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第17話「沈黙するラボ」
しおりを挟む午前十時すぎ、真木の事務所に、珍しく分厚い封書が届いた。表書きには差出人の名前はなく、消印もぼやけて読めない。中には、機密保持誓約書と、詳細不明の業務依頼書が入っていた。
「なんだこれは……?」
真木が眉をひそめて読み進めていくと、その末尾に小さく、ある機関名が記されていた。
――ナグモ・バイオテック。
先端的な生体工学を扱う、国内屈指の民間研究所だ。政府とも資金面でつながりがあり、名前こそ公には出ないが、軍事転用の可能性がある技術も多く扱っているという噂のある場所だった。
「この依頼、明らかに普通じゃねぇな……ユリカ、お前にも見てもらっていいか?」
ユリカはソファで紅茶を飲みながら、封書の内容を静かに読み取り始めた。眼の動きは速いが、一つひとつを確実に理解している様子だった。
「……研究データの改ざん、そして数名の研究者が相次いで退職。公表されていないけれど、内部は相当揺れているみたいですね」
「外部に漏らせないが、内側から調査もできない……ってことか」
ユリカは、カップをそっと置きながら微笑んだ。
「真木さん、現場、見に行ってみましょう。知りたいことが、たくさんあります」
⸻
その日の午後、二人はナグモ・バイオテックの研究棟に足を踏み入れた。
白と灰の無機質な建物、無言で通り過ぎていく白衣の研究員たち。重苦しい空気の中、案内を任された管理職の男性が、こわばった声で言った。
「……できるだけ静かにお願いします。あくまで“機器点検の外部業者”という体で来てもらってますので」
真木は軽くうなずいたが、ユリカは何も答えず、ただ研究室のガラス窓越しに内部を見つめていた。
顕微鏡、冷却装置、そして中央に設置されたセキュリティ付きデータ端末。その配置を一瞥しただけで、彼女はすでに“なにか”を読み取っていた。
⸻
「この研究室、微妙に空調ノイズが変ですね」
ユリカがぽつりと言った。立ち止まり、耳を澄ます。通常なら気づかないような低周波の振動が、ユリカには明瞭に聞こえていた。
「……何か、隠してる?」
「え?」
真木が聞き返す間に、ユリカは壁際の空調パネルを軽く外し、中の排気口を覗き込んだ。細いドライバーで奥をつつくと、カチ、と小さな音がした。
そして、そこから小さなメモリカードが転がり出た。
⸻
「……これは?」
「ノイズが変だったのは、ここに改造された小型レコーダーが仕込まれてたからです。おそらく、この研究室の“本当の記録”が残ってる」
ユリカはカードを自前の端末に接続し、保護されたファイルを数秒で複合化してみせた。
「見てください、この音声。実験データが改ざんされていたやり取り……証拠です」
真木は、思わず息を呑んだ。ユリカの処理速度は人間の常識を超えている。だが彼女は、得意げな様子も見せず、ただ画面に静かに目を落としたままだった。
調査を終え、ひとまず職員食堂に案内されたユリカと真木。殺風景な白いテーブルにトレイを並べながら、真木がメニューを見て呟いた。
「日替わり……激辛ビーフカレー?なんか研究所っぽくねえな」
隣でユリカは微笑みながら、サラダとパンを選んでいた。
「私は辛いの、ちょっと……苦手なんです」
真木は半ば冗談のつもりで言った。
「万能のユリカさんにも苦手あるんだな」
「ありますよ。虫と、辛い食べ物と、あと……」
ユリカはふと指先でフォークをいじりながら、少しはにかんだ表情になった。
「可愛いものに弱いんです。ぬいぐるみとか、フリルのついた文房具とか……本当は、見つけるとつい買ってしまいます」
真木は不意を突かれて、口にしていた味噌汁を吹きかけた。
「……は? あんたが? なんで?」
「“効率”では測れない魅力も、世の中にはあるんですよ」
そう言って静かに笑うユリカに、真木は少しだけ目を細めた。
ふと、研究棟の端に設けられた展示コーナーのガラスケースに視線を移すと、そこには過去のプロジェクトの記録とともに、生体昆虫を模した試作模型がずらりと並んでいた。
ユリカが歩み寄ったかと思った次の瞬間。
「……っ!」
まるで反射的に飛び退くように、彼女が1メートルほど距離を取った。
「……これは、無理です」
声は小さかったが、明らかに顔が引きつっている。
「虫の模型でもアウトか。なるほどな……ユリカ、無敵じゃなかったんだな」
真木が笑いながら近づくと、ユリカは眉をひそめて少し口を尖らせた。
「からかわないでください。私だって、嫌なものはあります」
⸻
午後、別室に通された二人は、研究の中枢とされる第3ラボに案内された。ここには、生体適合素材に関する極秘プロジェクトの記録があると言われていた。
ユリカは、壁際の端末にそっと指を置いた。複数の暗号層で保護されたファイルが並んでいたが、彼女の手にかかれば、ほぼ瞬時にロックが崩される。
「これは……“数式のふりをした鍵”ですね。変数の配列が規則的すぎる」
その計算式の羅列を、彼女は指先で空中に書き描くようにして、解読していく。やがて端末が一瞬点滅し、内部ファイルが表示された。
そこに記録されていたのは、開発中の生体パーツの投与データと、過去に試験的に使用された患者のリスト――その一部には、既に死亡と記された者も含まれていた。
「……これは、完全にアウトですね」
ユリカは淡々と告げたが、その声には確かな怒りが込められていた。
「効果が証明される前に、外部の医療機関で“非公式の治験”が行われていた形跡があります。倫理委員会を通っていないどころか、記録の改ざんまでしている……」
真木は顔をしかめながらうなずいた。
「つまりこれは、ただの粉飾じゃねぇ。人体実験だ」
ユリカが一つ頷き、プリントアウトを静かに重ねていく。
「この証拠があれば、警察も動かざるを得ません。研究所の上層部、これで言い逃れはできないはずです」
証拠書類一式を揃え、ユリカと真木は、東京都内の警視庁知能犯罪課に足を運んだ。
受付で通されると、応対に出てきた刑事は資料を見た瞬間、眉を跳ね上げた。
「……これは、相当ですね。医薬倫理違反に加え、会計上の粉飾、隠蔽工作……ここまで揃っているのは、正直驚きです」
「証言者もいます。実験に協力したつもりが、気づけば自分が“対象”になっていた。治験データが捏造され、効果のない医療素材が市場に出回ろうとしていた。人命が危険にさらされていたんです」
真木が低い声で告げると、刑事は深く頷いた。
「捜査に入ります。詳細は追って連絡しますが……動きは速くなるでしょう。ありがとうございました」
控室に戻る途中、真木はそっとユリカの横顔を見る。
彼女の瞳は静かだった。だが、その奥には確かな怒りと、何かを憂う色があった。
「ユリカ。……あんた、やっぱりどっか、普通の人間じゃない気がするよ」
冗談半分で言ったつもりだったが、ユリカは足を止めて微笑した。
「普通、の定義にもよりますね。でも……」
そして、小さな声で付け加えた。
「私は、ただ……人が人らしく生きられる世の中のほうが、好きなんです」
⸻
その夜、都心の小さなジャズバーの片隅。発表会用の生演奏が終わった後、閉店間際の静けさの中で――
ユリカは、ひとりピアノの前にいた。
鍵盤に指を滑らせ、即興で短い旋律を奏でていく。甘く、切なく、けれど凛とした一曲。まるで、傷を癒す祈りのような音色。
そこに現れた真木が、カウンターにもたれかかる。
「勝手に弾いてていいのかよ」
「マスターの許可は得ました。ピアノ、調律が狂っていましたから」
「そこかよ……」
真木はため息をついてから、ふと一言。
「なあ……虫と辛いものが苦手で、ぬいぐるみに目がない。ピアノも弾けて、超人的な頭脳を持ってる。でも、目の前の誰かのためにちゃんと怒る。……本当に、人間か?」
ユリカは笑わなかった。けれど、そっと一音だけ、柔らかく鍵盤を鳴らした。
「私は、人間でありたいと思っています。少なくとも」
真木はそれを聞いて、ようやく小さく笑った。
その手には、どこかの雑貨屋で買ったらしい、小さな猫のマスコットキーホルダーが握られていた。
「こういうの、好きなんだろ?」
「……ありがとうございます」
夜の静寂の中、ユリカの小さな笑みだけが、ピアノの音よりも優しく響いた。
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