ソナチネ

透子

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第二章

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その日の夜は、九条の機嫌が悪かった。九条は機嫌が悪いと酒の量が増える。そして、酒によって増幅された怒りを俺に向ける。

俺を撫でる手がいつもよりも乱暴になった。そして、いつもなら一度で終えるはずが、何度も何度も俺を支配した。

そして、怒りと快感が絶頂に達した九条は俺の首に手をかけた。酒のせいで力の加減が麻痺していた九条は息が出来なくなる程、俺の首を絞めた。

このままでは死ぬ、そう思った俺は朦朧とする意識の中で、布団の近くに置いていた目覚まし時計を必死に探し当て、九条の頭をその目覚まし時計で思い切り殴った。

それにより九条は現実の感覚を取り戻し、俺の首から手を離した。九条は床に倒れ込む。俺は激しく咳き込みながら、九条が目を覚まさないうちに家を出た。

首を強く絞められていたことで息が上手くできず、走ることが出来なかった俺は階段にうずくまった。

息を整えながら、俺は何故か泣いていた。悔しさなのか、悲しさなのか、理由はよく分からない。でも、涙がどんどん溢れてくる。

いつになったら俺はこの暗い世界から抜け出せるのだろう。このまま誰にも話せず、死ぬまでじっと我慢するしかないのだろうか。

そんなことを考えれば考える程、涙が溢れてくる。

「あの、大丈夫ですか?」

聞き覚えのある、優しい声が聞こえた。

俺はゆっくり顔を上げる。

目の前には、あの日柔らかい笑顔で挨拶をしてくれたあの人が立っていた。

俺の涙で濡れた顔を見て、その人は驚いた顔をした。そして、

「………何か、あったの?」

と、恐る恐る俺に尋ねた。

俺は静かに首を振った。

「………家、帰らなくていいの?」

小さな子供に話しかけるような口調でその人は俺に尋ねる。

俺はその質問に首を縦にも横にも振らなかった。

「あなた、九条さんの息子さん、だよね?」

その人は確認するように尋ねる。

俺は小さく首を縦に振る。

「私、隣に住んでる三上です。よろしくね。」

隣に住んでいるにも関わらず、今日初めて名前を知った。

その人――三上さんは、柔らかい笑顔で俺を見ていた。

俺は小さくお辞儀をする。

「あなたの名前は?。」

「…………………………葵。」

しばらくの沈黙の後、俺は小さく名前を言った。

「葵くん、もし家に帰りたくないんだったら、今晩だけ私の家に来ない?九条さんには私から話しておくから。」

その優しさを俺は受け入れていいのか、迷った。ずっと憧れていた壁の向こうの明るい世界。そこに自分が足を踏み入れていいのか。

三上さんは黙りこくった俺をじっと見つめて返事を待っていた。

俺は迷った末に、小さく首を縦に振った。

「よし、じゃあ、おいで!」

三上さんが俺に手を差し出す。

その手を俺は掴めずにいた。きっと、その手は俺を明るい世界へ連れて行ってくれる。だから、怖かった。その手を掴んでしまったら、もう二度と今の世界には戻って来れなくなりそうで。この暗い世界から抜け出したかったはずなのに、明るい世界へ行くことは俺はとても恐れていた。

けれど、三上さんは迷う俺に構わず、無理矢理に手を掴んで俺を自分の部屋へと連れて行った。

この瞬間、俺の中で何かが終わり、何かが始まる感覚がした。そして、それは俺を狂わす何かに違いない。でも、それでもいい、と俺は思った。


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