまり具体的には何をしようとしてるの?」
俯く茉莉江に二個目のチョコレートを餌に顔を上げさせ、咲子は尋ねる。
出来っこないのでは、などと本末顛倒なことを思いながら。
「お見合いしようと思う」
「あんなに嫌がってたのに…」
茉莉江の実家はそれなりに古く大きな家柄である故に、曲がりなりにも愛娘の茉莉江の元にも二十歳を超えた辺りから見合いの話は運ばれていたようであった。
しかし、当の本人がそれを全力で拒否し続けていたので、周りも無理に進めることは出来ず、話が表沙汰になることは今のところ一度もなかった。
「何だっけ、『結婚相手くらい自分で見つけます!!!』だっけ」
「あれだけ大口叩いておいて今更、やっぱりお願いしますだなんて虫が良すぎると思われるかな!?」
「それは大丈夫だと思うけど」
問題は追いつかない本人の気持ちでは、と咲子はなにやら逃げの姿勢を取っているようにしか見えない茉莉江を見遣る。
「そんなに結婚したいの?」
「…わからない」
茉莉江はただ一言そうつぶやくと、再び顔を俯かせる。
「そりゃあ、結婚はしたいのよ。子どもだって欲しいし。だけど…」
「今はただ陸くんを諦めたいからってだけ、でしょ?」
こくん、と力なく肯く茉莉江の両頬を手のひらで掴んで、咲子は彼女の顔を持ち上げる。
そうして合わせた目線の先で、今にも泣き出しそうな瞳を見つける。
「知ってる?茉莉ちゃんって、誰かを好きな気持ちを持ったまま他の人を好きになれるほど、器用じゃないんだよ」
「…でも」
「一度でもその気持ち、陸くんにぶつけた?」
ふるふると、首は左右に振られる。
「陸くんは円に一度も気持ちを伝えないまま、終わりを迎えた。でも、茉莉ちゃんはまだ、終わりを宣告されたわけじゃないよ」
涙の雫が一粒、血色の良い頬に流れ咲子の手を濡らす。
「最後に一度くらい、ダメ元でも。自分の気持ち、伝えてみてもいいんじゃない?」
大丈夫。
十年も続いた茉莉ちゃんの想いの強さは、誇っていいくらいなんだから。
微笑む咲子に、茉莉江はついに涙腺を崩した。
忘れ物を取りに向かった教室から覚えのある声がして、茉莉江はつい扉に身を潜めた。
教室の窓辺には二つの影があって、こちらには背を向けている。
「無理なの」
円と陸だと気がつくのに、そう時間は掛からなかった。
「あいつには未来永劫、素直になんてなれない」
「またそういうことを言う」
言い切った円に、呆れた様子で陸はつぶやく。
「僕相手に言うときみたいに、もっと素直になればいいのに」
「あんたは、違うでしょ」
そう言って円が身を翻し、こちらを向く。
「どう違うの?」
陸も同じように、こちらに振り向く。
「あんたには…あいつに言えないような気持ちも、素直に言えるのよ。なんでか、よくわかんないけど」
その円の言葉に目を見開いて、それから緩んだ口元を袖で覆った陸の姿が、今でも目に焼き付いている。
「…ふうん」
満更でもないその声が、今でも忘れられないでいる。
思えばそのときにはもう、茉莉江は彼を好きになっていたのだろう。
後戻りのできないところまで、来てしまっていたのだろう。
「ぅわっ!!!」
そんな変な声を上げて茉莉江の前に現れたのは、今日もまた、憎らしいほど愛してやまない人だった。
「びっくりした…」
聳え立つ坂の上にある母校から右に向かって真っ直ぐ歩いたその先に、高台の割と広い公園がある。
高校生の頃、コンビニで買ったアイスや肉まんを片手によく仲間で集まったものだ。
夜勤から日勤のオールで疲れていたのかフラフラする頭は懐古を望んで、気がつけば茉莉江はいつの間にやらその公園にいた。
五月の夜の肌寒さをしのいで、トンネル型の遊具の中でぼんやりと夜空を眺めていたのだが、そこになぜか陸が姿を現したのだ。
「こんなところで何してるの」
「あなたこそ」
んー、と曖昧に声をこぼした陸は、とりあえず出ておいでよと手を差し伸べてくる。
そろそろこの体勢にも疲れていたから、ここは陸の言う通りにすることにして茉莉江はその手を借り、立ち上がった。
「何か飲む?」
自動販売機を指差す陸に、茉莉江は服についた砂を払いながらコーンスープを強請る。
「えぇ…あるかな…」
ブツブツ言いつつも自動販売機に向かっていった陸の、「あった!あったよ茉莉江!!」という無邪気な声を聞いていたら、なんだか何もかもがどうでもよくなってきて、笑みをこぼす。
「はい、コーンスープ」
「ありがとう」
受け取った缶が温かくて、プルタブを開ければ湯気が出て来て、飲んでみると優しい味で、嗚呼、ちょっと今、幸せな気分。
ベンチに腰掛けて二人、他に誰の気配もしない公園で高台からの景色を二人占めしている。
「昔さ、夕弦と史人がブランコでどっちがより高く漕げるか勝負したことあっただろう」
「あったあった。あのとき、史人がブランコ壊して、管理の人にすっごく怒られたのよね」
「そうそう。高校生にもなって馬鹿なことした連帯責任だ!って。あれからあんまり、ここにも来なくなったんだよね」
それは管理人を恐れてのことももちろんあったのだが、それ以上に受験シーズンを迎え、それぞれ受験勉強に追われる日々となったからだった。
「僕さ、受験であんまり遊んだりできなくなってからも、たまに来てたんだ」
「そうだったの」
「うん。予備校もこの近くだったから帰りに寄り道して、勉強の息抜きにね」
ふう、と吐いてみた息は、もう白く色付かない。
「ここから見える夜空と夜景が、一枚の絵みたいで、好きだったんだ」
ペットボトルのミルクティーを持ったまま立ち上がり、柵の前まで進むとこちらを振り返り、「おいで」と手招く陸に導かれるようにして、茉莉江も彼のいる場所まで足を進める。
「綺麗…」
「だろう?」
思わず出た感嘆に、陸が隣で誇らしげに囁く。
見える景色は夜空と夜景の境がなく、星と人口の光が共存して輝いている。
そう、それはまさに、一枚の絵のよう。
「この景色見てると、疲れも悩みも吹っ飛ぶんだ。まあいっか、明日もがんばろうって」
ちらりと見遣った横顔は、いつになく穏やかな色をしていた。
「茉莉江はどう?」
「えっ」
話の矛先が自分に向き、驚く茉莉江に陸は優しく微笑む。
「吹き飛んだ?疲れ」
バレていたのか。
バツの悪い顔をしてしまうが、オールの後の酷い顔を今もなお見られているわけだから無理もない、と茉莉江は小さくため息を吐く。
そして、敵わないなと心底思う。
「うん、吹き飛んだ」
笑窪ができるほどの満面の笑みで、茉莉江は陸にそう返した。
そんな茉莉江を前に、陸はしばらく茫然とした後、「それはよかった」とまた微笑んだのだった。
一般的に告白って、どんなシチュエーションでするものなのだろう。
屋上に呼び出して?
ああだめだ、これは学生か職場恋愛じゃないと使えない。
それとも、二人きりで会った日の帰り道で?
呑みに誘うだけでも結構頑張ったっていうのに、デートなんて誘い方が分からない。
「そういうのは流れで言っちゃうもんなんだから、流れに身を任せときなって」
恋は百戦錬磨、関係を持ってきた女性は数知れずの恋愛仙人・夕弦に相談を持ちかけたのはいいのだが、この人、先程から適当なことばかり言って具体的なアドバイスを全くしてくれない。
その上、相談料としてお代はこっち持ちだから、息をつく間も無く飲み食いしている。
「でもそもそもね、夕弦」
「なんだね、茉莉ちゃん」
「よく考えたらわたし、あんまり陸と二人になる機会ないのよ」
「そりゃ由々しき事態だな」
ふむ、と考える人のポーズを取り、なにやらやっとアドバイスをくれるようだと茉莉江が期待して待っていれば、夕弦は茉莉江にスマートフォンを出すようにと言い出した。
言われるがままにトークアプリを起動し陸とのトーク画面を開くと、そこで夕弦にスマートフォンを奪われる。
「ちょっと夕弦、何をする気!?」
余計なことになりかねないと慌てる茉莉江をよそに、夕弦はちょちょいのちょいで「はい送信♪」、こともあろうが何らかのメッセージを勝手に陸に送ってしまったようだった。
「なんの、変なことは書いてないよ。ただデートに誘っただけ」
「えっ!?!?」
返してもらったスマートフォンの画面には、確かに『遅くにごめんなさい。突然だけど、日曜日は空いてる?美術館の観覧券を二枚貰ったんだけど、よかったら一緒に行かない?』という文面のメッセージが載っていた。
「美術館の観覧券なんて持ってないんだけど!」
「夕弦様を侮ってくれるなよ」
これをそちに授けよう、などと戯れた声で差し出してきたのは、二枚の美術館の観覧券。
「あ、りがと…う…。でも!」
「なんだよ、まだ何かあんの?」
カルーアミルクなんて甘ったるいものを片手に「この夕弦に言ってみなよ」と笑う彼を、人はあざといと言うのだろう。
「…わたし、一度も告白なんてしたことないから、告白の仕方がわからないの」
茉莉江はマドラーでウーロンハイを掻き混ぜながら、多少の恥じらいを見せて小さくつぶやく。
「はあ」
ほとほと呆れたとばかりにため息を吐く夕弦に、茉莉江は居たたまれなくなり身を縮こませる。
馬鹿なことを言っている自覚はある。
だけど紛れもない事実なのだから、どうしようもないだろう。
「あのなあ、茉莉江」
ガタンと音を立てて、夕弦はテーブルにグラスを置く。
「難しいことは考えないでいいんだよ。お前が思うままの気持ちを伝えればいいんだ。一般的な告白なんて、好きです付き合ってください、みたいなもんだし」
「お前も告白されたことがないわけじゃないだろ?」、夕弦の問いに一間置いて神妙に肯く。
「プロポーズするわけでもないんだ、そう畏まらずドンとぶつかってきな」
ニッと歯を見せる夕弦にうるっときた茉莉江は、スンと鼻を鳴らしそれから「全部終わったら、ヤケ酒に付き合ってね」と言ったのだった。
美味しい料理と美味しいお酒は、ときに人を陽気にさせる。
それは茉莉江も例外ではなく、ザルの茉莉江にしては珍しく頬を染め、更に目つきを弛ませていた。
その日、陸とふたりで美術館に行って近くのカフェのオープンテラスでパスタに舌鼓も打ち、緊張を孕みながらも幸せな気分に浸っていた茉莉江だったが、その後新緑の薫る公園を散歩している最中の会話の流れで、夕食を茉莉江が自宅で振る舞うことになった。
まるで夫婦のようだと思いつつ、ふたりで自宅近くのスーパーで食材と酒、そして肴になりそうなものを買い込んで茉莉江は、幼なじみ以外の異性を入れたことのない部屋に陸を招き入れた。
料理はあまり得意ではないという陸にはリビングで猫の相手をしていてもらうことにして、茉莉江は流していた髪を高い位置で一つにまとめ、愛用のドット柄のエプロンを着ける。
メニューは陸の希望で、豚の生姜焼きとポテトサラダ、なめこの味噌汁。
生姜焼き用の豚肉をタレに漬けておいて、その間にポテトサラダを作る。
具は適当に、じゃがいもと一緒に茹でた卵とハムときゅうり。
味付けはシンプルに塩コショウとマヨネーズ、と思わせて隠し味にわさびをちょこっと。
味噌汁は作り置きしている昆布といりこの水だしに、絢乃に良いよと勧められた合わせ味噌を溶かす。
いい感じにタレに漬かった豚肉を焼いて、千切りキャベツとプチトマトを一緒に盛れば完成。
「出来たよ」
「あ、いい匂い」
戯れていた猫を膝から下ろし、手伝いを申し出てくれた陸に料理を運んでもらう。
その匂いにつられた様子の猫にも餌を与え、席に着いてふたり向かい合い「いただきます」、手を合わせた。
「うん、おいしい」
そう言う陸の顔は確かに美味しく食べてくれている人の顔で、嘘偽りない様子の言葉に茉莉江は「よかった」と笑みをこぼす。
小さなグラスにちょっとずつ注いだ梅酒も次々進み、気がつけば一本開けてしまっていた。
「ごちそうさまでした」
きちんと言ってくれる陸に心を鷲掴みにされた茉莉江は、「お粗末様でした」と返した後「次はどれいく?」とすぐに話題を変える。
「うーん…ハイボールもいいしワインもいいな…でもスパークリング日本酒も気になるし…うーん…」
またいつものごとく迷いだした陸に苦笑し、茉莉江は勝手に選んだハイボールを二缶とチーズの盛り合わせを冷蔵庫から出す。
「今日は待ってくれないんだ」
ハイボールの缶を目にして、陸がつぶやく。
「せっかくふたりきりだから、一分一秒も無駄にしたくないの」
プシュッと勢いよくプルタブを開けて、そう返した茉莉江を陸はいつかと同じ茫然とした表情で見つめている。
別にそれで良かった。
その反応で良かった。
どうせ振られる運命なのだから最後くらい、どんな反応をされても、自分の気持ちを素直に彼に晒してしまいたかった。
「わたしね、陸」
茉莉江はまっすぐに、陸を見据える。
「ずっとずっと好きな人がいたの」
「…うん」
嗚呼、この人は、わたしの想いに気づいていた。
「好きで好きでたまらなくて…気がついたら、十年が経ってた」
「…うん」
いったいいつから、なんて今更、もうどうでもいいか。
「何度も諦めようと思った。でも、諦められなかった。好きを、やめられなかったの」
茉莉江の口は止まらない。
「陸、」
焦がれてやまない彼の名を呼ぶ。
睫毛で陰の出来た琥珀色の瞳が、茉莉江の胸を高鳴らせる。
嗚呼、もう、どうしようもないくらい。
「わたし、あなたのことが、すき」
言え、た。
十年間、一度も言えなかった言葉を、気持ちを、今、確かに今。
「円のことが好きなあなたごと、あなたが好きなの」
優しさも、強さも、恐ろしさも、弱さも、全部、全部。
彼を構成するすべてを、愛しい、と思う。
ほろほろと、溢れ出てきた涙は込み上げてきたいろんな感情の表れ。
だからギョッとしないで、オロオロしないで。
はやく、終わりにして。
あなたの言葉で、すべてを終わらせて。
「茉莉江」
陸が呼ぶ自分の名前は優しい音をしていて、茉莉江はまた一粒、涙の雫を頬に溢す。
「泣かないで」
ローテーブルから身を乗り出した陸の指が、茉莉江の涙を掬う。
「ねえ、茉莉江」
優しい表情をして、そうやって名前を呼ばないで。
「僕は円ちゃんが好きだよ。今も、忘れられない」
知っている。
嫌というほど、知っている。
「だけど、変なんだ」
茉莉江の濡れた頬を拭うように撫でて、陸はふっと微笑う。
「君が僕を好きだと言ってくれたことを、嬉しく思ってる」
こぼれ落ちそうな瞳で、茉莉江は陸を見上げる。
「それだけじゃない」
陸の手が、茉莉江の後れ毛に触れる。
「君が僕を好きでいてくれることで、僕はいつも安心していたんだ」
そうして手に取った一房に、陸はそっと唇を寄せた。
「僕は君が思うよりずっと、ずるい人間だよ。それでも君は、僕を好きだと言ってくれる?」
嗚呼、なんてひどいひと。
この人はわたしを、捕らえて離してくれようとしない。
ずるいひと、ずるいひと。
それなのに、それでも、わたしは。
「あたりまえ、じゃない」
彼のすべてを、ゆるしてしまうの。
「いってらっしゃい」
啄ばむようなキスをして、今朝も玄関先で彼を見送る。
こんな朝を迎えるのももう、何度目だろう。
お互いの部屋の合鍵を交換してからというもの、夜は一緒に食事を摂って、それから朝までともに過ごすことが増えた。
パジャマ姿で伸びをして、もう一眠りしようかと寝室に向かって歩を進める。
昨日ポストに入っていた結婚式の招待状はもちろん廉と円からのもので、陸に道すがら出しておいてもらうように頼んだ。
円のことは吹っ切れたのかと、昨晩ふと問うた茉莉江に陸はというと意味深に笑顔を浮かべて、「どうだろうね」とそう言い含めた。
茉莉江としては、陸の中で円への想いが自分と重なることなく、自分への想いと同居していても構わないと思っているのでそれ以上問い詰めることはなかったが、あの様子ならだいぶ薄れてきているのだろう。
ベッドにダイブして、枕に顔を埋める。
どこからやってきた猫が背中に乗って、にゃあと鳴く。
相手をしろということか。
「後でね~」
今日は夜勤なので、今のうちに睡眠を取っておかないときついことは目に見えている。
レースカーテン越しに、太陽の光が寝室に柔らかく射し込む。
引き寄せたタオルケットは、彼の匂いがする。
「ふふ」
しあわせだ。
しあわせである。
たぶん、昨日より今日が。
きっと、今日より明日が。
彼が隣にいてくれるから。
わたしが今日も、彼を好きでいるから。
ただそれだけのことなのに、どうして伝えられないままズルズルと、ここまで来てしまったのだろう。
いや、理由は分かっているのだ、たぶんずっと前から。
十年も前、恋に落ちたその瞬間から、ずっときっと。
実らない片思いを続ける期間って、平均でどのくらいなんだろう。
一年?半年?それとももしかして、一ヶ月にも満たない?
残念ながら他の人の恋愛事情なんてよく知らないから、推測の域を出ないけれど、きっとそんなに長い間、人は苦しいだけの一方通行な想いを抱え続けはできないものなのだろう。
「お先に失礼しまーす」
ナースセンターに声をかければ、お疲れ様と在り来たりな労いの言葉をかけられ、今日も勤務先の病院を後にする。
ヒイヒイ言いながらもなんとか看護学校を卒業して、ありがたいことに内定をもらった総合病院に勤めてから、早五年が経っていた。
ハードな仕事にも慣れてきて、毎日忙しいがそれなりに充実した日々を送っている。
「ただいまー」
買い物袋を提げて帰宅する自分を迎える真っ暗な部屋にも、悲しいことに慣れてしまった。
いやはや、慣れとは恐ろしいものである。
探り当てたスイッチを押し明かりを付ければそこは、この五年で徐々に作り上げてきた自分の城。
ソファーの後ろから、にゃあと鳴いて可愛い我が家のお姫様が顔を出した。
朝干してから出た洗濯物を取り込んで、お風呂の栓を閉める。
お風呂が沸くまでに洗濯物を畳み、夕飯の下拵えをしておく。
今夜は遅くなったから、簡単に親子丼と水菜のサラダ、それから春キャベツの味噌汁だ。
「明日は休みだから…いいよね」なんて誰に言うでもなく言い訳じみた独り言をつぶやいて、お姫様に餌を与えてからお風呂に向かった。
お気に入りの入浴剤を入れたピンク色のバスタブに浸かって、明日のことを考える。
朝はゆっくり起きて、買い置きしているミックス粉でホットケーキを焼こう。
お昼からは、この前の休日に一目惚れしてお迎えしてしまった檸檬色のワンピースにオフホワイトのカーディガンを羽茉莉って、十年来の友人である絢乃の誕生日プレゼントを探す旅に出よう。
夕方には仲間内で飲む約束があるから、時間に気をつけなくては。
有名ホテルの通りにある…なんていうお店だったっけ。
各地の地酒が揃っていて料理も美味しいと、夕弦が太鼓判を押していたほどだから、とっても楽しみだ。
ぽかぽかしてきた身体を真綿のようにふわふわのバスタオルで包み、少し勇気を出して挑戦してみた赤の下着とパステルピンクのパジャマを纏えば、リラックスタイムの始まりだ。
出汁で鶏ももと長ネギを炊いておいた鍋に溶き卵をふんわりと流し込み、味噌汁を温める。
冷蔵庫から、美園からお土産に貰ったドレッシングと缶ビールを取り出して、ローテーブルにセットする。
春になったとはいっても夜はまだ冷え込むらしく、肌寒くなってきたので暖房を入れる。
引っ越し祝いに貰った二合炊き用の小さな炊飯器からご飯をよそって、いい感じに半熟になった鶏ももの卵とじを丼に盛りつければ、完成。
味噌汁と水菜のサラダも忘れずに、さあ、手を合わせて「いただきます」。
缶ビールをプシュッと開け、グビグビと喉に流し込む。
「ぷはぁ」
そう、これこれ。
この瞬間が何より幸せなのよねぇ。
テレビをつけて、しばらくリモコンのボタンを押し続けていたけれど、コレという番組もなく、適当にドラマを流しておくことにした。
どうやらよくあるラブストーリーのようで、もしかしてこれがナースたちの間で流行っている作品かな、なんてことをふと思ったりする。
『もう疲れたよ』
ふいに耳に入ってきたセリフに、思わず箸が止まる。
『君のことを好きでいることに、疲れちゃった』
テレビの中では、ヒロインが悲しそうに微笑んでいた。
『この気持ちから、私を解放して』
胸が、ドクンドクンと波打つ。
まるで自分の気持ちを、代弁してくれているかのようにさえ思えた。
この先の展開を知りたくはなくて、震える指先でテレビの電源を落とす。
あんなに美味しく食べていたはずなのに、最後の一口は味がしなかった。
ざわつく気持ちが落ち着くことはなく、お酒は進む。
ビール三缶、チューハイ二缶、懲りずに今度は白ワインを開けようとしている。
涙は出ない。
もう流す涙も失くしてしまったから。
いくら純粋培養と言われようと、生き物である以上どんな人間も恋をするものである。
その昔、茉莉江には好きな人がいた。
初めての恋だった。
大好きで大好きで堪らなかった。
でも、端から叶わない恋だった。
だって相手には、好きな人がいたのだから。
それでもいつかは振り向いてくれるんじゃないかと、馬鹿な夢を見たこともあった。
だけど彼は、終ぞ振り向いてはくれなかった。
そして今もなお、茉莉江は彼を好きでいる。
彼もまた、あの頃と同じ人に想いを抱いている。
今年で、十年になる。
十年間も、不毛な恋を続けているままなのである。
茉莉江も、そして彼も、想い人に想いを告げることなく。
仲間全員で集まれたのは、実に数ヶ月ぶりのことであった。
結局昨晩、白ワインも一瓶飲み干したのだが、そんなことは取るに足らないと軽い足取りで店に向かった。
一般的に、酒に弱い女性は男性に受けがいいという。
確かにほろ酔いの女の子の上気したほっぺは可愛いし、たとえ少々酒癖が悪くても、水のようにがぶがぶ呑む女よりはずっと好ましいだろう。
残念ながら茉莉江は老舗酒造の家柄の所為か大酒飲みで、いわゆる『ザル』というやつなのだが。
「次、何呑む?」
左隣に座る陸にメニュー表を見せられ、茉莉江は迷いなく薩摩の芋焼酎を指差す。
「いいね、僕もそれにしようかな」
「ロックだよね」、肯けば陸はみんなの分もまとめて注文してくれる。
「実はどれにしようか迷ってたんだよね。便乗しちゃった」
「知ってる。さっきからずっと唸っていたの、見ていたもの」
「でも、口出ししなかったね」
澄んだ目で見つめられるのは嫌いじゃないけれど、得意ではない。
「…だって、最後はちゃんと決めるでしょう?」
息が詰まって、なんとか返した答えは間違えてはなかっただろうか。
陸は、満足そうに微笑む。
「茉莉江は、なんでも決めるのが早いよね」
「そう、かしら」
首を傾げて、覚えている限りのことを思い出してみる。
食事や買い物といった小さなことから、志望校や職業という大きなことまで。
確かに、決めるのは早いほうなのかもしれない。
「でもその分、失敗することも多いわ」
「そうだね」
思い出し笑いのように相好を崩す陸に、抗議の意を込めて少し頬を膨らませてみせれば、彼の視線は既に茉莉江にはないことに気づく。
無意識のうちに陸の視線の先を追えば、そこには最早お決まりのように円がいて、茉莉江は面白くないと歪んだ口元を隠すように純米酒をくいっと呑む。
向かいの奥に座る円は隣に座る廉にいつものように揶揄われていて、しかしその頬は翠子色に染まり、つり目は目尻が下がりとろんとしている。
相変わらず、酔うのが早い。
それでいて酒好きなのだから、タチが悪い。
でも、陸はそんな円も好きなのだろう。
素面の強がりで意地っ張りで泣き虫な円も、努力家で才智に優れた円も、全部、ぜんぶまとめて好き、なのだろう。
知っている。
十年も前から知っている。
陸が円のどこを好きなのか、なんて。
その想いがどれだけ強いか、なんて。
知りたくなんてなかったけれど、陸を好きになる度に嫌というほど気付かされたのだ。
そして気がつけば茉莉江は円を好きな陸ごと、彼を好きになってしまっていたのだった。
『話があるの』。
そんな連絡が円から届いたのは、飲み会からそう日を置かない木曜日の夕方だった。
ちょうどその日、夜勤だった茉莉江はナース服に着替える際に更衣室で返事をすると、妙な胸騒ぎを抱えたままナースセンターに向かった。
金曜日の夜、駅前のバーで。
夜勤を終えてボロボロの身で帰宅した茉莉江は、約束の時間ギリギリまで貪るように眠っていて、慌ててシャワーを浴びて支度に取り掛かる。
花柄のブラウスにダスティピンクのワイドパンツを合わせ、ジュエリーボックスから適当に選んだ指輪を右手中指にはめる。
ころんとした形のバッグを引ったくり、ブラウスとお揃いのネイビーのパンプスを履き、家を出る。
もちろん施錠は忘れずに。
そうして全速力で待ち合わせ場所まで駆けた茉莉江を迎えた円は、「五分遅刻ね」といつになく優しく微笑んだのだった。
バーカウンターに二人並んで座り、それぞれに好みのカクテルを頼む。
「どうぞ」
差し出されたマルガリータとマティーニを各々手元に引き寄せながら、どこか緊張した様子の円が話を切り出しやすいようにと、茉莉江は口を開いた。
「それで、話って?」
「…あんたには、誰より先に言わなくちゃって思って」
そう前置きする円の横顔を、ざわつく思いで見つめる。
「私ね」
その先を聴きたいような、聴きたくないような、曖昧な気持ちで見つめる。
きっと、彼女が何を話すのか、勘づいているから。
「結婚するの」
ストン、と心の奥に落ちてきた一つの区切りは意外と呆気なくて、言葉を失う。
否、言葉に迷ったのだろう。
「おめでとう」
出来るだけ穏やかに微笑んで声に出した祝福は、震えてはいなかっただろうか。
円が照れくさそうにはにかんでいるから、大丈夫だったのだろう。
半透明の海が浮かぶグラスに、そっと口をつける。
きりりとした鋭さが、喉を駆け抜ける。
確か、五年前のことだった。
長い間、周囲をヤキモキさせていた円と廉が、付き合うことになったと揃って報告してきたことがあった。
高校時代から続いた両片想いの関係に区切りがついたことは友人として喜ばしいことであったが、陸の心境を思うと気が気ではなかった。
「大丈夫?」
良かったねと二人に微笑む陸に、さりげなくそう尋ねたことをよく覚えている。
「何が?」
とぼける陸は深い笑みを浮かべていて、恐ろしさすら感じたのだっけ。
それと同時に何も話してくれないことに対して、憤りを覚えたのだった。
「わたしにくらい、吐きこぼしてもいいのに」
そう言って唇を尖らせた茉莉江の頭をぽんぽんと撫で、それから陸はこう言ったのである。
「君だから、吐きこぼせないんだよ」
結局、あの言葉の真意を計ることはできないままだ。
ただ単純に、茉莉江は口が軽いからと言いたかっただけなのかもしれない。
または、できることなら考えたくはないが、陸が茉莉江の気持ちに気づいていて、その上で茉莉江を傷つけてしまうことを憚ったのかもしれない。
理由は何にせよ、「それなら、陸の気持ちのやり場は何処にあるの」という問いの答えは、見つかりやしないのだが。
二十五歳までに、結婚。
子どもは、男女合わせて三人は欲しい。
それが茉莉江の幼い頃からの、漠然とした夢だった。
実際、この恋に溺れていると感じるようになるまでは、そんな夢、簡単に叶えるものだと思っていた。
そうして気がつけば、自分の中での予定では結婚していたはずの年齢を過ぎていたのだけれど。
「ごめん、遅くなった」
ガラガラと引き戸を開けて顔を出したスーツ姿の彼に、「先に呑んでたよ」とグラスを持ち上げ、揺らして見せる。
彼はそれに微笑を浮かべ席に着くと、ため息のようなものをこぼしながらネクタイを緩めた。
「とりあえず生?」
「とりあえず生」
店員を呼び出し、彼の分の生ビールとそれから適当に肴を頼む。
「珍しいね、茉莉江が二人で呑みたいって言うなんて」
確かに、滅多にしないことをした自覚はあった。
円から結婚の報告を受けた後、陸のことが気に掛かっていた茉莉江は円と廉のことには触れずに陸に連絡を入れ、約束を取り付けた。
アルコールで緩んだ気持ちで好意を零してしまいそうだと思い自重していた、サシ飲みに誘い出して。
「んー」
曖昧に笑って、グラスに残る純米酒を流し込む。
いつもより喉がヒリヒリするのは、たぶん気のせい。
「…陸が、またひとりで抱え込んで、苦しんでるんじゃないかと思って」
「…何のこと?」
貼り付けたような微笑みは、やはり茉莉江に恐ろしさを感じさせる。
「この期に及んでとぼけるの?」
負けてしまいそうな気持ちに鞭を打って、そう問い返した茉莉江を陸は無言で見つめてくる。
「お待たせしました、ジョッキの生と枝豆、冷奴、イカの塩辛です」
「ありがとうございます」
店員ににこっと見せた笑顔は、いつもの彼のもの。
店員が去るのを視認してから、茉莉江は再び口を開いた。
「廉と円、結婚するんだってね」
「そうらしいね」
「よかったよね」
「そうだね」
陸は、瞬きひとつしない。
仮面のような笑みを、崩しやしない。
「うそつき」
口をついて出た言葉に、誰より茉莉江自身が驚いていた。
違う。
こんな、責めるようなことを言いたかったわけではないのに。
「はは。うそつき、かあ」
言葉をぶつけられた当の陸はといえば、一瞬だけ驚きの表情を見せたが直ぐにまた微笑みを浮かべると、そう言った。
「まあ、当たらずとも遠からず、かな」
煽るようにビールを飲む彼を何とも言えない気持ちで見つめ、茉莉江は次の言葉を必死に探す。
元々出来が良いとは言えない頭だが、殊に陸のこととなると、正解がまるで分からない。
「…君はそうは見えないと言うかもしれないけど、喜ばしいと心から思ってるんだよ」
ジョッキを握ったまま、陸は初めて円のことで正直な気持ちを茉莉江に吐いた。
「ただ、…そうだな、少しの淋しさはないとは言えないかな」
「淋しさ?」
「そう、淋しさ」
口寂しさに手をつけた枝豆は、塩気が多くて少ししょっぱい。
「二人が付き合い始めたときに、遅かれ早かれこんな日が来ることも予感していたし、あのときから少しずつ、円ちゃんへの気持ちも諦めてきたんだ」
それは茉莉江だとて、知っていた。
陸は二人が付き合ってからというもの、度々恋人を作っていたから。
でも、それが諦めだとは茉莉江には到底思えなかった。
だから茉莉江も、陸に想いを伝えることをしなかったのだ。
自分の想いを押し殺してでも、円の代わりには絶対になりたくなかったから。
「だけど、まあ、実際にそのときが来るとやっぱり…淋しいよね」
どんな手を伸ばしても、自分のものにはならないのだと実感するから?
自分のものなのだと、言われているように思えてしまうから?
聞けるわけもなかった。
言えるわけもなかった。
まだ、円を好きでたまらないのでしょう、なんて。
「好きをやめたい」
開口一番、そう言い放った茉莉江に咲子は瞬いた。
「どうしちゃったの、茉莉ちゃんってば」
テーブルに項垂れる茉莉江を撫でて、チョコレートあるよと駄目元で言ってみれば、食べる、とむくっと起き上がる。
「翠子は子ども産んで、咲子ちゃんも結婚したっていうのに」
「よく分からないけど、なんかごめんね?」
「ううん!幸せになってね!!」
「うん?」
鳥に餌をやるように、茉莉江の口にチョコレートを投げ入れる。
茉莉江はそれを暫く口内で溶かした後、咲子のTシャツの裾を摘んだ。
「兎に角、みんな収まるべきところに収まって行ってるのに、わたしだけいつまでも不毛な片想いしてるのが嫌なの」
「うーん、つまり具体的には何をしようとしてるの?」
俯く茉莉江に二個目のチョコレートを餌に顔を上げさせ、咲子は尋ねる。
出来っこないのでは、などと本末顛倒なことを思いながら。
「お見合いしようと思う」
「あんなに嫌がってたのに…」
茉莉江の実家はそれなりに古く大きな家柄である故に、曲がりなりにも愛娘の茉莉江の元にも二十歳を超えた辺りから見合いの話は運ばれていたようであった。
しかし、当の本人がそれを全力で拒否し続けていたので、周りも無理に進めることは出来ず、話が表沙汰になることは今のところ一度もなかった。
「何だっけ、『結婚相手くらい自分で見つけます!!!』だっけ」
「あれだけ大口叩いておいて今更、やっぱりお願いしますだなんて虫が良すぎると思われるかな!?」
「それは大丈夫だと思うけど」
問題は追いつかない本人の気持ちでは、と咲子はなにやら逃げの姿勢を取っているようにしか見えない茉莉江を見遣る。
「そんなに結婚したいの?」
「…わからない」
茉莉江はただ一言そうつぶやくと、再び顔を俯かせる。
「そりゃあ、結婚はしたいのよ。子どもだって欲しいし。だけど…」
「今はただ陸くんを諦めたいからってだけ、でしょ?」
こくん、と力なく肯く茉莉江の両頬を手のひらで掴んで、咲子は彼女の顔を持ち上げる。
そうして合わせた目線の先で、今にも泣き出しそうな瞳を見つける。
「知ってる?茉莉ちゃんって、誰かを好きな気持ちを持ったまま他の人を好きになれるほど、器用じゃないんだよ」
「…でも」
「一度でもその気持ち、陸くんにぶつけた?」
ふるふると、首は左右に振られる。
「陸くんは円に一度も気持ちを伝えないまま、終わりを迎えた。でも、茉莉ちゃんはまだ、終わりを宣告されたわけじゃないよ」
涙の雫が一粒、血色の良い頬に流れ咲子の手を濡らす。
「最後に一度くらい、ダメ元でも。自分の気持ち、伝えてみてもいいんじゃない?」
大丈夫。
十年も続いた茉莉ちゃんの想いの強さは、誇っていいくらいなんだから。
微笑む咲子に、茉莉江はついに涙腺を崩した。
忘れ物を取りに向かった教室から覚えのある声がして、茉莉江はつい扉に身を潜めた。
教室の窓辺には二つの影があって、こちらには背を向けている。
「無理なの」
円と陸だと気がつくのに、そう時間は掛からなかった。
「あいつには未来永劫、素直になんてなれない」
「またそういうことを言う」
言い切った円に、呆れた様子で陸はつぶやく。
「僕相手に言うときみたいに、もっと素直になればいいのに」
「あんたは、違うでしょ」
そう言って円が身を翻し、こちらを向く。
「どう違うの?」
陸も同じように、こちらに振り向く。
「あんたには…あいつに言えないような気持ちも、素直に言えるのよ。なんでか、よくわかんないけど」
その円の言葉に目を見開いて、それから緩んだ口元を袖で覆った陸の姿が、今でも目に焼き付いている。
「…ふうん」
満更でもないその声が、今でも忘れられないでいる。
思えばそのときにはもう、茉莉江は彼を好きになっていたのだろう。
後戻りのできないところまで、来てしまっていたのだろう。
「ぅわっ!!!」
そんな変な声を上げて茉莉江の前に現れたのは、今日もまた、憎らしいほど愛してやまない人だった。
「びっくりした…」
聳え立つ坂の上にある母校から右に向かって真っ直ぐ歩いたその先に、高台の割と広い公園がある。
高校生の頃、コンビニで買ったアイスや肉まんを片手によく仲間で集まったものだ。
夜勤から日勤のオールで疲れていたのかフラフラする頭は懐古を望んで、気がつけば茉莉江はいつの間にやらその公園にいた。
五月の夜の肌寒さをしのいで、トンネル型の遊具の中でぼんやりと夜空を眺めていたのだが、そこになぜか陸が姿を現したのだ。
「こんなところで何してるの」
「あなたこそ」
んー、と曖昧に声をこぼした陸は、とりあえず出ておいでよと手を差し伸べてくる。
そろそろこの体勢にも疲れていたから、ここは陸の言う通りにすることにして茉莉江はその手を借り、立ち上がった。
「何か飲む?」
自動販売機を指差す陸に、茉莉江は服についた砂を払いながらコーンスープを強請る。
「えぇ…あるかな…」
ブツブツ言いつつも自動販売機に向かっていった陸の、「あった!あったよ茉莉江!!」という無邪気な声を聞いていたら、なんだか何もかもがどうでもよくなってきて、笑みをこぼす。
「はい、コーンスープ」
「ありがとう」
受け取った缶が温かくて、プルタブを開ければ湯気が出て来て、飲んでみると優しい味で、嗚呼、ちょっと今、幸せな気分。
ベンチに腰掛けて二人、他に誰の気配もしない公園で高台からの景色を二人占めしている。
「昔さ、夕弦と史人がブランコでどっちがより高く漕げるか勝負したことあっただろう」
「あったあった。あのとき、史人がブランコ壊して、管理の人にすっごく怒られたのよね」
「そうそう。高校生にもなって馬鹿なことした連帯責任だ!って。あれからあんまり、ここにも来なくなったんだよね」
それは管理人を恐れてのことももちろんあったのだが、それ以上に受験シーズンを迎え、それぞれ受験勉強に追われる日々となったからだった。
「僕さ、受験であんまり遊んだりできなくなってからも、たまに来てたんだ」
「そうだったの」
「うん。予備校もこの近くだったから帰りに寄り道して、勉強の息抜きにね」
ふう、と吐いてみた息は、もう白く色付かない。
「ここから見える夜空と夜景が、一枚の絵みたいで、好きだったんだ」
ペットボトルのミルクティーを持ったまま立ち上がり、柵の前まで進むとこちらを振り返り、「おいで」と手招く陸に導かれるようにして、茉莉江も彼のいる場所まで足を進める。
「綺麗…」
「だろう?」
思わず出た感嘆に、陸が隣で誇らしげに囁く。
見える景色は夜空と夜景の境がなく、星と人口の光が共存して輝いている。
そう、それはまさに、一枚の絵のよう。
「この景色見てると、疲れも悩みも吹っ飛ぶんだ。まあいっか、明日もがんばろうって」
ちらりと見遣った横顔は、いつになく穏やかな色をしていた。
「茉莉江はどう?」
「えっ」
話の矛先が自分に向き、驚く茉莉江に陸は優しく微笑む。
「吹き飛んだ?疲れ」
バレていたのか。
バツの悪い顔をしてしまうが、オールの後の酷い顔を今もなお見られているわけだから無理もない、と茉莉江は小さくため息を吐く。
そして、敵わないなと心底思う。
「うん、吹き飛んだ」
笑窪ができるほどの満面の笑みで、茉莉江は陸にそう返した。
そんな茉莉江を前に、陸はしばらく茫然とした後、「それはよかった」とまた微笑んだのだった。
一般的に告白って、どんなシチュエーションでするものなのだろう。
屋上に呼び出して?
ああだめだ、これは学生か職場恋愛じゃないと使えない。
それとも、二人きりで会った日の帰り道で?
呑みに誘うだけでも結構頑張ったっていうのに、デートなんて誘い方が分からない。
「そういうのは流れで言っちゃうもんなんだから、流れに身を任せときなって」
恋は百戦錬磨、関係を持ってきた女性は数知れずの恋愛仙人・夕弦に相談を持ちかけたのはいいのだが、この人、先程から適当なことばかり言って具体的なアドバイスを全くしてくれない。
その上、相談料としてお代はこっち持ちだから、息をつく間も無く飲み食いしている。
「でもそもそもね、夕弦」
「なんだね、茉莉ちゃん」
「よく考えたらわたし、あんまり陸と二人になる機会ないのよ」
「そりゃ由々しき事態だな」
ふむ、と考える人のポーズを取り、なにやらやっとアドバイスをくれるようだと茉莉江が期待して待っていれば、夕弦は茉莉江にスマートフォンを出すようにと言い出した。
言われるがままにトークアプリを起動し陸とのトーク画面を開くと、そこで夕弦にスマートフォンを奪われる。
「ちょっと夕弦、何をする気!?」
余計なことになりかねないと慌てる茉莉江をよそに、夕弦はちょちょいのちょいで「はい送信♪」、こともあろうが何らかのメッセージを勝手に陸に送ってしまったようだった。
「なんの、変なことは書いてないよ。ただデートに誘っただけ」
「えっ!?!?」
返してもらったスマートフォンの画面には、確かに『遅くにごめんなさい。突然だけど、日曜日は空いてる?美術館の観覧券を二枚貰ったんだけど、よかったら一緒に行かない?』という文面のメッセージが載っていた。
「美術館の観覧券なんて持ってないんだけど!」
「夕弦様を侮ってくれるなよ」
これをそちに授けよう、などと戯れた声で差し出してきたのは、二枚の美術館の観覧券。
「あ、りがと…う…。でも!」
「なんだよ、まだ何かあんの?」
カルーアミルクなんて甘ったるいものを片手に「この夕弦に言ってみなよ」と笑う彼を、人はあざといと言うのだろう。
「…わたし、一度も告白なんてしたことないから、告白の仕方がわからないの」
茉莉江はマドラーでウーロンハイを掻き混ぜながら、多少の恥じらいを見せて小さくつぶやく。
「はあ」
ほとほと呆れたとばかりにため息を吐く夕弦に、茉莉江は居たたまれなくなり身を縮こませる。
馬鹿なことを言っている自覚はある。
だけど紛れもない事実なのだから、どうしようもないだろう。
「あのなあ、茉莉江」
ガタンと音を立てて、夕弦はテーブルにグラスを置く。
「難しいことは考えないでいいんだよ。お前が思うままの気持ちを伝えればいいんだ。一般的な告白なんて、好きです付き合ってください、みたいなもんだし」
「お前も告白されたことがないわけじゃないだろ?」、夕弦の問いに一間置いて神妙に肯く。
「プロポーズするわけでもないんだ、そう畏まらずドンとぶつかってきな」
ニッと歯を見せる夕弦にうるっときた茉莉江は、スンと鼻を鳴らしそれから「全部終わったら、ヤケ酒に付き合ってね」と言ったのだった。
美味しい料理と美味しいお酒は、ときに人を陽気にさせる。
それは茉莉江も例外ではなく、ザルの茉莉江にしては珍しく頬を染め、更に目つきを弛ませていた。
その日、陸とふたりで美術館に行って近くのカフェのオープンテラスでパスタに舌鼓も打ち、緊張を孕みながらも幸せな気分に浸っていた茉莉江だったが、その後新緑の薫る公園を散歩している最中の会話の流れで、夕食を茉莉江が自宅で振る舞うことになった。
まるで夫婦のようだと思いつつ、ふたりで自宅近くのスーパーで食材と酒、そして肴になりそうなものを買い込んで茉莉江は、幼なじみ以外の異性を入れたことのない部屋に陸を招き入れた。
料理はあまり得意ではないという陸にはリビングで猫の相手をしていてもらうことにして、茉莉江は流していた髪を高い位置で一つにまとめ、愛用のドット柄のエプロンを着ける。
メニューは陸の希望で、豚の生姜焼きとポテトサラダ、なめこの味噌汁。
生姜焼き用の豚肉をタレに漬けておいて、その間にポテトサラダを作る。
具は適当に、じゃがいもと一緒に茹でた卵とハムときゅうり。
味付けはシンプルに塩コショウとマヨネーズ、と思わせて隠し味にわさびをちょこっと。
味噌汁は作り置きしている昆布といりこの水だしに、絢乃に良いよと勧められた合わせ味噌を溶かす。
いい感じにタレに漬かった豚肉を焼いて、千切りキャベツとプチトマトを一緒に盛れば完成。
「出来たよ」
「あ、いい匂い」
戯れていた猫を膝から下ろし、手伝いを申し出てくれた陸に料理を運んでもらう。
その匂いにつられた様子の猫にも餌を与え、席に着いてふたり向かい合い「いただきます」、手を合わせた。
「うん、おいしい」
そう言う陸の顔は確かに美味しく食べてくれている人の顔で、嘘偽りない様子の言葉に茉莉江は「よかった」と笑みをこぼす。
小さなグラスにちょっとずつ注いだ梅酒も次々進み、気がつけば一本開けてしまっていた。
「ごちそうさまでした」
きちんと言ってくれる陸に心を鷲掴みにされた茉莉江は、「お粗末様でした」と返した後「次はどれいく?」とすぐに話題を変える。
「うーん…ハイボールもいいしワインもいいな…でもスパークリング日本酒も気になるし…うーん…」
またいつものごとく迷いだした陸に苦笑し、茉莉江は勝手に選んだハイボールを二缶とチーズの盛り合わせを冷蔵庫から出す。
「今日は待ってくれないんだ」
ハイボールの缶を目にして、陸がつぶやく。
「せっかくふたりきりだから、一分一秒も無駄にしたくないの」
プシュッと勢いよくプルタブを開けて、そう返した茉莉江を陸はいつかと同じ茫然とした表情で見つめている。
別にそれで良かった。
その反応で良かった。
どうせ振られる運命なのだから最後くらい、どんな反応をされても、自分の気持ちを素直に彼に晒してしまいたかった。
「わたしね、陸」
茉莉江はまっすぐに、陸を見据える。
「ずっとずっと好きな人がいたの」
「…うん」
嗚呼、この人は、わたしの想いに気づいていた。
「好きで好きでたまらなくて…気がついたら、十年が経ってた」
「…うん」
いったいいつから、なんて今更、もうどうでもいいか。
「何度も諦めようと思った。でも、諦められなかった。好きを、やめられなかったの」
茉莉江の口は止まらない。
「陸、」
焦がれてやまない彼の名を呼ぶ。
睫毛で陰の出来た琥珀色の瞳が、茉莉江の胸を高鳴らせる。
嗚呼、もう、どうしようもないくらい。
「わたし、あなたのことが、すき」
言え、た。
十年間、一度も言えなかった言葉を、気持ちを、今、確かに今。
「円のことが好きなあなたごと、あなたが好きなの」
優しさも、強さも、恐ろしさも、弱さも、全部、全部。
彼を構成するすべてを、愛しい、と思う。
ほろほろと、溢れ出てきた涙は込み上げてきたいろんな感情の表れ。
だからギョッとしないで、オロオロしないで。
はやく、終わりにして。
あなたの言葉で、すべてを終わらせて。
「茉莉江」
陸が呼ぶ自分の名前は優しい音をしていて、茉莉江はまた一粒、涙の雫を頬に溢す。
「泣かないで」
ローテーブルから身を乗り出した陸の指が、茉莉江の涙を掬う。
「ねえ、茉莉江」
優しい表情をして、そうやって名前を呼ばないで。
「僕は円ちゃんが好きだよ。今も、忘れられない」
知っている。
嫌というほど、知っている。
「だけど、変なんだ」
茉莉江の濡れた頬を拭うように撫でて、陸はふっと微笑う。
「君が僕を好きだと言ってくれたことを、嬉しく思ってる」
こぼれ落ちそうな瞳で、茉莉江は陸を見上げる。
「それだけじゃない」
陸の手が、茉莉江の後れ毛に触れる。
「君が僕を好きでいてくれることで、僕はいつも安心していたんだ」
そうして手に取った一房に、陸はそっと唇を寄せた。
「僕は君が思うよりずっと、ずるい人間だよ。それでも君は、僕を好きだと言ってくれる?」
嗚呼、なんてひどいひと。
この人はわたしを、捕らえて離してくれようとしない。
ずるいひと、ずるいひと。
それなのに、それでも、わたしは。
「あたりまえ、じゃない」
彼のすべてを、ゆるしてしまうの。
「いってらっしゃい」
啄ばむようなキスをして、今朝も玄関先で彼を見送る。
こんな朝を迎えるのももう、何度目だろう。
お互いの部屋の合鍵を交換してからというもの、夜は一緒に食事を摂って、それから朝までともに過ごすことが増えた。
パジャマ姿で伸びをして、もう一眠りしようかと寝室に向かって歩を進める。
昨日ポストに入っていた結婚式の招待状はもちろん廉と円からのもので、陸に道すがら出しておいてもらうように頼んだ。
円のことは吹っ切れたのかと、昨晩ふと問うた茉莉江に陸はというと意味深に笑顔を浮かべて、「どうだろうね」とそう言い含めた。
茉莉江としては、陸の中で円への想いが自分と重なることなく、自分への想いと同居していても構わないと思っているのでそれ以上問い詰めることはなかったが、あの様子ならだいぶ薄れてきているのだろう。
ベッドにダイブして、枕に顔を埋める。
どこからやってきた猫が背中に乗って、にゃあと鳴く。
相手をしろということか。
「後でね~」
今日は夜勤なので、今のうちに睡眠を取っておかないときついことは目に見えている。
レースカーテン越しに、太陽の光が寝室に柔らかく射し込む。
引き寄せたタオルケットは、彼の匂いがする。
「ふふ」
しあわせだ。
しあわせである。
たぶん、昨日より今日が。
きっと、今日より明日が。
彼が隣にいてくれるから。
わたしが今日も、彼を好きでいるから。
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