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グルペット宮城

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22歳男

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また、やってしまった。朝の時間短縮を狙って歯磨きをしながら着替えをしているのだが、始めて1週間、5割の確率でシャツを頭からくぐるとき、よだれとともに歯磨き粉がシャツの内側の丁度みぞおちくらいに付いてしまう。そのままでもバレないのだが、気持ち悪いのでティッシュ2枚で拭き上げる。時間ロスだと思いながら拭いているが、ここ1週間は家を出る時間にさほど変わりがない。来週からはやめて、一つ一つ地道にこなしていこう。急がば回れだ。

ここに来て、やっと自分のリズムが出来上がってきている気がする。実家の近くのドラッグストアに就職したが、これを期に一人暮らしを始めた。会社へは自転車で20分の距離だ。実家からは車で30分くらいの距離で、同じ市内にはいる。最初の頃はなるべく早くに会社へ着いていたが、薬剤師の望月さんというおじさんが一番に会社に着いている。前の会社を早期退職して、うちの会社でバートで働いている。いつか、「薬剤師はどこ行っても引っ張りだこだよ」と言っていた。ドラッグストアが乱立していて薬剤師は売り手市場だと聞いたことがある。こんなおじさん「こんな」と言ったのには少々理由がある。一言で言えばめんどくさいし、何事にもマウントを取ってくる。言葉にしてみると高圧面倒臭いおじさんになる。

望月さんは相当な車好きで、赤いスポーツカーに乗っている。車に詳しくないので分からないが有名な車種らしい。いつかの話で私が車に興味がないと言うと、若いうちは車につぎ込むべきだ、車に興味を持てと、ガンガンに自分の趣味を押し付けてくる。しかも私のオンラインゲーム好きを、引きこもりみたいな感じで責めてくる。私だけではなく他の先輩などにも、同じように自分の価値観を押し付けているので、会社内では面倒臭い、煙たいの代名詞として「望月」となっている。この間は、薬剤師の山田さんという女性の先輩に棚から薬をピックアップするときの所作がなっていないと、あたかも自分の動きが正しいかのように、俺にならえ的な高圧ぶりを発揮したようだ。以前勤めていた調剤薬局での服薬指導の際にお客さんのお婆さんにこれまた高圧ぶりを発揮してしまったようで、お婆さんの家族からクレームが入りそれが最終的な引き金になって、そこの調剤薬局を辞めたらしい。思うに、引き金とは言うが、うちの会社での振る舞いを見ていると、満を持しての退職なのだろうと思う。望月さんが以前いた調剤薬局は市を一つ超えた他県にある。少し離れたこの市でまた同じ仕事をしているんだから、こちら側には以前の情報があまり入っていないはずで、それをいいことにまたすぐに同じことをしでかすだろう。まるで、詐欺まがいの違反で摘発された店舗経営を、違う土地でまた始めているようなものだ。望月さんは63歳と言っていたので、やらかしたら後がないのではと思うが、そんなこと知ったことではない。スポーツカーを買って自慢しているあたり、やめても余裕があるが需要があるから仕事してやっているという気持ちなのだろう。不祥事でも起こして、とっととやめていただきたい気持ちである。ただ、残念なことに会社も分かっているのか窓口対応させないみたいである。この頃は赤い車を見ると、イライラするようになってきた。

そんな望月さんに朝早く着いてしまうと嫌でも挨拶して、何か喋らないといけなくなってしまう。なので自転車通勤で時間調整のできる私はちょっと遅く出社するのである。時間調整の難しい電車通勤である荻野さんは時間的にも望月さんと出社時間がもろ被りである。いつも望月さんの高圧マウント話を受け止めている、どのようにして、あの面倒な話を受け流しているのか。ありがたい存在の先輩だ。この間、朝の二人の様子を垣間見たのだが、まるで念仏を隣で唱えられている修行僧のように微動だにもしていなかった。受け答えがなくても自分の話だけができればいい望月さんもだが、荻野さんも水圧高めの言葉のシャワーを浴びながら平静を保てる鉄、いやダイヤモンドのメンタルを持っている大変稀有な存在だ。むしろいいコンビなのかもしれない。まだ荻野さんとは親しい仲ではないので、これをネタに今度距離を縮めてみようと思う。

今度というのはすぐに来て、望月さんのシフトのない日に朝の休憩室で荻野さんと二人きりになったので素直に自分の疑問をぶつけてみた。車の自慢話、自分の息子が大学を出て研究者になった話、昔バイクに乗ってガードレールに突っ込んだ話、数々のマウント話を受け流す能力はどのように身についたのか。ストレスが溜まってしまわないのか。すると荻野さんは想定外の答えを出してきた。それは理系の出身ならではの答えかに思えたが、かなりマニアックな回答である。望月さんは福島南部の出身で、言葉のイントネーションが平らなのだとか。それがまさに念仏そのものに聞こえて、お寺の建築が好きな荻野さんは、その延長線上で仏教にも興味があり、望月さんの口から出る言葉が「音」として耳に届いているようなのである。言葉のシャワーを浴びていると思っていたが、旋律のシャワーを浴びていたようだ。ラジオから流れる音楽を聞いている感覚なのだとか。受け取り方、考え方の違いで私達にはただ煩わしいだけの出来事も、荻野さんにとっては興味深いものになっている。社会人になって半年以上経つが、会社の飲み会で関東エリアなんとか部長のありがたいお話なんかよりも、これからの社会人生活に重要なトップクラスの勉強を受講させてもらった。もう一つ、荻野さんは望月さんの文節の口癖である「あー」「えー」の統計を取っているようで「うぃ!」というスーパーレアもあるらしい。

今日は祝日で、しかもポイントデーと重なったから客足がすごく多かった。品出しにレジにと飛び回っていたので運動不足の体には少々堪える。しかし、自転車の通勤も初めは辛かったが、今では最後まで涼しい顔で居られる。今日みたいな忙しい日も涼しい顔でこなせる日がいつか来る。と信じたい。今やっているサバイバルゲームもVRにすると少々の運動になるのかもしれない。そのサバイバルゲームだが、学生からの友人といつもオンラインでプレーしている。そいつの他に何人か同じチームでプレーしているが、友人以外はリアルでは会ったことがない。会おうとも思わないし、オンライン上という共通の趣味で好きなことだけやっている方が楽だ。リアルな人付き合いはなるべくなら避けたい。だけど、友人はオンライン上だけではなくリアルでも会いたがるやつで、この間は違うチームだが、オンライン上で「クルーニー大佐」という名前の人と呑みに行ったようで、かなり意気投合して定期的に呑みに行く仲間になったらしい。クルーニーときいて、ニヒルなちょいワルおじさまを想像しがちだが、実際は若禿げで背が低く、ヌラリヒョンのような人物だったそうな。ただ、ゲームのプレースタイルはアグレッシブで名前負けしていない。そのクルーニー大佐の紹介で、今度は私のチームメイトである、「あかねさん」を交えてゲームセンターで集合しようと友人から提案があった。あかねさんともクルーニー大佐とも会ったことはないので渋っていると、半ば強引に誘われ今度の土曜に予定を組まれてしまった。

シフトを調整してもらうため、主任にシフトの変更などを申し出ていると、どこから聞いていたのか望月さんがやってきて、引きこもりじゃなかったのか?的なことを言われた。的なというのは、望月さんの言葉を聞いてはいるが、ちょうちょが水を飲んですぐオシッコをするように、入ったらすぐ出しているので記憶に残っていない。もしかしたら覚えていないだけで大変なパワハラ案件ではないだろうか。こうしてサイレントマジョリティーは慣れてしまって主張しないのかもしれない。

金曜の夜に家に帰って一息し、ご飯でも食べようかなと思っていたところ、母親から電話があり、土曜の朝にうちに来ると言ってきた。いつも、彼女が気持ちを抑えられず体が動いてしまい「来ちゃった」と言って玄関先に突然現れるように、かつては『彼女』と言われていた母親が突然来ていた。そんな母親が、この前は私が家にいなかったので多少いじけていたと実家にいる妹から連絡があった。それを学んだのか今回は電話をかけてきたのだ。土曜は例の付き合いがあるが、夕方からだし母親が気軽に来るのも面倒だが断る理由もない。母親は車の運転ができないので、バスを2本乗り継いでアパートまでやってくる。そうやって来たときは、隣りに座った人と友達になったと、訪問の2回に1回は報告してくる。私は親から授かれなかったそのコミュニケーション能力が遺伝しなかったことを多少悔やんでいる。テーブルに座るな否や、お土産と言って持ってきたアンパンを袋から取り出し、小分けにしながら近所のおばさん(自分もおばさんなのだが)か口うるさくて、傍から見ていても嫌になると言っていた。なにかの付き合いでヨガ教室に通っている母親だが、そこには、そのおばさんもいるらしい。ヨガ教室の先生は若い女性と男性がいる。本当のところは分からないが、今日は化粧の仕方が違うから、男の先生を狙っているとか、何故かライバル心を燃やしているようだ。このおばさんは私の同級生の母親だ。市議会議員だかなんだかと知り合いで、しかもお金持ちだ。同級生も各時代で流行ったゲームは一通り持っていたし、その当時流行ったカードもハイパーインフレのときの買い物のように、紙くずのようにしてカードを大量に持っていた。おばさんはその当時もPTAなどでうるさかった印象は、周りの大人たちの話などから子供ながらに持っていた。そのおばさんの話だ、近所の人が挨拶しなかったことで、最近の若いやつは的な話で口うるさかったようだが、望月さんとの絡みで身につけたスキルが発動し、記憶をすぐに消去してしまったため詳細は覚えていない。一通り話し終えたようで満足したのか、お祭りの準備があるから忙しいと言って正午前に帰っていった。その祭りとは出しゃばり馬場さん(もう一人気に入らないおばさんが居るようだ)の話に出ていたお祭りで、4年に一回地域を神輿が周り、中継地点ごとに、団子やお酒を振る舞う地味なお祭りだ。そこで今回は、いつもの流れに逆らい、実家の地域では真逆の洋風なものを出してみようと言う話になり、どんなものを出そうか近所のおばさん方々との話し合いがあるようだ。うまく行っては欲しいが、出しゃばり馬場さんとの確執が生まれないか少々心配である。母親の心配をしているが、自分にとって夕方からからの用事について、服装や話題などの目下の心配事を片付けなければならない。オンラインゲームでの仲間はたくさんいるが、リアルで会ったことのある人は学生からの友人である山田以外は皆無だ。しかも、一人は小さい若禿げなので問題ないが、もう一人は女性だ。嫌な思い出が頭をよぎる。

かつてオンラインゲームを始めた頃の私は、いまよりは社交的で思春期のときの訳の分からない『のり』がまだあった。山田とともに女性2人の仲間とリアルで会おうということになった。半ば合コンのような感じになって山田は付き合いが上手いこともあり、片方の女性と意気投合し今では同棲を考えるまでの仲である。もう片方の女性と私は半ばその場の雰囲気もあってまた二人で会おうと約束をした。その後も二人きりで会うことが頻繁になり、傍から見れば二人は付き合っている、そのもののように見えただろう。そろそろどちらかがしっかり告白をするタイミングではないだろうかと思い始めた。ここは男からだろうと意味不明な男気がみなぎり、意を決して人生で2回目の告白を敢行した。1回目は小学校低学年の時、名前を忘れてしまったが隣の席の女の子に告白をした。何もわからない小学生だ。付き合うと言っても、帰り道をともにするくらいだった。彼女は次の学年に上がるときに、お父さんの都合で海外に引っ越しをしてしまったので、確かそれっきり連絡も取れないで終わった記憶がある。それ以来なので1回目と言っても過言ではない。

ということは、ほぼ告白バージンなので何を言葉で伝えていいかをあれこれ考えた挙げ句、シンプルに「改めて言わせてもらいます。自然に付き合っている感じになっているけど、好きです。付き合ってください」と伝えた。「ください」のあとは一瞬だったのだろうが、ありきたりだが私には数分、高級なカップラーメンの待ち時間位に思えた。「えっとー」おやっ、返しの言葉としては想定にないものが返ってきて「私たち、付き合ってもいないし今後、付き合う気もありませんから」…あまりにも予定していない言葉が降ってきて混乱し、頭の中のどの引き出しを出して刺激的な言葉に対応するか、ずっと読み込み中になってしまった。出力はできないが入力はできているようで「なんか勘違いしているみたいだけど、ロープレの攻略情報をご飯付きで教えてくれるし。しかも無料だし」「私にとっては超優良な攻略本なんだよね」「あと、ゲーム好きのチンチクリンは興味ないから。ゲームはゲームで趣味共有したくないからスポーツマンのイケメン一択っす」頭痛がしてきた。サーバがダウンしそうです。なんとか脳内ネットワークを組み直して思考はできるようになった。「なんか勘違いさせてごめんね」おっしゃるとおり。「私は大丈夫だから」こちらは暗闇の中です。やっと出力ができるまでの時間がたった。みぞおちからゆっくり込み上げて口から絞り出された言葉は「あつ、はい」だった。「まぁ、リセットしてゲームで助けてね」「…そうだね。」「次の電車乗りたいから、またね」そう言って彼女は軽快に駅の方に歩いていった。その後もオンラインゲーム上では数回会うことがあったが、元々彼女から誘われることはなかったため特に会話を交わすこともなく、いつの間にかオンライン上からも彼女は消えていた。無理して人付合いしようとしていたこともあり、そんな苦い経験のあとは、山田とは会っているがリアルの交友関係はほぼない。合コンでもないし服装は特別なものにしなくていいだろう。まあ、共通の趣味があるから話題もなんとかなる。心配事などほぼなかった。告白の苦い思い出だけがリアルに思い出されただけだった。

まずは山田と駅で待ち合わせ、クルーニー大佐がゲームセンターで待っていた。あかねさんは電車が遅れてしまったようで、15分位遅れるようだ。とりあえず格闘ゲームでもして暇をつぶすことになった。アーケードゲームは初心者なのだが、それなりに楽しめた。ブツブツ話しながらゲームをする男の人がいて、なんだかうるさいなぁと思っていると、独り言の内容は自分の繰り出している技の名前を口にしているようだ。それと、操作についても実況している。しかも強い。なんだかその言葉は心地よく、騒々しいゲームセンターの中でもはっきりと私の耳に届いた。もしかするとこれは、望月さんのお経を心地よいとしている荻野さんの境地なのかもしれない。尊敬する人に一歩近づけたようで少し誇らしい。そうこうしていると、あかねさんが来たようだ。

クルーニー大佐に付き添われてきたあかねさんはとても背が高く髪が長い。おそらく私と同年代のようだった。4人で近くの居酒屋へ行き、初めは共通の趣味のサバゲーの話や他のオンラインゲームの話題などで盛り上がり、会話は山田と大佐で愉しく回してくれた為、久しぶりに呑み会というものを満喫した。あっという間に2時間ほど過ぎ駅の方向へ向かった。道中も山田と大佐が会話を牽引してくれた。山田は彼女が家にいるので早く帰って来てほしいと言われているらしい。同棲間近の大切な時期だから、引き止めることも辞めておこう。びっくりしたのはクルーニー大佐で会話の中でそんな素振りはなかったが小さなお子さんがいるらしい。山田とは同じ方向で電車の時間がギリギリのため駅より1キロメートル手前から山田とともにダッシュで我々の視界から消えていった。私とあかねさんは取り残されてしまったが、電車が同じ方向なのでゆっくり駅へと向かった。会話は山田と大佐が余韻を残してくれたので困ることはなかった。そんな会話の中でゲームセンターで先輩の真髄に一歩近づけた話をしたら、あかねさんもあのゲームセンターには時々行くが、おそらく同じ人を気になっていたようだ。共通の話題ができ、どんどん楽しくなってきた。山田と大佐の軽快なトークに惑わされていたためか、お互いのことはあまり話してはいなかった。ドラックストアで働いていること。望月さんのこと。地元のお祭り。あかねさんは帰国子女らしい。小学校のときに中国に行き、ヨーロッパも経験して4年前に帰ってきたらしい。そんな感じは微塵もなかったが、日本語に不安があったため私と同じくリアルではあまり出歩かなかったそうだ。自己紹介は最初に話すより場が温まったほうがお互いに話しやすいのでいいかもしれない。話がどんどん弾み、あかねさんの方から一駅歩かないかと誘われ、その提案を待っていたかのように大きな声で「はいっ」と答えてしまった。待ち望んでいたことを悟られてしまったか。まだお互いに本名すらも知らないが、次の電車に乗る頃には分かっているだろうか。
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