1 王への献上品と、その調教師(ブリーダー)αp版

華山富士鷹

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決裂

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今日も、何の事はない、私はいつも通りセキレイさんの留守番で夕方には翠の部屋に来ていた。セキレイさんいわく、何でも、奥方様の懐妊パーティーだとか。私は集団生活が苦手だから、大人は大変だなと思う。
けれどパーティーという事なら、お酒も振る舞われるはずだから、酔ったセキレイさんが私に大胆な指南をしてくると思うと、嬉──怖い。というのも、最近の私は、自分でも自分の事が掴めないでいる。我慢させているセキレイさんの為に出来る限りの事をしてあげたいのに、意気地無しの自分は、土壇場で足がすくんでしまうのだ。そもそも、セキレイさんにこそ、あんな汚いところを見られたくない。なのにセキレイさんは目が悪いからと言って眼鏡をかけて、そこをまじまじと観察するのだ、絶対に耐えられない。というかデリカシー無し。
私はいつ献上されてもおかしくない年齢だから、早く全てを知らなくちゃ。
私には少し思うところがあり、気持ちばかりが焦った。
「じゃあ少し遅くなるけど、必ず迎えに来るから、皆と仲良くな、噛みつくなよ」
セキレイさんに頭を撫でられ、私は子供扱いされた事に不満を覚える。
別に、部屋の鍵は持って来たし、1人で留守番出来ない程子供でもないんだけど……
セキレイさんは私を子供扱いしたいらしい。だから指南も後ろ向きだし、大人ぶって我慢してしまうのだ。
「噛みつくだなんて、もうしませんよ。あまり飲み過ぎないようにして下さいよ?セキレイさんは酔っ払うと手がつけられないんですから」
私がプイと横を向くと、セキレイさんは苦笑いしてまた私の頭をポンポンと撫でた。
せっかくユリからもらった髪留めで髪を括っているのに、ちょっと乱れた!
「ハイハイ、どうせパーティーなんて退屈なだけだから、お前と遊ぶ方が楽しいよ。すぐに戻って来るから」
『じゃあな』と言ってセキレイさんが出て行った後に、横で木葉が翠に行ってらっしゃいのキスを背伸びしながらねだるのを見て、私は顔が熱くなるのを感じた。
翠は照れるでもなくキチンとそれに応え、爽やかに部屋を出て行く。
やっぱり翠はそつがなくカッコいい。
木葉と翠の事は、同じ献上品の私から見ても羨ましい程仲睦まじい。時々本当のカップルと見まごうくらいだ。
「いいなぁ、木葉のとこは」
「へへー、人目がなかったら、いつもは翠の方からしてくれるんだよー」
『いいでしょー』と木葉がとても嬉しそうにしていて、私は率直に羨ましいと感じる。
「翠はやること全てがスマートでカッコいい。いつも木葉ファーストだし、乙女心ならぬ、木葉心を熟知しててくすぐるのが上手いみたい」
それにひきかえセキレイさんと言ったら、ちょっと自分のぶが悪くなるとすぐに機嫌を損ねて頭ごなしに叱ってくるし、指南の翌朝に生々しいジャンボフランクを提供するし、デリカシーというものが無い。
「あんな完璧な人はいないよ。木葉の理想の王子様なんだ」
そんな無垢な事を言える木葉が尊い。
でも、調教師と献上品がそんなんでいいのかなと思っていると、私の代わりにダリアが水を差した。
「調教師と献上品は馴れ合いじゃないのよ!」
ダリアはソファーに座ってふてぶてしく腕を組む。
「翠が好きなら甘えてばかりいないで、翠の為に自分磨きでもして早く側室に上がってあげれば?」
ダリアの言っている事は一字一句間違っていない。主である調教師を想うなら、献上品である私達はその期待に応えるのが本分だ。本当に、嫌になるくらい身に積まされる。それに私は、ユリの為に1つやりたい事もある。
「やだー!私は翠のお嫁さんになるの!翠以外の人とにゃんにゃんしたくないー!」
木葉は小さい子供がする様にその場で地団駄を踏んだ。
この期に及んで明確にそれを言えるなんて、木葉はいっそ大物だ。私もそんな風に自分の気持ちを素直に言えたらな、なんて、ちょっと思ったりもしたけど、やっぱり、それは駄目な事だと思う。だって相手を困らせてしまうから。
「ダリアはこれからどうするの?」
ダリアは私達より歳上で、早くに献上の儀式を行わないと適齢期を過ぎて献上品としての資格を失ってしまう。そうなれば彼女には暗い未来しか待っていない。ダリアは和平交渉の為に西部国から贈られた献上品だから、私達とは背負う物が違うはずだ。
「私の調教師は死んだの。だから私はこのまま適齢期を終えて献上品を辞めるわ」
ダリアは急に立ち上がり、窓際に立って暗くなった中庭を眺めている。
「死んだ調教師って……ユリの事?」
ダリアはユリに育てられ、ユリから指南を受けていたと聞いた。そのユリが亡くなった今、ダリアは目的を失ってしまったのかもしれない。
「ダリア、献上品を辞めて国に戻るの?」
「戻れる訳ないじゃない、私は自国に見捨てられて和平交渉のカードにされたのよ?そんな国、こっちから願い下げよ。戻る気なんかないわ」
ダリアは高飛車な物言いで肩に掛かった髪を手で払ったが、窓ガラスに映った彼女の顔は、今にも泣き出しそうだった。
ダリアはユリがいないくて心細いんだ。寂しいんだ。
ダリアにはユリが全てだったんだ。
必然的に私も悲しくなった。
「ダリア、私も献上品やめるー!私も一緒だよ!」
木葉がダリアに駆け寄り、後ろから抱き付くと、ダリアは心底厭そうな顔をしてそれを振り払う。
「絶っ対、駄目!あんた、献上品を辞めるってどういう事だか解ってるの!?翠直々に処断されるか、どっかに売り飛ばされるんだから!」
ダリアの言い方はキツイが、これは木葉を心配して言っている。
「いいもんー!翠に処断されるなら、木葉はそっちのがいいー!キモいおじさんに囲われるよりずっといいもん!」
木葉は懲りもせずダリアにまとわりつき、彼女を一層うんざりさせた。
というかキモいおじさんて、王の事か?
木葉は王をキモいおじさんだと思い込んでいるようだけど、王は控え目に言ってもスーパーイケメンの王子様だ。それを見ても同じ事が言えるだろうか……
でも献上品の贔屓目を差し引いても、王のお兄さんであるセキレイさんだって血が争えない程カッコいいと思う……デリカシーは無いけど、若いのに老眼で映画の字幕を険しい顔で見るところとか、喫煙して自分の吐いた紫煙で噎せるところとか、なんだかんだ言って面倒見が良くて、私の体調が悪い時はお姫様抱っこでベッドに運んでくれるところとか、はだけたシャツから覗く胸板とかは、鍛えていないのに程よく筋肉質でドキドキする。そんなセキレイさんは、カッコ良くて、優しくて、大好きだ。
毎日顔を合わせているけど早くセキレイさんに会いたい。酔っ払ったセキレイさんは強引だけど、その勢いで今夜こそはセキレイさんを満足させたい。
私はごちゃごちゃ言い合いをする2人をよそに胸を踊らせていた。

それから午後9時になり、木葉が騒ぎ疲れてソファーで居眠りを始め、ダリアが木葉に肩を貸しながら私に静かに話し掛けてきた。
「あんたは木葉みたいに翠と結婚するー!とか言い出さないのね」
ダリアは嫌味たっぷりに木葉の甘だれた口調を口真似するが、2人のタイプが違い過ぎるだけに似ても似つかない。
「私?私は、献上品としてセキレイさんを他の国の国王に即位させる事でしかあの人を幸せに出来ないから、そんな事は……それに、ユリのレシピを自分の子供や孫に伝えていかないと」
私はテーブル席で冷たくなってしまったココアを啜った。
「セキレイさんと子供を作ろうとかは思わないの?」
ダリアは言いながら木葉にブランケットを掛けてやる。
「そんなの、献上品が思っちゃいけない事でしょ?セキレイさんからは、自分の事を好きになるなって言われ続けてきたし、私は、セキレイさんの願いを叶えてあげたいし」
それでいいんだ。
私はマグカップの底に残ったココアの塊をスプーンでつつく。
「好きになるなって言われて、あんたはその通りでいられるの?私が見たところ、あんたはセキレイさんに好意を持ってる様に見えるけど?」
「うん、セキレイさんの事は好き。翠もユリも好き。だって、キス出来るもん」
「は?」
ダリアがでかでかと呆けた声をあげた。
「だってセキレイさんが観てた風俗密着24時っていうのに、プロはキスしないっていうのがあってね、プロは好きな相手としかキスしないって──」
私がモジモジとテーブルに『の』の字を書いていると、ダリアから冷たく一喝される。
「あんたプロじゃないでしょ?それになんでキス出来る相手が3人もいるのよ」
「木葉には内緒ね」
えへへと私は笑って誤魔化した。
本当のところは自分でもよくわからない。セキレイさんと、翠と、ユリ、それぞれをどんな風に好きか、どうやって分類して、どうやって差別化したらいいのか戸惑っている。ユリとは際どい経験をしたけれど、後悔はしていないし、そんなにイヤな気はしなかった。翠とは、別に何かあった訳ではないけれど、キスされたとしても多分大丈夫だ。セキレイさんとは、献上品と調教師という壁がなかったら、最後までしてもいいと思えた。
「それで、あんた、王様とはキス出来るの?」
「する。出来るかどうかじゃないもの、するしかないよ。王様は凄く綺麗な人だから、そこらへんは大丈夫だと思う」
あれだけのイケメンだ、寧ろこっちが恐縮してしまう。
「じゃあヤれる?」
「……」
それは怖くて想像していなかった。
でもやるしかない。私はユリが死んでから決めた事がある。 
「ダリア、私ね、決めたの。誰を好きになろうと王様を好きになって、特別枠の側室にしてもらって、ユリみたいな特別枠の献上品を1人でも多く減らしたいの」
私は女でありながら、王と共に戦場に立つ事を決意していた。
「翡翠っ!あんたっ、いくら側室と言っても、ユリみたいに死ぬかもしれないのよ!?」
ダリアが勢い良く立ち上がり、木葉がその背中伝いに頭をソファーへ落としたが、俄然寝息をたてたままだ。
「うん、解ってる。戦場へ行くのは怖いけど、私が上手く王様を魅了出来れば、特別枠の献上品制度自体をなくせるかもしれないし」
ユリはこんな事望まないかもしれないけれど、こうする事でしか私にはユリへの罪滅ぼしが出来ない。
「あんたって本っ当、馬鹿ね」
ダリアから、腹の底から『馬鹿』と言われた。でもこれは悪意のある『馬鹿』じゃない。
「うん……」 
私は本当に馬鹿で、卑怯な人間だ。
だってダリアには、ユリの本当の死因を話していないのだから。
だからこそ自分は、贖罪として、ユリの背負っていた十字架を代わりに引き受けなければならないと思ったのだ。
それから日付が変わる少し前に翠が戻ってきて、熟睡している木葉を子供部屋に運び、それと共にダリアもそこへ連れて行った。
「翡翠も少しは寝ない?」
翠がソファーに腰掛け、隣をポンポンと手で叩く。
膝枕の誘いっ!?
「寝ない」
と言いつつも、私はカピカピになったマグカップをキッチンで大急ぎで洗った後、ちゃっかりと翠の隣に陣取った。翠の膝枕は魅力的だったけれど、セキレイさんを待たずしてそのまま寝落ちしてしまうといけないのでなくなく今度の機会にとっておく事にする。
ワーイ、今は翠を独り占めだ!
いつもは木葉がいて翠に思うさま甘えられずにいたが、今なら部屋に2人きりだ、お目付け役のセキレイさんもいないし、おもいっきり甘えられる。
セキレイさんが居なくても、翠が居てくれたら全然寂しくなんかない。

全然、寂しくなんかない──

──はずだったのに、日付が変わってもセキレイさんが迎えに来てくれなくて、私は不安で胸がいっぱいになった。

ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ
ギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシ
やがて誰も居ないはずの隣のセキレイさんの部屋から、断続的に建物や向こうのベッドが軋む音がして、私は心配になって翠を見上げる。翠は『ああ、まずったな』という顔をして片手で自身のおでこを押さえていた。
「あの……」
この音はまるで…… 
それに耳を澄ますと、男女の荒い息遣いや、ともすれば女の喘ぎ声が聞こえてくる。
「あの……」
快感に溺れる女のよがり声が続き、私は不安に耐えきれずにガクリと頭を垂れた。
2人きりの室内に異様に気まずい空気が流れる。

セキレイさんは迎えに来ない。
だってセキレイさんは隣の部屋で誰かと……

そこまで考えると、ずっとせき止めていた不安のダムが決壊し、私は両手で自分の耳を覆った。
もう、自分の耳を削ぎ落としてしまいたい。
こんなの聞きたくない。
今、この時、セキレイさんが誰かと肌を重ねているなんて信じたくない。
セキレイさんが、私とは出来ない本番の本番てやつを誰かにしていると思うと、心が壊れてしまいそうだった。
私がセキレイさんの欲求を解消してあげられなかったからいけないんだ。本当はセキレイさんはこんなにも激しく誰かを抱きたいと思っていたんだ。セキレイさんは調教師である前に男で、獣だったんだ。
解っていたはずなのに、セキレイさんのその熱量が他者に向けられている事がとてもとてもショックだった。
一体誰と?
セキレイさんは誰を抱いているの?
誰と、私にはしなかった事をしているの?
どんな事をしているの?
想像しても辛いだけなのに、私はあれやこれやと良からぬ想像をしては1人で傷に塩を塗った。そして隣の情事の騒音など聞きたくないのに、耳を塞ぎながらもそれをそばだてている自分がいた。
知りたくないのに気になる。知って良い事はないのに知りたくなる。
なんなのこれ、辛いよ、しんどい、セキレイさん、もうやめて!
私は王の側室になると覚悟を決めたはずなのに心がおぼつかなかった。
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ
隣の部屋から激しい律動が伝わり、さっき洗って食器棚にしまったマグカップがカチャカチャと瀬戸物特有の細かな振動音を出す。
音や振動を感じただけで判る、フィナーレは近い。
ガタガタガタガタガタガタガタギシギシギシ……キシキシ……
『あ、終わったな』と翠は両手でおでこを押さえ、どっと疲れた様な大きなため息をついた。
私は、一部始終を目の前で見せられていたかの様な臨場感を味わい、衝撃過ぎて立ち直れない。何の感情か解らぬままに大量の涙さえ流れてきた。
もう、死にたいよ……
あまり考えないようにしていたけれど、私がセキレイさんの元を『卒業』した後、セキレイさんは誰か良い人を見つけて結婚して、こうやって子供を作って、私とは別の幸せを手に入れるんだ。
そう思うと、私が今抱えているモヤモヤした感情は、セキレイさんのお相手に対する羨望と嫉妬なのだと思う。
そうなると私は、自分の想像よりももっとずっとセキレイさんの事が好きで好きで堪らなくて、この感情を言葉にするなら、ユリや翠にすら感じた事のない『愛している』という表現になる。

いつの間にか私は、気付かぬうちにセキレイさんの事をこんなにも愛していたんだ!!

セキレイさんへの『愛』を意識してしまうと、辛かったものが物凄く辛いへと変わる。
セキレイさんの事が好きであればあるほど、心が辛くて仕方がなかった。
しんどい、もう嫌だ。セキレイさんの事なんか嫌いになりたい。
嫌いになれたらいっそ楽なのに、そうもかいかないところもまた辛いのだ。
それに盛ったセキレイさんの追い討ちは待ってはくれない。
ガタガタ、ギシ、ギシ、ギシギシギシギシガタガタ
息も調わぬうちに次第に第2ラウンドが始まる。
もうやめて!こんなの耐えられないよ! 
私が顔の前で両の拳を握り締めて何かと闘っていると、翠が私の頭ごと抱き締めて耳を塞いでくれた。
「翡翠、ごめんな、調教師も人間なんだよ」
間に立つ翠も辛いだろうに、彼は私に付き合って隣の『騒動』が収まるのをこうして朝まで待ってくれた。

昼前、もうそろそろいい頃だろうと、翠の外出と共に彼の部屋を出て、私はセキレイさんの部屋をまずドアの隙間から覗き、ベッドが空である事を確認するとこっそり中に入った。
セキレイさんと顔を合わせるのが辛い。でも、私がいなくなった後、セキレイさんはセキレイさんで幸せにならなければならないのだ、ヤキモチを妬いている場合ではない。こういった事には慣れておかなくては──
──そう思ったのだけれど、いざバスルームで当人達がイチャイチャしているのを目撃すると、昨夜の情事が簡単に想像出来てしまって身を引き裂かれる思いだった。
2人は、一夜限りの関係というよりも、長く連れ添った夫婦の様にあうんの呼吸でとても肌が馴染んでいるように見えた。
私が知らないだけで2人はずっと前からこんな仲だったんじゃあないだろうか?
いつもセキレイさんに体を洗ってもらっていたのは自分だったのに……
自分と同じ眼をした女性がとても妬ましかった。
凄く綺麗な人だ。
私は女性の容姿が端麗である事が判ると、凄く卑屈な気持ちにった。
ふとその女性と目が合い、私はどうしていいか金縛りのように体が硬直し、焦っていると、彼女は特に驚いた様子も無く勝ち誇ったように薄笑いを浮かべた。
私はその瞬間、セキレイさんを盗られた敗北感を味わう。
最初から自分の物ではないのに……
そして女性に続いてセキレイさんが私の存在に気付き『しまった』という顔をした。
調教師のセキレイさんが他の女とにゃんにゃんしていたというだけの話なのに、彼は浮気がバレた夫の様なばつの悪い顔をしている。
セキレイさんは悪くないのに。
そう思うと、自分の気持ちよりもセキレイさんが気の毒に思えた。
それに私にはセキレイさんを束縛したり、罵倒出来るような権利は無い。献上品なんてそれだけの存在なのだ。
だから私はセキレイさんを許す他ない。

たとえその相手がセキレイさんの往年の想い人、瑪瑙さんだったとしても。

瑪瑙さんが生きていたとセキレイさんの口から聞かされた時、私は人として考えてはいけない事を思ってしまった。
心の底で、瑪瑙さんが生きていた事にがっかりしていたのだ。
最低だ。私は最低だ。
よりによってセキレイさんが愛した人をそんな風に思うなんて、私は卑怯者だ。
私なんかセキレイさんと一緒にはなれないくせに、人を妬むなんて、筋違いも甚だしい。
でも、セキレイさんの顔や、2人が一緒にいるところを見たら、私はまた酷い事を考えてしまう。きっとイヤな奴になる。
そんなの嫌だ。私はいつ献上されるとも解らないのにセキレイさんにイヤな自分を見せたくない。この想いは成就しないけれど、セキレイさんにはせめて良いように思われたまま卒業したい。

私はノープランで部屋を飛び出し、翠の部屋に行こうとして、考え直した。
翠は出掛けちゃったし、セキレイさんが再度瑪瑙さんを部屋に連れ込んだら、私はまたあの地獄を味合わなくてはならなくなる。
それだけは絶対に嫌だ!
いっそ王に直談判して今日にでも献上の儀式を行ってもらうか……
いや、駄目だ。私ごときが単独で行って王に謁見出来るはずがない。そこはまずセキレイさんに話を通さないと。けど今はセキレイさんに会いたくない。セキレイさんを見ると昨夜の事を思い出してしまうし、どんなに眺めたって自分の物にはならないし、もし優しくされたら逆に辛くなるだろうし。
どうしよう……行き場がない。瑪瑙さんは今日もセキレイさんの部屋に泊まるのかな?
それとも今度こそ2人で逃避行するのかな?
どうせ私はもうすぐ献上されるから、セキレイさんらにしてみたら都合がいいんだろうな、そもそも私はお邪魔虫でしかない訳で、セキレイさんだって追い掛けて来ないし……って、駄目だ、独りでいると嫌な事ばかり考えてどうにかなりそう。
セキレイさんと瑪瑙さんは運命に引き裂かれた恋人同士だったんだから、こうして再会してあるべき形に収まる事が出来て良かったんだ。私があれこれ悩む必要なんかない。私は私で頑張って側室になる、それだけだ。割り切らなきゃ。遅かれ早かれ私はセキレイさんの元を離れるんだから、これで良いんだ。
私がウダウダ悩んでいると、そこにちょうど鷹雄さんが通り掛かる。
「鷹雄さんっ!!」
私は渡りに舟とばかりに鷹雄さんの白衣の裾を捕まえた。
「ん?翡翠?どーしたー?お目付け役も付けずに、また迷子かー?」
相変わらず緊張感のない調子で鷹雄さんが馴れ馴れしく私の肩を抱いてきた。
何処に自分の部屋の前で迷子になる人がいますか、ってか近っ!?
「あの、鷹雄さん、私……」
腰が引ける私をよそに、鷹雄さんは有無を言わさず私をエスコートしだす。
「何々?まあまあ立ち話も何だからさ、ささ、入った入った」
気が付くと私は、ごく自然に、流れる様に鷹雄さんの部屋に誘導されていた。
ミスターオープンマインドッ!!
でも助かった。とりあえずの居場所は見つかったし、今はこれくらい能天気な人が一緒の方が落ち着く。
でも……
ダリアはまだ翠の部屋にいて、私は今、名うての遊び人と密室で2人きりだ。
「……」
私は急に黙りこくってリビングの入り口に立ち尽くす。
意識したら生きた心地がしなくなった。
本棚に並ぶエロ本まがいの性教育の資料、UV殺菌中の謎の地具、存在感のあるキングサイズのベッド、そのどれをとっても私の危機感を煽るには十分だった。
「ほらほら突っ立ってないで、脱いで脱いで、いや、座って座って」
今なんつった!?
はやまったかもしれない。鷹雄さん、この人に道理とか秩序は通用しない。
どうしよう、セキレイさんの事は考えなくて済むけど、なんか貞操の危機を感じる。
「そんなに怖がらなくても優しくするって、じゃなくて、何もしないって、ダイジョブダイジョブ、おいでおいで」
そう言って鷹雄さんは白衣を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めてソファーに横たわり、手をこまねいてそこに私を呼ぶ。
何もダイジョブじゃない……セクハラヤバい。
「い、いえ……」
私は胸の前で両手を振ってお誘いを遠慮した。
「遠慮すんなって、どうせあの絶倫男と喧嘩でもしたんだろ?」
何か凄いピンポイントに鋭いんですけど……
でも鷹雄さんは今帰って来たばかりなのに、そんなにリアルタイムで内情を把握しているはずがない。
「喧嘩はしました……絶倫も、そうだと思います」
私がモジモジとシャツの裾を揉んでいると、鷹雄さんはしつこいくらいに手招きしてくる。
「ハハー、やっぱなー、お前も絶倫相手に大変だろ?どれ、お医者さんが話を聞いてあげるから、おいでおいで」
おいでおいでと鷹雄さんに指された場所は横になった彼の懐だ、添い寝でもしろと言うのだろうか?
「えぇと、あの、いえ、私は……」
私は根が人見知りで鷹雄さんともまともに話した事がなかったのに、いきなりそこまで距離は縮められない。
「ほーんと、何もしないって。ただ、泣いてる女の子に胸を貸してあげたいだけなんだってー」
と言って鷹雄さんが不器用に畳まれたハンカチを取り出すのを見て、私は自分が泣いていた事を思い出した。
この人はただ、本当に私を慰めたかっただけなのかもしれない。
私はこの人を誤解してた。
私は覚悟を決めてそろりそろりと鷹雄さんとの距離を縮め、遂には彼のお腹の辺りにちょこんと腰掛ける。
「え、本当に来るとは思わなかった。へぇ、警戒心が強くてセキレイにしか心を許さないと思ってたのに、かわいいなー」
鷹雄さんはちょっと感銘を受け、嬉しそうに私の頭を撫でた。
セキレイさんとは違う大きな手が、セキレイさんとは違ったタッチで撫でてくる。
新鮮というか、違和感だ。
「あの、鷹雄さん、お願いがあるんですけど」
「うん?いいよー」
「えっ!?」
「だからオッケオッケ」
『献上の日まで鷹雄さんちの子にして下さい!』とビシッと決めるつもりが、鷹雄さんのユルい承諾のせいで肩透かしをくらう。
ミスターオープンマインドッ!!
「絶倫のいんきんたむしと痴情のもつれで喧嘩して家出して来たんでしょ?俺は殆ど部屋に帰らないけど、好きに使ったら?」
そう言って鷹雄さんはいとも簡単にこの部屋のスペアキーをくれた。
軽っ!!
「すみません、ありがとうございます」
「いいけど、なんか前にもこんな事があった気がするんだよねー」
よしよしと鷹雄さんに背中をさすられ、私はそこがゾワゾワと粟立つ。この人はいちいち撫で方がエロい。
「そう言えば瑪瑙さんも献上前に鷹雄さんのお世話になったんですよね?」
以前、セキレイさんが言っていた話だ、その時は土壇場になってセキレイさんが瑪瑙さんを取り返し、かけおちするに至った訳だけど、今回ばかりは迎えに来てはくれないだろう。
私はこれでもかというくらい目頭が熱くなった。
セキレイさんには瑪瑙さんがいる。
「泣くな泣くな、うちの子になれ。うちの子になればダリアみたいにわがままいっぱいに暮らせるぞ?好きな物しか食べなくていいし、好きな事だけして遊んでればいい。お前ら献上品ってのは調教師の元にいる時でしか自分でいられないんだから、今のうちに幸せな事、何でも好きなだけやればいいよ」
鷹雄さんてちゃらんぽらんでいて、本当は器が大きくて寛大な人なのかもしれない。
「たださ、俺は指南なんか関係なく趣味で悪戯しちゃうけどね」
人はそれを犯罪と言う。
「やめて下さい」
自分にしてははっきりと拒絶したが、鷹雄さんは全然懲りていない。
「いいじゃん、ちょっとはセキレイを心配させてやりなよ、いい薬になるからさ」
鷹雄さんの顔を見ると、そこに『ワクワク』という文字が書かれていた。
絶対楽しんでる。
「セキレイさんは心配したりしません。死んだはずの瑪瑙さんが帰って来て、私は邪魔になるし、自分でも戻る気はないし」
セキレイさんは私に瑪瑙さんを重ねて見ていたくらいだから、本物の瑪瑙さんが戻った今、レプリカの私の必要性はなくなる。
そもそもセキレイさんは瑪瑙さんを亡くしてぽっかりと空いた心の穴を私で埋めていただけなんじゃないだろうか……
そう思うと、やっぱり私の涙は枯れる事なく次々溢れ出ていってしまう。
こんな時にユリがいてくれたら心強かったのに、と思うのは自分勝手だろうか?
「翡翠、横になりなよ」
私は鷹雄さんに頭を抱えられ、肩の辺りで抱き締められた。
「いいよ、戻らなくて、たとえセキレイが迎えに来ても戻るなよ。献上の声がかかってもここにいなよ。俺が翡翠を悪い大人達から守ってあげるからさ。俺のそばにいなよ」
グッと鷹雄さんに体を引き寄せられ、彼は私の肩で目元を覆う。
ぬるくて、湿ってる。
私は鷹雄さんという人を誤解していた。
彼はおちゃらけているようでいてとても繊細で、寂しがり屋で、男であるユリをとても愛していたんだ。
鷹雄さんは私を慰めたかったんじゃあない、私と傷を舐め合いたかったのだ。
鷹雄さんと私、変態医師と献上品、変な取り合わせだ。
私はこんなに大きな大人に恥も外聞もなく甘えられるのが初めてで、驚きというか、少し面くらったが、私は大型犬でも撫でる様に彼の後頭部をよしよしと撫でる。
「あーあ、ユリがいないとハンカチもろくに畳めないんだ」
顔を上げた鷹雄さんはいつものお調子者の彼で、手にしていたヨレヨレのハンカチで私の涙を優しく拭ってくれた。
泣いていたのは鷹雄さんも同じなのに、おかしな人……優しい人だ。
「私は大丈夫ですよ」
私はクスリと笑ってそのハンカチを綺麗に畳んであげる。
色恋沙汰で泣いていた自分が馬鹿みたいだ。
鷹雄さんといると母性がくすぐられるというか、自分の事よりも彼の方が心配になる。セキレイさんや翠とはまるで違うタイプの人間だ。
「ねぇ、翡翠、これから毎日ハンカチを畳んでよ」
鷹雄さんは私の二の腕をわしゃわしゃ撫で擦る。
なんか、自分が犬にでもなった気分だな。
「いいですけど、ダリアは畳んでくれないんですか?」
鷹雄さんがあんまり無邪気に私の懐に入り込んでくるものだから、私の警戒心もあっという間に解け、その胸板に身を預けた。
セキレイさんとは違う匂いがするのにイヤな感じはしない。
「──くれる訳がないだろう?」
「はあ、まあ、解ります」
……いっそやらされかねない。
「とりあえずさ、エビフライが食いたいよ」
「エビフライですか?」
それはまた手の込んだ物を……
「好きなんですか?エビフライ」
「嫌い。だって衣類の虫に似てるじゃないか、あの赤い奴。しかも海老の尻尾はゴキブリと同じ成分なんだよ?」
『命をいただいているんだ、エビフライはちゃんと尻尾まで食え』と言っていたセキレイさんはこの話を聞いたらどう思うだろう。
「嫌いなのに食べたいんですか?」
この人はやっぱり変わっている。
「ユリがよく作ってくれたんだ、俺への嫌がらせにね。あんなに嫌いだったのに、今は何故だか尻尾まで食えそうだよ」
本当にこの人はピュアな人だ。稀代の遊び人として浮き名を流してきたとは聞いていたけど、ただ単に鷹雄さんは人たらしなのだろう『憎めない奴』という形容がしっくりくる。
「私の料理はセキレイさんの口に合わせているんで、鷹雄さんのお口に合うかどうか……」
セキレイさんは素材の味がどうのと語り出すようなおいしんぼなので、基本的に私は薄味になるよう心掛けて作っている。でも他の人に料理を提供するのは博打みたいなものだ。
自信がないな。
「なぁに、ユリだって最初はコラーゲンの成れの果てみたいな何かばかり作ってたけど、時間をかけて上達したんだ、その人を想えばおのずと料理は旨くなるんだよ」
バッシンバッシン背中を叩かれ、私は鷹雄さんの胸板にしがみついた。
「そういうもんですか?」
「そーそー、お前が俺の事を想えば美味しいエビフライが出来るのよ」
「私が鷹雄さんの事を想えば……?」

……なんで?

すっかり鷹雄さんのペースに乗せられていたというか、騙される(?)ところだった。
いけないいけない。
「鷹雄さんて、どこまでが本気なのか掴めない人ですね」
「あ、俺?俺は4割本気で7割マジ本気」
「へ、へぇ……」
算数よ……
私がここに来てから、怪我や病気をする度に鷹雄さんに診てもらっていたけれど、よく治ったな。我ながら自分の免疫力とか治癒力に感心する。
「ユリの事は、その、本気だったんですよね?」
デリケートな話題なだけに、私はたどたどしく、確かめる様に尋ねた。
ユリと鷹雄さんが2人だけでいたところをあまり見た事がなかったので、実際に2人がどんな関係だったのか、まるで見当もつかない。
ユリは少年で、女の子が好きだけど、自分自身が女の子として扱われて砂を噛む様な思いをしてきたと思う。だからせめて鷹雄さんにはユリへの愛があったと信じたい。
「たとえユリが女の子でも、そこらの野良犬だったとしても、俺は好きになったと思うよ。だって俺はユリという人間を好きになったんじゃなく、ユリっていう概念を愛したんだから。だから今は、戦場から持ち帰った土を愛しているんだよ」
そう言って鷹雄さんはテーブルに置いた小さな鉢植えを指差した。
「鷹雄さん……」
鷹雄さんの言っている事は難読だけど、私は凄く切ない気持ちになる。
彼のよりしろは、今はもう、あの赤い土だけなのだ。
「今はまだ仕事があるけど、落ち着いたらユリを連れてここを出て行くんだ。世界中を旅して、安住の地を見つけたら俺もユリもそこに根をおろす。翡翠も来ないか?」
私は……
「……行かない」
行けない。鷹雄さんに迷惑がかかるし、私はセキレイさんの願いを叶えて、特別枠の側室になるって決めたから。
「俺はユリの愛した君の事も愛しているのに、残念だよ」
なるほど、それでやけに距離感がゼロなのか。
この人の愛情はトリッキー過ぎてよく解らない。
「あ」
でもそれで言うなら、私だってセキレイさんが愛した瑪瑙さんの事も愛するべきなのかな……
……私も、鷹雄さんみたいに寛大な人間になれたら、もっとピュアでいられたのかもしれない。

それから鷹雄さんと暮らして1週間が経った。
その間、セキレイさんは1度もこの部屋を訪ねて来る事もなく、あれからずっと顔を見ていない。雷の日だってセキレイさんは来てくれなくて、私は鷹雄さんの胸を借りて眠った。
最初は悲しかったけれど、ポジティブな鷹雄さんがずっと私に付き合ってくれて、今ではセキレイさんへの想いを封印する事が出来たと思う。
ちなみにダリアは、元々私を毛嫌いしていたのであのまま翠の所で寝泊まりしている。
鍵も落としたし、私はもう、献上されるその日までセキレイさんに会う事はないだろう。
件の瑪瑙さんはと言うと、舞を踊ったその日に王から気に入られ、ひと月先の出兵式でも舞を披露する事が決まり、今でも同じ建物内で生活している。その為、私は廊下に出る度に細心の注意をはらって遭遇に気をつけている。セキレイさんへの想いを封印したとはいえ、2人ペアで見るのは辛い。ともすれば今頃2人でイチャイチャしているのかな、なんて想像してしまうので絶対に絶対に遭遇したくない。
でもこうやってなんやかんやと献上の日を迎えられたら、セキレイさんと離れがたくなる事もないだろうから、今はこれで良かったんだと思えるようになれた。
「あれ、今朝はニシンの塩焼きか」
鷹雄さんは上半身裸でニシンの置かれたテーブルに席をとる。
「何か冷凍庫にニシンばかり入ってて、つい、昨日の今日でニシンを出してしまったんですよ。鷹雄さんもニシンお好きなんですか?」
私はテーブルに味噌汁やご飯を並べ、鷹雄さんの前の席に座った。
「んー、フツー」
と鷹雄さんはその割りな反応なのに、どうして冷凍庫にニシンばかりストックしてあるのか、私は少し不思議に思った。

午前10時、私達献上品は調教師の教えのもと、城のグラウンドで乗馬の練習をしていた。
いつもはユリに任せきりで陽の当たる場所には滅多に顔を出さない鷹雄さんだったが、彼なりに私に気を遣ってか、2人乗りの付きっきりで指導(?)してくれている。
「ハハー、パカパカ楽しいね、翡翠」
鷹雄さんが後ろから抱き込む形で手綱を握り体を密着させてくるので、乗馬の練習というより親子でポニーにでもまたがっている気分だ。
「鷹雄さん、私1人で乗れますから、降りて下さい」
グラウンドでは沢山の献上品達が単独で馬に乗ってトラックを回っていたが、それらの人々の好奇の視線が痛い。
「いいじゃんか人目なんて、恥ずかしいのだって立派な思い出だよ?」
鷹雄さんは軽快に笑い、私の肩に顎を乗せた。
「変な思い出は残したくないです」
「いいんだよ、俺が翡翠との思い出を残したいんだよ。知ってる?献上前の授業に乗馬が多いのってさ、献上品に馬でトラックを周回させて、それを王がどっかで見定めて、後日、気に入った子を献上させるんだよ」
「えっ!?」
私は寝耳に水とばかりに驚いて辺りをキョロキョロする。
一体何処から見ているのだろう?
「おっと」
急に鷹雄さんが何かから私を隠すように懐に抱き込んだ。
「どうしたんですか?」
「んー?ちょっと視線を感じてね」
鷹雄さんは私を死守するようにコートの中にすっぽりと包み込む。
「どっかから王様が?」
「まあね。俺はまだ翡翠を手放したくないんだ、今日はこのくらいにしよう」
「……王様の視線から守る為に最初からそのつもりで2人乗りしてたんですか?」
「勿論勿論」
もし本当にそうだとしたら、可愛げがあるというか、素直過ぎるというか、鷹雄さんの爪の垢でもセキレイさんに飲ませてあげたい。この人の愛情表現はとても真っ直ぐだ。
……いや、セキレイさんが真っ直ぐになっても、その愛情を向けられるのは私じゃないし、献上品の私には関係のない事か。
私はやに納得してため息を漏らした。
「じゃあ、俺はこの後奥方様の往診だから、その馬面を連れて1人で馬小屋に行けるね?」
鷹雄さんは馬を顎で指し、雪に足をとられながら城へと走って行った。
馬面……
「忙しい人なのに、やっぱり鷹雄さんはいい人だ」
私は馬を引いてトボトボと馬小屋へ向かう。
そして馬小屋に馬を返し、私は次の予定は何だったかとスマホを見ながら小屋内を歩いていると、目の前に人の気配を感じ、足を止めて顔を上げた。
「ヒッ!!」
そこにセキレイさんが立っていて、私は驚嘆して息を詰める。
暫く見ていなかったせいか、初めてセキレイさんに会った時の様に新鮮に体が緊張した。
「あ……あの……」
私は手が覚束なくなり、スマホを床に落とす。
「危ないからながらスマホはするな」
『ほら』とセキレイさんがスマホを拾ってくれて、私はそれをセキレイさんの手に触れないように受け取る。
──ックリしたーーーーっ!!
心臓がバクバクして体が熱い。
嫌だな、セキレイさんにドキドキしているのを知られたくない。
私は封印していた気持ちが今にも解かれそうでハラハラしていた。
セキレイさんはいつになく不機嫌そうなのに、好いた贔屓目で見るとやはりかっこよくて嫌になる。
何でこんな所にいるのさ、今のセキレイさんは面倒を見ている献上品もいないのに何で馬小屋になんか?
「あの……すみません、ありがとうございます」
私に何か用事があったのかな?なんて思いつつも、いやいや自意識過剰でしょとその場を去ろうとしていきなりセキレイさんに肩を掴まれた。
「ヒィッ!!」
私は本日2度目の悲鳴をあげ、肩をいからせる。
「お前な、何怖がってんだよ」
顔を見なくとも口調で解る、セキレイさんはイライラしている。
私は尚更怖くなって、肩を掴まれたままセキレイさんを撒こうと前に出た。
「こら、逃げるな」
咄嗟にセキレイさんに腕を引かれ、私は勢い余って彼の胸板にぶつかる。
うわうわうわっ!!
セキレイさんの胸筋!
セキレイさんの匂いだ。
私の好きなセキレイさんの匂いだ。そんなに日にちは経っていないのに凄く懐かしい。
私は一瞬でその香りにうっとりし、セキレイさんに引き込まれそうになったが、彼を通して瑪瑙さんを思い出してしまい、モヤモヤしてすぐに離れる。
「あの、すみません……」
セキレイさんの胸板は瑪瑙さんの物だ。私のじゃないんだ。
もしかしたら昨晩だって瑪瑙さんはセキレイさんのここで甘えたのかもしれない。
──そう思うと今すぐここから消え去りたくなった。
「セキレイさん、あの……私に何かご用でしょうか?」
私はセキレイさんの目が見れなくて、さっきまで乗っていた馬の顔を見ながら話した。
セキレイさんはもしかして私を連れ戻しに来たのだろうか?
駄目なのに、私は期待せずにはいられなかった。
「いや、用って言うか……お前、少し痩せたみたいだがちゃんと食べているのか?」
セキレイさんは少し困って鼻の頭を指で撫で、それから思いついた様に私の体型を気にする。
セキレイさんはどうしてそんな事を気にかけてくれるんだろう。
でも、ひと欠片でもセキレイさんが私の事を考えてくれたかと思うと、やっぱり心が勝手に踊ってしまう。
「痩せてませんし、ちゃんと食べてますよ。今朝だってニシンを丸ごと1匹食べました」
「そうか」
セキレイさんは何故かちょっとだけ嬉しそうだった。 
「先日の雷は大丈夫だったか?」
「そんなに……近くありませんでしたから」
鷹雄さんがそばに居てくれたなんて話したらセキレイさんはどう思うのだろう?
「鷹雄に何か変な事はされてないか?」
そう言ってセキレイさんに我が物顔で体中をチェックされ、私は想いの封印が解けそうで困ってしまう。
セキレイさんに触れられるとそこが火照って熱くなる。
この強引で雑な触り方、セキレイさんらしい。
私はこれが好きだった。
「あの、あの、セキレイさん、鷹雄さんは優しいですから大丈夫です。紳士に接してくれています」
「あいつはちゃんとお前の健康管理もしているのか?やっぱり、どうにも痩せた気がする。どっか具合が悪いんじゃあないか?ちゃんとアボカドも食べているのか?あれは多分、凄く体にいいんだ。それにエビフライは尻尾まで食べないと駄目だぞ?カルシウムなんだからな」
セキレイさん、エビフライの尻尾はゴキブリの親戚ですよ。
「セキレイさん、鷹雄さんはお医者さんですよ」
私はもうセキレイさんちの子じゃないのにどうしてこんなに心配してくれるのだろう?
セキレイさんには瑪瑙さんがいて、私の事なんか邪魔なはずなのに。
私は親離れして献上の日を迎えたいのに、お願いだから私を勘違いさせないで。
「医者ったって鷹雄は婦人科のヤブだからな。何か少しでも変わった事があったら俺に何でも言うんだぞ?鷹雄に変な事をされたりとか、何でも。今、俺達は距離を置いて子離れ、親離れしようとしている訳だが、絆までは失われた訳じゃない。お前が困った時は必ず俺が助けるから、それがたとえ側室になれた後でも、お前に手は届かないが、俺なりに尽力するつもりだ」
セキレイさんはしっかりと私の両肩を掴み、照れくさいくらい間近で私を見据えていた。
少し前へ出れば今にもキス出来そうなその距離にセキレイさんがいて、あの時私の唇を奪った唇が弧を描いて言葉を紡いでいる。
薄くて形の整った綺麗な唇だ。
またあの時みたいに強引に唇を奪われたい。いいや、全てを奪われてしまいたい。セキレイさんの物になりたい。セキレイさんを自分の物にしたい。自分だけの物にしたい。毎日寝癖がつく髪も、不機嫌な仏頂面も、長い手足も、冷静な心臓も、不器用な内面も全て。
やっぱり私はセキレイさんの事が好きだ。大好きなんだ。
凄く凄く誰よりも愛している。
たとえ命に代えたってセキレイさんを愛している。
でも──
本当の好きって自分が幸せになる事じゃないんだ。
私は自分が幸せになる事よりも、好きな人に幸せになってほしい。瑪瑙さんとの悲運の恋をゴールさせてほしい。
セキレイさんは充分苦しんだ。弟に実権を握られ、一国の王になる事を目指したが、それをなげうってでも瑪瑙さんと幸せになる事を選んだ。私はそんなセキレイさんを人として尊敬しているし、どうかそのままでいてほしい。たとえセキレイさんの隣に立つのが私でなくても、セキレイさんと同じように苦しんだ瑪瑙さんの事を大事にしてほしい。

「セキレイさん、私はもうすぐ献上の日を迎えます。感謝の気持ちはとても言い尽くせないけれど、私は大丈夫です。セキレイさんのおかげでとても強くなりました。私は必ず側室になってセキレイさんとの約束を果たします。だからセキレイさんは、これからは自分の幸せの為に生きて下さい。何年も前に果たせなかった夢を叶えて下さい。私はその為に存在しているのですから」
セキレイさんの瞳を直視するのは辛かったが、私は終始彼の目を見て大切な思いを伝える事が出来た。セキレイさんは何かを察してその瞳に哀憐の色を浮かべていたが、私はこれで良いのだと思った。
もう、決心は揺るがない。
そして私は一度ゆっくりと呼吸を整えて深々と頭を下げた。

「セキレイさん、今まで大変お世話になりました」

これが私の、大好きなセキレイさんへの『さよなら』だ。
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