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2話 パンは草から出来るって

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「イアン、こんなところにいた」

 さわさわと揺らめく桜の木。その枝の上に寝そべるイアンは、本を閉じて声の方を見やる。呆れた様子で見上げたサミュエルは、木刀を担ぎ直した。

「神父様、また怒ってるよ。悪戯っ子が出たって」

「ふふん、トカゲが苦手なのがいけないんだ」

 舌を出して見せれば、「イアン」と窘める声が聞こえる。

 出会いから早くも五年。

 サミュエルが王信仰にのめり込むのと相反して、イアンは自らを抑えることをやめた。優等生イアンはいつしか悪戯っ子イアンへと変わり、対するサミュエルは変人から天才へ。

 ひとえにこれは策略であった。障害となる優等生の地位を下げることで、サミュエルの地位を上げる。イアンへと集まっていた羨望の視線は無垢な少年へと移り、イアンは晴れて自由の身――そういう魂胆であった。

 我ながら行き当たりばったりな策略ではあるが、人間らしいことだと余所の目には映っているだろう。そう信じるばかりだ。

 ふとサミュエルの手元に視線を落とすと、そこには紫の花があった。花弁の反り返る小さな花を無数につけた束は、サミュエルに毒々しく怪しい魅力を滲《にじ》ませる。昔話で語られる呪いの宝石とは、きっとこのような見た目なのだろう。

「それ、イミリンドウ?」

「うん、お茶にするからって。訓練が終わったら飲もうって話をしてたんだけど……イアン、聞いてなかったの?」

 五十度以上の水温で煎じると普通の茶として飲むことが可能だが、冷えると途端に毒性を発するようになる。

 奇怪な特徴こそ持っているものの、野草でありながら甘く芳ばしい茶を煮出すこの花は、金のないダージリン教会では嗜好品として尊ばれている。

「おれはパス。そんな毒物、飲む気になれないよ。それに訓練だって参加してないし」

「……昔は真面目だったのに」

「昔と言ったって、出会ったばかりの頃のことでしょう? 何年前だと思ってるの。いいんだよ、それなりに戦えれば。遠征に支障は出ないから」

 カップランドには『遠征』という制度がある。孤児や戦闘職の家系に生まれた子供は、物心ついた頃から訓練を始め、成人を迎える十三の年にカップランドを出ていく。

 目標はたった一つ。『プレイヤー』と呼ばれる人物の捜索である。

「遠征には前向きなんだね」

「そりゃあね。結構楽しみにしてるんだよ、これでも」

「壁の外を見たいから?」

「世界を見たいから」

 希望はとうの昔に失った。そう思い込んでいたが、どうやら神はイアンを見捨てなかったようである。

 教会の隣に建つ、大きな図書館。人っ子一人立ち入らず、今にも倒れてしまいそうな様相を呈《てい》しているが、中には膨大な知識が詰まっていた。ホコリを払い、紙魚しみの這った跡のあるページを捲り、舞い上がるホコリにくしゃみをする。

 知れば知るほど、知らないことが出て来る。それは非常に不思議な感覚だった。同時に世界に希望を見出した瞬間だった。世界は自分の範疇に収まらない、それを知ってようやく世界が『生きている』ように感じたのだ。

「知る度に、知らないことが増えていく――案外おれって学者気質なのかもね?」

「少なくとも、僕よりはそうだと思うよ」

「座学苦手だもんなぁ、サミューは」

「授業を受けない人よりはマシだよ」

「復習したって意味ないし。文句なら神父様に言って」

 身を起して、少しきつい靴を木から降ろす。すると早く降りろと言わんばかりにサミュエルがイアンの足を引っ張った。

「……神父様から、早くパートナーを選べって言われた」

「へえ?」

「僕に“余りもの”をあてがうのは王の意志に反するって」

 ついに来たか。イアンは目を細める。

 遠征においては二人一組が基本である。来たるべき日に備えて、イアンも相棒の品定めをしていた。それに際して重視するのは己が隠れられること、つまり相方が『目立つこと』であった。

「おれが一緒に行ってあげようか」

「えっ」

「弓矢を持って突っ込む馬鹿を扱えるの、おれくらいでしょ?」

 サミュエルは才も美も両方を兼ね備える。

 一年と掛からず剣の技を習得したにも関わらず今度は弓を鍛錬し、しかもその腕前と言えば、さながらタカのようである。短気なところがあるのが玉に瑕だが、戦闘能力も容姿も人の御業とは思えないくらいに抜きん出ている。

 願ってもない申し出であった。いつ切り出してやろうか、イアンも機を窺っていたのである。サミュエルならば断わるまい。それどころかその美しい容貌を綻ばせて頷く筈――そう、思っていたのだが。

「……本当に、僕でいいの」

 彼の口から飛び出したのは、迷いだった。

「妥協で死出の旅の相棒を選んだりしないよ」

「死出の旅だなんて不謹慎な……」

 ひらりとイアンは桜の木から飛び降りる。サミュエルの横に着地すると、少しだけ高くなったサミュエルの目がくるりと見下ろす。色素の薄い髪が睫毛に掛かり、影を落とした。

「イアンはいつも『今』を見ていないだろう? ずっとずっと先のことを考えている。『今』で精一杯な僕じゃなくて、もっと頭がいい人を相棒に選ぶべき……だと思う」

「へえ、サミューはおれが頭悪いって言いたいんだ?」

「なっ、なんでそうなるんだよ!」

 目尻を吊り上げたサミュエルが声を張る。その必死の形相に、イアンは思わず噴き出した。

「サミューがおれを『賢い』と思うなら、黙っておれの言うことを聞いておくべきじゃない? 言ったろ、おれは妥協で選ばない。おれがサミューを相棒に選ぶこと、これは何よりも最善の選択だ。他の奴等じゃ務まらない」

「本当に?」

「本当だって。何で今日に限ってそんなに疑り深いのかな~」

 つん、と皺《しわ》の寄った眉間を突く。

「おれが今まで嘘を吐いたこと、ある?」

「この前パンは草から出来るって言った」

「あれは本当のことだよ」

「パンが成ってる草なんて見たことない」

「そりゃそうでしょうよ。そんな夢のような植物があったら、こっちが見てみたいよ!」

「あと小麦粉も草って――」

「だーかーらー、それも本当! 全く……一度農家に連れて行かないと治らないかな、この馬鹿は。それとも粉曳き小屋?」

 こめかみを揉み、気持ちを落ち着ける。するとどこからか、くすくすと笑みの零れる音が聞こえてきた。サミュエルだ。細身を折り曲げて肩を震わせている。

 久し振りだった、サミュエルがここまで笑うのは。

「何がそんなに面白いのさ」

「ふふ……いや、悩んでいた僕が馬鹿みたいで。いつも通りで安心した」

 サミュエルはサミュエルなりに考えていたのだろう。サミュエルがイアンと組む時、イアンにどのような損失があるか。自らの所為で、イアンが我慢をしてしまわないか。

 少年がダージリン教会に出入りするようになってからというもの、イアンの世界は色づいた。無垢という雫は、瞳を濁す黒い灰を拭い落としたのであった。しかし同時に、それは『優等生イアン』の死を意味していた。

 イアンが『優等生』たる所以は、それ以外に自分の身を守る術がなかった、ということにある。

 神父に気に入られれば食事時間外にこっそりお菓子をもらえるし、遠征に際してはパートナーを選択する権利が与えられる。優等生を演じることで、悪戯っ子を宥めていたのである。

 しかしサミュエルが来てからはどうだろうか。サミュエルは才能の塊である。イアンが被る優等生の皮では補えなかった武術の習得を優にやってみせた。しかもイアンとの仲も悪くない。

イアンは利用したのだった。サミュエルを、才色に富んだ無地の獣を。

「……ああ、馬鹿だよ。本当に」

 全部、イアンの思い通りだとも知らずに。

 ひとしきり笑い終わった後、二人は顔を見合わせる。サミュエルの宝石のような目に、迷いはなかった。

「どうか死ぬまで――よろしく頼むよ、相棒」

「もちろん。王の願いを叶える為に」

 信念の異なる二人の少年、イアンとサミュエル。同胞と両親にそれぞれ見送られ、壁の外へと旅立った。

 齢十三の夏のことだった。
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