西からきた少年について

ねころびた

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無限の迷宮(110〜)

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 石材の床には、世界一よく切れる刃物でくり抜いたかのような真ん丸の穴が空いている。直径は一メートル強。
 ソロウは、動揺したまま這いつくばって恐る恐る穴の中を覗いた。
 茶色のような紫色のような、或いは黒いような青いような、かと思えば血のような赤も混じっているような、この世ではまずもって見ないような色が広がっている。

 後ろでミハルが気を失い、床に頭を打ち付ける前にギムナックが抱き留めた。その後ろで、いつも冷静な筈のレオハルトも青い顔をしている。魔力を失っているヴンダーも穴の中の異様さを一目で察し、気が触れたように締まりの無い笑い声を漏らしながら後ずさった。

「離れろ、ソロウ。これは異空間としても異常過ぎる」

「ああ……」

 きっぱりと制止する兵士にソロウは返事をしたが、なかなか動かない。穴の中にじっと目を凝らして、まるで魅入られたかのようである。その様子に危険を感じた兵士の一人がソロウに駆け寄って引き戻そうとした。すると、思いがけず至極まともな目つきで兵士に目配せしたソロウが「不思議なんだが……」と切り出す。

「リュークが居そうな気がするんだよなあ。けど、これに飛び込む勇気は流石に……」

 ううむ、と唸るソロウを一旦不審そうに眺める兵士。いつもなら、「何を言っているんだ」と一蹴するところだ。兵士たちも多少の魔覚は備えている。この穴から噴出している魔力がいかにであるかくらいは、ひしひしと感じ取っている。なのに、言われてみれば確かに愛らしい小さな少年の姿が思い浮かんでくるような気もする。

「や、しかし、そんなことが」

 困惑にたまりかねた兵士が助けを求めるようにレオハルトを振り向けば、レオハルトは蒼白な顔のままゆっくりと頷いた。

「リュークの魔力でしょう。……いえ、確証はありませんが、言われてみればという程度で、そこはかとなく、そんな気がします」

 レオハルトらしからぬ曖昧な口ぶりに、兵士らも動揺を隠せない。

 そもリュークの魔力を誰か察した試しがあっただろうか? 辛うじてドラク・ヴレド伯爵がそれっぽいものに触れただけではなかったか。
 明らかに魔法のようなものを使う少年から、当然に発される筈の魔力が感じられない。そのことについて、魔法を扱うミハルやレオハルトが不思議に思わない訳ではなかった。ただ、謎として触れずにおいた。なんとなく、解き明かそうとすればより深く謎が広がって、底なし沼に踏み込むのに似た恐怖に陥るだろうという確信めいたものを感じていたからだった。実際、一度ミハルがリュークに魔法を使わせようとしてやめた後で、ドラク・ヴレド伯爵が迂闊にも少年の魔力に触れて自我を喪失している。

 こうなってみて初めてリュークの魔力らしき気配を、しかも不気味な穴から感じるというのも可笑しな話である。巨大なものを間近に見て全貌を把握出来ないのと同じで、この穴の中の魔力が大き過ぎて理解が追い付いていない。レオハルトの優れた魔覚をもってしても、この膨大な魔力のなかにリュークの魔力が混じっているのか、それともこの膨大な魔力こそがリュークのものなのか、或いはいっそ全くの勘違いであるのか、どうしても判断がつかないのだ。

 ミハルはまだ目を覚まさず、変な体勢でミハルを支えてしまったギムナックの膝が貧乏揺すりともつかない震え方をしている。

 フルルとヴンダーは寄り添って壁に張り付き、ただただ怯えている。

(呪いにかかる前のヴンダー・トイであれば、この穴の空間に干渉できただろうか)

 レオハルトは少しずつ冷静さを取り戻しながら考えた。
 ──考えたところで、単なる現実逃避に過ぎない。

 さあ、どうするか。いくら知恵を絞ったところで最終的な選択肢は二つ。奇跡を信じて穴に飛び込むか、正攻法をとって大人しく階段を探すかしかない。
 じりじりと穴に近付き、改めて中を覗いてみる。
 ──行くか、行かないか。
 頭の中に天秤を用意しながら思考を反復させていると、穴の中の奇妙な空間の色彩が急にぐにゃりと歪み始めた。


 


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