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しおりを挟むどうしてラブホテルの壁紙には夢の国のキャラクターが多く使用されているんだろう。
代表的なキャラクターたち、数々のプリンセス。そんなものとはこの世で一番かけ離れた場所であるはずなのに。
適当な喘ぎ声を出しながら見上げた天井には、目を凝らすとピーターパンの姿も見える。あんなにも行きたかったネバーランドには行けないままわたしは大人になり、気付けば今日も古いラブホテルの天井を見上げている。
帰り道、夢の国に行った記憶を掘り起こす。確か三歳頃で、行ったのはあれが最初で最後だった。夜のパレードを母に手を引かれて見たことが鮮明に浮かび上がる。あの頃、母はわたしの全てだった。
わたしはひどく腺病質で、臆病な子供だった。しかし差し伸べられた手を握り返していれば不安などなかったし、大丈夫よと微笑まれる度に安心出来た。わたしの全ては母で構築されていると言っても過言ではなく、その世界を統治するのも母だった。疑問を持ったり、意見する権利もない。母はわたしの世界そのものであり、神様でもあった。
「大丈夫よ。紡希《つむぎ》はお母さんの言うことを聞いていればいいの。そうしたら悪いことなんて起きないんだからね」
母は口癖のようにそう言い続けた。そしてそれはまるで呪いのように、長年わたしの中に澱のように沈み、溜まっていった。
思春期に差し掛かると、同級生たちはファッション、化粧、そして異性の話題で盛り上がるようになる。わたしも彼女たちに混ざって、同じようにしたかった。仲良くなりたかったし、皆と同じように興味も持っていたからだ。でも母は顔を顰め、それら全てを禁じた。そんなことはしなくていい、と叱りつけた。その時、神様に愛されるには条件があるのか、と驚いたものだ。
結局、家を出るまで母の言いつけを全て守った。そのせいかわたしは未だに何かを選ぶことに人より時間がかかる。今まではずっと母が決めてくれていたことを自分で選ばなくてはいけない。でもそうしてやっと気付いたのだ、そもそも選ぶという選択肢すら与えられてこなかったことに。
1Rの部屋に帰って来ると、そのまま真っ直ぐに冷蔵庫に向かいストロングゼロを取り出して飲む。よく冷えたそれを一気に飲み干せば、脳味噌は思考をストップする。考えたくないことを考えたって辛くなるだけなのだ。今日セックスした相手の顔もこのまま忘れたい。正直そこまできちんと覚えてもいないけれど。少し太っていて、執拗なぐらい身体中を舐め回してきて、太っているせいか汗臭かった。
「ネバーランド行きたいなぁ」
とっくに成人していて、片手にはアルコール。最早行く権利は完全に剥奪されているだろうと自嘲する。早く血液中にアルコールがかけ巡ってほしい。そして、このまま眠ってしまいたい。
この部屋にあるのは虚無だけで、わたしはそれを抱えて生きていて、文字通りどうしようもなく絶望的だった。
高校生になって飲食店のアルバイトを始めた。母はいい顔をしなかったが、ある程度の給料を家に入れることで渋々納得したようだった。そこで真面目な態度が評価され、就職することになる。母は進学を望んだけれど、わたしには将来の夢もなく、大して勉強が出来る訳でもなかった。それに、我が家に進学する費用がないことも分かっていた。
様々な物事を禁止されていたお陰である程度の貯金はあったので、仕事先に通いやすくなるからと言って今の部屋を借りた。最初はこれから始まる生活を想像するだけで楽しかった。好きな服を着て、化粧品を買って、友達を作って色んなところに出掛けるんだと。そんな希望がすぐに打ち砕かれることも知らずに。
飲食店の正社員の給料なんて微々たるものだ。家賃を払って、光熱費を払って、携帯代を払うと自由に使える金額はほとんど残らない。残りの貯金もあっという間になくなり、生活は苦しくなっていく。ただ、一方でわたしは若い女で、それが武器になることも知っていた。援助交際なんて言葉は廃れたが、世間では新しくパパ活というジャンルが主流となっていた。あとは飛び込むだけだった。
相手はいつもサイトやマッチングアプリを使って探す。適当なプロフィールと写真を載せておけば向こうから連絡がくる。その中から条件に見合う相手を選び、会ってセックスする。単純で簡単でお手軽。
想像していたより、初めて会う相手と寝ることに抵抗はなかった。流石に初めての日は落ち込んだが、帰ってストロングゼロでその感情を流し込んでからは一々動じなくなった。
中には何度も会っている相手もいる。毎回新規の相手を探すより手っ取り早いし、気も楽だからだ。
「紡希ちゃんは環境さえ違えばもっと違う人生もあっただろうに」
金でわたしの身体と時間を買っているくせに、そういうことを言う奴もいる。小さな会社だが社長で、わたしと年齢の変わらない娘がいる。彼女は父親が陰で自分と同世代の女を買っていることは知らずに生きていくのだろう。父親が買ってやったマンションに住み、父親のコネで就職し、その内結婚して子供を持つ。わたしがその父親から数万円貰うために笑顔を作って、媚を売って、セックスする傍らで。
そうして金銭を手に入れているのに、結局わたしはお洒落も化粧も心から楽しめなかった。いつも制服のようにTシャツを着て、デニムを履いて、足元はスニーカー。顔には最低限の化粧だけ。ブランド物が欲しいとか、美味しいものが食べたいとか、そういった欲もなかった。派手なことをすれば、母に叱られるーー。長年刷り込まれた考えは、簡単には治らない。
時々、普段奥底に流し込んでいる感情にじわじわと侵食される。前触れもなく突然やって来ては、どんどんわたしを蝕んでいくのだ。当然苦しくて辛いのだが、妙にその苦しさや辛さに安心する自分もいるのだった。
何度もその感情と対峙していく内に気付いたのだが、わたしはそうやって傷付くことで安心感を得ているのだ。自分なんて苦しめばいい、もっと辛くなればいいと。傷付くというより、自ら傷付きにいっているのだ。
わたしは、わたしを罰したいと、いつもどこかで思っている。
先生と出会ったのも、例に漏れずサイトだった。
『初めまして。プロフィールを拝見しました。一度お会いできませんか』
『初めまして、メッセージありがとうございます。条件の方はご理解いただけましたでしょうか?』
条件というのは言うまでもなく金銭のことだ。三万円。それが適正なのかそうでないのか、自分に金額をつけるのは意外と難しい。高く釣り上げることも出来るが、高くしすぎれば当然マッチングはしにくくなる。女を買う男は、消費者らしく安ければ安いほどいいと思っている。
相手のプロフィールを確認して見定め、約束の日程と時間を決める。必ず近くにコーヒーチェーン店や喫茶店があるかを調べておき、そこで会話をして危ない人間だと感じなければホテルに移動する。全てが自己責任。最悪密室で殺され、どこかに遺棄されるかもしれない。なのに、想像してもちっとも悲しくもならず、恐怖を抱くこともなかった。寧ろ、自分のような人間にはそういった最期が相応しいのかもしれないとすら思うのだった。
約束の当日、先生は明らかに緊張していた。身長はそれほど高くはなかったが、服装の上からでもはっきりと分かるほど逞しい腕をしていて、そして微かに消毒液の香りを漂わせていた。顔の印象は眼鏡が大半を占めていた。
コーヒーチェーン店で先生は自分の分とわたしの分の会計をまとめて払い、飲み物を席まで運んでくれた。何気ない行動だが、実はこういったことをすんなりとしてくれる人は珍しい。今から金銭と引き換えにわたしを好きにしていいと思っている男では、特に。
先生は寡黙で、かと言ってわたしにも話題はなく、二人向き合って黙ってコーヒーを啜る。緊張していると言ったが、先生は同時に妙な落ち着きも兼ね備えていた。ギラギラしていない、今まで会ってきた男たちとは違うその様子が好ましかった。なので、「行きましょうか」と自らホテルに誘った。
選んだラブホテルは古くて少し黴臭かったが、そこにキャラクターたちの姿はなかった。
「お会いした時から思ってたんですけど」
「なんでしょうか」
「消毒液の香りがするなって」
自分の服や肌の匂いを嗅ぎ、先生はああ、と納得したように頷く。その後、自分は歯科医なのだと告げた。初対面で、尚且つ今後会うこともないかもしれない女に真実を告げる男は少ないし、見栄を張って嘘を吐く男も沢山いる。でも、会ったばかりなのに、何故だかこの人は嘘は吐かないだろうと感じた。
「じゃあ、先生って呼んでもいいですか?」
「呼ばれ慣れてますからね。構わないですよ」
「歯医者、長い間行ってないです」
「どうして?」
「怖いから」
そう言うと先生は「会ったばかりの相手とホテルに来ることは怖くないんですか」とうっすらと微笑んだ。わたしが答えないでいると、口を開くように指示する。躊躇いつつも口を開けると、先生の指が侵入してくる。
「見た感じ虫歯とかはないように見えるけどね」
逞しいと感じた腕に見合った大きな手と太い指が口内で動く。指先からはゴム手袋の匂いがして、やっぱりこの人は嘘は吐いていなかったと確信する。上の歯、下の歯と順番になぞっていき、奥歯にも触れた指は荒々しかった。
一瞬でわたしは先生の歯科医院で診察台の上に寝転んで診察を受けているような錯覚に陥る。きっとこの人の歯科医院は清潔で、何の飾り気もなく、子供騙しの玩具もない。無機質と呼べるぐらい温かみの欠片もないのだろう。でも、それがぴったりなのだろう。行ったこともないのに、想像だけが膨らんでいく。
口内から取り出された指がわたしの唇を撫でる。思わず身震いし、堪らなくなってわたしの唾液で濡れた先生の指を下から上へと舐め上げる。それだけでは飽き足らず、そのまま奥まで咥え込んだ。二人の息が上がっていくのがお互いに伝わる。先生はわたしを抱き上げ、ベッドへと運び、力いっぱい押し倒す。
きっとこの流れでわたしたちは抱き合う。盛り上がっているし、それが自然だろう。なのに、どうしても違和感があった。口内に充満したゴム手袋の匂い、侵入してきた荒々しい指。脳内をそれらが蹂躙し、まともに考えるのが難しくなっていく。
このまま先生はわたしの服を脱がし、無難でノーマルなセックスをする。愛撫して、前戯して、時折オーラルセックスを交えて、正常位で挿入する至って普通のセックスを。しかし、あんなにも荒々しく初対面の相手の口に指を突っ込んでベッドに押し倒す人間が、そんなつまらない行為で満足できるのか甚だ疑問だった。
「これでいいんですか?」
「…これっていうのは?」
「だから、ノーマルなセックスで満足できるのかなって」
わたしの問いかけに先生は一瞬怯み、次の瞬間には違う生き物を見るような視線をこちらにぶつけてくる。その様子に、隠しきれているつもりだったのか、と心底同情してしまう。母の顔色ばかりを伺って生きてきたわたしは、いつも敏感に相手の望みを察知してしまう。
「わたし、大抵のことは受け入れられますよ。平気です。寧ろ、その方が繋がれる気がして嬉しいんです」
本心だった。勿論誰に対してもそうしたいと思える訳でも、そうしてあげられる訳でもない。しかし、何故だか先生にはそうしてあげたいと感じたのだ。包み隠さず伝えているのに、先生は一層戸惑う。まるで犯罪の片棒を担げとでも言われたみたいに。
「先生にも感じて欲しいんです、心から。ここにはわたしたちしかいません。誰も見ていません」
いけないことなんてここには何もないんですよ、と伝えたくてわたしは笑顔を作る。そうして見つめ合っていてどれくらいの時間が経っただろうか。もしかしたら、ほんの一瞬だったかもしれない。
「嗾けたのは、紡希さんですよ」
耳に届いた声色は、とても優しかった。それなのに、次の瞬間には頬を打たれていたのだった。先程までの身体の奥から湧き上がる熱とは違う、物質的な熱。頬がじんじんと痛む。
「それでいいんです」
先生は何度も何度も頬を打つ。鏡を見なくても、腫れ上がっていくのが分かった。
なのにわたしはどうしようもなく濡れていて、先生が乱暴にショーツを剥ぎ取るとそれが一気に露わになる。
「どうしてぶたれて感じているんだ?」
不思議で仕方ないといった顔をしながらも、口端は上がっている。前戯と呼べるのかすら怪しい、指で軽くほぐしただけの入口に半ば無理矢理押し入ってくる。最初はゆっくりと、でも最終的には奥まで。苦しい。苦しい。苦しい。苦しいのに。
唐突に頭の中に母の顔が浮かんで来る。母はいつものように微笑み、大丈夫よと言う。一体何が大丈夫なのか。彼女はわたしのこんな行為も表情も、知らないまま死んでいく。
いつもいつも、セックスをする度、母の顔がちらついた。外の世界に興味を持つわたしを、自分の思い通りにならないわたしを、罰する母。わたしを折檻し、裸で家から追い出す母。手を上げ、気の済むまで殴る母。
しかしそんな記憶は途中で消える。わたしは突かれることに集中する。荒々しく、先生は奥ばかり突いてくる。限界が近くなるとそのまま首に手をあてがおうとしたがすぐにやめ、髪の毛を掴んだ。
「わたしには、これが相応しいんです」
息を荒らげながら先生を見上げる。髪の毛を掴む手に力が入る。
「そうだ、お前にはこれが相応しいんだ──」
先生を自分の部屋に招くのに時間はかからなかった。初めて訪れたわたしの部屋を見回した先生は困ったように笑う。1Rの部屋には寝るためのベッド、小さな冷蔵庫、テーブル、特に意味もなく置かれた木製の椅子しかない。他に何かを置こうと思ったこともなかったし、必要だと感じたこともなかった。
「想像以上に何もない部屋だね」
「そうですか?でも、これで十分なんです」
「食事はどうしてるの?自炊してる気配もない」
「自炊したことないです。電子レンジもないし。一人だとあんまりお腹も空かなくて寝てる時間のほうが長いので。スナックパンは食べるけど」
「スナックパンて、あの六本入りの?」
「そうです。あれはストックさえしておけばいつでも食べられるから」
全部真実だった。それに、コンビニに行っても飲食店に入っても、選択肢が多すぎて混乱してしまうのだ。自分がその時何を欲しているのか考えれば考えるほど、わたしはその場に立ち尽くして動けなくなってしまう。
冷蔵庫の中にはストロングゼロだけがびっしりと鎮座し、テーブルの上には食べかけのスナックパンの袋。それらを確認した先生は呆れたように溜息を吐いた。
「脱ぎなさい」
先程までの表情とは打って変わって、冷たい視線がこちらに向けられる。わたしは、先生が向ける、今のような視線がどうしようもなく好きだ。
命じられた通り服を脱いでいく。Tシャツを脱ぎ、デニムを脱ぎ、下着だけの姿になる。過剰な装飾の下着を選べないわたしは、スポーツブラとそれに合わせたショーツを穿いている。じっと見つめられ頷かれ、それらも脱ぎ捨て一糸まとわぬ姿になった。
「きちんと食べないから、骨ばった身体になるんだ」
距離を詰めた先生が、わたしの髪を掴んで顔を上げさせる。
「骨ばった身体は嫌いですか」
「そうではないけど。でも、縛るのにはある程度肉があった方が見栄えが良いからね」
先生は木製の椅子をこちらに持って来て、そこに座るように言う。座って後ろ手に手を回したわたしを10メートルの麻縄で易々と縛り上げていく。そうされてしまえば、もうわたしは身動きを取る事が出来ない。唯一自由だった下半身も大きく開かされ、椅子の脚の部分でしっかりと拘束されてしまう。
「肉はないけど、このままが紡希らしくて良いのかもしれないな」
先生は上から下までじっくりと眺める。そうされる度、わたしはいつも先生の作品になったような気分になる。身動きの取れない姿はまるで球体関節人形のようで、先生の手によって完成する。わたしを創り上げたのは先生なのだと、そんな空想を抱く。
「大きく口を開いてご覧」
その通りにすれば、口内に先生が押し入って来る。容赦なく喉奥まで力任せに進んでくる。思わず嘔吐しそうになり咳き込むが、先生はやめてくれない。顔を見上げると、嬉しそうに笑っている。わたしは先生を喜ばせたくて、嗚咽を漏らし、涙を流し、涎を垂らしながらも続けた。
望まれるならいつまでだって続けていただろう。先生がそのまま果ててしまっても、わたしは受け止め、飲み干しただろう。そうしたかったと言った方が正しいかもしれない。わたしの中に、先生の一部でも閉じ込めてしまいたかった。
関係を重ねる度、果たしてこれがセックスなのか、セックスと呼べるのかどうかも段々分からなくなってくる。挿入をしないで終わる事も増えていった。
わたしはもう要らないと言ったが先生は許さず、毎回律儀に封筒に三万円を入れて渡してくる。わたしは手をつけず、他の人と会うこともやめた。封筒の中身も確認しなかった。
段々とそれは束になり、分厚さが増していく。分厚さに比例するように、わたしの頭の中は先生でいっぱいになっていった。
「妻とはこういう事はした事がないんだ」
左手に光る指輪に視線を落としながら告げられた時、妙に勝ち誇ったような気分になったのを覚えている。わたしだけが先生の秘密を知っているのだ。秘密というのは甘美で、重くて、癖になる。
「どうしてしないんですか」
「言えると思う?君を縛ったり、ぶったり、痛めつけたりしたいだなんて。それが愛情からくるものだと言っても、彼女には到底理解出来ない」
「だけど、愛しているんでしょう」
「愛して…いや、そうだね。そう思っていたから結婚した。僕は自分の性癖を隠したかったし、自分でも認めたくなかったから。黙っていれば何事もなく結婚生活は続けられる。それで良いと思っていたんだ」
今は違うんですか、と口にしようとしてやめた。先生が今の生活を壊したくないのならそれで構わない。その分、わたしにぶつければいい。わたしとの行為で先生が満たされるのなら、それ以上求めるものはないと、その時は本当に思っていた。
麻縄の痕はお湯に長く浸かって温めると早く消える。本当は消えて欲しくなかったが誰かに見られる訳にもいかないので、縛られた後は湯を張ったバスタブにいつもより長く浸かった。完全に消えはしないが、数日経てば薄れてしまう。その度にまた先生が恋しくなり、次が待ちきれなくなった。
わたしは化粧品も最低限のものしか持ち合わせていない。風呂から上がり、オールインワンと書かれた化粧品を適当に顔に塗りたくる。そうしていると、ふいに着信音が部屋に響く。
ディスプレイに表示されたのは母だった。出たくなかったが、ここで出ないと着信がずっと続くことも、面倒なことになるのも知っているので仕方なく出る。
「はい」
「紡希?元気にしてる?」
「うん、元気にしてるよ」
なら良かった、と言って世間話を挟むが、母が本当に言いたいことはそんなことではない。
「最近はどうして帰って来ないの?お母さん、心配してるのよ」
ここ最近アプリに届く母からのメッセージにも返信していなかったので、痺れを切らして電話をかけてきたのだ。
「仕事が忙しいの。夜は終わるのが遅いし、休日はそのせいで疲れちゃってるから難しくて」
「そう…連絡ぐらいは出来るでしょう?」
「そうだね、ごめんなさい」
母はその後も話し続けたが、わたしは相槌を打ちつつ、先生のことを考えていた。
「とりあえず、近々帰っていらっしゃい」
帰るしかないのだろうな、と頭の片隅でぼんやりと思う。一度行けば当分は顔を合わせなくて済む。近い内に帰るねと言って、電話を切った。
次の休みの日、実家に帰ると母は大袈裟に腕を広げ、わたしを抱き締めた。
「おかえり」
娘のわたしには服装や化粧について厳しく命令していた母だったが、彼女自身は丁寧に化粧を施し、いつも綺麗な服を着ていた。今日もそれは変わっていない。
「紡希から連絡がないとお母さん、心配で心配で。眠れなくなるぐらいなんだから」
「そうなの」
「そうなの、ってなんなの?紡希はお母さんのことはどうだっていいって言うの?」
母は、ふとした事ですぐに怒る。怒り出すと手をつけられず、時にはありったけの言葉で罵り、時には何日も口を聞いてくれなくなるのだ。子供の頃、わたしはいつもそんな母の機嫌を損ねることを恐れていた。
「ただ返事しただけだよ、怒らないで」
これ以上機嫌を損ねないように宥めようと、手土産に持参した母の好きな菓子を差し出す。「コーヒーを淹れるね」とキッチンへと向かい、これもまた母の好きなドリップコーヒーを丁寧に淹れる。
キッチンからコーヒーを手に戻ると、母は機嫌を直したようでにこにこしていた。
「お母さんが好きなお菓子、覚えていてくれたのね」
「うん」
「それに、会わない間に紡希がおかしな事になっていたらどうしようと思っていたんだけど、何も変わってなかったわね。これで変な相手は寄り付いて来ないでしょう」
化粧っ気のない顔と、いつもの無地のTシャツとデニムの姿に、母は満足したようだった。
「紡希の幸せはお母さんが決めてあげる。言いつけさえ守っていれば上手くいくんだから。大丈夫よ」
この人は何も変わっていないのだな、と痛感させられる。わたしが自分で何かを選ぶことを許さず、選びたがっていると意識したこともないのだろう。
大丈夫と繰り返し、幸せに固執する母は、ちっとも幸せそうには見えなかった。それに、そう言い切るならば、何故この場に父はいないのだろう。
父はいつしか家に寄り付かなくなり、ある日そのまま帰って来なくなった。他の女性を選び、その人と再婚した。どこにでもあるありふれた話だ。父が再婚相手に選んだ相手は、若く、未来があった。一度会ったが、可愛らしい人だった。わたしが彼女のようになることを母は恐れたのだと思う。そこには、若い再婚相手とわたしへのこれからに対する嫉妬の気持ちもあったのだろう。なので女性らしいものを全て禁じた。わたしを思い通りにすることで自分を満たした。母には、わたし以外に縋るものがなかった。
というか、何度も何度も口にされる幸せって、一体なんなのだ?
母と会うと、いつも酷く消耗する。まるで何かを吸い取られているかのように。
帰り道、どうしようもない気持ちになって、先生に電話をかけた。着信に奥さんが気付くことがあるかもしれないので、自分からはかけてはいけない約束だった。でも、居ても立っても居られなかった。声を聞けば安心出来る。そう思った。
電話には出ず、そのまま留守番電話へと繋がる。メッセージは入れずにそのまま切る。数分後、アプリにメッセージが届いた。
『〇時に行きます』
簡潔なメッセージだったが、わたしの求めるものだった。声を聞ければと思っていたけれど、先生に会える。約束の時間までまだ数時間あったが、家路を急ぐ。先生に会うまでに、シャワーを浴びたかった。身体中に纏わりついたこの空気を洗い流して迎えたかった。
「電話はしない約束だった筈だけど」
先生は、明らかに不機嫌だった。
怒らせてしまった。そう思うのに、わたしの胸は何故か高鳴っていた。数時間前には母が不機嫌になるのを必死に回避していたのに、先生が怒っている様子を目の当たりにすると途端に興奮してしまう。
──全てを差し出して、許しを乞いたい。
そんな事しか考えられなくなってしまう。
「ごめんなさい」
「違うだろう」
「…申し訳ございません」
「謝るのにそんなに頭を高くしたままでいいのか?」
慌てて四つん這いになり、土下座の姿勢を取る。瞬間、頭を踏みつけられた。
「床に這いつくばって謝らないと、誠意が伝わらない」
「はい、申し訳ございません」
わたしは額を床に擦り付けて謝る。聞こえないぞ、と言われ大きな声で謝罪を繰り返す。繰り返し続けていると、次はデニムを脱ぐよう指示される。ショーツ姿になると先生は床に正座し、その上に跨るように命じた。
「いけないことをするとどうされる?」
ショーツを膝辺りまでずらされ、尻を思い切り叩かれる。想像以上の痛みに声が漏れる。
「悪い子はどうなるんだ?」
「お仕置きを、されます」
平手打ちの音が響く。涙が出そうになる。でも、約束を破ったのはわたしなのだ。先生の言う通り、わたしは悪い子なのだ。
「ずっと叩いていると手が痛くなるな…」
きっと、先生の掌は真っ赤になっている。わたしを叩く事で、先生の掌が傷付いてしまう。わたしなんかの為に、先生がそんな目に遭ってはならないのに。
先生は立ち上がり、ベルトを外す。カチャカチャと音がする。その音と、これからの行為を予想すると、涙が溢れて止まらなくなる。
「怖いのか?」
問いかけに対し頭を横に振る。本音は怖かったけれど、わたしは受け入れなければならないのだ。逃げる権利なんてどこにもないのだ。[#「逃げる権利なんてどこにもないのだ。」に傍点]
ベルトが振りかざされる。数を数えろと言われたが、余りの痛みでそれが出来ない。言葉がもつれ、口から上手く出ていかない。
きっとわたしの尻にはいくつものミミズ腫れが走っている。時折背中にも当たるので、背中にもあるはずだ。先生の掌より真っ赤に染まって、そう簡単には引いてくれないだろう。
辛い筈なのに、涙を流していると気持ちが楽になっていくのを感じた。時々押し寄せてくる蓋をしている感情も、先程までの母との時間も、それら全てが泣く事によって洗い流されていく気がした。これが浄化でないのなら、救済でないのなら、一体なんだっていうのだろう?
泣きじゃくるわたしを見て、先生は満足そうな表情を見せる。わたしの求めているもの。決して手の届かない、近いようで遠い人。
先生がわたしの神様だ、と思った。
わたしと先生は、いつも多く言葉を交わさない。わたしたちのコミニュケーションは歪《いびつ》で、精神と身体をぶつけ合わせる事で成り立っていたからだ。先生は多くを語らなかったし、わたし自身も会いたいと思うくせに、感情を口に出して伝えようとしたことはほぼなかった。きっと、お互いそうだったと思う。
何より、それで良いと思っていた。母に会った日も先生は何も聞かなかったし、今までも深く尋ねてきたことはなかった。わたしも話そうとしなかった。傍から見ればおかしな関係だろうと、二人だけにしか理解出来ない、この世界からいつまでも抜け出したくなかった。
「紡希ちゃん、それ、どうしたの?」
職場の更衣室で、同僚が驚きの声を上げる。一瞬なんのことか分からなかったが、自分の背中に残ったミミズ腫れのことを言っているのだと気付く。
「誰がそんな酷いことしたの?大丈夫?痛いでしょう?」
同僚は心配そうな表情をしていたけれど、瞳からは好奇心が隠しきれていない。
「大丈夫ですよ」
「そんな風には見えないよ。いつでも話なら聞くし、相談したいことがあるなら言って」
同僚とは挨拶ぐらいしか交わしたことがなかった。何を知りたいんだろうと考えつつ、きっと彼女の中ではわたしはDV男と付き合っているだとか、そんなことにされているのだろうなと想像する。
「ありがとうございます」
酷いこと。酷いことって、なんなんだろう。肉体的に傷付けば酷いことなのか?それは精神的に傷付くことと、一体どちらが酷いんだろう。自分の異常性は承知している。でも、先生は。
着替え終わり、ロッカーを閉め、同僚の目を真っ直ぐ見ながら言う。
「わたしが望んでることなんです。なので聞いていただくような相談もありません」
その時の彼女の目。人は、理解出来ないものには冷たい。今更そんな視線を向けられたところで何も感じやしないのに。
「お疲れ様でした。また明日、よろしくお願いします」
あのミミズ腫れはまだ消えていないんだ。傷痕が余計に愛おしくなる。家に帰って、鏡で眺めたい。指でなぞりたい。先生を感じたい。そんなことを思いながら、バスに揺られ帰宅する。麻縄の痕のように数日経てば消えてしまうのが、どうしようもなく寂しかった。
どの行為も愛おしかったけれど、わたしが特に好きなのは縛られることだった。遠慮なんてして欲しくない。きつくきつく縛って欲しい。縛った後何かされることも好きだが、そのまま放っておかれるのは格別だった。血が止まれば身体は鬱血してどんどん紫色になっていく。長時間は危険なので、限られた時間しか不可能な行為。
苦しいのに、気持ち良い。最初からそうだった。縄は、先生の腕でもあった。力いっぱい抱き締められている。それを感じると、やはりわたしは泣いてしまうのだ。このまま死んでしまいたいとすら思う。先生の腕の中で死ねたら本望だと。自分の想いが強くなりすぎている。理解していても、本能はもっともっとと求めてしまう。
「お願いがあるんです」
切り出すと、先生は噛むのを止めてわたしを見た。その時のわたしは両手を、そして胡座をかいた状態で両足を縛られていた。この体勢は軽く押されるだけで倒れてしまい、無抵抗になってしまう。
「お願いって?」
一旦止めたものの、先生はまた内腿に噛みついてくる。内腿の肉は柔らかく、他の箇所を噛まれるよりもずっと痛みが強い。
「首を、絞めてもらえませんか」
静寂。わたしの言葉に、先生が息を呑む。
「本気で言ってる?」
「本気です」
ずっと望んでいたことだった。先生の指がわたしの口内に侵入したあの日から。一度先生は首に手をあてがったのに、躊躇って止めたのだ。あの時、確実にわたしはそれを欲していたというのに。
先生は深く息を吸って吐き、わたしの首に両指を巻きつけた。様子を伺いながら力を入れ、頸動脈が締まっていく。頭がぼんやりとしていく。ああ、これだ。やっぱり望んでいたのはこれだ。明確にそう感じた瞬間、先生は手を離す。
「あまりやると危険だ」
最もらしい言葉を口にしたものの、先生が勃起しているのが見て取れた。
「どうしてやめてしまうんですか。やめないで、やめないで」
わたしは譫言のように繰り返す。「お願いします、やめないでください、そのまま挿れてください。先生が欲しいんです」と必死に懇願する。まるで駄々を捏ねる子供そのものだった。
今にも泣き出しそうなわたしの頬を軽く撫で、軽く押されたわたしはその場に倒れ込む。身動きが取れず開脚し、濡れた性器を晒すわたしの姿は男を誘っている淫らな女そのものだった。強く押し込まなくてもわたしは簡単に先生を咥え込んでしまう。奥に当たると勝手に嬌声が上がる。その状態で先生はわたしの頸動脈を圧迫していく。血流が止まり、締め上げられ、酸素が薄くなっていく。口をパクパクと開けて酸素を求めるが、入ってくるはずもない。わたしの姿はまるで餌を求める金魚と同じだった。
首を絞められると、脳内麻薬が分泌されるらしい。息苦しさ、身体への負荷、性行為。全てが相まってその作用が高まっていく。膣も普段より締まるらしく、先生の息がいつもより早く荒くなっていく。その表情を見上げながら、幸福な感情に包まれ、自分の意識が遠退いていくのが分かった。
それからわたしたちは首絞め行為に夢中になっていった。戸惑いを見せていた先生も、今では何も言わなくても実行に移してくれる。
時々完全に落ちてしまい、頬や背中を叩かれて現実に戻されることもあった。わたしはぼうっとしたまま先生の顔を確認し、満たされた気持ちで目を覚ます。わたしは先生に生死を委ねていた。でもそれは当然のことだった。決定権は、いつだって神様にあるのだから。
ある日も意識を失って暫くしてから目を覚まし、見渡すと先生は離れた場所からわたしを見ていた。咄嗟に感じた違和感に、条件反射なのか身震いしてしまう。
「どうかしましたか」
先生は答えない。これは、多分、良くないことだ。落ち着きたくて深呼吸をする。それでも落ち着くことは出来ず、テーブルの上にある水を取ろうとする手が震えた。
「このままいくと、僕は紡希を殺してしまうかもしれない」
返ってきた答えは、願ってもないことだった。だけど、先生は真剣に恐れているといった様子で、わたしの顔を全く見ようとしない。
「そんなこと」
「嘘吐くのはやめなさい。紡希が僕に求めていることが分からないほど鈍感じゃないよ」 その通りだった。わたしは先生との行為の最中常にこのまま死んでしまいたいと願っていたし、首を絞められる間も死を望んでいた。死というよりは、先生に殺されることを。セックスであり、プレイであり、擬似的な死を味わえる。意識を失う度に、このまま目覚めなければいいと思っていた。
「望まれることは叶えてあげたいと思う。それは本心だ。だけど、死だけは与えてあげられない」
どうしようもなく絶望的。先生が発した言葉に、久し振りにわたしの頭の中をその一文が駆け巡る。
「どうして?わたし、こんなに先生が好きなのに」
「それが嘘だとは言わない。でも、本当に僕じゃなきゃ駄目なのかは考えたことはある?紡希が心底求めているものの代用にはしていないと言える?」
頭を思い切り鈍器で殴られた気分だった。そして一気に押し寄せてくる普段抑え込んでいる感情の波。止まって、出て来ないで、ちらつかないで。もうあそこには戻りたくない。あの暗闇には戻りたくない。蓋をして仕舞い込んだものが喉元に込み上げてくる。酸っぱくて、苦くて、吐きそうになる。
思わずトイレに駆け込み吐こうとするが、ほとんど空の胃からは何も出て来ない。それでも無理矢理指を突っ込んで嘔吐くと胃液だけが口元をつたった。先生は背を摩り、わたしが落ち着くまで一緒にトイレに座り込んでいてくれた。
「先生の言う通りかもしれない」
「うん」
「…母が、母がいるんですけど」
「うん」
「全部自分の指示に従わないと許せない人で。子供だったから、それが普通だと思ってて」
「うん」
「暴言を投げつけられても、殴られても、それが普通で当たり前のことだと思ってて。未だに自分が何をしたいとか、どうしたいとかそういうことも選べなくて」
「うん」
「わたしにとって母は神様みたいな存在だったから。そういう関係の築き方しか知らない。本当に分からないんです、他人との接し方が」
一気に捲し立てるようにそこまで言い終えると、汚れた手で口元を拭う。先生は立ち上がりバスタオルを持って来てわたしの肩にかけた。バスタオルをかけられたわたしと向かい合い、先生は強くわたしを抱き締める。
「話してくれてありがとう」
言葉を介さないはずのわたしたちの間に、初めて訪れた直接的なコミュニケーション。だけど、これがきっと最初で最後になる。直感的にそう悟った。
「初めて会った相手と寝るのは傷付きたいから。お金を理由にしてるけど、自分なんてどうなっていいと思ってる。そんな時、現れたのが先生だった」
「そうなんだろうね。今まで自分で自分を痛めつけていたところで、僕と出会った。嗜好が一致したから、没頭したんだよ」
それの何がいけないんだろう。先生を好きなことに変わりはないじゃないか。
「紡希が幼かった頃、一番楽しかった記憶を覚えてる?」
楽しかった記憶、急な質問に頭をフル回転させる。こういう時、同年代の子はパッと頭に浮かぶのだろうか。選びきれないほど並べられるのだろうか。逆に悲しいとか、辛いとか、苦しいとか、そういった思い出は浮かんでこないのだろうか。
「強いて挙げるなら…」
「言ってみて」
「遊園地に行ったこと。家族三人で、今はいないけど当時は父もいたから。母もずっと機嫌が良かった」
「そう。紡希も心から楽しめたんだね?」
「そう、だったと思います。疲れて途中でホテルに戻って寝たんですけど。でも夜になって、母に起こされて、夜のパレードを見たのは覚えてる」
パレードは無数の光を使い、音楽が流れ、それに合わせて沢山のキャラクターたちが登場して踊っていた。わたしはキャラクターたちが予想より大きくて怯えてしまい、近付くことなんて出来なかったけれど。それでも今でもこうして蘇ってくるということは、当時のわたしには眩しくて幻想的で、幸せの象徴のように映ったのだろう。
「今でもその場所は好き?」
「好きですよ。夢で溢れてる。現実なんてあってないような場所なんて、この世にはなかなかないから」
答えながら、この関係も夢みたいなものだと感じる。お互い求め合ってはいるけれど、現実的じゃない。これは逃避で、わたしの方が深くのめり込んでしまった。先生は結局箍を完全には外せなかった。それだけのこと。
「人との関係性の形っていうのは、一つじゃないんだよ」
先に夢から覚めてしまった先生は続ける。
「依存する、依存される、それだけじゃないんだ。まだ紡希には理解出来ないかもしれないけれど、僕と妻のような関係もある、家族間の関係性だって多種多様に存在する。どれが正解なんてないと僕は思う」
その後、「その夢で溢れた国にもう一度行ってみたら」とも言った。わたしは何も言い返せず、何度もわたしの首を絞めた先生の指と腕から視線を逸らせなかった。
「馬鹿げたことだと思うだろうけど、一度行ってご覧。被り物をして、アトラクションに乗って、ジャンクフードを食べるんだ。そこに一緒に行ける相手を探しなさい。さっきの関係性の話や依存についてもだけど、人との繋がり方っていうのは一つじゃない。いつまでもここにいちゃあいけない」
この人はわたしから去ってしまう。もうこの部屋に訪れることはないだろう。わたしからの電話にも出ないし、メッセージアプリの一覧からも消えるだろう。わたしは未練がましく一度や二度は連絡を取ろうとするかもしれない。縛られた箇所をなぞり、噛みつかれた箇所をなぞり、首をなぞり、反芻してオナニーする。オナニーは一度や二度では終わらないんだろうな、とぼんやりとした頭で考える。
その日、神様はいつも通り三万円を入れた封筒を残し、呆気なく目の前から消えた。
仕事に行くだけの変わり映えのしない毎日が戻って来た。以前のように相手を探す気にはなれず、先生を思い出してはオナニーに明け暮れた。自分の指を使うのには疲れてネットで購入した電動マッサージ機を押し当てる。マッサージ機を長時間使用していると、どんどん感覚が麻痺して鈍感になってくる。麻痺しているのは性器か、それとも感情か。はたまた両方か。
いい加減やめないとと電動マッサージ機をしまう場所を探していると、クローゼットの中に無造作に押し込まれた封筒の束と目が合ってしまう。
あんなことを言うなら、先生が一緒に夢の国に行ってくれれば良かったんじゃないのか?友達なんていない、恋人なんていない。親との関係は捻じ曲がっていて、その復讐みたいに見知らぬ男と金銭と引き換えに寝るような女に、一体誰がいるっていうんだ?
考えは段々と怒りに変わり、冷蔵庫に向かってストロングゼロを取り出す。性欲と怒りで火照った身体をストロングゼロが冷ましてくれる。いつもなら一本で止めるようにするが、思わず二本目に手が伸びてしまう。
そして程良く酔ったところで思ったのだ。一人で行けば良いじゃないか、と。
下着姿のままスマホを片手にインターネットを開き検索していく。『開園時間 料金』『グッズ どこで買える』『アトラクション 待ち時間』などと片っ端からサジェスト欄に表示されるページをクリックして目を通していく。クローゼットに押し込まれた封筒の束ごと持って行ったところで使い切れないだろう。しかし、この束を使うのに最も適している場所は、あそこしかないのだ。
早速、次の日に行くことに決めた。早番で仕事を上がれたし、調べたところによると夕方から入場出来るチケットがあるらしかったからだ。わたしの目当ては夜のパレードで、その目的が果たせるならば極端な話それだけでも構わなかった。
無事に目的の駅に辿り着いたその足で、入場してしまうと入手するのは困難だろうと駅近くのコンビニに入る。他の売り場には目も暮れず、酒類が並ぶ棚から迷わずストロングゼロを取り出した。コンビニから出るといつものように一気に飲み干す。大丈夫、大丈夫。小声を発しながら自分に言い聞かせる。ただ遊園地に行くだけ。緊張なんてしなくていい。
アルコールの力を借りたわたしは甲高い声のキャストに迎えられ、夢の国へと足を踏み入れる。たかだか一本で酔うことはないと思っていたのに、空腹のせいかいつもより回りが早い気がする。
耳だか被り物を買わないと。それは絶対に必要なのだ。調べてはいたが迷いそうになり、甲高い声のキャストに尋ねると彼女は親切に売り場を教えてくれた。どのキャラクターだろうがそこまで関心のないわたしはその中でとびきり派手なものを選ぶ。頭に装着し、ふらふらと歩き、特に好きでもないポップコーンを買う。専用のバケツがついてきて、その中に手を突っ込んで鷲掴みにし、休む暇もなく口に入れ咀嚼する。
ふと辺りを見回すと、平日と時間のせいか家族連れの姿はない。恋人同士と、お揃いの服やお揃いの制服を着た女の子たちで溢れている。彼や彼女たちはこの場に来ることに慣れているのか、スマホで自撮りをすることに専念している。わたしは所々にある屋台で食べ物を買い、ずっと食べ続けていた。誰が見ても場違いなのは一目瞭然だった。
唯一幼い頃にも乗ったアトラクションには乗った。三分もかからない、一瞬の旅。ネバーランドには意外と簡単に来れる。そう思ったと同時にちらつくラブホテルの壁紙、天井、古びた黴臭い匂い。そんなことをこの場で思い浮かべているのは間違いなくわたし一人だけだろう。
そうしている間にもパレードの時間は迫って来る。並んで場所取りをする人も多かったが、見られればいいと敢えて距離を取った。
始まってしまうと思った瞬間に逃げ出したくなったが、周りには人の波が出来ていて、もうその場から動くことは叶わなかった。キラキラと光るネオンや楽し気な音楽、愛想を振りまくキャラクターたち。記憶通りとはいかなかったが、大きな変化はないように感じた。
でも、あの時手を繋いでくれていた母は隣にはいない。初めて心を許し、身体を通じて繋がり合い、全てを求め捧げた相手も隣にはいない。わたしは一人で、孤独で、惨めだった。音楽が耳に流れ込み、ネオンで視界がチカチカする。意識だけが独り歩きしているような映像が浮かぶ。
先生が言ったように、依存したりされたりするだけの関係じゃないものが、いつかわたしにも見つかるのだろうか。わたしの知らない、他者との繋がり方が見つかるのだろうか。例えば恋人や友達が出来て、今日この場にいた人たちと同じように過ごしたり?例えばいつか結婚して、子供が出来て、その子供とこのパレードを楽しんだり?
もうすぐパレードは終わる。そうすればわたしは、虚無しかないあの部屋に帰る。
到底今日だけでは使いきれなかった封筒の中身について考える。一枚一枚燃やしてもいい。帰りの歩道橋からばら撒いてもいい。破り捨ててもいい。その行いに後悔する日もあるかもしれない。だけど手元に置いている限り、わたしはまたオナニーに耽って、先生の面影を追い求めてしまう。別れの儀式をしなくては前に進めないのだ。
わたしの完璧な神様は、どこにいるの。
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