香子ちゃん

とまこ商事

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香子ちゃん

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    香子ちゃんの思い出話をしようと思う。
    香子ちゃんとは、小学2年生のときに同じクラスになった。香子ちゃんはめがねをかけていて、笑うと目がとても細くなる。いつも自分の席で本を読んだり絵を描いたりしていて、長い艶のある髪の毛を毎日二つに結んでいた。
    香子ちゃんと初めて喋ったのは、9月だ。9月4日の水曜日の放課後。私はいつも遊んでいた友達とけんかしていて、一緒にかえる相手が居なかった。神山茂史でさえ、この日はいなかった(神山茂史はいつも誰よりも早く登校し、誰よりも遅く下校する)。
    私は下校の時間になるまで窓の外を眺めていた。いつも下校の時間まで友達と遊んでいるので、いくら相手が居ないからとはいえ珍しく早く帰宅すると、母は何かあったのかと心配するだろう。私はそんな母の態度が癪でもありまた哀れだったので、いつもの時間まで暇を潰すことにしていたのだ。窓の外を眺めながら、歌をうたってみたり口笛を吹いてみたり。
    香子ちゃんは、そんなとき不意に声をかけてきた。手に、洗いたての雑巾を持って入り口に立っていたので、今日の日直が香子ちゃんだったということがわかる。私は香子ちゃんのことを、その存在程度にしか知らなかったので、気まずさを覚えた。普段話さないので、どんな言葉をかけるのがふさわしいのかがわからなかった。
    私が黙っていると、なにしてるの?香子ちゃんの方からそう尋ねてきた。きもち首を傾げて、丸い黒目がかった瞳で私をまっすぐに見ている。
「そこから見える夕焼けってきれいだよね」
    香子ちゃんはそう言って雑巾をばけつに入れ、ぬれた手をスカート拭いた。上靴をぺたぺたと鳴らして、私の横まで駆けてくる。
「三浦さんもそう思う?」
    ーー三浦さん。私はこのときはまだ香子ちゃんのことをそう呼んでいた。香子ちゃんがにこやかに頷いたので、私はがぜん嬉しくなって話しかけた。
「ここからほら、あそこに煙突が見えるでしょう?あれって何の煙突だと思う?銭湯かなあ、パン工場かなあ」
私が手を伸ばして突き出たそれを指さす。香子ちゃんは微笑んでゆっくりと頭を振った。
「あれは火葬場」
そういった香子ちゃんの声は、ひどく静かだった。怖い話をするときのように、秘密の話をうちあけるときのように。
「かそうば?」
私は火葬場が何かさえ分からなかったので、何かの工場のことだと思った。コンクリートとか、車とかの。香子ちゃんは真面目な顔で頷く。
    かそうばってなに?と私が訊くと、香子ちゃんは少し考えたように口をつぐんで、弱々しく笑った。大人びたわらいかたをするな、と思う。香子ちゃんは大人びたわらいかたで微笑んで、死んだ人を焼くところ、と答えた。 

    シンダヒトヲヤクトコロ。 

    私はそれでもまだ分からなかった。そのころの私は、死んだ人というのはそのまま墓に埋められると思っていたのだ。 
「まさか」 
死んだ人を焼くわけないじゃない、と私はなかばさとすように香子ちゃんに言った。でも香子ちゃんはまっすぐな瞳で頭を振り、 
「ほんとだよ。お母さんが言ってた」 
香子ちゃんはこの話はおしまい、というように窓から離れ、嬉しそうに教室の外を指さした。私は香子ちゃんが笑うと目がとても細くなることに、このとき初めて気がついた。 
「みどりのへいたいにつれてってあげる」 
    ランドセルを背負って、香子ちゃんはそう言った。みどりのへいたい?とおうむ返しに尋ねても、香子ちゃんは着くまで内緒、と言って廊下に出た。 
「とっても美しくてかなしいところよ」 
歩きながら、香子ちゃんは大人びたわらいかたでそんな風に呟いた。 

「ここよ」 
    香子ちゃんに案内されて来たのは、校庭の朝礼台だった。べこべこの階段がついていて、校長先生が朝礼なんかのときに登って話す、鉄製の朝礼台。台の四隅にはおんなじように鉄でできた細い柱がついていて、香子ちゃんはその階段の下に入り込んだ。 
「晴美ちゃんも入って」 
香子ちゃんが私をそう呼んだのは初めてだったが、私はそれに気づかなかった。気づかないまま、私はそのうす暗い朝礼台の下にもぐりこむ。 
私が中にはいると、香子ちゃんはランドセルの中から迷彩柄の布を取り出し、周りをガムテープで張り付けて囲ってしまった。さらにうす暗くなったその個室の中央に、香子ちゃんはスカートのポケットから出した兵隊の小さな人形を取り出した。はだ色の、何の着色もされていないその安っぽちな人形はポケットから次々と出てきて、7体にまで及んだ。 
    香子ちゃんはそれをきれいに立たせて並べると、にっこりと微笑んで私を見た。 
たしかにそこは、美しくてかなしいところだった。香子ちゃんは微笑みながら、 
「ときどきね、嫌なことがあるとここへくるの。算数で算盤があるときとか、図工で粘土版を忘れたときとか、給食を残した日の帰りとか」 
    ふうん、と私は答えた。
    興味がなかったというより、どう答えるのが正しいのかが分からなかったのだ。ただ、嫌なことがあるたびに香子ちゃんがこの中でへいたいたちと戦っていたのだと思うと、このひそやかな密室のなかに香子ちゃんの苦しみが蓄積していっているような気がして、ひどくおぞましい、と思った。もしここで私が香子ちゃんの敵にでもなろうものなら、たちまち殺される。香子ちゃんにはへいたいたちがついているのだ。私がそんなふうにひとりで怯えていると、香子ちゃんは目元をゆんわりとほころばせて笑った。 
「朝礼のとき、校長先生がこの上に立って話すでしょう?運動場に並びながら、この上に立ってる校長先生の下にみどりのへいたいを想像して合わせて見るのって、すごく楽しいの」 
言われて、私は朝礼を思い浮かべてみた。朝礼台の上に立って、後ろ手を組んで話す校長先生の下の、がらんどうの世界。みどりのへいたいに変わる世界。 
「ここに来るとね、全部がきれいにながれおちていくような気がするの。私もへいたい達と一緒にたたかってるんだ、って気がして、強くなれる気がするの」 
    香子ちゃんは、いきいきとした口調で話していた。ほんの少しだけ声が響く、みどりのへいたい。 
「私とへいたい以外にみどりのへいたいに来たのは、晴美ちゃんが初めてだよ」 
    香子ちゃんはそう言って、またにっこりと微笑んだ。 


    下校時間を過ぎて、私達はすっかり布や人形を片付けた。一体ずつ、丁寧に砂を払って、香子ちゃんはポケットの中にしまった。 
外は涼しく感じた。うっすらとやわらかな風が、香子ちゃんの前髪を揺らしている。夕日越しに見ると香子ちゃんは余計に大人びてみえた。 
「さよなら、晴美ちゃん」 
    香子ちゃんはにっこり笑って大きく手を振った。 
「さよなら、香子ちゃん」 
    私が香子ちゃんをそう呼んだのは、それが最初でもあり、また事実上の最後だった。明日になればもう話さないことを、多分お互いに知っていたから。 
    そして、私はその晩夢をみた。朝礼中に、香子ちゃんが朝礼台の下にもぐりこんでゆくのを。既に朝礼台の下にみどりのへいたいは出来上がっていて、香子ちゃんの他にも次々と子供がみどりのへいたいの中に入ってゆく。けんか中の大沼麻子も、幼なじみの向井広子も、それから神山茂史も。校長先生はそれには全く気づかずに話を続ける。交通ルールの話やボランティアの話なんかを。私はいつの間にかひとり取り残されて、途方に暮れるばかりだった。 
    翌朝の登校中に、私は大沼麻子と仲直りをした。 
そうして学校につき、いままでのように私は大沼麻子と一緒に過ごすようになる。香子ちゃんもいままでのように、自分の席で本を読んだりする子に。 
    それから二度と、香子ちゃんとは話さなかった。クラス替えでもそれきり一緒になることはなかった。そして、私が見る限りでは朝礼台の下はいつでもがらんどうだった。まるで、みどりのへいたいはどこにも存在しないようだった。 

**** 

    同窓会というものに出る気まぐれを起こしたのは、6歳になる甥の持っているおもちゃの戦艦や兵隊の人形を見て香子ちゃんを思い出したからだ。香子ちゃんも来るかも知れない、と思った。私と同じに年を取り、もはやすっかり大人になった香子ちゃんが。会ったところで何を話せばいいのかは相変わらず分からないのだが、とにかく香子ちゃんの顔を見たいと思った。 
「三浦さんって来てる?」 
    それでも私がそれを尋ねたのは、2次会に入ってからだった。お互いに自らの意志で集まって、久し振りなくせによそよそしくてそわそわした雑然とした居酒屋で、私は居心地が悪かったのだ。
    かつてのクラスメイトとはいえ、まるで見知らぬ会社の飲み会にでも放り込まれたような心持ちだった。 
「三浦さん~?」 
    焼酎で程良く酔ったかつてのクラスメイトは、香子ちゃんの名前を初めて聞く俳優の名前のように発音した。明るく、しかし興味のまるでこもらない声で。 
    香子ちゃんは元来記憶に残るようなたちのひとではない。私でさえ、甥の人形を見るまでは忘れていたのだから。 
「なんでもないわ」 
私はやわらかに微笑んでそう言い、サワーを飲んだ。 
    ーー香子ちゃんは来ていない。たしかな確信を持って私はそう思った。よく考えてみれば分かることだった。香子ちゃんはこのような場に来るたぐいの人ではない。 


    うっかり帰るタイミングを逃してしまい、結局最後まで残ることになってしまった。残っているのは家庭をもっていない者ばかりだった。皆一様に、酔いの勢いも手伝って既婚者の悪口に花を咲かせている。ニョウボに目ぇつり上げらぇてすごすご帰るやっつぁ馬鹿野郎だ、という呂律の回らない声が聞こえ、そうだそうだ、という大げさで無責任な声がそれに答える。私はいたたまれなくなってしまった。どうしようもなく自分はここには場違いだった。
    面影すらきえ失せた大沼麻子にビールをすすめられながら、私は香子ちゃんは今日ここに来ていなくて正解だったのかもしれない、と思った。 

    深夜をまわってようやく解散になり、私は別れをつげてかつての人達と別れた。また会おうねえ、とか、たまには連絡しよう、とかの月並みな挨拶を交わして。かつての友人たちと、顔を見ても思い出せない人たちと、それから名前だけは知っていた人たちに。 
    私が舗道を歩いていると、後ろから声がした。おい、と。 
「確かにいたよな。三浦香子」 
    私が驚いて振り向くと、そこには神山茂史が立っていた。28年前よりも背が伸びて、少しだけ痩せた神山茂史が。同窓会のあいだじゅう、周りに混ざって焼酎ばかりを呑み、同じように騒いでいた神山茂史が。ニョウボに目ぇつり上げられてすごすご帰るやっつぁ馬鹿野郎だ、に対してそうだそうだ、と言っていた神山茂史が。 
「葬儀屋の娘で、腹違いだけど弟がいた」 
神山茂史は淡々とそんな事を言った。どっちも、初めて聞く話だった。私の知らない香子ちゃんの話。葬儀屋。 
「下校の時間に窓を閉めようとしたら、三浦香子が朝礼台の下で何かやってるのが見えるときがあって、いつも何してるんだろうって思ってたよ」 
    私はほんとうに驚いた。神山茂史は知っていたのだ。香子ちゃんだけのみどりのへいたいを。 
「一回だけ、窓から見てるときに目が合ったことがある。でも、そのときは急いでたから窓だけ閉めて帰ったけど」 
    私は、神山茂史が自分からこんなに話す人だとは思わなかった。私の記憶の中にある神山茂史は始終無口だった。 
    それからなにかあったの?と私が訊くと、神山茂史は頷いて口を開いた。 
「中学のときにいじめにあって自殺した」 
私は神山茂史の口から放たれる言葉を、呆然とうけとめた。 

    チュウガクノトキニ、イジメニアッテジサツシタ。 

私はみどりのへいたいのことを思い出した。というよりも、どうにかして細かいところまで思い出そうとした。迷彩柄の幕と、7体のはだ色の人形。地べたに座ったためにざらついたスカートや靴下。香子ちゃんの大人びた笑顔。 

    トキドキネ、イヤナコトガアルトココニクルノ。 

「学校の前を通って帰りましょう」 
私は神山茂史にそう提案した。
    香子ちゃんは今、みどりのへいたいに居るのだ。私達の同窓会は、はなからそこへいくべきだったのだ。 
    私と神山茂史は、連れ立って学校へ向かった。香子ちゃんの居る、みどりのへいたいに。


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