『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

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第二章: 「龍の試練」

第五話:「雪明かりの下で」

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 夜は深く、道場の屋根に積もった雪が月光を受けて淡く輝いていた。
 稽古を終えても、リンの胸の奥にはまだざわめきが残っている。
 ──朱雀流を継げない。
 蘭の言葉で前を向く決意は固めたはずなのに、心のどこかが落ち着かない。

 寝所に戻る気にもなれず、リンは羽織を肩に掛けて庭へ出た。
 踏みしめる雪の感触が、冷たいというよりも静けさを強調する。
 竹林の方へと足を向けると、やがて小川の流れる音が聞こえてきた。
 そのほとりに、小さな灯りが揺れている。

 ──誰かがいる。

 近づくと、それは手提灯の光だった。
 灯りの下には、白い着物姿の女性がしゃがみ、川の水で衣をすすいでいる。
 雪の上に落ちる水滴の音が、夜気に溶けていく。

「……彩琳さん?」
 声をかけると、女性は振り返った。月明かりに照らされた顔は凛として、どこか儚げだ。
「まあ、また会うとは。前に川で会ったのは偶然かと思ったけれど、ここはあなたの稽古場なのね」
 彩琳はゆっくりと立ち上がり、衣の袖を絞る。

「彩琳さんは……蘭先輩の、お姉さん……なんですよね」
「ええ。母は違うけれど、あの子は私の大事な妹よ」
 彩琳の声には、血筋や立場の差を意識させない、柔らかな響きがあった。

 それでもリンは、少しだけ身を固くした。
「蘭先輩は朱雀流、彩琳さんは……?」
「蒼龍門。代々この地で続く一門の直系。そして、将来は門を継ぐことが決まっているわ」
 その言葉に、リンは無意識に息を呑んだ。門を継ぐということは、その武門の顔になるということだ。
「す、凄い」
「凄い?何も分かってないのね。それだけ責任が重いのよ。一門を担うとはそういうことなの」
リンは彩琳の言葉に姿勢を正した。

「五流派のこと、こないだ飛燕老師から聞いたでしょ?」 
「ええ」 
「もう少し深い話をしましょうか」

 彩琳は川辺の石に腰を下ろし、灯りを置いた。
「五流派は、表向きは均衡を保っている。でもね、均衡はいつも裏で崩れかけているの。
 特に玄武門と、その分派の黒鷹派――彼らは暗殺を生業としていて、他門と衝突し続けてきた歴史がある。
 今は天下五傑がその力で均衡を保っているけれど、それも永遠じゃない」

「天下五傑……」
「天下五傑は、五流派からそれぞれ選ばれる最強の武人。白蓮様もその一人よ」
 彩琳の瞳が一瞬、柔らかく揺れた。
「でも、あの方がその座にあるのは、ただ剣が強いからじゃない。
 困難を越え、己の信じる道を貫き通す覚悟があるから」

 少し間を置き、彩琳はリンをまっすぐ見つめた。
「……あなたも、将来、天下五傑に名を連ねるかもしれないわ」
「わ、私が……? どうして……?」
「初めて会ったときから、あなたの目には迷いと決意が同居していた。迷いはやがて消え、決意は鋼になる。そういう人は、時に歴史を動かすものよ」

 挑発とも励ましとも取れる口調に、リンは返す言葉を失った。
 その沈黙を破るように、遠くから風が吹き抜け、竹林がざわめく。

「……そろそろ戻りましょうか。夜は冷えるわ」
 彩琳は灯りを手に立ち上がり、川辺を後にする。

 リンはその背中を見送りながら道場へ戻った。
 ──だが、塀の向こうに黒い影が立っているのを見つけ、足が止まる。
 月明かりの下、影は雪の上に深い足跡を残していた。

 その足跡は、**戦靴(せんか)**と呼ばれる、武門の正式な戦闘靴が刻む独特の紋だった。
 

 雪上に刻まれた亀甲紋を見た瞬間、リンの背筋に冷たいものが走った。

 夜の静けさが、急に鋭く冷たく感じられた。

 リンは息を呑み、その足跡を見下ろした。雪の上に、六角形が連なる奇妙な紋がくっきりと残っている。
 何か意味があるのか……リンには分からなかったが、ただならぬ気配だけは確かだった。

 そのまま急ぎ足で白蓮の部屋へ向かう。
 戸を叩くと、中から白蓮が顔を出した。
「……どうしたの、こんな夜更けに」
「道場の外に、人影が……それに、亀甲のような足跡が……」

 白蓮は雪の上の足跡に目を落とし、低く呟いた。
「……玄武の紋」

 その声音には、警戒と緊張が混じっていた。
 外の空気が、急に重く感じられた。

「玄武の紋?」

 リンが問い返すと、白蓮は小さく頷き、足跡の上にしゃがみ込んだ。
 彼女の指が、雪に刻まれた六角形をなぞる。
「玄武門は、五流派のひとつ。守りを極めた武術と、執念深い追跡術で知られている。
 この亀甲紋は、玄武門の象徴だ。かつては防御と護衛を生業としていたが……今は事情が違う」

 白蓮は一度、夜空を見上げた。雪が音もなく降り積もっていく。
「玄武門から分派した黒鷹派は、暗殺を専門とする影の武人たち。
 玄武の紋を刻んだ戦靴は、本来は門弟の誇りを示すためのものだった」

「戦靴……せんか?」とリンが首をかしげる。
「そう。門派ごとに紋を刻んだ靴底を作り、雪や土に足跡を残すことで、自らの行いに誇りを持つ。
 足跡を隠す暗殺者たちとは真逆の思想……だったはずなのよ」

 白蓮は足跡から視線を外し、リンをまっすぐ見た。
「もしこれが本当に玄武門の者なら、この道場の敷地に足を踏み入れた理由は、穏やかなものじゃない」

 リンの胸の奥に冷たいものが広がる。
 雪明かりに照らされた六角形の紋は、何かの予兆のようにじっとそこに残っていた。

 白蓮は足跡から視線を外し、再び口を開いた。
「戦靴は玄武門だけのものではない。五流派それぞれが、己の誇りと存在を示すために独自の紋を刻む」

 雪を指先ですくいながら、白蓮は淡々と説明を続ける。
「白虎門の戦靴は、虎爪を模した鋭い刻み目だ。踏み込むたびに土をえぐり、見る者に力を誇示する。
 速さよりも重さ、威圧を第一とする白虎の理念そのものだ」

 次に、白蓮の声が少し柔らかくなる。
「朱雀流の戦靴は、翼を広げた朱の鳥。その軌跡は流麗で、舞うような足運びを象徴している。
 雪や砂地では翼の羽先が細く流れ、まるで朱雀が空を翔けた跡のように残る。
 私もかつて、それを初めて見た時は息を呑んだものだ」

 リンは黙って聞いていたが、ふと疑問を口にする。
「……そんな目立つ足跡を残すのは、敵に居場所を知らせることにならないのですか?」

 白蓮は微笑んだ。
「戦靴は誇りの象徴であって、隠れるためのものじゃない。堂々と名を示し、正々堂々と戦う――それが本来の武門の在り方だ」

 だが、その瞳の奥には、ほんのわずかに翳りが差していた。
「……もっとも、その理念が今も守られているとは限らないけれど」

白蓮は雪を握りしめながら続けた。
「蒼龍門の戦靴は、龍鱗を象った細かな連なりの刻みだ。足裏からつま先へと、まるで龍が身をくねらせて進むような流れを描く」

彼女の口調が少しだけ敬意を帯びる。
「その跡は、砂地や泥でも消えにくい。見る者は必ず蒼龍の威を思い、心が竦(すく)む。
 蒼龍門は古来より、戦の大局を動かす参謀役としても知られ、その足跡はまさに軍略と威信の象徴だ」

リンは想像した――地を這う龍の鱗の跡が、延々と続く光景を。
その迫力に、胸の奥がぞくりとした。

 白蓮の声が一段低くなった。
「黒鷹派は……少し異質だ。元は玄武門から派生したが、暗殺を旨とするため、戦靴の刻紋も隠密用だ。鋭い鉤爪のような刻みが外縁にだけ走り、中央には痕跡がほとんど残らない。闇夜に忍び寄る鷹の爪跡――それが黒鷹派の紋だ」

 リンは静かに息を呑んだ。
 雪に残るただの足跡が、これほどまでに流派の歴史や理念を映すとは思いもしなかった。


 白蓮は雪に刻まれた亀甲の跡から視線を離さずに言った。
「……間違いない。玄武の紋だ」

 リンは少し考え込んだ。
「でも……玄武門が、こんな所に来る理由なんてあるのですか?」

 白蓮はその問いにすぐ答えなかった。
 沈黙の中、雪を渡る風の音が妙に重く響く。
「……玄武門は表立って他流派の領域に踏み込むことはない。ましてや、戦靴の紋を堂々と残すなど、挑発に等しい。何か……意図があるはずだ。」

 リンは胸の奥に小さな不安を覚えた。

「玄武門の戦靴は亀甲を模し、堅牢さと守護の象徴とされる。足跡は深く、崩れにくい。どれほどの嵐でも、その形は残る――まさに玄武の教えそのものだ。だが、この足跡を見た以上、放っておくことはできない。」

 雪の上の亀甲紋は、まるで無言の宣告のようにそこにあった。
 それが、警告なのか、招待なのか、あるいは罠なのか――今はまだ、誰にもわからなかった。
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