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第一章:偽装婚約

03:見合いの催促

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 帝国陸軍第一師団は、東京市の赤坂に衛戍地を持つ。『第一』という名前が示す通り、将校階級の士官が多数籍を置き、千名を超す下士官や歩兵が所属する、陸軍の主力部隊だ。
 そんな司令部は、まだ明け方だというのに、多くの軍人や軍用車が行き交い、物々しい雰囲気に包まれていた。
 車から降りてきた青年将校に、警備の兵達が一斉に敬礼する。

「朝早くから、ご苦労」

 すると、建物に向かう青年将校・如月龍進の傍らに、一人の軍人が駆け寄ってきて、右隣を歩きながら言った。

「如月少佐、ご報告申し上げます。昨日の未明、午前二時頃、四谷三番町にある、大蔵省官僚西園寺秀夫邸より出火。東京消防庁の懸命な消火活動により、午前五時半頃に火災を鎮圧したものの、同氏のみ行方不明。焼け跡から見つかった一人の刺殺体が該当の西園寺氏ではないかと推測されます」

 続いて、別の軍人が息を切らしながら走ってくる。

「急ぎ、ご報告申し上げます! 詳細は調査中ですが、今朝方、浅草の路上にて、帝国第五銀行の頭取の死体が見つかったそうです。首には鋭い刃物で切りつけられた跡があったとのことで、目下、警察が実況見分中です」
「……そうか。ありがとう。昨晩の被害者は、二人か」

 あの少女は、役人と銀行家を殺した後に、龍進の家を訪れたのだろうか。あるいは、少女とは別の人間の手による犯行か。

「今年に入ってから、要人が殺害される事件が起こるたびに、複数の団体から犯行声明が出されている。その真偽について、新しく判明したことはあるか?」

 下士官たちの顔が微かに曇った。

「いいえ。ただし、警視庁によれば、捜査は目下、鋭意継続中とのことです。そして、本日の件についても、改めて大佐殿より、当面は捜査の主体を警察とし、軍部は情報の分析に徹せよ、というご指示を賜っております」
「わかった。報告に感謝する。また新しい情報が入ったら教えてくれ」

 敬礼をして二人の下士官が走り去っていく。
 と、入れ違いに別の若い軍人が青年将校の隣に並ぶ。
 まだ少年のような、あどけない顔つきの下士官が、眉尻をつり上げ、怒りの色を露わにして言った。

「少佐殿! 私は納得しておりません!」
「どうした、二階堂軍曹?」
「要人の殺人事件は、今年に入ってすでに十二件目。警察だけに任せておくのはもはや限界です。近年、活動を活発化させている新時代主義運動家からの犯行声明が出ている以上、治安維持の観点から我々、軍部も前面に出て捜査する必要があると考えます!」
「ふむ」

 新時代主義運動家とは、民衆中心の政治体制を作るべきだという考えを持つ、言わば思想犯である。維新以来、華族を中心として成り立っている現在の特権階級を敵視し、体制変革のためには暴力行為も辞さないという過激な考えを持っている。有名なところだけでも複数の団体があるが、そのどれも上層部に知識人階級がいるのが特徴だ。
 二人は建物中央にあるエントランスから、洋風建築の司令部庁舎に入ると、正面の広間を抜け、二階に向かう石造りの階段を昇る。踊り場にある縦長の大きな窓ガラスから、穏やかな朝の日差しが差し込み、屋内を明るく照らしている。
 部屋に向かって廊下を歩く間も、二階堂は語気荒く続ける。

「警察の上層部は、維新以来、未だに南前(なんぜん)閥の者達で占められており、それゆえに南前の意地とやらで軍部の介入を拒んでいるのは明白です。ですが、このまま新たな被害者が出るのを、指をくわえて見ているわけにはいきません!」

 龍進は表情を変えることなく、血気盛んな下士官をたしなめるように言った。

「君は本当に真面目だな。はやる気持ちはわかるが、上にも考えというものがある。我々としては、ここはおとなしく警察からの続報を待とう。彼らの面子を潰してもろくな事は無い」
「しかし……」
「まあ、待ちたまえ。僕個人としては、本件については、もう少し慎重に背後関係を洗ってから動いた方が良いという考えを持っている」
「……どういうことでしょうか?」

 怪訝な顔をする二階堂に、龍進は穏やかに答える。

「そうだな。一連のテロ事件においては、毎回、複数の新時代主義運動家による犯行声明が出ている。おそらく、昨晩の事件についても出されることだろう。ただ、どうしても僕にはひっかかることがあってね。この一年で、彼らの手口が大きく様変わりした、という点だ」

 二階堂は一瞬、虚を突かれ、うろたえたように視線をさまよわせる。

「え……、ええと……、確かにそれは……」
「昨年までは、停車場などの人目に付くところで、単独で事に及ぶのが彼らのやり方だった。己が官憲に捕らえられる場面をあえて晒すことで、衆目を集め、自らの主張に共感を覚える仲間を増やすことが目的だったからだ。だが、今年に入ってからの被害者十二人は、皆、人目につかない日時や場所を選んで殺されている。犯行声明は出ているが、下手人は表に出ていない」

 そう言ったところで、二人はちょうど龍進の執務室の扉の前に立っていた。真鍮のドアノブを回し、扉を押し開いて室内に入る。

「殺害の手腕についても、明らかにそれを生業とする玄人によるものだ。鋭利な刃物で急所を確実に突かれ、即、死に至らしめられている。その背後には、暗殺を生業とする集団がいると考えるのが自然だろう」

 龍進は、昨晩、自分を襲撃した少女の動きを思い出す。彼女が下手人の一人だと仮定した場合、彼女が直接、運動家の指示を受けて動いているとは思えなかった。

「なにゆえ、新時代主義運動家達が、この一年で活動の手口を大きく変えるに至ったのか。指導層の考え方に大きな変化があったのか、あるいは、指導層の交代があったのか。それこそ全く別の思想を持つ集団による犯行なのか。もしかすると、そこには捜査に乗り出している官憲を攪乱するための目的があるかもしれない。だから僕としては少し慎重に事を進めた方がいいと思っている」

 二階堂軍曹が顔を青ざめさせ、うつむいて言った。

「少佐がそこまで考えていらっしゃったとは……。浅慮の致すところ、大変恥ずかしく、お詫び申し上げあげます」
「いや、気にする必要は無い。帝都の治安を守りたいという、君の気持ちはとても心強く思う」

 龍進は己の執務机につくと、置かれていた決裁書類の束を手に取り、一通り中身を改めながら考える。
 いずれにしても、まずは昨晩、捕縛した少女について調べる必要があるだろう。勿論、下手人である彼女が詳細な情報を知りうるはずも無いだろうが、僅かでも、手がかりが得られればそれに越したことは無い。
 ここは折角だから、二階堂軍曹に手伝ってもらうのがいいだろう。
 龍進は、恥じ入るようにうつむいている下士官の顔を見て言った。

「そういうわけで、二階堂軍曹、君に頼みたいことがあるのだが、いいだろうか」
「……は、はい……?」
「ただし、これはまだ、僕個人の内偵の段階だ。ある程度の確証が得られるまでは動くつもりは無い。それまでは、誰にも口外しないと約束してくれるだろうか?」

 途端、二階堂は目を輝かせ、身を乗り出した。

「はい、当然であります! その任、喜んでお受けいたします!」
「助かるよ」

 その言葉を受け、龍進は机の引き出しから紙とペンを取り出すと、紙になにかの模様を描き始める。
 雲のような渦と、そこから出て天に昇ろうとする双頭の鴉。少女の腕に彫られていた図柄だ。

「あの、少佐殿、これは、一体……?」
「ある人間の右腕に彫られていた入れ墨だ」
「やくざ者ですか? それにしては、地味といいますか……」

 龍進はそれには答えず、入れ墨の模様を描いた紙を手渡しながら言った。

「これについて詳細を調べてきてほしい。そうだな、この件は、帝大の柳本教授に伺うのがいいだろう。今から、紹介状を書く」

 二階堂はいぶかしげな表情で尋ねる。

「かしこまりました。ですが、少佐殿、これが一連の事件となにかの関係があるというのでしょうか?」
「ああ。だが、まだ確証が持てない状況だ。だから、熱意があり、信頼できる君に調査を依頼できないかと考えた。頼まれてくれるだろうか?」
「……はっ、はいっ!」

 褒められてすっかり舞い上がってしまった彼が、紹介状を手に「今日中に調べて参ります!」と言って部屋から飛び出そうとするのを、呼び止める。

「そんなに簡単に調べがつくものでもないだろうし、先生方もお忙しい。調査結果をいただく時期については、先方のご都合にあわせる形でかまわない。くれぐれも粗相のないように」
「はっ!」

 部屋から出て行く二階堂を見届けると、龍進は引き出しにしまっていた煙草を取り出した。
 マッチで火をつけ、煙を吐き出しつつ、執務室の窓から、すっかり昇りきった日の光を仰ぎ見ながら考える。
 今頃、あの少女はどうしているだろうか。既に目は覚めただろうか。
 三郎が留守を預かってくれている以上、不測の事態が起こる心配はしていないが、どうにも気になってしまう。
 正直なところ、今朝方の己の行動には、自分でも戸惑っていた。
 何故、彼女を自宅に留め置くようなことをしたのか。いくら入れ墨のことが気になったからと言って、三郎が言ったように、本来ならばこの司令部に連れてきた上で、警察に引き渡さなければ、規律違反を問われてもおかしくはない。
 あのとき、長い黒髪の間から覗いた少女の双眸を見たとき、龍進の心に細波が立った。
 全てを諦めたような、一切の感情を宿さない瞳。
 その瞬間、彼はまるで呪いでもかけられたかのように、彼女をこのまま官憲の手に渡してはいけない、と思ってしまったのだ。

「……解せないな。僕らしくも無い」

 龍進は独りごちると、首を横に振る。
 とはいえ、過ぎたことは仕方が無い。今、最も大切なことは、可及的速やかに真実を明らかするということだ。そのために手続きにこだわりすぎるのは得策では無い。
 そして、急いで考えなければいけないのは、彼女の身柄の扱いをどうするか、という問題だ。今は侵入者として捕らえているが、そのまま閉じ込めておくわけにもいくまい。
 と、突然、執務室のドアがノックされ、思考が中断された。

「失礼いたします。郵便物をお届けに参りました」

 おどけたような台詞とともに扉の向こうから現れたのは、眼鏡をかけた細身の軍人。ただし、襟章が表す階級は龍進と同じ少佐だ。
 彼は、顔をにやつかせながら、右手に持った封書の束を掲げて見せた。

「やあ、いろいろ大変だな」
「……小野少佐か。どうして君が、使送係の真似事をしているんだ?」

 龍進が冷ややかな視線を向けると、相手はおどけたような口調で答えた。

「いやね、君と少し話したくなってね。そうしたら、たまたま廊下を使送係が通りかかったので、君宛の手紙を預かってきたんだ」
「そうか、ありがとう」

 龍進は手紙を受け取ると、無造作に机の上に置き、灰皿で煙草の火をもみ消した。
 一方の小野少佐は机の上にあった煙草を手に取ると、窓の傍に移動して、勝手に吸い始める。
 小野とは陸軍学校での同窓だ。同じ華族の出ということもあり、昔から晩餐会で顔を合わせることが多く、龍進の決して多くは無い顔なじみのうちの一人だ。とはいえ、小野は小野財閥という国内有数の家の子息であり、如月家とは格が違う上、龍進とは仕事以外ではあまり顔を合わせず、格段親しい間柄というわけでもない。

「それにしても参ったね。昨晩の件で、私も急に呼び出しを受けてさ。おかげで寝不足だ。全く、運動家だかなんだか知らないが、連中も余計なことをしてくれるよ」
「……それで、本題はなんだ? 僕はそろそろ仕事にとりかかりたい」

 小野は紫煙を口から吐き出すと、相変わらず軽い口調で言った。

「さっき、水原中佐から聞いたんだ。今回の一件を受け、近々、新時代主義運動に関係していると思われる拠点へのガサ入れを行う方向になったんだってさ」
「……ふむ」
「ただ、警察が動くか、軍が動くかは、相変わらず上層部で調整中だ。それで、私からは、もし軍が動くんだったら、如月少佐の部隊が適任だろう、と推薦しておいたよ」
「なるほど。それはありがたい」

 小野はわざわざそのことだけを伝えに来たのか。いや、おそらくその話を出したときの龍進の反応も探りに来たのだろう。

「まあ、君のことだ。いろいろ裏で動いているんだろうと思ってね。貸しを一個作ったと思ってくれるとうれしいかな」
「ああ、覚えておく。協力に感謝する」
「それと、これは助言なんだけど、もう少し君は表情を豊かにした方がいいかな。下士官たちが軒並み怖がっている。そうすれば、良い縁談も来るんじゃ無いかな」

 そう言うと、小野は煙草を挟んだ右手を掲げながら、部屋から出て行こうとする。

「小野少佐。廊下は禁煙だ」
「おお、悪い悪い。これじゃ下士官に示しがつかないな。本当に真面目だね、君は」

 おどけたように言いながら、灰皿に火を押しつけると、彼は軽く手を挙げて執務室から退出した。

 その後ろ姿を無言で見届けた後、龍進は事務机に置かれた郵便物の束を手に取る。そして、その中にあった一通の封書を目にし、思わず顔をしかめた。小野もこれを見たのだろう。
 差出人は叔父で、開ける前から内容はわかる。それでもペーパーナイフを手に封を切る。
 便箋には達筆にて、時候の挨拶に続き、「見合いを受ける件について、考えをまとめたならば、早急な返事を求む」と書かれていた。とりわけ、十一月に予定されている西蘭共和国の女王陛下を迎える晩餐会において、龍進が将来の伴侶を伴わずに参加することは、如月家一族の恥のみならず、国家の品位をおとしめることにつながるのではないか、とまで書かれている。
 またも見合いの催促だ。断りの手紙を出すのも手間だと放っておいたら、職場にまで手紙を送ってくるとは。
 龍進は眉間に皺を寄せ、首を小さく横に振る。
 自分が嫁を迎えることは、決してあり得ない。
 この国を護ることが、己の唯一の存在意義であり、いずれ自分の命を差し出すことを決めた以上、妻を娶る必要などないのだ。
 叔父の気持ちはわからないでもないが、なんとか早々に諦めてもらうことは出来ないものだろうか。
 そう考えながら煙草をもう一本取り出して、火をつけようとしたところで、ふと、その手を止めた。

「待てよ……」

 それから、ゆっくりと煙草を箱の中に戻すと、

「なるほど、その手があるか」

 彼は顎に手をやり、小さくつぶやいた。この方法なら一挙両得だ。
 龍進は引き出しから便箋を取り出すと、叔父に向けた返信を書き始める。
 窓の外から、訓練に励む兵士達の号令が聞こえてくるのと一緒に、秋の穏やかな風が窓ガラスを静かに揺らした。
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