ピエロと伯爵令嬢

白湯子

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冷えきった右手

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そう言えば、何時から兄は過保護になったのだろうか。
昔の兄は心配性ではあるものの、そんなに激しいものではなかった気がする。

どうして?

何時からといえば、私は何時から男の顔を忘れているのだろうか。
いつから、いつから、いつから…。
いくら考えても答えは真っ暗な闇の中。
まるでそこだけが、その時だけがぽっかりと抜け落ちてしまったような。

ねぇ、私は約束通り貴方にピアノの演奏を聞かせて上げられたの?
信じられないでしょうけど、上手になったのよ。
ピアノの先生のお墨付きぐらいに。
本当よ。
貴方に聴かせるため、ただそれだけ、あの時の貴方のように諦めずに頑張ったの。

ねぇ、

貴方にそう伝えたい。
そして、貴方の声音に乗せてその言葉を聞きたい。
きっと私は昔からたった一言、貴方から聞きたかったんだ。

***

眩しいくらいにライトに照らされたピエロの出番が終わってから、私は心ここにあらず。
文字どうり、今の私は空っぽだ。
心躍るような空中ブランコも、緊張感が走るナイフ投げも、どれもこれもどこかボンヤリとした気持ち、現実味が無いのだ。
まるで、あの時、時が止まった時に何か大切なものを置いてきてしまったような…。
今の私はただ、目の前に広がるサーカスを景色と捉え、ガラス玉の瞳で写しているだけだ。
そこには何の感情もない。

感情を置いてきてしまった私のことなんてお構いなしに時は進んでいく。
これが、当たり前だ。
なのに何故腑に落ちないのだろう。

どうして。

私は流れゆく景色をただただガラス玉に写した。

「薔薇の香り…。」

ぼそりとそう呟く兄の声が聞こえた。
私は反射的に兄の瞳を見たことを後悔した。

「どういうことかな、チェルシー。」

穏やかな微笑を浮かべる兄に嫌な汗が背筋に流れた。
目が、目だけが笑っていない。
そのアンバランスさが更に恐怖を煽る。

「入った時から怪しいなとは思っていたよ。確かめるため前席に座ってみれば…思った通りさ。」

兄は私の右手を手に取り、自身の鼻筋が通った形の良い鼻へと運んだ。
はたから見れば、その姿は恋人に愛を囁く紳士そのものだ。

「同じ香り、だね。チェルシー、君は私に黙ってここに来たのかな?お目当ては…言わなくてもわかるよ。兄だからね。」

そう言って兄は一瞬、サーカスの舞台の方へ視線を送った。
固まっている私にはその視線を辿ることは出来ない。
だが、兄が誰を見て、誰に笑みを送ったのは予想がつく。

「記憶が無くても彼の元へ行くのは身体が覚えているからなのか、それとも…」

何を言っているのかが、わからない。理解ができない。おいつけない。
ただ一つ理解できることと言えば、その先を言わないでほしい。
いや、言ってはダメだ。

「これが愛、というものなのか。」

脳内に泣いている少年がチラつく。

兄に掴まれた右手は完全に冷えきってしまった。



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