花鬘<ハナカズラ>

ひのと

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1章

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森には初めて見る木や花がいっぱいあって、緑の匂いがして、木漏れ日が眩しくて、楽しくて気持ちいい。

「ロザリアの花が綺麗ですね」
柔らかい声が隣から聞こえて、私もうんと頷いた。
アリーの言うとおり、ロザリアの花が満開だ。薄いピンク色の牡丹に似た大ぶりの花で、すごく甘い匂いがする。
胸いっぱいにその甘い香りを吸い込んで、ふはあ、と吐き出した。

そういえばシュヴェルツもロザリアの花がどうの、と言っていた。
もしかしてこれを見せてくれようとしていたのだろうか、と思って、何だかちょっと嬉しくなる。
人に好意を向けられるというのは嬉しいものだ。あとで頭を撫でてあげようと思いつつ、私はゆっくりと森の中を歩き出した。



リツ様、リツ様、と小さな声でアリーに名を呼ばれ、さくさくと草を踏みながらアリーに近づく。
アリーの隣に立つと、彼女の白い指先は木の上の方を指差した。

―――リス?

いや、リスというにはちょっとメタボすぎる、おそらくこちらの世界独特の生き物だ。
私の知っているリスの三周りくらい大きくて、下手したら子猫くらいの大きさだった。
しかし見た目はリスにそっくりで、何か木の実をかじっているところなんて悶絶物の可愛さだ。
思わずほわっと笑顔になると、アリーも隣でほわっと笑顔になっている。

かわいい、と小さく言葉を紡げば、可愛いですねえと言葉が返された。
リアンはそっと傍に控えていて、「リアンも見てみて、可愛いよ!」と言おうと口を開く―――そのとき、何だかすごく変な気分になった。
胸が悪いというか、ぐるぐるするというか、重いというか。

何だろう。悪いものでも食べたかな、と思いつつ、胸に手をあてる。
多分、それと同時だった。突然誰かの大きな手にぎゅっと胃を掴まれて引っ張り出されるような、そんなひどく気分の悪い感覚が襲ってきたのである。
ひうと喉を引き攣らせて、膝を折る。目の前がちかちかした。
胃の中のものを全て吐いてしまいそうになって、慌てて口元を押さえる。

吐いちゃだめ、吐いちゃだめ、吐いちゃだめ。

いやでも吐いたほうが楽になるかも。でもさすがにこんな人前で吐くのは嫌だ。ちょっとせめてその辺の木の陰まで我慢して私!
そう思ったけれど、手足に全然力が入らない。
とんでもない吐き気に眩暈。こんなに最悪の気分になったのは初めてのことだ。

いったいどうして、そんなことを考える余裕もない。
リツ様!と悲鳴のような声で名前を呼ばれ、「大丈夫」とちっとも大丈夫じゃないのに返事を返そうとして―――そうして私の意識はブラックアウトした。





***






体が重い。泥の中に埋まっているみたいだ、と夢現で考える。
ぼんやりと目を開ければ、見慣れた天井が視界に入り、私はそっと息を吐き出した。
夢を見てたのか―――そう思いつつ、どこからどこまでが夢なのかを考える。

あれ?もしかして、馬に乗ってのお散歩は夢だったか?
うとうとしながらそんなことを考えて、寝返りを打つ。とんと、何かにぶつかった。
綺麗な長い指。男の人の手だ。指先から腕へと視線で辿ると、見慣れた顔が目に映った。

「……しゅべるつ?」

自分の喉からひどくかすれた声が零れて、私はびっくりした。
あれ?どうしたんだろう。私、風邪でも引いたっけ?
ベッドサイドの小さな椅子に腰掛け、目を瞑っていたシュヴェルツは、私の声に気付いたのか薄く目を開ける。

「しゅべるつ」
もう一度小さなかすれた声で名前を呼ぶと、シュヴェルツは「ああ、」とこちらは寝起きらしいかすれた声を返してきた。

「……気分はどうだ?」

意味がよく分からなかったが、今まで寝ていた人間に尋ねることといったら、「もう起きたの?」とか「まだ眠い?」とか「体調はどう?」とか「痛いところはない?」とか「お腹空いてない?」あたりだろう。
体は重いし、何だか頭がぼんやりするし、眠いしだるいけれど、頭やお腹が痛いわけではないし、吐き気もない。お腹は……何だか物凄く空いている。
ということで、私は空腹を訴えるべく、「ぱん」と食事を要求するための単語を口にした。
シュヴェルツは「まずはそれか」と疲れたように小さく笑って、ベルを鳴らす。

どうやら今は夜らしく、もしかして私は昼間にぶっ倒れてから今まで―――つまり半日も眠っていたのかと驚く。
ベルの音のすぐ後に、アリーがやってきて、寝室のドアをそうっと開けた。
そうしてその瞳がいっぱいに開かれるのを、私はきゅるきゅると泣き喚くお腹を押さえつつ眺めていた。

「ありー?」
我ながら病人のような声に、アリーは言葉ではなくてぽろぽろと涙を零して答えてくる。
何故いきなり泣き出されたのかがさっぱり分からず、私は慌てて起き上がろうとした。
けれど、何故か体にほとんど力が入らない。無理に起き上がろうとすると、目の前がちかちかして、頭がくらくらした。

シュヴェルツが「大人しくしていろ」とそっと私の体をベッドに沈ませて、アリーを見やる。
アリーは私の名前と神様という単語と感謝の意味を持つ単語を順番に繰り返している。
アリーのただ事ではない様子に、私はアリーが変な宗教にはまってしまったのではないかと心配になった。

「しゅべるつ、」
アリーの様子がちょっとおかしいみたいだ、悩み事があるならちゃんと聞いてあげてね、とシュヴェルツを見上げる。
それと同時にお腹がぎゅーっと鳴って、私は慌ててお腹を押さえた。
シュヴェルツは今度は呆れた様子は見せずに、ぽんと私の頭を一撫でして、アリーに食事を持ってくるようにというようなことを命じる。
アリーはぽろぽろと泣きながら、こくこく頷いて、危なっかしい足取りで部屋から出て行った。

おそらく食事の準備をしに行ってくれたんだと思うんだけど、何であんなに泣いているのだろう。
アリーのことだから、私が倒れたことを気にしているのだろうか。それなら申し訳ないなぁ。しかしいったいどうしてあんなに突然気分が悪くなって、あまつさえ倒れまでしてしまったんだろう―――なんて考えていると、シュヴェルツの手が頬に触れた。

少しかさついた、体温の低い、大きな手。
それが私の存在を確かめるかのように、けれど壊さないように、そっと触れる。
ゆっくりと指で髪を梳かれ、その優しい指先に『何だかまだ眠いかもしれない』と、うとうとしてしまった。
いや、でもご飯も食べたいし、眠るのはご飯を食べてからにしよう。そう思いつつ、無理やり目を開ける。

枕に頭を置いたまま、シュヴェルツを見上げると、シュヴェルツは何だか不思議な表情をしていた。
どうかしたのだろうかと思っていると、シュヴェルツは何を思ったのか、突然顔を近づけてくる。
今までに何回も唇を奪われたことが蘇り、思わずぎゅっと目を閉じたが、シュヴェルツは予想に反して、自分のおでこと私のおでこをくっつけてきた。

「しゅべるつ?」

どうしたのだ。お姉ちゃんがいきなり倒れたからそんなに心配だったのか、と心の中で呟く。
まあ、たしかに、私もお兄ちゃんが突然倒れたら物凄く心配するけれど。
そんなことを考えていると、シュヴェルツはまるで胸の中の感情の全てをその一言に込めたような声で、
「リツ」
と私の名前を呼んだ。

その声はひどく重くて、何だか戸惑ってしまう。
「うん?」と声を返すと、もう一度リツと名前を呼ばれる。
その声に、今度は「なに?」と言葉を返す。
するとシュヴェルツは、何故かすまなかったと謝罪をしてきたのである。何が?と思ってしまうのは仕方あるまい。

いや、たしかにシュヴェルツが私に謝るべきことは多々ある。そもそも初対面でファーストキスは奪われたし、そこだけでも100万回ごめんなさいを言っても許されないくらいである。
しかし、今まで散々人の唇を奪っておいて、今更いったい何故?と首を傾げる。
謝罪の意図を尋ねようと、なに?と問うたけれど、シュヴェルツは何も言わずに、指で髪を梳いてくる。
あ、これは気持ちいい。人に頭を触られるのってどうしてこんなに気持ちいいんだろう。
優しく触れられて、その丁寧すぎる指先に、少し背中がそわそわした。ちょっとくすぐったい。

ああそれにしてもお腹が空いた、なんて思ったとき、再びドアがゆっくりと開かれた。
アリーが戻ってきたにしては少し早いような、と思いつつベッドに沈んだままドアの方を見やると、そこにいたのはリアンだった。

今まできっと眠っていたのだろうリアンは、彼女にしては珍しく、ブラウスのボタンが掛け違っていたし、少し髪が乱れていた。
いつもどんなに朝早くに呼んでしまってもパーフェクトスタイルのリアンにしては、とても珍しいことだ。
私はぱちぱちと瞬きをして、「りあん?」と彼女の名前を呼んだ。

リアンの姿を見て、シュヴェルツは私の上から少しだけ身を引いた。けれど相変わらず頭を撫でるのはやめない。
シュヴェルツのこの優しさというか不思議な対応はいったいどうしたことなんだろう。
リアンはこちらを見つめたままドアの前に立っていて、食い入るような視線をこちらに向けてくる。
不思議に思いながら、りあん、と彼女の名前を呼んだ。

「なに?」
どうしたの?とかすれた言葉を紡ぐと、リアンは「お傍へ寄らせていただいても?」と聞いたことのない問いをしてきた。
語尾が上がっていたのでおそらく何か問われたのだろう。
昼間に倒れてしまったのだから、多分「元気ですか?」とか体調を問われたんだろうと思いつつ、はいと頷く。
リアンは次にシュヴェルツを見やって、軽い頷きが返されてから、静かな足取りで私の傍にやって来た。

他の人が起きているのに自分だけ寝転がっているのはどうも変な気分で、起き上がろうとするけれど、やっぱり力が入らないし、シュヴェルツに止められる。
リアンは「失礼いたします」とお布団からはみ出ていた私の手を取り、細い指を私の手首に置いた。脈を測っているのだろうか。

手首を見つめるリアンの表情は見難く、ただ、長い睫毛が頬に陰を作っていることしか分からない。
寝たままでごめんね、という意味を込めて「もうしわけありません」をかすれた声で紡ぐと、リアンは顔を上げ、表情をくしゃりと歪めた。
いいえ、と細い声が返る。

まるで今にも泣き出しそうなその表情に、ちょっとびっくりした。
あまり表情の変わらないリアンがこういう風にすぐに表情を変えるのはすごく珍しいし、しかもアリーに加えてリアンまで泣きそうになるとは……そんなに心配をかけてしまったのだろうか。本当に申し訳ないことをしてしまった。
そんなことを思いながら、窓の外の月を見上げる。


3人だけの静かな空気の中、私のお腹だけがきゅるきゅると鳴き声を上げていた。










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