ギムレットには早すぎる

清瀬いと

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02.初出勤とプレゼント

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二日後、蓮は少しだけ浮かれた気持ちで雪加のマンションに向かった。

初めて明るい時間に訪れたマンション。
三度目の訪問にして初めてエントランスでインターホンを押すと、程なくして雪加のどうぞーという声と共にオートロックのドアが開く。

車は雪加のものを使うように言われたので、身ひとつで訪れた。
この後そのまま出勤する予定なのでいつものスーツだが、昨日の夜、久しぶりに靴を磨いた。

何となく浮かれている理由は、自分でもよくわからずにいる。

エレベーターで上層階に上がり、ドアの前で再度インターホンを鳴らすと、待機していたのかすぐに鍵が開く音がしてドアが開いた。


「蓮、おはよ」

出てきた雪加の前髪を上げてヘアセットをした姿にどきりとする。
それを悟られないよう、蓮は皮肉るように挨拶を返す。

「おはよう。昼過ぎだけど」

「ふふ、そうだね」

笑いながら出てきたドアの鍵を閉める雪加の後ろ姿を見て、蓮はさらに心臓が跳ねるのを感じる。

「……雪加さん、スーツ似合うね。かっこいい。髪型も」

「え?あぁ、ちゃんとした格好で会うの初めてだもんね。ありがと」

鍵を閉め終えてこちらに向き直った雪加をまじまじと見てしまう。

部屋の中ではゆったりした白いシャツとスウェットを着ていた。
それが今日はかっちりとした黒いスリーピーススーツだ。
細身だとは思っていたが、改めて見ると手足が長くてスタイルがいい。
蓮の方が僅かに見下ろす形だが、雪加も平均身長よりは高いだろう。

さらさらの髪で隠れていた額がしっかり見えるヘアスタイルも相まって、一流企業のビジネスマンと言われても違和感がない。

「仕事って、モデルさんか何か?」

雪加の仕事内容は聞いてなかったが、もしかしてと思い聞いてみる。

「ええ?!俺が?違うよー」

「いや、かっこいいから。そうかなって思って」

「ははっ。蓮に言われると照れるね。お前のがかっこいいじゃん」

そう言って笑うと、行こう、と背中を叩かれた。

さらっと言われたかっこいい、という言葉に照れている自分がいる。
学生時代にもホスト時代にも散々言われた単語のはずなのに、急に特別な言葉に思えてくる。

エレベーターのボタンを押すとドアはすぐ開き、二人で乗り込むが、一緒に歩くのは初めてだからか、さっき雪加の言葉のせいか、落ち着かない。

「仕事はね、モデルはやってないけど、まあ色々だよ。これから行くのは商談、的なやつ」

「商談……?」

「そ。まあ蓮は終わるまでラウンジかカフェかそういうとこで待っててくれればいいから」

よくわからないけれど、何となくこれ以上は教えてくれないと察して深くは聞かなかった。

エレベーターはマンションの地下階につき、薄い暗い駐車場に出るとひんやりとした空間に二人分の足音が響く。
先を歩く雪加について行きながら、スタイルのいい後ろ姿を無遠慮に眺める。

「初めて運転する車は抵抗ない?」

「あ、大丈夫っす」

「よかった。車、これ」

「――まじか」

初めて運転する車に抵抗はないと言ったが、これは少し話が変わってくる。

おそらく四桁万円はするであろう高級車。
絶対事故を起こすわけにはいかないと、急激に湧いてきた緊張感を胸に運転席に乗り込む。

後部座席に乗り込んだ雪加は、んじゃお願いします。と言いながら微笑んだ。


「一時間くらいで戻ってくるからさ、ラウンジでコーヒーでも飲んで待っててよ。ケーキも美味しいからおすすめだよ」

おそらく誰しも一度は名前を耳にしたことがあるだろう高級ホテルに到着し、雪加は客室階に繋がるエレベーターに向かって歩いていった。

言われたとおりラウンジに行くと、窓際の眺めの良い席に通された。
ふかふかの座り心地のいい椅子から格式の高さを感じずにはいられない。

運ばれてきたコーヒーを口に含み、綺麗に手入れされたホテルの中庭をぼんやり眺めているとやっと心が落ち着いていく。

(運転だけでこんなに緊張するだろうか……)

今日雪加に会ってから、いや、マンションのインターホンを押したときからもうずっと、緊張している気がする。
新しい仕事ってこんなにドキドキするもんだったかなと、今までの経験を思い起こそうとするがいまいち上手くいかない。

それでも、そういうものかと納得させ、雪加が戻って来るまでの時間をぼんやりと外を眺めながら待つことにした。


聞かされた時間から少し過ぎて、コーヒーを飲み干した頃、ラウンジの入り口の方に向かって歩いてくる雪加の姿を見つけた。

居場所を知らせるため立ち上がろうとしたところで彼が立ち止まるのが見え、どうしたのかと注視する。
雪加は歩いてきた廊下を少しだけ戻り、スーツ姿の外国人男性に話しかけた。
何を話しているかは聞こえないが、身振りから道案内をしているようだと察する。

幾らか言葉を交わし終えると、笑顔で手を振って立ち去る後ろ姿に、同じく微笑みながら手を振った雪加は再びラウンジの入り口に向かって歩き出した。

困っている人を放っておかない彼の姿を目の当たりにして、蓮は胸が温かくなるのを感じる。
立ち振る舞いや言葉の端々から優しい人だとは思っていたが、誰に対してもそうなのだろう。

(――ああ、いいな)

無意識にその言葉が胸の底から湧いていた。

入り口に立って、蓮の姿を見つけた雪加は目が合うと、先ほど外国人男性に向けていた微笑みとはどこか違う、親しみを感じさせる笑顔を浮かべこちらに向かって歩いてきた。

「蓮、おまたせ」

そう言って向かいの椅子に座った雪加を見て、またどきりと心臓が跳ね、それと同時に、
――ああ、いいな、
と再び同じことを思う。

「お疲れ様、雪加さん」

「ん。ありがとう。コーヒーだけ?ケーキ食べた?」

テーブルの上の空っぽになったコーヒーカップを覗き込みながら聞かれ、正直に答える。

「コーヒーだけだよ」

「もし時間あるなら少しお茶してもいいかな?俺、ここのケーキ大好きで」

「うん。時間は余裕だよ。食べて」

「ありがと」

雪加は嬉しそうにお礼を言うと、近くを歩いていたスタッフにメニューが欲しいと告げた。

「さっき、ここ入って来る前、外国の人と話してた?」

真剣な顔でメニューを眺める彼に問いかける。

パフェもいいなと呟いていた雪加は一瞬驚いたように顔を上げたが、またすぐにメニューへ視線を戻してしまう。

「あぁ、見てたんだ。迷ってるみたいだったからね。ここ出入り口いっぱいあるから迷うよね」

「英語?」

「え?うん。英語」

「すごいね。英語、話せるんだ」

「すごくないよ。簡単な日常会話くらいしかできないし」

何てことない風に言いながら、決めた、と呟くと漸く顔を上げた。

「俺ショートケーキにしよ。蓮は?何にする?一緒に食べてくれると嬉しい」

自分も食べると思っていなかった蓮は一瞬怯むが、笑顔でメニューを差し出してくる彼を拒否することはできず、メニューに視線を落とす。

「じゃあモンブランで」

「ん、了解」

すいません、と軽く右手を挙げてスタッフを呼ぶ姿が様になっていてこういう場所に慣れていることが伝わってくる。

二人分のケーキとコーヒーを注文し終えると、ビロード生地の椅子に深く座り直してぼんやり外を眺める雪加の姿は絵になって、物語の登場人物のようだった。

「んーまっ。やっぱり美味しい。ここのケーキが一番好きだな」

「モンブランも美味しいよ。甘いもの、そんなに食べないけど、これが美味しいのは分かる」

「ねぇ、モンブラン、一口くれない?」

恐る恐る、という表情で上目遣いに問われる。

「え?あ、うん。いいよ」

返事を聞いて、笑顔が一層増した雪加は身をテーブルに乗り出してきた。

これは食べさせろ、ということか。

周りの視線が気になり、周囲を見るがもちろんこちらを気にしてる人などいるはずもなく、意を決して皿から一口分をフォークに乗せて彼の口元に運んだ。
真っ赤な口の中に吸い込まれていくフォークを見ていると、何だかいけないことをしている気持ちになり視線を逸らしてしまう。

身を乗り出していた雪加の体が再び椅子に沈むのを視線の端に感じて再度目を合わせると、こっちもおいしい、と顔を綻ばせていてこちらまで無意識に頬が緩むのを感じた。

異性から言われたらあざとく感じて何となく警戒してしまう台詞や仕草も、彼がやると可愛く見える。
そう感じる自分に疑問を感じながらも、抗うことができず受け入れる。

「蓮もこっち一口食べる?」

「あ、俺は大丈夫」

一瞬寂しそうな表情をしたように見えて慌てて取り繕う。
何を焦っているのか自分でも分からないが、この人の曇った表情は見たくないと咄嗟にそう思った。

「雪加さんからもらうのが嫌とかじゃなくて俺、果物があんまり得意じゃなくて」

「え?そうなの?わ、ごめん。甘いものもそんなにだったんだよね。付き合わせちゃったね」

「いや全然大丈夫。モンブランは本当に美味しいし、自分で買ったりしないだけで嫌いなわけじゃないから」

「そっか。けど嫌なときは言ってほしい。俺は上司とかじゃないんだから気、使わないで」

「大丈夫。俺、嫌なときは嫌ってはっきり言うタイプ。雪加さん、俺と初めて会ったときのこと忘れちゃった?」

揶揄うようにして言うと、フォークを口に運ぼうとしていた雪加は面食らったような顔をした。
しかし、蓮が笑っていることに気づくと雪加もつられるように笑って「確かに」と呟いた。

「蓮は元々ホストやってたんだって?あんまり似合わないね。リップサービスとか苦手そう」

梶から聞いているのだろう。
後半は数回会って彼が感じた自分の印象だろうが概ね正解だ。

「あー、うん。苦手。けど大学生のバイトだったし、色恋営業みたいなのはしてなかったし」

「何でホスト?」

問いかけられた質問の答えを思案しながら本日二杯目のコーヒーを口に含んだ。
隠したい訳ではないが、この人に格好悪い部分を見せるようで躊躇いを感じる。

「……学生の頃、バンドやってて、手っ取り早く稼ぎたくて」

俯きながら小声になった自分とは対照的に、雪加は何が楽しいのか声を弾ませた。

「バンド!すごい!今もやってんの?」

「もうやってない。あの頃は本気でプロ目指してたりもしたけど、今冷静になって考えると大して才能なかったし」

無意識に拗ねるような口調になってしまって途端に恥ずかしくなる。

恥ずかしいのは才能がないと気づいたことではない。
「プロになろう」と言う冗談を間に受けていたことだ。

蓮は自分の中であのときのことを未だ消化しきれていないことを再確認して沈みそうになる。
そんな内心を誤魔化したくて大きく切り分けたモンブランを口に運んだ。

「ふぅん。他は?蓮の好きなもの教えてよ」

雪加はあっさりと話題を逸らした。

さっきの食いつき方から、どんなジャンルのバンドだったのかや担当していた楽器などを深掘りされるだろうと身構えていた蓮は肩透かしを食らう。

さして興味のない話題だったのだろうか。
元より、蓮のプライベート自体に関心がないのかもしれない。
けれど、もしかしたら自分が微かに表情を曇らせたことに気づいて、あえてさっさと話を切り上げてくれたのかもしれない。

自分に都合よく解釈しただけだが、直前までの曇りかけた気持ちが再び晴れていく。

「他は、星とか見るの好き」

頭に浮かんだ好きなものをそのまま口に出す。
本格的に何か機材を使うわけではないが、夜にぼんやりと星を眺めるのは音楽を始めるよりも前から好きだ。

「天体観測ってこと?意外とロマンチストだね」

「意外って……失礼だな」

抗議の目を向けると、彼は悪い悪い、と言いながら、少しもそうは思っていない表情でケーキの上の苺にフォークを刺していた。

「雪加さんは?好きなもの」

大きな苺を一口で頬張りながら、彼は少しだけ悩む素振りを見せる。
頬をパンパンに膨らませている姿は小動物のようで可愛らしい。

「……カレーとナポリタンかな」

「食べ物なんだ……しかも意外と庶民的」

「おい、意外って何だよ」

さっきのお返しとばかりの反応は、その言葉とは裏腹に全く怒気は含まれていない。
会話のテンポが心地よくて笑い合うと、距離が近づいていくのを感じた。

同い年くらいかと思っていた彼は、自分より五つ歳上の二十九歳だった。
話せば話すほど、彼からは歳上の余裕と年相応の落ち着きが滲み出ていて、話題も引き出しが多くて面白い。
あまり学がない自分にも噛み砕いて話してくれ、返しやすいところに質問も投げてくれる。
こちらの話も興味を持って聞いてくれて、挟まれる相槌が心地よい。
友人でも上司でも同僚でもない不思議な関係なのに、他人と話をしていてこんなに会話が心地よい相手は久しぶりだと思った。

多弁な方ではないが、彼との会話ならいくらでもできそうな気がして、お互いコーヒーを飲み干してからもしばらく雑談が途切れなかった。

「ごめん、蓮。仕事の時間大丈夫?こんな遅くなるはずじゃなかったのに」

「大丈夫だよ。雪加さんをマンションまで送り届けても十分間に合うし、店には梶さんから話通してくれてるから少し遅れても怒られたりしないよ」

「次から気をつける。けど楽しかった。ありがとう」

「こちらこそ。俺も楽しかった」

ホテルの駐車場に停めていた車の後部座席に乗り込む雪加の背中を見ながら、何だかデートの別れ際のカップルのやり取りみたいだと思う。

「次はもう来週だね」

「うん。また来週お迎えに伺います」

運転席でシートベルトを締めながら改まった言葉遣いでそう言って、バックミラーで雪加の姿を確認する。

「うん。よろしくお願いします」

鏡越しに目があうと微笑みながら雪加が言う。
エンジンをかけながら、蓮は次に会う日付を思い出して、早くその日がくればいいのにと思った。



一週間後、そろそろ慣れてきた豪華なエントランスを抜けてインターホンを押すと、どうぞーと思っていたのとは違う声が聞こえてオートロックのドアが開いた。

(雪加さんの声じゃない、よな……)

部屋番号間違えただろうか。
だけどどうぞって言ってドア開いたし……

不安になりながらエレベーターに乗りこむ。
このエレベーターに乗るときのドキドキ率高いなと蓮は自虐気味に思った。

部屋の前のインターホンを押すと程なくしてドアが開き、出てきたのはやはり雪加ではなかった。

「いらっしゃーい。雪加さん今シャワー中。中で待ってて」

ドアを開けた小柄な男は、そう言って蓮を招き入れると生意気そうな目で頭の上から爪先までしげしげと不躾な視線を向けてきた。

「お前が蓮かぁ。確かに噂通りイケメン」

「あの、どちら様……」

「あ、初めまして!新川 千景しんかわ ちがげです。ここのハウスキーパー的なことやってます!」

ハウスキーパー……

そう言えばこの前、週一で来るハウスキーパーがいるようなことを言っていた気がする。
記憶を探っている間、何も言葉を返せないでいると、蓮が疑っていると思ったのか勢いよく話を続けてきた。

「疑ってんの?俺、もうずっと雪加さんのお世話してんの!本当は運転手も俺がやりたかったのに梶さんが駄目って言うから……」

後半ぶつぶつと不満のようなことをぶつけてくるのに何て答えればよいかわからず黙ってしまう。

年は二十歳くらいだろうか。その口調から、もう少し幼くも感じる。
聞こえてくる不満の声は右から左に耳を素通りしていた。

(梶さんの知り合いなのかな。やっぱりあの人、何者なんだ……)

「蓮、いらっしゃい。ごめんまだ準備できてなくて」

名前を呼ばれ、目の前の男から声のした方へ視線を移すと濡れた髪にバスローブ姿の雪加がいた。

(なんて格好を……)

「雪加さん!なんて格好してんだよ!」

「いや、千景と蓮しかいないんだし別にいいでしょ」

「駄目だろ!俺はまだしも!蓮は分からねぇだろ!」

「千景、大丈夫だから。蓮、彼がハウスキーパーの千景だよ。ごめんね。すぐ用意してくるからリビングで待ってて」

興奮する目の前の人物をいつもどおり穏やかだが有無を言わせぬ態度でたしなめつつ、蓮に彼を紹介すると、背を向けてリビングと反対側の方へ歩いていく。

蓮は未だに動揺してしまって上手く返事ができない。
たかが同性の風呂上がり姿。
ただそれだけなのに。自分は本当にどうしてしまったのかと不安になる。

「千景、蓮にお茶でも入れてあげて。仲良くしてね」

思い出したように振り返ってそう言うと、奥の扉へ消えていった。
残された二人は顔を見合わせると、いこ、と千景に顎でリビングの方を示されて歩き出す。

「悪い……別に喧嘩売ったわけじゃねぇんだ。ただ、前の奴の話聞いてんだろ?雪加さん、優しいから心配なんだよ」

リビングに入るとキッチンに入り慣れた手つきでお茶を入れる準備を始めた千景は、さっきより幾分落ち着いた口調で詫びてきた。

蓮は勧められるまま、キッチンカウンターに一脚だけ置かれたバーチェアに腰掛ける。

「いや、大丈夫っす。雪加さんのこと、心配になるのも何となく、わかります」

「だろ!?本当、何であんな優しくいられんだろ。立場わかってんのかってたまに胸ぐら掴みたくなるわ」

「立場……?」

聞こえてきた単語を何となく復唱すると、千景は明らかに焦った表情を見せ、口を滑らせたことがわかる。

おそらく彼は梶と同様、雪加の仕事や立場のことを詳しく知っているのだろう。
そしてそれは部外者である自分には知られてはいけないことなのだろう。
それならば別にそれで構わない。やることは変わらないし、雪加が優しい人だということは事実だ。

「あ、えと……」

「それ、雪加さんのご飯の用意してるんすか?」

口を滑らせたことに動揺してすっかり黙ってしまった彼に、気にしてないことを伝えたくて自分から話を逸らす。
キッチンの天板の上にはたくさんの食材が置かれていた。
それを覗き込みながら言うと、千景は安心したように顔を綻ばせてまた元の調子に戻る。

「そう!雪加さん自炊ほとんどしねぇから、俺がこうやって用意してんの」

「料理得意なんすか」

「得意ってか好き」

そう微笑みながらグラスに注がれたアイスコーヒーを差し出される。

第一印象は何となく失礼な奴だと思ったが、少し話しただけで人懐っこい性格なのだとわかる。
受け取ったアイスコーヒーを口に含むと、予想していたものより美味しくて思わず、うまっと声が漏れた。

「だろー?水出しコーヒー!こだわりの豆使ってんの」

「美味しいです。マジで」

「わかってくれて嬉しいわー。つか、蓮、俺に敬語とかいらねぇよ。千景って呼んで」

「ん、わかった」


それからはコーヒー豆の話や、用意しようとしているご飯の話を楽しそうに話す千景に相槌を打って時間を過ごした。
蓮も自然と笑って話せるようになる頃、リビングの扉が開いて先週と同じように前髪を上げてヘアセットし、黒いスーツを着た雪加が入ってきた。

「蓮、お待たせ。ごめんね」

「俺は大丈夫。雪加さんは予定の時間とか、大丈夫?」

そう聞きながら、さっきのバスローブ姿が脳裏にチラついて目を見られない。
中学生男子かよと自分につっこみたくなる。

「大丈夫。多少待たせても問題ないから。千景もありがとうね。行ってくる」

「行ってらっしゃい。気ぃつけて。蓮、よろしくな」

「うん。行ってきます。コーヒーご馳走さま」

千景に見送られて部屋を出ると、雪加を後部座席に乗せた車を運転して前回とは違うホテルに向かった。
違うとはいえ、やはり今回も名の知れた高級ホテル。

蓮は自分の仕事をこなすだけだと思いつつ、ラウンジで雪加を待つ間ずっとこの仕事のことや彼が何者なのか、ということばかりを考えていた。

商談のようなものだと言っていたし、素直に信じるのであればどこかの社長とかだろうか。
しかしそれならば隠す必要はあるだろうか。
週に一、二回この商談の時間しか外出しないというのも気になる。
先週、雑談の中で一人で外出しないのかと尋ねたが、本当にこの用事でしか外に出ていないようだった。
引きこもりや出無精というのとは違う気がするし、何かから身を隠しているのだろうか。

色々と仮説を立ててみるがどれもしっくりこない。結局何も分からないということしか分からず深くため息をついた。

いつか、もう少し信頼を得ることができれば、打ち明けてもらえるのだろか。

「蓮、お待たせ」

ぼんやりしていたせいで近づいてくる気配に全く気づかず、雪加に名前を呼ばれて思わず身体が跳ねる。

時計に目をやるとちょうど一時間が経った頃だった。

「雪加さん、お疲れ様。ここでもケーキ食べてくの?」

何となく後ろめたい気持ちになって、それを隠したくて冗談混じりに返事をする。

「いや。今日は次に行きたいところあるから出よ」

「うん?どこか行くの?」

「スーツ、買いに行こ」

ああ、やっぱり普通の外出もするのかと少し安堵していると、雪加が続けたのは意外な言葉だった。

「蓮のスーツ。見繕ってあげる」

少しだけ上目遣いで見つめる形で言われ、どきりとする。

「俺のスーツ?これ変?」

「ううん。変じゃないよ、かっこいい。けど少しホストっぽい、かなって思う」

「あぁ、確かにホスト時代から着てるやつだから……ごめん」

持っている中では一番落ち着いていてビジネススーツ寄りのものを選んでいるが、見る人が見ればわかるだろう。
雪加の隣に並ぶのに相応しくないと言われたようで羞恥心が芽生えてくる。

「別に謝らなくていいよ。全然問題ないし、似合ってる。ただ、俺が蓮にもっと似合うスーツを着せたいだけ」

そう微笑みながら言うと、行こう、と伝票を手に持った彼は会計に向かった。


この日、蓮は執事のような男性店員のいるテーラーで生まれて初めて全身のありとあらゆる部分のサイズを測られた。

雪加はずっとニコニコと楽しそうで、途中からこちらまで楽しくなってしまったから不思議だ。
彼が選んでくれたスーツはきっと宝物になるだろうと、まだ出来上がってもいないのに確信していた。


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