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第二章:いつわりの婚約生活と、入れ墨

11:買い出し帰りの、人斬り少女

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 睡蓮が龍進の家に住むようになって、五日目の夕暮れ時を迎えた。

 商店街で夕食の買い出しを終えた睡蓮は、両手に大量の荷物を提げ、背中にも大きな籠を背負って家路につく。市電と自動車が行き交う大通りから、住宅街へ向かう道に逸れた途端、周囲の木々からひぐらしの鳴き声が降り注いでくる。
 ふと、反対側から視線を感じて顔を向けると、向こう側から歩いてきていた書生と目が合った。頬をほのかに赤らめ、呆けたような表情をしていた彼は、慌てたように会釈をして、足早にすれ違う。
 睡蓮の外見は、この二日で大きく変わった。
 長く伸び放題だった髪に鋏が入れられ、すっきりと整えられたのだ。
 龍進の手配で一昨日の昼過ぎに家にやってきた、女性の『髪結い』によるものだった。
 前髪は切りそろえられ、愁いを含めた大きな瞳と、長く震える睫が露わになっている。長い後ろ髪は首のあたりで束ねられ、白いうなじが外気に晒されている。そこには、子供らしいあどけなさと、女性の色気が巧みな均衡をもって同居していた。
 彼女の表情はいつもと変わらないものだったが、それでも、大きく変わった髪型に戸惑いを隠せず、時折、荷物を持ったまま、手を額にやっては、眉間に微かな皺を寄せている。

 やがて、急な上り坂にさしかかったときだった。
 車のエンジン音が後ろから迫ってきたかと思うと、睡蓮の隣に三輪トラックが横付けされた。そして、運転席から色黒の男が顔を覗かせ、煙草のヤニで黄色くなった歯をむき出しにして言う。

「お嬢さん、坂の上までお送りしますよ。なあに、配達のついでですし、運賃はいりませんわ」

 睡蓮は、男と目を合わせることなく、

「ご遠慮いたします」

 とだけ告げ、歩みの速度を上げる。

「そうおっしゃらずに。美しいご令嬢が、自らお荷物をお運びになるものではありませんよ」
「…………」

 睡蓮は着物の胸元に忍ばせた短刀に手を伸ばしかけたところで、ふと、違和感を覚え、眉をひそめた。
 なぜか火薬の匂いがする。しかも、今までかいだことのない種類の火薬だ。強いて言えば、鼻の奥でなにかがはじけるような、麻薬を炙ったときのような匂い。
 そして、それに加えて微かな腐臭。
 出所は車の荷物室からだろうか。
 鼻の良い睡蓮にしか気づけないくらいの、微かな匂い。
 気になって足をとめると、

「お、やっと乗る気になってくれたかい?」

 運転手がどこか下卑た笑みを浮かべて車を止める。
 と、そのときだった。

「おまえさん、彼女が陸軍将校の家の者とわかって、声をかけているんか?」

 睡蓮の真横から、ドスのきいた声が聞こえた。
 いつの間にか、庭師の三郎が立っていた。彼女を監視するためにつけていたのだろう。

「なんだ、てめえ……」

 運転手はそう言いかけたところで、三郎の懐に光る軍刀に気づき、血相を変える。

「……ちっ!」

 舌打ちとともに、運転手は慌てて車を発進させた。
 トラックが見えなくなったあたりで、三郎が不機嫌そうに言った。

「別におまえを助けたわけじゃねえ。こんなところで刃傷沙汰を起こされても困るんでな。どうせ、あいつを斬るつもりだったんだろう?」
「…………」

 火薬の匂いがしたから、ということは言わなかった。睡蓮としても、なんとなく気になっただけだったし、それを三郎に言う必要もない。
 睡蓮は彼と目を合わせることなく、屋敷に向かって再び坂を上り始める。
 そして、欅の木を通り過ぎたところにある勝手口門から台所に向かうと、背中に背負った籠を土間におろし、中に入っていた馬鈴薯や人参を取り出して並べていく。
 壁に背中をもたれさせ不機嫌そうに腕組みをしている三郎に見張られながら、睡蓮はエプロンを身につけ、夕食の準備を始めた。
 四畳敷ほどの広さの台所の隅にある赤銅色の手押しポンプから鍋に水を注ぎ、かまどの傍にしゃがんで火をおこす。その所作は手慣れたもので、まるでずっとこの家で女中として働いていたかのようだ。
 睡蓮が来る前は、龍進自らが料理をして、警護役である三郎の分も含めた二人分の食事を作っていたそうだが、数日前から、これは婚約者である彼女の役目になっている。
 龍進からは、別に小間使いではないのだから、料理などしなくて良い、と言われたが、睡蓮は婚約者である以上、自分がその役割を担わなければならない、と淡々と返した。
 三郎は感情を押し殺したような声で言った。

「既に十回は同じことを言ったと思うが、決して、俺が気を許すとは思うな。少しでも龍進に害をなそうとする素振りを見せたなら、すぐにおまえの首は胴から切り離される」

 睡蓮が顔を上げ、感情の色がうかがえない瞳を三郎に向けると、

「承知しております」

 そう小さく頷き、土間から上がると、包丁で馬鈴薯の皮を剥き始めた。
 そして、これもいつものことだが、三郎は壁に背をもたれさせたまま、睡蓮の手元をじっと見ている。なにか毒物をいれないか、警戒しているのだ。勿論、彼は全ての食事の毒味をしているし、龍進と睡蓮の二人で食事をしているときも、どこかから、彼女を監視している。

「相変わらず手先が器用だな。料理が上手いのは、毒殺のためか? 厨房に入れるなら、毒を混ぜることもたやすいだろうからな」
「……私は、毒については習っておりません。それに、私も毎晩、旦那様から解毒剤をいただいている身。旦那様になにかあったら、自分が死ぬだけです。なお、料理は遊郭で女中として働いていたときに覚えたものです」

 遊郭では、少しでも味にケチがつけられたなら、すぐに主人に足蹴にされた。ときには、客から美味いという言葉が出なかっただけで殴られた。
 そんな面倒を避けるためだけに、彼女は料理の腕を上げた。もっとも、いくら美味い料理を出しても、殴られるときは殴られた。たかが飯で、感情的になれる人間のことは、正直、あまりよく理解できない。
 彼女は、乱切りにした馬鈴薯と人参と、くし切りにした玉ねぎに、豚肉の小間切れを混ぜ合わせ、くつくつと煮詰める。作っているのは旨煮――肉じゃがだ。今朝、出かけに龍進が出した希望に沿って用意している。
 旨煮は簡単ではあるが、それゆえに、自分が知っている味と違う、家庭の味すら満足に出せないのか、という理不尽な理由で殴られることもあった。
 落し蓋をして煮詰め、煮汁がほとんど無くなった頃、睡蓮は目を細めてつぶやく。

「果たして、家庭の味になっているのでしょうか」

 偽りの婚約者と作る、偽りの家族。だが、偽りを演じ続けるためには、自分が完璧な家庭料理を作らなければならない。
 と、そのとき、不意に彼女はなにかの気配を感じて顔を上げた。

「旦那様の、匂いがします。……あと、薬莢の匂いも」
「……は?」
「迎えに行ってきます。庭師さん、火を見ておいていただけますか」
「お、おい!」
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